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タグ: ニケの微笑み

なぜスコアを買って勉強した方がいいの?


今でこそ「スコアを買いましょう」というプロモーションは増えてきているのですが、供給する側が「フルスコアを買ったらどんな良いことがあるのか」ということをお客様に呈示出来ていない…。ぜひ、「指揮者目線」「作曲家目線」「スコア愛好家目線」と3つの目線で呈示してほしい。

日頃お世話になっている梅本周平様(「Wind Band Press」や「Golden Hearts Publications」などを運営する「ONSA」代表)からお話をいただいたのが2020年4月末、世は新型コロナウィルスの猛威に…という時期でした。
すぐに執筆を開始し、第一稿を梅本様に送ったのが約一週間後。「いま事態がこういうことになっているからこんなことに踏み込んで書けますか」との要望を受け、追加の文章を書き、5月13日に公開していただきました。

拙文は、いわゆる「スコアリーディング」の方法を論じたものではありません。
また「音楽理論」という視点ではほぼ語っていません。
まだスコア(単品)を持っていない方、買ったことがない方に向けた(少々長めの)メッセージ、のつもりです。
主に吹奏楽の指導者、演奏者、愛好家の皆さま向けた内容になっていますが、それ以外の皆さまにも気軽に読んでいただけるのではないかと思っています。

基本的には、公開当時の文章を一部修正したのみで、そのまま転載しています。


はじめに

●作曲の正門研一と申します。2017年まで大分県警察音楽隊の楽長を務め、現在は大分市を拠点に作・編曲や演奏指導、執筆等を中心に活動しております。


●皆さんはスコアを見たことがありますか?スコアを持っていますか?
最近は「今こそスコアを買って勉強しよう」と、国内の出版社がスコアの単独販売をするようになってきました。またインターネットを通じて海外の作品のスコアも入手しやすくなっています。仕事柄、私自身にとってはとても有り難い環境になっています。
スコアが入手しやすい環境になったとはいえ、「なぜスコアを買って勉強した方がいいの?」「どんな勉強したらいいの?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。


●今回、『Wind Band Press』編集長・梅本周平様からのご提案により、日頃の活動でスコアをどのように活用するかや、スコアとの向き合い方などを私の経験をベースに書かせていただくことになりました。皆さんが「スコアを手にしてみよう」と思うきっかけになれば幸いです。


[1] スコアとパート譜

●スコアは、舞台演劇における台本、シナリオのようなものだと思います。
(映画やテレビドラマは、「通し」で演じられるものではないので、敢えて「舞台」演劇に限定しました。)
演劇の主要キャストやスタッフはすべての台詞や動きが書かれたシナリオをもとに様々な準備をしますし、稽古に臨みます(敢えてキャストにシナリオを持たせずに演出するという手法をとることも稀にあるようですが)。ここでは、音楽における「パート譜」のようなものはまず存在しないと言っていいでしょう。
音楽の場合、「パート譜」があることが当然ですよね。全てを暗譜して演奏に臨むのならまだしも、全員がスコアを見ながら合奏、といういのは現実的ではありません(各奏者に譜めくり役が必要になってしまいます…)ので、パート譜が用意されているのはとてもありがたいことです。


●パート譜は、演劇のシナリオから特定のキャストの台詞を抜き出したようなものですから、それだけで作品の全てをつかむことはできません。そこがどのような場面なのか、誰と一緒にいるのか、誰と会話をしているのか、対立しているのか、などの情報は非常に限られます。もっとも、奏者の皆さんは現在取り組んでいる作品があれば、音源を何度も聴いてストーリーや流れなどをある程度はつかんでいるかもしれません。しかし、音源(しかも特定の)に頼りすぎることには注意が必要です。その演奏の、いわゆる「解釈」が唯一正しいものとして刷り込まれしまう可能性があるからです。現に演奏(練習)している、あるいはこれから取り組もうとしている作品の全貌をつかもうとするのであれば、やはりスコアから、というのが理想でしょう。もちろん、参考とする音源も上手に利用すれば問題ないと思います。


●「スコアリーディング」という言葉を耳にされたことがある方も多いと思います。私も現場で演奏の準備をするにあたりスコアリーディングをしていたわけですが、その方法は様々…。現在はスコアリーディングに関する本も様々出版されていますし、インターネット上でもたくさんの記事が出てきます。
私はこれまでの経験から、演奏者(プレーヤー)こそスコアを上手に活用するとよいのではないかと考えています。スコアリーディングに関する書物の多くは指揮をされる方向けに書かれており(それはそれで演奏者にも十分役立つ内容です)、演奏者がどう活用したらよいかというところにまでは触れていません。ここでは、スコアリーディングの方法を論じる前に、まずはスコアをどのように活用するか、という点に絞ってお話ししたいと思います。
(「そんなこと、すでにやっているよ」と言っていただく方は多いと思いますが…)


[2] 個人練習、パート練習の時こそスコアを

●最初に書きましたように、スコアはシナリオです。あなたが言う台詞には前後関係があります。前後関係を理解しないことにはどのように演じたらよいか(演奏したらよいか)を考えることはできません。その台詞をどう表現するかはその前後関係を理解してこそだろうと思います。「いやいや、それは合奏練習の時に指揮者(先生)が教えてくれるから」と思われるかもしれません。もちろんそれはそれで指揮者の役目ではありますが、大切な合奏練習の時間をそうしたことばかりに費やしてしまうのは少々もったいないような気がします。
皆がシナリオを理解した上で合奏練習に臨めば、指揮者はより深いところにまで踏み込むことができます。


●作曲家(あるいは編曲家)はスコアを書く時、ひとつひとつのパートを順番に書いていくということはまずありません。つまり、極端な言い方をすれば、楽譜を「タテ」に書いていってるのです。あなたのパートは必ずどこかのパートと関連づけられて書かれているのです。あなたが演奏(練習)しているその部分、他の楽器がどのように絡んでいるか知っていますか?個人練習やパート練習の時にそれを意識しながら取り組めば、自分がどのように演奏すればいいかが見えてくるでしょう。合奏中よく「他のパートを聴いて!」と言われることがあるでしょうが、合奏中に他のパートに意識が向けられると、自分のやるべきことが疎かになってしまって…という経験はありませんか?個人練習やパート練習の時から他のパートとの関係を意識して取り組んでいれば、合奏の際自然とそれらを感じながら演奏できるでしょう(私は「他のパートを聴いて」ではなく、「感じて」と言うことが多いです)。
コンクールの審査講評で「アンテナを張って」と書かれるケースがありますが、本番で突然「アンテナ張る」ことはなかなか難しいことです。日頃から他のパートとの関わり方を意識して練習してこそ、普段とは環境の違う会場での演奏でも「アンテナを張る」ことができると考えます。


●あなたが演奏している楽器にはない指示が他の楽器に出されていることがあります。例えばあなたがクラリネットを演奏しているとしましょう。同じ旋律を演奏するトランペットに「con sordino」という指示があります。それが何であるかを理解していれば自分がどのような音色で演奏したらよいかを考えることができます。実際にトランペットの人にその音を聴かせてもらうことで、コミュニケーションをとることもできます。打楽器パートにも独特の指示がある場合もありますし、コントラバスにも…。というように、自分の演奏をより深いものにするための、作品を自分のものにするためのヒントが他のパートの中に隠れている、ということはよくあります。


●冒頭で、音源に頼りすぎることには注意が必要だということをお話ししましたが、要は使い方です。皆さんは、現在取り組んでいる作品の音源を聴く際自分のパート譜を見ながら、ということが多いのではないでしょうか?それはそれで意味あることです。参考にすべき点も多く見つけることができるかもしれません。時にはスコアを、他のパートやセクションに焦点をあてて聴いてみることも、作品の全貌を掴む上ではありかもしれません。人間の耳というのは、自分に関心のある部分に焦点をあてて聴くものです。敢えて他のパートやセクションに(意識して)焦点を絞って聴いてみることで、自分の練習、演奏のヒントが見つかるかもしれません。


さて、スコアをどのように活用するかについて、もう少し別の視点からお話ししましょう。これもある意味、個人(パート)練習や合奏練習の時間を有意義にするための「準備」のひとつと言えます。



[3] 間違いさがし

●今でこそ楽譜制作ソフトの普及により、スコアとパート譜はリンクして制作されていますので、近年出版されている作品ではスコアとパート譜との間で食い違いが見られることは(完全とは言えませんが)ありません。しかし、同じことをやっているパートとの間に違いが見られることが時々あります(アクセントやスタッカートなどの記号の有無、スラーの架かり方、強弱記号の違いなど)。それが単純なミスなのか、作曲家(あるいは編曲家)の意図なのかを最終的に判断するのは指揮者の役目とはなりますが、これらひとつひとつを合奏練習の中で修正していくのは時間の無駄でしかありません。尤も、こうしたことは指揮者が事前にしておくものですが、時として指揮者が奏者に意見を求めることがありますので、スコアに目を通しておけば、自分に書かれていることとは違う指示が出されても(他のパートに書かれている指示が優先されても)対応しやすくなると思います。またそうしたことを想定した練習も可能となるはずです。


●少し古い作品(とは言っても、吹奏楽の場合はほぼ20世紀以降のものですが)になると、スコアとパート譜ではまるっきり書かれている記号が違うことがよくあります。スーザの行進曲でも古い出版譜ではアクセント記号がスコア(コンデンスドスコア)とパート譜で違っていたりすることがよくあります(その理由、原因をここで詳しくはお話ししませんが、いくつか考えられます)。これは奏者がスコアを見ておくこと以上に、指揮者(先生)が事前にパート譜をチェックしておくことが大切だと思います(作品、楽譜の新しさや古さを問わず必要な作業かもしれません)。
余談ですが、プロのオーケストラの場合は指揮者が事前に演奏上の指示を楽団に伝え、ライブラリアンがそれをパート譜に書き込むなどの準備をし、練習に臨むということがよくあります。指揮者によっては(書き込みをした)自分のパート譜を持ち込んで演奏する、ということもあります(パート譜がレンタルである場合はなかなか難しいですが…。有名な作品、パブリックドメインとなっている作品でもパート譜がレンタル、ということが多々ありますので)。


●「間違いさがし」とこの項の最初に書いていますが、表現をするにおいては何が正しいか、何が間違っているか、との議論は必要ありません。あくまでも、「違いがないか探ってみよう」という気持ちでスコアを見ていただきたいと思います。


[4] スコアにしか書かれていない情報がある

●こういうことも稀にあります。スコアにはメトロノームの数値によるテンポの指示が書かれているものの、パート譜には一切数値が示されていない(例えば「Allegro」としか書かれていない)というものです。これも比較的古い作品の方ですが。
スコアに示されている数値通りにテンポ設定することが必ずしもいい演奏になるとは言えないのですが、指揮者はそれをベースに演奏設計をしますので、事前に知っておけば練習の際の「目安」にはなりますよね。


●スコアには、作品の解説や作曲者についての情報が書かれていることが多いです。それは作曲家自身の言葉で書かれていたり、出版社の方で書いていたりと様々です。また、演奏上の留意点などが書かれているものも多くあります。そうした情報、今では出版社のサイトなどにも出ていたたりしますので、スコアでなくても調べることは可能でしょう。しかし、サイトの情報は非常に限られています(個人的な印象ではありますが)。出版社以外の(例えば個人が運営している)サイトやブログなどに多くの情報が出ている作品もありますが、中には正確性に欠くものがあることも考えられます。
まずは、スコアに書かれている作品や作曲者についての情報は、演奏(練習)に取り組む前にぜひ共有しておきたいものです。そこから幅を拡げるために各種サイトの情報を上手に使いたいです。
また、海外の作品であれば、そうした情報は英語などで書かれていますので、それを自分で訳してみること。学生さんであれば、英語の勉強も兼ねることができるかもしれませんよね。
(数年前、ピンチヒッターで福岡県のとある高校の吹奏楽部を指揮することになった時、生徒さんが演奏曲のスコアとともに、自分たちで訳した解説文を準備してくれてたことには感激しました)。


[5] まずは理論や理屈抜きにスコアを見てみよう

●ここまで、私の経験をベースに演奏者がどのようにスコアを活用したらいいかを書いてきました。
お気づきかもしれませんが、理論的なことは何一つ書いていません。
スコアに限らず楽譜を読むにはそれなりの理論は身につけておかねばなりませんが、理論は実践あってこそ身につくもの、理論は実践によって活かされる(時には変化していく)ものだと私は思っています。
スコアを手に実践していくことで、音楽的な視野はきっと広がっていきます。
スコアを手にすることで、さらに深い、理論的なことにまで皆さんの興味、関心が向けられていくことに期待しています。
今後、そうした理論的な内容について触れる機会があればまた書いていこうと思います。


[6] せめて楽譜セットにスコアを1冊プラスして購入したい

●スコアは指揮者だけが持つものではありません。近年は学校現場での練習時間も限られており、合奏練習も十分にできないという方もおられるでしょう。限られた時間を有効に使うためにも、スコアを十分に活用したいものです。ですから、演奏曲が決まれば、楽譜セットを購入する際にスコアをせめて1冊は追加で購入していただき、演奏者の皆さんで共有していただくといいでしょう。指揮者(先生)が都度指示や考え方などを書き込んでいき、奏者(生徒さん)たちがいつでもそれを確認できる状態にしておけばいいのです(予算が許すなら、セクションあるいはパートに1冊あればいいですよね)。


●吹奏楽の楽譜はセット販売が基本で、オーケストラのポケットスコアやスタディスコアのように手軽に購入できるものではありませんでした(これは日本国内に限ったことかもしれません)。例えば演奏曲を選ぶにあたり、「スコアを参考にしたいけどなかなか手に入らない」と思われる方は多かったと思います。音源を聴いてみて「いいな!」と思い楽譜(セット)を購入してはみたものの、結局は使わず仕舞い、という経験を持つ方も多いのではないでしょうか?選曲に際しては、ぜひ音源だけでなくスコアも見ておきたいものです。もっとも、「やるかどうかもわからない曲のスコアだけ買っても…」という方もいらっしゃるかもしれませんが、いやいや、持っていればいつか役に立つこともあります。


●海外の作品であれば出版社がスコアやパート譜の別売りを普通に行なっています(日本国内でもようやくそうした流れができつつあります)。中には指揮者用の大判スコアとスタディスコアを販売している出版社もありますが、作品によっては数千円するもの、1万円を超えるものもあります。なかなか「あと1冊」というわけにはいかないかもしれません。オーケストラのスコアほどの需要が見込めないことに加え、吹奏楽の作品(特にオリジナル)の場合は著作権の保護期間内の作品が多いので、出版社は作曲家に印税を払わねばなりません。著作権管理団体に使用料(出版するための)を納める必要もあります(この点は国内、国外を問いません)。が、何より、吹奏楽のスコアは段数が必要ですので、見やすさを考慮するとオーケストラのポケットスコアのようなサイズにするわけにはいきません。ですから、どうしてもオーケストラのスコアよりは値が張ってしまうのです(だからと言って、「借りてコピー」は厳禁!)。


●近年は国内の業者さんでもスコアを単体で販売しています。個人で海外から取り寄せることを考えると(特に送料がネックになりますよね)、様々な出版社のスコアを一度に購入できるという点はありがたいです。私が日頃お世話になっている『WBP Plus !』様でも、厳選された海外の名曲、意欲作のスコアが単体で販売されていますので、この機会に利用されてみてはいかがでしょうか。また、私の作品を出版してくださっている『ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ』様は、楽譜のセット販売や指揮者用の大判スコアの販売だけではなく、A4版のスタディスコアを安価で販売されていますので、ぜひ活用していただきたいです。


私自身、仕事上の必要から(好き嫌いを問わず)スコアを購入することがありますし、音楽的な興味、関心からスコアを購入することも当然あります。知らなかった曲、知っていた曲様々ありますが、楽譜を見る(敢えて「読む」とは言いません)ことで、いろいろな風景が浮かび上がってきます。理論や理屈抜きにスコアを楽しむこともできると思います。私も時々そうした楽しみ方をしていますので、少しご紹介しましょう。



[7] 譜面(ふづら)そのものを楽しむ

●出版されている多くの楽譜は、作曲家や編曲家が書いた原稿を基に浄書→製版→印刷という過程で作られています。近年は楽譜制作ソフトの普及もあって、見た目とても綺麗な楽譜も多くなってきました(作曲家や編曲家の皆さんも多くが制作ソフトのお世話になっていると思います)が、それでも同じような譜面(ふづら)になることはありません。そこには出版社(あるいは作・編曲家)のこだわりというものがありますが、それ以前に、「これだけのものを作曲家が全部書いたの?」という驚きと感動が!これはパート譜だけを見ただけでは味わえるものではないと思っています。作・編曲家がどのような思いで楽譜を書いたのか、楽譜を制作した方々のご苦労を想像してみると、楽譜、あるいは作品への向き合い方も変わるかもしれません。


●(吹奏楽に限らず)出版されているスコアの中には、作・編曲家の自筆の原稿をそのままプリントしているものもあります。私が初めて購入した吹奏楽のスコアは、保科洋氏の『古祀』でした。もう40年ほど前(高校生でした)のことですが、これは保科氏の手稿をそのままプリントしたものでした。丁寧に書かれたそのスコアに「どのような思いで書いたのだろう」と想像するのが楽しかったことを今でも覚えています。後年、あるアメリカの指揮者の方に自作のスコアを見ていただいた折、「保科さんのスコアを勉強するといいね」と言われたこともあり、今でも大切にしています。その指揮者の方は、V.パーシケッティにも言及されていましたので、私はパーシケッティの管弦楽や吹奏楽のスコアをいくつか手に入れたのですが、これらもほとんどが自筆譜をプリントしたものでした。当然、保科氏とは筆致も異なり、それだけでも楽しいものです。
主にパブリックドメインになった作品を集めたデジタルライブラリー『IMSLP』では、有名な作品の自筆譜も多く集めてあり、その中にはホルストの『第二組曲』やスーザの『星条旗よ永遠なれ』などもありますので、興味のある方はぜひチェックしてみてください。一般に流通している印刷譜とは一味違った風景が見えるかもしれません。


●出版社(あるいは作・編曲家)には楽譜を制作する上でのこだわりがある、とお話ししました。例えば、アメリカのBarnhouse社のスコア(パート譜もですが)、音符の玉が他社に比べて大きく書かれています(そのように感じます)。また小節線の太さと音符の桁の太さの違いもはっきりしているので(他社も確かに違いはありますが)、個人的にはとても見やすいと感じています(アメリカの吹奏楽事情に詳しい方ならご存知でしょうが、こうした出版社が出す楽譜の多くは「教材」ですから、そうした観点からの配慮があるのだろうと推察しています)。記号等の付け方などにも出版社の個性が表れていると思いますので、そうした違いを探ることも楽しみのひとつです。また、出版社によっては、ページいっぱいに楽譜を印刷しているところもありますし、ページの左右上下に適度な「余白」を残して印刷しているところもあります(作品の組段にかなり影響はされるのですが)。「余白」という点では、音符と音符の間隔や五線の間隔にまで十分気を配っているなぁ、逆に、音符を詰め込んでいるなぁ、と思えるスコアもあります。ぜひ、いろいろな出版社のスコア(吹奏楽に限らず)に目を通してみてください。


[8] 作曲家の書き方やクセが分かると面白い

●作曲家の楽譜の書き方にも当然こだわりがあります。これを探ることでもしかすると作曲家の頭の中にあるものや内面までもが見えてくるかもしれません。とはいえ、私自身がそうした領域にまで足を踏み入れているとは決して言えないのですが…。


●例えば吹奏楽コンクールの課題曲、毎年5曲が発表されフルスコア集も販売されています。曲の性格やスタイルの違いもありますので単純には比較できないのですが、見てみましょう。細かく記号を付したり指示をしている作曲家もいれば、それほど付していない作曲家もいるように思いませんか?マーチのベースラインの刻みを丁寧に8分音符(と八分休符)で書いている方もいれば、4分音符で書いている方もいる。ホルンやトロンボーンの刻みにひとつひとつスタッカートを書いている方、書いていない方。皆さんならどう読み取りますか?


●強弱記号の使い方も人それぞれ。ppppからffffまで幅広く書く方もいれば、せいぜいppからffの範囲で書く人(私はこのタイプかも…)。繰り返しますが、曲の性格やスタイル(「時代」もあるでしょう)により記号の使い方は当然変わってきますので単純に比較できません。ただ、そうした記号の使い方ひとつとっても、作者の考え方は読み取れるかもしれません。細かく指示を書くことで自分の思いを伝えようとしているかもしれない。あまり細かく指示をしないことで演奏者に解釈の幅を与えようとしてくれているのかもしれない。そう考えると、スコアへの向き合い方、作品への向き合い方の幅が広がるような気がします。


●ある作品のスコアを見た(読んだ)とき、私は「この作曲家の他の作品はどうだろう」とよく思います。もし、あなたが今取り組んでいる曲の作曲家の別の作品が出版されているのなら、それが吹奏楽編成であろうが、アンサンブルであろうが手にしてみるといいかもしれません(全てを、とは言いません)。今取り組んでいる作品が、作曲家の古い作品なのか最新作なのかが分かっていれば、そうした視点で楽譜を見れば、作曲された年代により作風や楽譜の書き方が変化しているかもしれない、ということにも気づくかもしれません。それが編成によっても全く違う、ということもあるかもしれません。そうした気づきが今の取り組みにフィードバックされるといいな、と思います。


●私もそれなりに吹奏楽やオーケストラ、室内楽のスコアを所有していますが、それらが好みの作曲家や作品、ちょっと気になる作品ばかり、というわけではありません。自分の肌に合わないと思い込んでいた作曲家や作品であっても、スコアに向き合ったことで「これまで知ろうとせずもったいなかったな」と思ったことは一度や二度ではありません。
「やるかどうかもわからない曲のスコアだけ買っても…」
取り組もうとしている曲は必ずしもあなたの好みのものではないかもしれません。
しかし、一度手にすることで、眺めてみるだけでもあなたの音楽的な視野はきっと広がると思います。
そこで、再度、私の経験をベースにもう少し踏み込んだお話をしたいと思います。
スコアリーディングをするための準備、というつもりでお付き合いいただけましたら。



[9] 「しくみ」が分かると面白い

●この文章を読んでいらっしゃる方のほとんどは、実際にご自分でも楽器を演奏されている、あるいはされていたのではないかと思います。
例えば、演奏にあたって、「感情を込めて」と言われた経験を持つ方は多いと思います。が、「それではどのように…?」と思われたことはありませんか? 私も何度も経験しました。指揮者が伝えてくれるイメージを十分にできないまま演奏に臨み消化不良のまま演奏を…。「何が足りないのか(足りなかったのか)…?」
今、これはハッキリと言えます。「曲のしくみ」を十分理解できていなかったということです。


●これまでの経験から、演奏のためには二つのことが必要だと私は思っています。
それは、「曲のしくみ」の理解と、「感情」。言い換えるなら、「理知的なアプローチ」と「感情面からのアプローチ」が必要だということです。そして、そのバランスの取り方が「個性」だとも思っています。さらに言うと、「しくみ」を理解することなく「感情面からのアプローチ」はできない。
ここには、「プロだからこうする」「アマチュアだからこうしよう」などの線引きはありません。


●「しくみ」は楽譜、スコアに表すことができますが、「感情」は楽譜として表すことが難しいです。得てして私たちは、ある作品を最初に聴いた時の衝撃やイメージを持ち込んでしまいがちです。それは決して悪いわけではありませんが、それにとらわれすぎては「独自性」は出せないと考えます。私が聴衆であれば、どこかで聴いたものと同じものは聴きたくありません。違いがあって当たり前だと思っています。「感情」や「イメージ」が先行した演奏は作曲者自身の想いや考えを歪めてしまうこと、「しくみ」が台無しになってしまうことがあります。演奏者には、作曲者のメッセージを読み取り聴衆に伝えることを第一に考えてほしい。そのためには、まずスコアから「しくみ」を理解してほしい、と私は思っていますし、経験上、「こうでなければならない」と決めてかからない方がいいのではないかと思っています。


●「しくみ」はほぼスコアを読むことでつかむことができます。
そもそも「しくみ」って何でしょう?
端的に言って作品の成り立ちや構造ということになります。


●皆さんは楽譜を見る(読む)とき、どこに目を向けますか?
拍子、テンポ、強弱、アーティキュレーション、調性、リズムなどにはすぐ目がいくでしょう。これらはもちろん「しくみ」をつかむ上で、演奏する上で大切な要素です。作品全体の中でこれらがどのように変化しているでしょうか? 加えて、動機(モティーフ)や旋律はどのようなかたちで、どうのように変化しているか、どこのパートが旋律なのか伴奏なのか、どのような和声で、それがどう変化しているのか、どのような音色(楽器の組み合わせ)で、それはどう変化していくのか、など様々な方向に目がいくことと思います。
それだけでも十分「しくみ」がつかめそうですね。


●例えば、(拙作で恐縮ですが)『メモリアル・マーチ「ニケの微笑み」』(ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ刊)で、私はこのようなことをしています。
調性も拍子も違うのですが旋律に対する木管群の動き、どのように見えますか?


Bからの動き


Nからの動き

1999年度の課題曲に採用していただいた『行進曲「エンブレムズ」』、当時は指摘される方はほとんどいませんでしたが、第一マーチとトリオの旋律は実は同じ動機なのです。


第一マーチ


トリオ
(装飾音を除き)旋律を構成する音の音程関係を見ればよくわかると思います。
第一マーチの音をトリオのリズム型で(またはその逆パターンで)演奏してみるとどうでしょう?

どちらの例も、一聴しただけではとらえにくい「しくみ」(「仕掛け」と言った方がいいかもしれませんね)かもしれませんが、スコアに目を通すことでつかむことができるでしょうし、「しくみ」がわかれば、演奏の幅、聴き方の幅が広がかもしれません。


●では、「しくみ」をつかむためには何が必要でしょうか?
基本的な「楽典」については言うに及ばず、「和音」や「和声」、「対位法」、「楽器法」などについての知識も必要になってきますし、「様式」や「形式」、「作曲技法」などについても知っておきたいものです。そして、こうしたものは長い歴史の中で体系づけられてきたものですので、「音楽史」に触れておくことも大切です。ただ、こうしたものを全て身につけてからでないと「しくみ」を理解できないのではないか、と思う必要はありません。私はスコアを見て分からないことがあれば、理論書などを、言わば「辞書的」に捲る、ということを繰り返してきました(今でもですが)。そうすることで得た知識は、その後別の作品に向き合う際必ず役立ちますし、作曲や編曲をする際にも役立っています。
また、(特に指揮台に立つ方であれば)こうした音楽の理論や知識だけではなく「想像力」も「しくみ」を理解する上では求められるかもしれません。理論的な言葉よりも身近な事象や文学、人生経験などに置き換える方がはるかに伝わる、ということもありますので(この点はかなり重要かもしれません。私自身決定的に欠けていると思っている点です…)。


●さて、スコアに向き合ったことで、その作品に対する考え方に変化があった、あるいは、朧げだった「イメージ」に確信を持ったという経験について2つお話ししましょう。

まず、J.バーンズ『第三交響曲』
人気のある作品であり、私もいくつかの録音を聴いてきました。しかし、決して好きな作品というわけではありません。心にスッと入ってくるものでもありませんでした。曲の背景や作曲動機(これについてもよく知られていると思うので詳しくは触れません)から、聴く側としても「感情面からアプローチ」が優位になってしまいます。「しくみ」という視点からこの作品に向き合っていませんでした。「多分こうではないか…」という程度の「イメージ」です。
数年前、あるプロの楽団の演奏会に足を運んだ時、この『第三交響曲』がメインに据えられていました。せっかくプロの演奏を聴くのだから一度スコアに目を通してから臨もう、とフルスコアを購入。細かい分析をする余裕は時間的にありませんでしたが、第一楽章と終楽章(第四楽章)に頻繁に現れる(高低の変化がない)リズム音型、これを耳だけで認識するだけでなく、目で(印刷された)音符で確認したことで、私は朧げながらも描いていたイメージを確かなものとすることができたのです(あくまでも自分の中で)。


(曲の冒頭、ティンパニー)

   
(第一楽章で現れるリズム音型)


(第四楽章で現れるリズム音型)

つまり、こういうことです。
「作曲者は、この作品で『人間(2拍子、4拍子)と神(3拍子、3連符)の対立と和解』を、この音型を用いることで描いている(のではないか)」

「3」という数字はキリスト教では聖なるもの、4(2で割れる数字)は世俗です。音楽史的に見れば、「3拍子=完全」、「2拍子=不完全」です。
バーンズはこれらの音型を「神」に見立て、第一楽章ではその非情さを描いているのだ、というのが私なりの「イメージ」です。
そして、バーンズは第四楽章でリズム音型を

このように書いていません(余程の意図がない限り、作曲家はこちらの書き方をするでしょう)。第一楽章で用いた音型で書くことに意味があったのだろうと私は考えました。
スコアに目を通したこと、そして「しくみ」のひとつを自分なりに理解したことで、『第三交響曲』は私の中にスッと入ってくるようになりました。好きになった、というわけではありませんが、どこか作曲者の心情がわかるような気がしました。そして、耳からの情報だけでなく、目から入ってくる情報がいかに作品の捉え方、感じ方に影響を与えるか、ということを思い知らされたような気がしています。私自身この作品を演奏したことはないのですが、今後演奏に関わるような機会があればこの経験を活かしたいと思いますし、また新たなイメージが湧きあがるのではないか、とも思っています。


もうひとつ、こちらもよく知られた作品です。
R.ジェイガー『シンフォニア・ノビリッシマ』
中学一年生の時(約40年前)に一度演奏しているのですが、「難しかった」という印象しか残っていませんでした。しかし、演奏したことをきっかけに様々な演奏(録音)に触れる機会も多くなりました。同じ曲でも様々な演奏があるのは当然なのですが(作曲者本人が指揮した東京佼成ウィンドオーケストラのライブ盤で、中間部があまりにもゆったりしていたのには驚きました)、共通した「ある箇所」の演奏がしっくりこないのです(生意気にも…)。
それは、低音楽器から始まる「第二主題」(スコア上、リハーサルマークDから)。

この主題は5小節ごとにフーガのように積み重ねられていきますが、どうも混沌としていく…。もちろん聴く側の問題もあったと思います(私はトロンボーンを演奏していましたので、どうしてもトロンボーンの演奏に耳が奪われてしまいます)。随分と時間が経ち(いくらかの音楽経験を積んだ後)この作品のスコアを手にする機会を得まして、件の箇所に目を落としました。そして黙唱してみました。
スコアは新たな閃きを与えてくれるものです。
「この、音域の狭い(長調でも短調でもない)主題は、グレゴリオ聖歌のような趣なのではないか?」
もともと、「この作品のタイトルがなぜイタリア語でつけられているのか?」ということも気になっていましたが、その理由もわかるような気がしてきました。

であるならこの主題、テヌートは付されているものの、多くの録音で聴かれるよりももっとレガートで演奏してもいいのではないか、と感じるようになったのです。
この作品を指揮する機会が、大分県警音楽隊在職中におとずれました。私はこの考え(アイディア)を演奏に反映させようと試みましたが、奏者たち(特に私と同じ世代の)は随分苦労したようです(染み付いたイメージがありますので)。演奏そのものが上手くいったかどうかは正直わかりませんが、ある客演奏者の言葉が私に自信を与えてくれました。
その方は大学時代に故フレデリック・フェネル氏の指揮でこの作品を演奏した経験があるとのこと。「フェネルさんも同じことを言ってましたよ!あそこの低音はレガートで、と」。
フェネル氏がどのような意図で、「読み」でそう指示されたのかはわかりません。私の考えが正しかったのだ、とも思っていません(そもそも演奏、表現において「何が正しいか」など規定できるものではないのですから)。むしろ、これをきっかけに、これまで聴いてきた数々の演奏(録音)はどのような「読み」でなされているのだろうか、とより深く掘り下げて聴くことができるようになったのではないかと思っています。
スコアに目を通してからわかったことですが、この作品の中間部、最初に現れるクラリネットの旋律には3小節目にsubito pが出てきます(楽譜にはs Pと書かれています)。

多くの演奏(録音)ではその効果がほとんど認められません(その前にあるクレッシェンドも含め)。私が聴いてきた中では作曲者自身の指揮による演奏のみです。が、上述の通り非常にゆったりとしており、自身が付したAndanteという指示さえ全く無視していると言ってもいい。作曲者はこのsubito pの効果を出さんがためあえて緩やかなテンポを設定したのでしょうか?心情の変化があったのでしょうか?この部分、私は試行錯誤しました。
ただ、様々な可能性があるということがわかり、悩むということはありませんでした。


というように、スコアに少し目を通すだけでも、これまで親しんだ作品、身近な作品でさえ新たな発見があるかもしれません。少し距離を置いていた作品でも、スコアを手に聴くことで新たな「感情」、「イメージ」が湧いてくるかもしれません。手持ちの知識が多ければ多いほどその幅は広がることでしょう。


おわりに

●チェロ奏者のゲルハルト・マンテル氏はその著書『楽譜を読むチカラ』(音楽之友社刊)で、

「多くの演奏者が成長できないのは、自分の演奏をいつも感情的に聴いて感情に影響されているから(中略)演奏はとにかく冷静に客観的に観察されなくてはならない」
「演奏というのは音楽のしくみを聴こえるようにすること、作曲者はどうしてこのように書いたのかを示すこと」
「広い意味での音楽のしくみを演奏することで、曲に含まれている感情を聴者に引き起こさせなくてはならない」

と、「しくみ」を知って演奏することの大切さを述べています。
また、楽譜の意味を問いかけることが大切であり、「どうして?」「なぜ?」という問いが、私たちの想像力に影響を与えるとも述べています。

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●スコアを読む、「しくみ」をつかむためにはいくらかの準備は必要です。が、一度で全てをつかもうとする必要はないと思います(既述の通り)。まずは、いくつかの要素に絞って目を通すことから始めてみませんか?「今日はこれとこれ、次はこれとこれ」というふうに。それを繰り返すことで、バラバラのように思えた様々な要素が深く関わり合っていることがわかってくるはずです。そして、目を通す度に新たな風景が見えてくるはず。「そうだったのか」と思える瞬間が必ずおとずれるはず。

●そして、「しくみ」のしっかりした(あるいは「仕掛け」の豊富な)作品というものも見分けられるようになるかもしれません。そのような作品に出会えれば、演奏も練習もさらに充実するように思います。

●さあ、スコアを手にしましょう。目を通してみましょう。「どうして?」「なぜ?」と問いかけてみましょう。「そうだったのか」という瞬間の喜びを味わいましょう。

今後も、「どのように楽譜、スコアを読むか」、あるいは理論的なことなどについてさらにお話しできる機会を持つことができれば、と考えておりますし、「私はこんなふうにスコアを活用していますよ、楽しんでいますよ」といた声を聞かせていただけますと嬉しく思います。

長文乱文にお付き合いいただきありがとうございました。



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「シンコペーション」論

2020年10月21日


[0]はじめに

 本論は「シンコペーション」について、その「正体」を考察するとともに、その「演奏法」、あるいは「表現方法」の新たな可能性を探ることを目的としており、特に学校現場等で指導にあたる皆さまの参考になれば、と考えています。

 前半では、古今の作曲家や演奏家、理論家などの著述を参照しつつ、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直します。

 後半は、前半の考察と私の実践を踏まえた「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を提案します。

 なお、本論で参照する海外の書籍等については、原文ではなく日本語訳のものを基にしていることを了承ください。


[1]シンコペーションの正体

●「シンコペーション」について音楽理論書等ではおおよそ以下のように解説されています。

「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらす」

「強拍と弱拍の位置を本来の場所からずらしてリズムに変化を与えること」

「「切分音」ともいい,拍子,アクセント,リズムの正常な流れを故意に変えること」

「1小節内の弱拍あるいは弱部を強調するリズムの取り方」

「軸となる拍の位置を意図的にずらし、リズムを変化させることで、楽曲に表情や緊張感をあたえる手法」

「アクセントの位置を変えることで、楽曲に緊張感や表情をつける手法」

「本来強調されない拍を強調したり,逆に強調されるべき拍を強調しないことによって、 規則的な拍子の強弱パターンを一時的に変化させること」

 多くの理論書では、「拍節」に絡めてシンコペーションを解説していますが、そもそも、「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」とが混同して述べられているのではないかという疑問が私にはあります。上の記述にある「アクセント」という言葉も、拍節内の「強弱によるストレス関係」(つまり、強拍、弱拍の存在)を前提に書かれてものであると推測できます。

 問題は、「拍節リズム」における「強弱ストレス」が音自体に存在する(実際の音で示される)かのように述べられているところにある、と私は考えています。


●例えば、17 世紀の⾳楽理論では「⼩節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの⾔及を含んでいない」とされており、フランスでは古典詩学の詩脚を⾳楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと⾔われています。

 「拍節」がアクセントと結びつけられて考えられるようになるのは18世紀、つまりバロックの時代ですが(そこには、器楽の発展という側面があると考えていいでしょう)、パウル・ヒンデミット(1895~1963)が言うように、もともと「「拍節リズム」における「強弱のストレス」は「われわれの感覚によって⽣じるものであって、⾳⾃体に存在するものではない」(『新訂 音楽家の基礎練習』より)のです。

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 ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が著書『古楽とは何か ―言語としての音楽』で次のように指摘しています。

・バロック⾳楽においては、当時の⽣活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。

・⾳符にも「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」があった。

・尊卑の観念はもちろん強調と関係する。

・この図式は拡⼤され、⼩節群や全曲にも当てはめられた。また縮⼩もされた。

 アーノンクールの言う「ヒエラルキー」が「拍節」にも当てはめられたと考えることは十分可能でしょう。

 こうした指摘は、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「拍節」における「強弱」関係が、ある意味「人工的」に作られたということを示唆しているように思えるのです。

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 また、アマデウスの⽗、レオポルド・モーツァルト(1719~1787)は著書『ヴァイオリン奏法』(1756)の中で、「表現のためのアクセント」について述べているのですが、そこで⽰された「強調」は、現代の「拍節」論におけるアクセントと⼀致しています(「作曲家が特別の指⽰をしていない限りにおいて」、との但し書きがあります。そして、レオポルドの記述は、アーノンクールが言及した「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」という考え方がこの時代にも残っていたことを示しています)。

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 ヒンデミットはさらに、こうも言っています。

(「拍節」のアクセントは)音量的アクセント(=「表現のためのアクセント」と解釈していいだろう)とは本質的に違うものであり、この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば⼀致し、拍⼦のアクセントが強調されるのだ。

 「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」との混同は、こうしたところに理由があるのかもしれません。 (ヒンデミットは、「⾳楽作品は、拍⼦の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。」とまで言っています。そこには「和声」も大きく関わってくると言っていいでしょう。)


●ところで、「拍節」が「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは疑いようもありません。古くから音楽の理論書等では「最初の音」に強勢を置くことでその構造を説明してきたのですが、果たしてそれが周期性や回帰性を示すことになるのでしょうか?

 拙稿『三拍子の話』でも考察しているのですが、私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性や回帰性をもたらすのではないか、と考えています。

 その「準備」は当然小節内の最後の拍で行われることになります。「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは(僅かなものではあるが)、音量的なアクセントだったり、長さであったりするかもしれなません(強さには長さが、長さには強さが伴うということも知っておきたいです)。つまり、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」関係とは異なるものです。

(そう考えると、例えば練習でメトロノームを使用する際、拍節の変わり目を意識づけるという意味では、「チーン、カチッ、カチッ、カチッ」というパターンを、「カチッ、カチッ、カチッ、チーン」というパターンに変えてやってみることを検討してもよいのではないか、という気もします。)

 以下、簡単にまとめてみます。

・もともと「拍節」における「強弱」は⾳⾃体に存在するものではない。

・「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」(ここには作曲と演奏の両領域が含まれる)の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」と同じとはいえない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば1拍目の)音に何らかの「重さ(あるいは強勢)」を置くことで起こるのではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、1拍目が何らかの形で強調されることは当然起こり得る)。


●いくつかの作品で確かめてみましょう。

 まずは、日本人なら誰でも知っているこの歌、

 旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型です。

 この旋律を上記譜例のような強弱を実際に付けて歌う人はまずいないでしょう。歌詞(言葉)に内在するアクセントが優先されるはずです(この曲であれば、奇数小節の最初の音にわずかながら強勢が置かれるでしょう)。

 この曲はどうでしょう?

 これも旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型ですが、言葉(シラブル)の持つ強弱ストレスも「拍節リズム」の強弱ストレスと一致しています。つまり、上述のヒンデミットの言及「2種類のアクセントの位置が一致する」典型でもあると言っていいと思います。

 だからと言って、各小節の最初の音符にさらに強いアクセントを付けて歌うことは考えられませんよね。

(ヨーロッパの著名なピアニスト(故人)が、ベートーヴェンの強弱法に関する講演の中で、この部分を例に「拍節リズム」における強弱の重要性を説いています。次節で詳述します)。

 上記2つの例は歌詞(言葉)を伴うものですが、では、歌詞(言葉)を伴わない場合 はどうでしょうか?

 拙作で恐縮ですが、『メモリアル・マーチ「ニケの微笑み」』を例に挙げてみます。

 行進曲は特に「拍節感」が大切だとされていますが、譜例の上の段の旋律に「拍節リズム」の強弱を当てはめて歌ってみるとどうでしょうか?

 下の段のベースライン、これも「拍節リズム」の強弱関係に従って強勢を置いて歌ってみましょう。

 非常に窮屈な思いをするのではないでしょうか?

 歌詞のない作品に取り組むときでもよく、「歌いましょう」と言われることは多いのですが(「拍節感」が大切だとされる行進曲であっても)、常に「拍節」の強弱関係に意識が向いてしまうと(それが優先されてしまうと)「歌」は成り立たないでしょう。

 とはいえ、「拍節リズム」を全く無視するわけにはいきません。

 「拍節リズム」は「音楽リズム」に「秩序」と「刺激」をもたらすからです。

(「拍節アクセント優先」の考え方は、「言葉」によるアクセントがないため何らかの「秩序」を示す必要があったからかもしれない、とも思えてきます。)


●「シンコペーション」自体は「音楽リズム」に「刺激」を与えますが、その刺激は「拍節リズム」によってもたらされます。「拍節リズム」があるからこそ「シンコペーション」という概念が生まれたとも言えるのです。だから、「シンコペーション」を「拍節」の強弱ストレスに基づいて述べることは不可能なことではありません。しかし、「拍節リズム」の本質(「強弱」が⾳⾃体に存在しない、ということ)を理解しておく必要があります。

 「シンコペーション」には「切分音」という訳語が当てられています。「切分拍」ではありません。実際に響く音を切り分けるということです。「拍節リズム」の「強弱」が音自体に存在しないということを前提とすれば、「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて」や「拍の位置をずらす」という説明は成り立たなくなります。ヴィオラ奏者・藤原義章氏の「今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくるリズムパターン」(『リズムはゆらぐ』より)という説明が最も本質を突いているように思われます。

「シンコペーション」は、「拍節」における「強弱」の位置を入れ替えることではない、「拍」がシンコペートされるわけではないのです。

 (藤原義章氏の著書『リズムはゆらぐ』や『美しい演奏の科学』は、リズムを考察する上で一読に値すると思います。ただし、藤原氏が「強弱リズム論」に徹底して批判的な態度を示しているのに対し、私は「古くからある理論は上手に活用すべし」という考えです。氏は著書で「自然リズム」という言葉を使っており、演奏する上で最重要視しておられます。人間の深層部分に潜在しているものということですが、それは私が本論で用いる「音楽リズム」という言葉と同じです。もともと音楽自体、人間が音をコントロールすることで創造されたものですから、「自然」というものを音楽に求めることは極めて難しいのではないか、と私は考えます。ドイツの哲学者で『リズムの本質』という著書でも知られるルートヴィヒ・クラーゲス(1872~1956)が言うように、人間の深層部分に潜在するリズムが優位に立てば立つほど緊張感は緩む。だから、上述したように「拍節リズム(クラーゲスは「拍子」としています。)」を無視するわけにはいかないのです。私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と考えるのはこうしたところに理由があります。)

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●「ヴィーン古典派」時代の音楽家・理論家・教育者であったダニエル・ゴットロープ・テュルク(1750~1813)の名著『クラヴィーア教本』(1789)には次のような記述があります。

シンコペートされた音とは、拍ないし部分拍を数えるときに、頭のなかで切り分けなければならない音符のこと。換言すれば、その半分が先行する拍に属し、他の半分は後続の拍に属するという音符のことである。(「拍節」の項で述べられています。)

 この点については、私の師のひとりである東川清一先生が著書『だれも知らなかった楽典のはなし』で触れていらっしゃるのですが、先生はシンコペーションの本質的特徴は「アクセントの移動」と仰る…。
 しかし、よく読めば、「拍節リズム」のアクセントの移動ではなく「音楽アクセント」の移動であることがわかります。

  上の楽譜中、*印が付された音が「シンコペートされた音」ですが、テュルクの記述に従い各音を切り分けて記譜すると、以下のようになります。

(譜例は筆者による)

  テュルクの言う「シンコペートされた音」とは、「拍頭を跨いで奏せられる音(拍頭でアタックしなおさずに)」ということが明らかです。

 では、音がシンコペートされる前はどのようなリズムでしょうか?

 上記の譜例から「シンコペーション」を除くと、以下のようになるでしょう。

 「cyncopate」は本来「中略」や「中断」、「短縮」を意味します。であるなら「シンコペートされた音」は、テュルクの言う音とは違うものになるのではないでしょうか?

 どの音が「中断、短縮」されたかは一目瞭然です。

 つまり、テュルクの言う「シンコペートされた音」は、「先行する音をシンコペートした音」ということになるのです。

 「切分音」という訳語もこうした、「された」「した」の関係を理解することで初めて意味を持つのだろう、と思います(一部理論書にはこうした点に言及したものがあります)。

 歴史的な理論書に対し批判的な視点で述べたのですが、それでも、テュルクの記述からは、得るものがあります。「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立ったものだということも示しているからです。

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●テュルクは「強調されるべき音」の項でこうも述べています。

シンコペートされた音(=「先行する音をシンコペートした音」)はその出だしから、したがってそれが弱拍と強拍のいずれにあたるにせよ、強く奏さなければならない(中略)このようなシンコペートされた音が用いられるのはなかでも、しばらくのあいだ過度の単調さを打ち破って、いってみれば拍の位置をずらすためである。シンコペートされた音の前半が弱く奏され、その後半が強調されたのでは、達成されないのである。

 「弱拍」や「強拍」、「拍の位置をずらす」という記述は、ここまでの考察とかけ離れたものですが、この時代の音楽のありようを示していることは確かです。

テュルクが述べているように、「先行する音をシンコペートした音」には何らかの強調が必要となります。

・先行する音をシンコペートしたことを示すため

・先行する音をシンコペートしたことにより、「長さ」を持ったため(一部例外はある/長さには強さが伴う、ということは既述の通り)

という2つの理由からです。つまり、「シンコペーション」の強調は、「拍節」の「強弱ストレス」とは無関係になされるものなのです。結果として「弱拍」とされる拍にあたる音が強調されることになるのですが、テュルクが「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立っているからこそ、「いってみれば」という表現をしているようにも思えるのです。

 ちなみに、レオポルド・モーツァルトは『ヴァイオリン奏法』の第12章でこのように言及しています。

 小節をまたぐような音符を分けてしまったり、それを強調したりしてはいけない。むしろ拍の最初にあるかのように始め、静かに保っただけでいい。

 「シンコペーション」を思わせる記述なのですが(そもそもレオポルドの著書に「シンコペーション」という言葉は出てきません)、ここでレオポルドが言う「強調」は「表現のためのアクセント」として(意識的に)付されるアクセントを意味しており、「長さ」を持ったことにより生じる強調までをも否定したわけではない、と読み取れます。「拍の最初」(「拍節の最初」の間違いではないだろうか…?)という記述が、それほどの強調は必要とはされなくとも、他とは区別される音であるということを示していると、考えられるからです。

(もし、「拍節の最初」ということであれば、レオポルドが同著の同じ章で、「強拍にあるその他の音(つまり、「表現のためのアクセント」が付けられていない音符)は、常に少し強くして他の音と区別されるが、あまり強くしすぎてはいけない」と述べていることとの整合性が取れるのではないか、と考えるのですが…。)


●もっとさまざまな(古今の)理論書等を参照する必要があるのかもしれませんが、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直すことがある程度できたのではないかと考えています。

 次節では、ここまでの考察と実践を踏まえ「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を探っていきます。


[2] 「アーティキュレーション」の視点から演奏法を考える

●楽譜に記された「シンコペーション」を実際の音としてどのように示すか…

 その音の立ち上がりに何らかの強勢を与えることが現代では一般的でしょう。ここまでの考察からも、あるいは歴史的な理論書にある記述からも疑いようはありません。そして、それが「強拍」と「弱拍」のパターンを変えるという類のものではない、ということは再度確認しておきたいと思います。

 ただし、強勢を与えることが単に「慣習」だからということであれば少々問題でしょう。

 拙稿『三拍子の話』や雑誌への寄稿文にも書いているのですが、「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。 既存の、誰もが理解していると思われる(「慣習化」している)理論であろうとも、一度は「なぜそうなったのか」「なぜそうでなければならないのか」と考えてみることは有益であると私は思います。


●以前、ヨーロッパのある著名ピアニスト(故人)がベートーヴェンの強弱法について講演したものを目にする機会がありました。ベートーヴェンの時代の音楽様式、演奏様式に沿った、深い内容でした。このピアニストは、楽譜に書き表すことのできないデュナーミク(インネレ・デュナーミク)の大切さを説いた上で、実際の音にもそうした強弱が反映されることの重要性を強調していたのですが、このインネレ・デュナーミクの中心に置かれたのが「拍節リズム」の強弱でした。

 「音楽の自然な表現力」を求めるこのピアニストが「拍節リズム」を「音楽の自然な抑揚」として述べている(前節で取り上げた「第九」も例に挙げているのですが、明らかに、言葉の持つ自然なアクセントと「拍節における強弱」を混同して述べています)ことに若干の違和感を持ったのですが、いくつかの作品を例に何度となく「通常の法則(リズムの強弱に準拠したデュナーミクのイントネーション)に固執することなく」と繰り返していたところを見ると、「そのように決まっているから」だけでは音楽にならない、ということを言っているようにも感じました。

 ちなみに、このピアニストが「通常の法則に固執することなく」と言っていたベートーヴェンの初期のソナタのある部分、実際そのように演奏しているかを確かめてみたところ、見事に「通常の法則」で演奏されていました(録音と講演の年代に数十年の開きがあるので、このピアニストの中で何らかの変化があっても不思議ではありません。そこがまた、音楽の不思議、魅力でもあるのです。私は、決してこのピアニストを否定しているのではなく、むしろ、若い頃からその演奏に繰り返し触れてきました)。


●さて、「シンコペーション」の演奏法、表現方法ですが、その音の立ち上がりに何らかの強勢を置くということは、本当に「そう決まっている」からなのでしょうか?であれば、「なぜ」?違う方法、他の可能性はないのでしょうか?

 アントニー・バートンが編集した『古典派の音楽 歴史的背景と演奏習慣』の「弦楽器」の章でダンカン・ドルースが「シンコペーション」について次のような記述をしています。

当時は、また19世紀に入ってからも、これと(各音の最初にアクセントをつけてシンコペーションを強調するやり方)は違った方法が使われたという証拠がある。バイヨは1834年の『ヴァイオリンの技法』でもっとも完璧な説明を行なっている。すなわち、移動したアクセントがシンコペーションの最初にスフォルツァンドを要求したり、曲の静かな性格がアクセントのない演奏を暗示するのでないかぎり、演奏者は「音をだんだんふくらませて、音の最後まで弓を、ただし穏やかに、加速させなければならない」―したがって、次の音を静かに始めるよう注意しなければならない―というのである。古典派のレパートリーには、このような抑揚を付けたシンコペーションによって効果を高めるパッセージが無数にある。

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 レパートリーの一例としてドルースは、ベートーヴェンの『ソナタ第7番』の第一楽章を挙げています。

 果たして、バイヨが述べるような演奏法は実際に受け継がれているのでしょうか?

 譜例に挙がったベートーヴェンの『ソナタ』、20世紀の大演奏家たち、現在活躍する演奏家たちがどのように演奏しているかを確かめてみました。

 シゲティ、ハイフェッツ、シェリング、グリュミオー、メニューイン、スターン、オイストラフ、ヘンデル、パールマン、ズッカーマン、クレーメル、ムター、カヴァコス、ファウスト、樫本大進、庄司紗矢香…、誰一人としてドルースが取り上げたバイヨの演奏法は採っていません(もっとも、譜例に挙げられたこのフレーズ、ヴァイオリンが演奏する前にピアノに登場します。ピアノがこの譜例のような強弱を表出できるでしょうか(フレーズ自体がクレッシェンドしているのならまだしも)?つまり、例として挙げること自体に少々無理があるような気がするのですが…。そもそも、ベートーヴェン自身がそれを意図していたとも考えにくいです)。

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 ただし、受け継がれてはいないものの、現在「慣習」となっている演奏法とは違う考え方があったという事実は知っておいたほうがよいでしょう。こうした演奏法が顧みられ、数十年後には一般化する可能性がないとは言えないのです。そして、バイヨの論が、「シンコペーション」を「拍節」の「強弱」の移動とは考えていないという点は見逃せません(ただし、読み方によっては、バイヨが「拍節」内の各拍頭にある種の強勢を置かねばならないと考えていたのではないか、とも思えます。前節で見たテュルクの考えとは全く逆です)。

 しかしながら、「その音の立ち上がりに何らかの強勢を置く」という演奏法にある意味淘汰されてきたということは、そこに人間の「感覚」が大きく関わっているということだけは言えるでしょう(いつも思うことですが、「理論」というものはいくら科学の目が入ろうとも、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされ、それを繰り返して今日に至っているはずなのです)。

 では、その感覚とは?

 今一度、前節で参照した藤原義章氏の説や、テュルクの論述に関する考察から。

・今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくる

・先行する音をシンコペートしたことを示す

・先行する音をシンコペートしたことにより「長さ」を持った

 こうした条件下、人間の感覚としては何らかの強勢を置きはしないでしょうか?それが例え、上記譜例のベートーヴェンの『ソナタ』のように p のフレーズになったとしても(件のフレーズの直前までは f )。もちろん、「シンコペーション」のよる「中断」が音量の変化を伴って行われることは、上記ベートーヴェンの『ソナタ』の例を見るまでもなく普通にあることです。そして、音量的な変化と音(あるいはフレーズ)の立ち上がりに置かれる強勢とを混同してはならないことは今さら言うまでもありません(バイヨやドルースの論述に違和感を持つのはこうした点に起因します)。

●バイヨやドルースの論述に接したことから、多くの演奏に触れることができたのはある意味収穫です。

 どれひとつとっても同じ表現はありません。件の「シンコペーション」を取り上げてみても、強勢の置き方、音の「抜き方」、音の保持のしかた、と演奏者それぞれの色があります、味があります。つまり「アーティキュレーション」が明瞭である、ということです。

 「アーティキュレーション」、ここに「シンコペーション」の演奏、表現を豊かにするヒントがあるのではないでしょうか?

 これまでの考察から、「拍節」における「強弱」の移動ということ以上に「アーティキュレーション」という視点から「シンコペーション」演奏法を考える方がはるかに音楽表現を豊かにするはずだ、というのが私の結論です(私がベートーヴェンで接した多くの演奏家だって、「拍節」の「強弱」の移動ということよりも、その音にどう表情づけするかに神経を使っているはずですから)。

 「ここは拍の強弱が入れ換わっているから強く弾いて」と指導するよりもはるかに音楽的と言えるでしょう。


●今一度、前節(テュルクの論述に関する考察の項)の譜例を挙げてみましょう。

 「シンコペーション」の音(テュルクの言う「頭の中で切り分けなければならない音符」)は拍頭を跨ぎ「タイ」でつながれています。この「タイ」をどのように考えるかがポイントでしょう。

 ここからは、古典の音楽理論、演奏法を活用、応用してみましょう。

 「タイ」は、音をつなぐという意味では「スラー」と同じです(ここで言う「スラー」はあくまでも、「アーティキュレーション」を示す短い「スラー」だ)。「タイ」も「スラー」も弧線で示されます。「スラー」」はイタリア語で『ligatura』、「タイ」は『ligatura di volare』、つまり「音価のスラー」と呼ばれます。

 フルート奏者の有田正広氏(1949~)は、「古典では、スラーはディミヌエンドを作るもの」(佐伯茂樹著『木管楽器 演奏の新理論』より)と言います。また、ヴァイオリン奏者のシモン・ゴールドベルク(1906~1993)の「スラー」に関する言及には次のようなものがあります。

スラーの最初の音は特別な音。特にそのことを示したり印づける必要はなくとも、その音の長さを縮めない。

スラーの音を毎回強調する必要はない。ただし、最初の音であることをなおざりにしないこと。

スラーのかかった二つの音は二つとも聞こえなければならない。しかし二つ目の音へのディミヌエンドの度合いは緻密な意識のもとに造り出すこと。

ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 – シモン・ゴールドベルク』より)

 ゴールドベルクにも有田氏同様、基本的には「スラーはディミヌエンドを作るもの」という認識があるのは確かなようです。

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●例えば、次のような楽譜を生徒に与えてみましょう。

 「スラーはディミヌエンドを作るもの」という意識がなくても、生徒は最初の音に何らかの形で目立たせようとする(表情をつけようとする)はずです。後ろの音を強調することはまずありません(前述したように、それが人間の「自然な感覚」なのでしょう)。  

 では、同じ高さで隣り合う音をつないでみましょう。

 多くの生徒は、「リズム」を正確にとること(音が立ち上がる位置を間違えないようにすること)に意識が向き、表情をつけることができない…。「シンコペーションは拍節内の強弱の移動」などという以前の問題です。

 ここで、手を打ってカウントを取らせながら最初の2小節を歌ってみます(テンポやデュナーミクは任意で)。

 「シンコペーション」が「拍節の強弱の入れ換え」、という意識の強い生徒ほど、2拍目のカウントを強くとるでしょう。気をつけておきたいのは、2拍目に強くカウントをとっているのは、旋律の持つリズムと「拍節」リズムとを混同してしまっている、ということです。このとき、旋律の二分音符にはすでに過剰とも言えるアクセントがつけられていると言っていいでしょう(曲想や作品の性格にもよりますが)。

 既述の通り、「シンコペーション」は「拍節リズム」あってこそのもの、「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(そう考えると、手を打ってカウントしながら歌うことは意外に難しいですよね)。

 優先されるべきは、単にそこに「アクセントを置く」ということではなく、「表情」を作ることです。

(別の場所でさらに考察する予定ですが、「リズム」は1音だけでは成り立ちません。「アクセントを置く」にしても、前の音がどのような表情なのか、次の音がどのような表情なのかを十分に検討することが大切なのです。


●では、テュルクが言うように「頭の中で切り分け」て考えてみましょう。

 「タイ」が音価の「スラー」であるなら、そこには、単に「長さ」を作る以上の役割があると言えないでしょうか?

 既に言及したように、「長さ」にはある種の「強さ」が伴いますから、「タイ」の架かりはじめの音には何らかの強勢が置かれると考えていいでしょう。繰り返しますが、それは「拍節」アクセントの移動ではありません。曲想や曲の性格を見極めた上で(加えて前後の音との関係を踏まえた上で)導き出されたものでなくてはならないのです。

 「スラーはディミヌエンドを作る」という「法則」に従うなら、「タイ」が架けられた最後の音に向かってディミヌエンドすることになります。当然そのディミヌエンドも次の音との関係(次の音にどのような表情を求めるか)を踏まえた上で作らねばなりません。

 「スラー」や「タイ」が架けられた最後の音はやや短めにするのが「慣習」となっていますが、この点に関しゴールドベルクは次のように述べています。

スラーの後、次の音に性急に飛び込みたくなるのは誰もがしがちな間違い。スラーまたはタイの最後の音の長さを短縮しないこと。そしてスラーの最後にくる次の音に早く入りすぎないこと。

 これも曲想や曲の性格(あるいは様式)に応じ検討されなければならないことは、既述のベートーヴェンの『ソナタ』の多くの演奏からもわかります。

 「タイ」が架けられた最後の音の次に来る音に早く入りすぎるのであれば、それは跨いだ「拍頭」を十分に意識していないからでしょう。「タイ」が架けられた最後の音はアタックしないのですから、なおさら意識する必要があります。(これも繰り返しますが、)「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(「拍節リズム」は「音楽リズム」に秩序を与えるものですから)。音の「強さ」や「長さ」に意識が向いたとしても、「着地点」が見えなければそれらは曖昧に処理されかねません。「音を頭の中で切り分け」、「スラー」でつなぐ、ととらえることで、「着地点」は明確になるでしょうし、それにより「最初の音の強勢」の度合いや「ディミヌエンド」の度合い、「スラー(タイ)が架かった最後の音の保持」の度合いなどをより広い視野で検討できるのではないか、と思うのです。

 「シンコペーション」における音の「強勢」を、「拍節リズムの強弱の入れ替え」ではなく、「アーティキュレーション」の視点でぜひとらえてみていただきたいです。


[3]おわりに

●私たちの生活には一定の「リズム」があります。人それぞれに違いはありますが、朝起きてから夜寝るまでの間、「生活のリズム」、「行動のパターン」を持っています(寝ることもひとつの行動ですよね)。そこに「秩序」をもたらすのが「時間」です。「時間」を「拍節」、「生活のリズム」を「音楽のリズム」に置き換えてみるとどうでしょうか?

 「時間(拍節)」に「強弱」は基本的に存在しません。もし、個々の体の内、脳内で強く意識されている「時刻(拍)」があるということであれば、それは「生活のリズム(音楽のリズム)」が持つ「アクセント」なのです。いつも決まった「時刻(拍)」にすることを、意識的にずらして変化を与えてみる…。どこか「シンコペーション」を思わせますよね。

 「時間」を基準に生活の全て組み立てると、どこかで窮屈な思いをします。しかし、「時間」があることで私たちの「生活リズム」は活性化します。音楽も同じでしょう。


●音楽には、一定の理論や法則があり、私たちはそれらを吸収しながら演奏や創作といった活動に活かしています。しかし、本論でも述べたように「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。そして、理論そのものも変容してきたという事実…。

 情報が容易に手に入る時代になり、理論書や入門書なども様々な工夫がなされたものが多く出回っていますが、それらをどう演奏に役立てるか、という視点で書かれた書籍等はそう多くはありません。「既存の著述の言い回しを少し変えてみた」、単に「わかりやすくした」程度のものもあり、多くは「そのように決まっているから」という視点で書かれたものです(それらを決して批判するわけではありません)。楽器の教則本や合奏用のメソッドなどでも、楽譜をどう読んで演奏に活かすか、という観点が欠けていることが多いです。いわゆる「表現」というものは、技術の習得以上に「経験」や「学習」の違いが現われるものです。さまざまな考え方、可能性があると言えます。そうしたもの全てを教則本などに取り入れようとすれば、本も分厚くなり、かえって学習意欲も失せてしまうだろうな、と思っていました。

 私自身も既存の理論等に窮屈な思いをすることはあります。そして、それは時代の変化、音楽をめぐる環境の変化によるところもあるでしょうが、理論そのものが変容してきた過程で何か見落とされたことがあるのではないか、と私は強く思うようになりました。それが、こうした文章を書くようになったきっかです(その第一弾が拙稿『三拍子の話』です)。

 (これも本論で述べましたが)理論の変容には「人間の感覚」が大きく関わっています。もし、「そのように決まっている」と思われるものに対し「なぜ?」と感じることがあったとしても、それは決しておかしなことではなく、むしろ、その成り立ちや変容の過程を探ることで、表現のための「選択肢」が増える可能性があるということです(私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と言うのは、そうした意味です)。「なぜ?」という問いかけこそが、いわゆる「表現の幅」を広げることになるのです。

 理論面からのアプローチ、そして「問いかけ」が、演奏技術の向上にもつながることを私は期待しています。

 本論では私自身の結論のようなものを提示しましたが、今後の実践によっては、その考え方が変化することがあるかもしれません(その時は改めて考察していきます)。お読みいただいた皆さまなりの結論をお出しいただき、実践に役立てていただきたいと思います。

 拙文が少しでも学校現場等で指導にあたる皆さまのお役に立てれば嬉しく思います。

(完)


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