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投稿者: kmasa1006

ゴセック 『Symphonie en ut』における拍子記号の再検討

C と 4/4 の非等価性、およびフランス革命期における軍楽のコンテキストに基づく校訂の視座

2026年7月6日公開


共同執筆:
     主筆・実証検証: 正門研一
     構造解析: Gemini(対話型人工知能)


1. 序論:問題の所在と本稿の目的

18世紀後半から19世紀初頭にかけてのヨーロッパ音楽史、とりわけフランスにおける器楽音楽の発展において、フランソワ=ジョセフ・ゴセック(François-Joseph Gossec, 1734–1829)が果たした歴史的役割は、極めて先駆的であり、かつ多大です。ラモー(Jean-Philippe Rameau)の伝統を引く宮廷音楽文化と、最新の管弦楽技法をいち早く融合させ、後のパリ音楽院創立へと至る「フランス公共音楽の礎」を築いたのがゴセックに他なりません。とりわけ、1789年のフランス革命期において彼が組織した国民衛兵音楽隊(Musique de la Garde Nationale)などの軍楽隊(吹奏楽編成)のための作品群は、市民の革命精神を鼓舞し、新しい共和国の祭典を彩るナショナルな芸術として、音楽史上に類を見ない重要性を獲得しました。

その代表作である『Symphonie en ut』(交響曲 ハ長調、あるいは『軍楽のための交響曲』)は、もともとゴセック自身が既存の管弦楽(オーケストラ)のために書いた交響曲の第1楽章を、革命期の要請に応じて軍楽隊(木管・金管・打楽器)のために自ら改編(編曲)したという、きわめて興味深い成立背景を持っています。この作品は、その華麗な管楽器の語法と、市民を圧倒する古典派特有の強靭な構造美において、極めて高い芸術的完成度を誇っています。

しかしながら、これら歴史的価値を有する芸術遺産を現代に蘇らせる「校訂(Edieren)」の現場、あるいはそれを対象とする音楽学研究の領域において、近年、看過し得ない深刻な学術的瑕疵が散見されます。その最たる象徴が、一次史料(作曲家の自筆譜や、当時の信頼すべき初版・手書きパート譜)に厳然と記された拍子記号 C を、現代的な分数表記である 4/4 拍子へと「何の説明もなく、当然のように」書き換えてしまう行為です。

こうした書き換えは、表層的には「現代の演奏者に対する可読性の向上」や「記譜法の近代化(Modernisierung)」という便宜主義的な大義名分のもとで行われることが多いです。しかし、西洋音楽理論の歴史的変遷を精緻に検証するならば、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、大文字の C と近代以降の 4/4 は、決して等価な記号ではありませんでした。算術的な音価の合計(四分音符が4つ)が同一であるからといって、これらを無批判に同一視することは、作曲家が楽譜の冒頭に託した根源的なテンポ感、音の固有の重み(キャラクター)、さらには小節を支配するタクトゥス(Tactus)の解釈を根本から歪め、忘却させる危険性を孕んでいます。

本稿は、ゴセックの『Symphonie en ut』を具体的なケーススタディとして射程に据え、管弦楽から軍楽へと改編されたプロセスに着目します。そして、フランス国内の理論書のみならず、クヴァンツ、キルンベルガー、テュルク、マッテゾンといった同時代のヨーロッパ全域における主要な音楽理論書を横断的に検証することによって、C4/4 の非等価性を歴史的・文献学的に実証いたします。そして、現代の歪んだ合理主義がもたらす無神経な記号置換の弊害を排し、歴史的演奏習慣(Performance Practice)に真に根ざした学術的校訂のあるべき姿を提示することを目的とします。


2. 先行研究の批判的検討:無批判な近代化とエセ・アカデミズムの構造

本作『Symphonie en ut』をはじめとするゴセックの吹奏楽作品を扱った先行研究、とりわけ近年のアメリカの主要な大学院において提出された博士論文(Ph.D. Dissertations)や、それに付随する校訂譜の出版報告を詳細に点検しますと、驚くべき学術的怠慢に遭遇いたします。それらの大半において、一次史料に明記されている C 記号が、校訂報告(Editorial Commentary / Critical Report)における何らの学術的弁明や注記もなしに、現代的な 4/4 へと完全に置換されているのです。

学術論文あるいは批判的校訂譜(Critical Edition)を標榜し、それを社会および学界に公表する以上、テキスト(楽譜)に一切の改変を加える際には、その理由と根拠を文献学的・歴史理論的に説明する義務(アカウンタビリティ)が校訂者に生じるのは、学問の世界における大前提です。当時の理論的背景や時代特有の演奏習慣、さらには管弦楽から軍楽への改編に伴う表記の意図を一切検討することなく、ただ「現代において一般的であるから」「現代の演奏者にとって馴染み深いから」という主観的かつ便宜主義的な理由のみで原典の記号を消し去る姿勢は、学術的アプローチとしての厳密さを決定的に欠いており、極めて脆弱な「エセ・アカデミズム」であると断じざるを得ません。このような論文を無批判に通過させた指導教授陣や審査委員会の責任もまた、同様に重いと言えます。

さらに、このような無神経な書き換えが行われる背景には、現代のデジタル楽譜制作ソフトウェア(Finale, Sibelius, Dorico等)への「思考の丸投げ」という現代特有の病理が存在することも見逃せません。これらのソフトウェアは、初期設定において4拍子系を入力する際、自動的に C または 4/4 を出力しますが、ユーザーの設定次第で一括変換が容易に行えてしまいます。校訂者が、自らの手でコンピューターが機械的に出力した画面に何の発問(クエスチョン)も持たず、原典のファクシミリと見比べることすら怠った結果が、このような「無言の改変」となって現れるのです。

仮にこれが「ソフトの技術的制約によって C の出力が困難であった」という実務的な事情に起因するものであったとしても、校訂報告においてその旨を注記することは研究者としての最低限の倫理です。それすらも怠り、無言でテキストを変改する姿勢は、単なる技術的妥協ではなく、歴史的テキストに対する致命的な「無神経」と言わざるを得ません。こうした無批判な近代化は、作曲家の意図に対する不敬であるばかりか、後世の演奏家から「当時の拍子記号が持っていた固有の言語的ニュアンス」を読み解く機会を根本から剥奪する行為に他ならないのです。次章からは、彼らが看過した拍子記号の真の歴史的意味について、各国の一次史料に基づき理論的に追究してまいります。


3. 18世紀中・後期ヨーロッパ音楽理論における拍子記号の多面性


3.1 感情(アフェクト)と風格(スタイル)のインジケーターとしての拍子記号

現代の一般的な音楽教育(楽典)において、拍子記号は「分母が1拍の基準となる音価を示し、分子が1小節内の拍数を示す」という、純粋に数学的・算術的な枠組みとして定義されます。しかし、18世紀の音楽美学および理論において、拍子記号が担っていた役割は、そのような機械的な数値管理を遥かに超越していました。当時の拍子記号は、「テンポの基本速度(固有のテンポ:Tempo giusto)」、「拍の内在的な重み(Léger / Lourd:軽い/重い)」、および楽曲が表現すべき「感情(Affect)」や「風格・キャラクター(Style)」を演奏者に一瞥で伝えるための、包括的なインジケーター(指示器)でした。

すなわち、同じ「4つの四分音符を持つ小節」であっても、どのような記号でそれが表記されているかによって、演奏者が選択すべき音のサブスタンス(実体)や、弓の圧力、打鍵のニュアンス、そして管楽器のタンギングのアタックは劇的に変化したのです。この一体性を理解せずして、古典派音楽の楽譜を正しく読み解くことは不可能です。

3.2 ドイツ圏の主要理論家による言説の諸相

この「記号の非等価性」の動かぬ証拠は、同時代のヨーロッパ全域で絶対的な権威を誇っていたドイツ圏の重要な理論書群のなかに、整然と記録されています。

J.A.マッテゾン(Johann Mattheson)
18世紀前半の音楽美学の集大成である『完全なる楽長(Der vollkommene Capellmeister)』(1739年)において、マッテゾンは拍子記号が人間の情動や楽曲の品格と密接に直結していることを説きました。彼によれば、大文字の C は伝統的な「全拍子(Total-Takt)」であり、古風な教会の厳粛さ、あるいは「真面目で重厚、かつ極めて堂々としたキャラクター」を本来的に宿しています。マッテゾンは、これらの伝統的表記が持つ感情的ニュアンスを無機質な数字や他の表記と混同することは、楽曲の持つ「風格(Style)」を根底から損なうものであると厳しく戒めています。

J.J.クヴァンツ(Johann Joachim Quantz)
フリードリヒ大王の宮廷フルート奏者であり、当時の演奏習慣の最高峰の証言者であるクヴァンツは、その著書『フルート奏法試論(Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen)』(1752年)において、拍子記号がテンポの「絶対的な基準速度」を決定する鍵であることを示しました。クヴァンツは人間の脈拍(パルス、およそ1分間に80回)を基準として、各拍子記号における音価の具体的な速度を算出する有名な理論を提示しています。そこにおいて彼は、同じ4拍子系のカテゴリーであっても、記号の選択(C や 縦線のあるC(いわゆる「アッラ・ブレーヴェ」記号)、あるいはその他の分割表記)によって、演奏者が設定すべき基本速度、ならびに舌突き(タンギング)や弓のストロークにおける「各拍の軽重」が明確に区別されるべきだと主張しています。彼にとって、記号の差異はそのまま「肉体的な運動速度と重さの差異」でした。

J.P.キルンベルガー(Johann Philipp Kirnberger)
J.S.バッハの弟子であり、音楽理論を最も厳密かつ組織的に体系化したキルンベルガーは、その不朽の著作『純正作曲の技法(Die Kunst des reinen Satzes in der Musik)』(1771–79年)の中で、本稿の核心を突く決定的な言説を残しています。彼は次のように明記しています。

「Cによって記される4/4拍子には2種類ある。…大きな4/4拍子はきわめて重厚なテンポと演奏表現を特徴としている。…Cではなしに4/4を用いらなければならない。小さな4/4拍子(註:つまり、Cと表記される拍子)はより活発なテンポをもち、その演奏表現もはるかに軽快である。そして、この拍子は16分音符を除くすべての音符の時価を受け入れ、そしてどの様式でも極めて多彩に用いられる。」

このキルンベルガーの指摘は、算術的に同一に見える小節であっても、大文字の C という表記そのものが持つ「歴史的・美学的な重み」を作曲家が意図的に利用していたことの決定的な証明です。

D.G.テュルク(Daniel Gottlob Türk)
18世紀末古典派音楽の演奏実践の集大成である『クラヴィーア教本(Klavierschule)』(1789年)において、テュルクもまたこの強固な伝統を継承・確認しています。彼は、4/4 を「力強く重い演奏表現と緩徐なテンポを特徴とする」とし、 C は「一般的で、素朴で、率直な」とし記しています。

これらの広域的な理論のコンセンサスを鑑みるならば、18世紀後半において C4/4 を代替可能なものとして扱う現代の校訂思想がいかに浅薄であり、歴史的言説を無視した暴挙であるかが浮き彫りとなります。


4. 歴史的楽譜論(Notationskunde)から見た「4/4」表記の不在性


4.1 メンスール記譜法の残影と大文字 C の真正性

なぜ、18世紀後半の作曲家たちは 4/4 ではなく、大文字の C を執拗に書き続けたのでしょうか。この問いに対して歴史的楽譜論(文献学)が出す答えは、現代のエセ・アカデミズムを根底から揺るがします。なぜなら、そもそもゴセックの時代において、数字による「4/4」という分数形式の拍子記号は、実際の楽譜(一次史料)においてほぼ存在しなかった(実用されていなかった)からです。

歴史的に見て、大文字の「C」は、中世からルネサンス期にかけてヨーロッパの音楽を支配していたメンスール(定量)記譜法における「不完全円(Tempus imperfectum)」の記号(三位一体を表す完全な円に対し、2分割・4分割系を表す半円の形)の直接的な残影、あるいはその正統な末裔です。この記号は、数世紀にわたる音楽実践の中で、ヨーロッパの音楽家たちの身体感覚に「4拍子系の基本軸」として深く刻み込まれてきました。彼らにとって C を書くことは、自らの音楽言語の母語を話すことと同義だったのです。

4.2 18世紀管弦楽楽譜における計量表記の実態

18世紀後半のフランス、あるいはヨーロッパ全土の一次史料をどれほど広汎に渉猟・点検しても、今日我々が日常的に目にするような、分数形式で縦に数字を並べた「4/4」が楽譜の冒頭に掲げられる例は極めて異例、あるいは皆無に近いです。

当時、4拍子系の計量記号として君臨していたのは、大文字の C、あるいはタクトゥスの速度が2倍(または急速)になることを示す 縦線のあるC(C barré)の2種が圧倒的多数を占めていました。フランスの器楽書法において、稀に数字の「4」のみを縦線の横に記す例は見られるものの、近代的な分数としての「4/4」は、当時の作曲家たちの表記上の語彙(システム)には事実上存在していなかったのです。

この歴史的事実は、現代の校訂者が行う「C から 4/4 への書き換え」が、単なる「表記のマイナーチェンジ」という言い訳を完全に超えた、歴史の捏造(不適切なアナクロニズム:時代錯誤)であることを意味します。存在すらしていなかった表記を、後世の人間が「同じ意味だから」と決めつけて過去のテキストに押し付ける行為は、文献学の基礎(原典尊重の原則)を根本から踏みにじるものです。ゴセックをはじめとする当時の実務的な音楽家たちにとって、自らの作品の冒頭に掲げるべき真正な記号は、大文字の C 以外には存在し得なかったのです。


5. パリ音楽院創立期におけるフランス独自の拍子・テンポ概念


5.1 ゴセックの足跡と音楽院公式メトードの思想

このヨーロッパ広域における理論と実践の潮流は、当然ながらゴセック自身が活動の拠点とし、その最高権威へと上り詰めたフランス、およびパリ音楽院(1795年創立)の周辺において、最も生々しい形で共有されていました。

ゴセックは同音楽院の創立メンバーであり、作曲科教授、そして同音楽院が国家の威信をかけて編纂した『公式ソルフェージュ・メトード』の編纂責任者を務めた人物です。すなわち、彼は当時のフランスにおける「音楽教育と言語の最高指導者」に他なりませんでした。このような人物が、自らの楽譜に表記する記号の意味に無自覚であったはずがありません。彼が用いた大文字 C の背後には、ルソーからカテルへと直系で受け継がれた、フランス独自の強固な記譜美学が存在していたのです。

なお、ここでこの『公式ソルフェージュ・メトード』の「拍子(Mesure)」の項において、大文字の C(4拍子)を基本軸として全体の体系が説明されている事実は、きわめて重要な示唆を含んでいます。これは当時のフランスにおいて、4拍子が最も一般的かつ普遍的な拍子として広く認識されていたことの顕著な証左と言えるでしょう。新しい共和国の国家的音楽機関として、あまねく市民や学生への教育を目的として設立された音楽院の背景を鑑みれば、この最も普遍的な4拍子を教科書的な中心に据えたことは、制度の合理性という観点からも十分に理解できます。

ただし、このメトードにおける「4拍子を基本とする教育的・平易なアプローチ」は、以下に詳述するルソーからカテルへと至る「テンプスとプロラツィオの残影を見出す高度な芸術思想」とは、幾分異なる位相の流れ(グラデーション)を生み出していたとも言えます。たとえ、実践的な音楽家であるカテル自身がこのメトードの共著者に名を連ねていたとしても、国家的な教育インフラが求める「大衆的なわかりやすさ」と、彼らが血肉化していた「伝統的なタクトゥスの美学」との間には、微細な、しかし決定的な次元の相違が存在していたのです。次節では、このメトードの表層的な説明の背後に潜む、フランス独自の深層的な拍子概念について掘り下げていきます。

5.2 ルソーからカテルへ至る「タクトゥスの重み」とメンスールの血流

フランスにおける音楽理論の系譜において、ジャン=ジャック・ルソーがその記念碑的著作『音楽辞典(Dictionnaire de musique)』(1768年)の「拍子(Mesure)」の項目で示した定義は、きわめて強い影響力を保持していました。ルソーは同項において、次のような極めて示唆的な言及を残しています。

「実際には、私たちの音楽には2種類の拍子しか存在しない。すなわち、2拍と3拍の等しい拍子である。しかし、各拍も各小節も、2つまたは3つの等しい部分に分けられるため、この細分化によって合計4種類の拍子が生まれる。それ以上の種類は存在しない」

このルソーの言葉は、18世紀後半のフランス音楽界において、中世・ルネサンス期にヨーロッパを支配していたメンスール記譜法の根幹である「テンプス(Tempus:小節単位の分割)」と「プロラツィオ(Prolatio:拍単位の分割)」の思考が、依然として演奏家たちの身体感覚に深く息づいていたことの明瞭な証拠です。彼らにとって4拍子系(大文字 C)とは、現代のような分数(4/4)のグリッドではなく、「2拍子がさらに2分割(プロラツィオ)された結果」として生じる、大きなタクトゥスのうねりを内包した有機的な存在だったのです。

このフランス独自の伝統は、革命期を経てパリ音楽院の公式教科書として採択されたシャルル=シモン・カテル(Charles-Simon Catel)の『和声論(Traité d’harmonie)』(1802年)の初版本において、より実践的な形で証明されます。同書の膨大な譜例を点検すると、驚くべきことに、その多くにおいて4拍子系の近代的な記号ではなく、拍子記号「」が支配的に掲げられています。

フランスの理論において、この数字の「」や大文字の C は、細切れに4つの拍を等価に刻む現代の 4/4 とは明確に一線を画すものでした。それは、1小節を大きく2つのタクトゥス(下拍と上拍)として捉え、その大きな空間のなかにフランス特有のしなやかな推進力(LégerLourd の交代)を生み出すための、いわば「大きなパルスによって支配された表記空間」だったのです。

したがって、ゴセックが『Symphonie en ut』の軍楽への改編において大文字 C を維持(あるいは選択)した意図は、ルソーが定義したメンスール的な分割の質、そしてカテルが譜例に横溢させた「大きな2拍のパルスがもたらす颯爽とした前進力」を厳格に指定するためであったと言えます。

存在すらしていなかった近代的な分数表記「4/4」へと、何の説明もなく書き換えてしまう現代のアメリカの博士論文や出版社は、これらフランス音楽界が誇るルソーからカテルへの高貴な伝統、すなわち「テンプスとプロラツィオの残影がもたらす真のパルス」を完全に消去・歪曲する、極めて野蛮な時代錯誤(アナクロニズム)であると断じざるを得ません。


6. 軍楽への改編プロセスと『Symphonie en ut』における C の実践的検証


6.1 管弦楽から軍楽(吹奏楽)への改編と Allegro maestoso の意味

先述の通り、ゴセックが宮廷や洗練されたコンサートホールのために作曲した交響曲の第1楽章を、フランス革命という国家の激動期において、屋外の大空間で数万の市民を前に演奏する「軍楽隊のための作品」へと自ら改編した事実はきわめて示唆的です。注目すべきは、この改編に際して、元の管弦楽版の冒頭に掲げられていた Allegro maestoso という速度・発想標語が、そのまま手稿へ引き継がれている点です。この表記の継承は、前述したキルンベルガーの理論と照らし合わせることで、にわかに有機的な意味を帯び始めます。

18世紀の美学において、大文字の C は現代人が陥りがちな「鈍重で遅い音楽」を意味するものではなく、むしろ「軽快さ(leichter)とスムーズな前進エネルギー」を内包する記号でした。したがって、ゴセックが指定した Allegro maestoso という言葉は、まさにこの C 記号が本来的に持つ固有の推進力、すなわち「速く、かつ軍楽としての品格と威厳を保ちながら颯爽と進む」というテンポ感を完璧に補完し合っているのです。管弦楽から弦楽器を排し、木管・金管・打楽器を中心とする軍楽編成へと移行した際、音の持続やフレーズの輪郭を明瞭にしつつ、国家の威信と革命の熱量を巨大な屋外音響空間に響かせるために、ゴセックが C の持つ「スムーズな推進力」と Allegro の持つ「速さ」の融合を必然的に選択したことは想像に難くありません。

さらにここで、前述したパリ音楽院の『公式ソルフェージュ・メトード』における「拍子(Mesure)」の項の、次の記述を見逃すわけにはいきません。

「かつては、テンポは拍子の性質に即していた。〔中略〕現代音楽では、この規則はもはや厳格に守られていない。〔中略〕そのテンポが持つべき緩やかさや速さの程度を示す修飾語に置き換えられた。」

この証言はまさに、音楽史における重大なパラダイムシフトの瞬間を鮮やかに捉えています。すなわち、当時の音楽界は「拍子記号そのものがテンポやキャラクターを決定していた時代(伝統的なメンスール概念の残影)」から、「拍子記号の役割が拍節構造の提示へと抽象化され、具体的な速度のニュアンスは AllegroMaestoso といった人間の言葉(修飾語)が担うようになった時代」への過渡期にあったと言えます。

ゴセックが自筆譜に残した C + Allegro maestoso という表記は、まさにこの転換期における最高度の知性による選択でした。彼は、ルソーから受け継がれる C 記号の「軽快な前進力」を構造的基盤として残しながらも、そこに新時代の要請である Allegro maestoso という強烈な言葉による修飾を付与することで、革命期の軍楽に相応しい「高貴な推進力」を決定づけたのです。こうした観点からも、本作の表記をめぐる問題は、単なる一つの作品の解釈にとどまらず、18世紀末の音楽言語そのものが迎えていた決定的な歴史的転換点を鮮烈に証明していると言えるでしょう。

6.2 屋外演奏および軍隊の規律におけるタクトゥスの機能

さらに実務的な観点から見れば、軍楽隊の演奏は、屋外という音の散逸しやすい環境で行われ、しばしば軍隊の行進や整列といった「身体的・集団的な規律」と直結していました。このような環境において、音楽が細分化された細かな拍節に支配され、1拍ごとに足をもつれさせるような鈍重さ(キルンベルガーの言う数字の 4/4 が持つ schwer な性質)に陥ることは、軍隊の統率という観点からも絶対に避けなければなりません。

大文字の C 記号がもたらす「軽快な前進力」は、軍楽隊が屋外で一糸乱れぬアンサンブルを維持し、かつ市民の士気を高揚させるために不可欠な「小節全体を大きく包み込む、しなやかで明確なタクトゥスのうねり(推進力)」を供給するための実用的な基盤でした。

すなわち、手稿における CAllegro maestoso は、別々に独立したバラバラの指示ではなく、「軍楽隊という強力な響きを持つアンサンブルが、C という推進力に満ちた空間のなかで、マエストーゾ(威厳をもって)颯爽と一歩一歩を踏みしめるように速く演奏する」という、互いが互いを補完し合う「不可分の一体となった音楽言語」に他なりません。ゴセックがこの改編に際して C の表記を維持したという事実は、彼が新しい共和国の軍楽に、鈍重な足取りではなく、最高度の「颯爽とした気品と規律ある前進力」を求めていたことの何よりの証明なのです。

6.3 演奏実践(Performance Practice)における近代的書き換えの弊害

しかし、件のアメリカの博士論文に代表される無神経な先行研究は、この歴史的記号と発想標識、そして軍楽という特殊なコンテキストとの緊密な結びつきを完全に看過し、何の説明もないまま楽譜の冒頭を 4/4 へと書き換えてしまいました。この安易な改変が、実際の演奏実践(Performance Practice)の現場においていかに致命的な音楽の変質(改悪)をもたらすか、彼らは全く理解していません。

キルンベルガーの指摘通り、数字による 4/4 拍子は本来、楽曲に「不適切な重々しさ(schwer)」「ゆったりとした(悪く言えば重鈍な)歩み」を強制する記号です。楽譜の冒頭に無機質な近代的数字である「4/4」が大書されているのを見た現代の演奏者は、無意識のうちに近現代的な「強・弱・中強・弱」の細分化された機械的拍節構造、あるいは均等に分割された「4つの四分音符のグリッド」に演奏を縛られてしまいます。

その結果、本来 C 記号が保証していた「軽快でスムーズな推進力」は瞬時に破壊され、拍線(Barline)ごとに細切れになった、セカセカとしていながらも足取りの重い、ただ重鈍(Lourd)なだけの平坦な演奏へと陥ることになります。ゴセックが求めた、屋外の市民を圧倒する軍楽の響きは、手稿に遺された C という記号と Allegro maestoso という言葉が放つ、歴史的・理論的コンテキストを正しく融解させて初めて達成されるものです。記号を 4/4 へと書き換えるという行為は、単にインクの形を変えることではなく、音楽の血流(パルス)そのものを止め、作品から「革命の颯爽たる推進力」を剥奪し、不適切に重鈍化させてしまう、極めて罪深い行為なのです。


7. 結論:真の学術的校訂が目指すべき地平

本稿が多角的な視座から実証しました通り、18世紀後半から19世紀初頭における拍子記号 C と、近現代の 4/4 拍子は、音楽理論的にも、文献学的(歴史的楽譜論)にも、構成される美学的観点からも、決して等価ではありません。

マッテゾン、クヴァンツ、テュルク、そして「C は軽快であり、4/4 は重厚である」と明言したキルンベルガーらが遺した厳然たる言説、当時の一次史料における「4/4」という分数表記の歴史的不存在という動かぬ事実、ゴセック自身がその中心にいたパリ音楽院周辺の生きたフランス理論(ルソーからカテルへ至る)、そして「管弦楽から軍楽への自筆改編」という作品固有の歴史。これらすべての証拠が、大文字 C の持つ真正性と、「推進力を伴う軽快な4拍子」としての非代替性を雄弁に物語っています。

これらを「現代と同じ意味だから」と短絡的に決めつけ、何の説明も注記もなしに書き換えて平然としている先行研究(アメリカの博士論文等)の姿勢は、過去の歴史的遺産に対する敬意と想像力を決定的に欠いた、極めて脆弱な「エセ・アカデミズム」であり、強く批判されるべき学術的怠慢です。彼らの書き換えは、ゴセックの音楽に不適切な重鈍さを押し付け、その鮮やかな前進力をマヒさせているのです。

楽譜の校訂とは、過去の遺産をただ現代の都合や、コンピューターソフトウェアの利便性に合わせて安易に翻訳・改変することではありません。一次史料(手稿)の一文字、一記号にまで徹底的にこだわり、その作品が鳴り響いた激動の時代背景や美学思想と突き合わせることで、作曲家がその表記を選び取った「真の意図」をあぶり出し、演奏家に届けることこそが、真のアカデミズムの使命です。

フランソワ=ジョセフ・ゴセックの『Symphonie en ut』が持つ本来の威厳と、Allegro maestoso という言葉に託された、新共和国の軍楽隊が鳴り響かせた颯爽と高貴な響きを正しく現代に蘇らせるために、私たちは表層的な近代化の罠(無神経さの構造)を厳しく排し、楽譜の背後に横たわる歴史的真実に対して、どこまでも誠実かつ峻厳であり続けなければなりません。


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2025年

(2025年12月19日)
ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって』を更新しました。こちらからどうぞ。


(2025年12月15日)
2023年にイタリアの「第7回国際行進曲作曲コンクール “Città di Allumiere”」コンサート・マーチ部門で「第一位」を受賞、併せて「ロッサーノ・カルディナーリ・トロフィ」(総合一位)を獲得した『シャイニング・ソウル 3』が、サン・パオロ・ダルゴーン市立音楽隊(イタリア・ロンバルディア州ベルガモ県)により演奏されます。

日時:2025年12月23日(火) 20時45分(現地時間)開演
会場:Pala LVF


(2025年11月19日)
my works“および”about me“ページを更新しました。


(2025年11月7日)
広島ウインドオーケストラ様委嘱による編曲作品(3作)が、11月6日に初演されました。
 ●スタジオジブリ・コレクション
  1. 空から降ってきた少女(『天空の城ラピュタ』より)
  2. ハトと少年(『天空の城ラピュタ』より)
  3. 海の見える街(『魔女の宅急便』より)
  4. もののけ姫(『もののけ姫』より)
  5. となりのトトロ(『となりのトトロ』より)
 ●私のお気に入り(『サウンド・オブ・ミュージック』より)
 ●吹奏楽のための第一組曲(G.ホルスト作曲)
※『スタジオジブリ・コレクション』と『私のお気に入り』は、11月9日開催の「江田島市ふれあいコンサート」でも演奏される予定です。


(2025年10月6日)
本年3月15日(土)博多ウインドオーケストラ様の「第30回記念定期演奏会」において初演された『シンフォニエッタ・ロザリウム』の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから販売開始されました。



(2025年8月10日)
本日発売の『バンドジャーナル』誌 9月号(音楽之友社刊)に、去る6月28日に広島市・アステールプラザで開催された「広島ウインドオーケストラ 第63回定期演奏会」のレビューを寄稿しています。
本演奏会は、「平和の喜び ー 戦後80周年記念」というテーマで開催されました。俊英、大井駿氏が初登壇、『ラプソディ・イン・ブルー』ではピアノソロも担当し大きな話題となりました。

演奏会のプログラムより

(2025年7月9日)
2003年作曲(2006年改訂)のトロンボーン四重奏曲『カーネヴァル』の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから販売開始されました。


(2025年5月29日)
2006年作曲(福岡市立西福岡中学校吹奏楽部委嘱)の『ビヨンド・ザ・ホライズン 〜ノヴェレッテ第2番』の楽譜がイタリアのスコメーニャ音楽出版(Scomegna Edizioni Musicali s.r.l.)さまから販売開始されました。

ビデオ・スコアも公開されました。


(2025年5月26日)
コンサート・マーチアライズ・マイ・ミューズ !!吹奏楽版の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから販売開始されました。

2011年に発表(2019年 ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまより出版)したブラスバンド用の作品を大編成吹奏楽(ウインドオーケストラ)向けに改編したものです。


(2025年5月8日)
広島ウインドオーケストラ初の台湾公演において『Toward the Blue』が演奏されます。2022年8月に下野竜也氏の指揮で同オーケストラにより初演された作品です。

日時|2025年6月6日(金)19:30〜21:30
会場|桃園展演中心 大ホール

公演の詳細については以下をご覧ください。
(「もっと見る」をクリックするとご覧になれます。)

※初演時の動画が本ページの下部にございます。


(2025年4月7日)
フランスの Association Française pour l’Essor des Ensembles à Vent(AFEEV)が今月のニュースレターに、5月11日の九州管楽合奏団の演奏会、そしてゴセックの『古典序曲/Symphonie en ut』に関する私の研究について記事を掲載してくださいました。
寄稿者は今回の研究でお世話になったパトリック・ぺロネ博士です。
関係各位に心から感謝申し上げます。

記事はこちらからどうぞ。


(2025年4月3日)
ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって』を更新しました。こちらからどうぞ。


(2025年3月24日)
my worksページを一部更新しました。


(2025年3月24日)
2010年に鶴崎吹奏楽団(大分県)の結成20周年記念作品として作曲した『夏宴 〜鶴崎踊によるラプソディ』の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから販売開始されました。
1560年頃に始まったとされる大分県の「鶴崎踊」(国選択無形民俗文化財)の音楽、「猿丸大夫」と「左衛門」をベースにした作品です。
今回出版されたのは2024年に改訂されたヴァージョンです。


(2025年3月18日)
2025年5月17日(土)、山口市で開催される「Trio Concert」において拙作『ソナタ・メカニカ 〜独奏ユーフォニアムのための』が、広島ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者としてもご活躍中の中村大也さんにより演奏されます。


(2025年3月16日)
3月15日(土)博多ウインドオーケストラ様の「第30回記念定期演奏会」において初演された『シンフォニエッタ・ロザリウム』の音源(MIDI)とスコアを公開しました。


(2025年3月14日)
2025年5月11日(日)開催の「九州管楽合奏団 演奏会2025」において演奏されるF. J. ゴセック作曲『古典序曲』、楽団からの依頼により監修者として新たな校訂譜を提供しています。校訂譜およびプログラム・ノートの作成にあたり収集した史料や文献、取材内容に基づき執筆した『ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって』を(一部)公開しました。
こちらからどうぞ。


(2025年2月10日)
2月9日(日)大分県庁職員吹奏楽団様の「定期演奏会 2025」において初演された『BE HAPPY !』の音源(MIDI)とスコアを公開しました。
楽譜についてのお問い合わせはこちらまで。

唱歌『故郷を離るる歌』をめぐって

(2026年1月14日公開/2月24日更新)

大分県庁職員吹奏楽団さまからの依頼で2026年1月、唱歌『故郷を離るる歌』を独唱と吹奏楽のために編曲しました。毎年2月に開催する「定期演奏会」では大分に所縁のある人物、あるいは音楽や物語に焦点を当てた選曲をなさっており、2024年には滝廉太郎作曲『荒城の月』を、廉太郎が作曲した際の「オリジナル」版と、後に山田耕筰が編曲した(現在一般的に広まっている)ものの両方を取り入れた吹奏楽編曲をする機会をいただきました(参照)。

故郷を離るる歌』は、吉丸一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 – 1916年(大正5年)3月7日)がドイツ民謡に日本語の歌詞を添えたものが愛唱されてきました。吉丸は大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。東京音楽学校(現・東京芸術大学)で倫理、歌文、国語の教授を務めるなどした作詞家、文学者です。代表作は『早春賦』(中田章作曲)など。


今回の編曲の「発案者」である酒井宏さん(大分県庁職員吹奏楽団指揮者・サクソフォーン奏者/「荒城の月」編曲の発案者でもある)の構想は、「元歌(ドイツ語)と吉丸の歌詞の両方を取り入れたもの」。打ち合わせでは、楽曲に対する情報や酒井さんの想いだけではなく、吉丸の研究者である故吉田稔氏 (郷土史家・臼杵音楽連盟会長)の話なども伺うことができましたが、ここで大きな話題となったのが、「元歌」の存在が不明である点です。「これをどうにかクリアにしたい」という点で一致しました。

ここから『故郷を離るる歌』を巡る旅が始まるのです(その結果、編曲作業に時間がかかってしまうのですが…)。


①吉丸一昌作歌『故郷を離るる歌

吉丸が作歌した『故郷を離るる歌』が、『新作唱歌 第五集』(1913年(大正2年)7月22日発行)に掲載されたのち愛唱されるようになったことは広く認識されています。今でこそ、いくつもの編曲楽譜が出回っていますが、それらを集めて今回の「素材」にすることは創作者としてあるべき姿勢ではないと思っています。やはり、最初がどのような形であったかを探ることが大切。この点でも酒井さんとは考えが一致しています。

「最初の姿」を探すことは決して難しい仕事ではありませんでした。以下に掲げた史料はどれも、「国立国会図書館」の電子アーカイヴから容易に入手することができました。いずれも無償でダウンロードできます(パブリックドメインのため)。

『新作唱歌 第五集』より

『新作唱歌 第五集』では、「変ホ長調」で、「合唱曲」(伴奏譜なし)として発表されていたことがわかります。歌詞(右ページ)の最後にはは、「大正二、六、十九、土曜演奏會の爲めに」と記されています。おそらく、大正2年6月19日に歌詞(あるいは訳詞)を完成したという意味でしょう。
なお、この合唱編曲を誰が担ったのかは不明ですが、『望郷の歌 吉丸一昌』(吉田稔著/昭和63年8月・臼杵音楽連盟)によると、『新作唱歌』(全十集)は「すべて吉丸一昌作歌で作曲は東京音楽学校卒の若手を起用した」とのことですのです。そして、当時音楽学校の作曲教授であった島崎赤太郎による「厳密なる校閲を経たるもの」であるとのこと。

『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』より

『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』によると、1913年(大正2年)7月5日(吉田は『望郷の歌 吉丸一昌』で当該演奏会を6月19日と記していますが、ここでは『東京芸術大学百年史』に従います。)に合唱曲として披露されています。『新作唱歌 第五集』の発行日の直前です。「演奏會の爲に」とは記されているものの、『新作唱歌 第五集』への掲載を前提に作られていたのは確かでしょう(音楽学校での演奏において「伴奏」がついていたのかは不明)。

 その後、1920年(大正9年)には『新案小学唱歌帖 尋常科第六学年』に、「ニ長調」、「二部合唱」のものが掲載されたようですし、1940年(昭和15年)には東京府師範学校聯合が編纂した『標準歌曲』(蛍雪書院)に、「変ホ長調」で伴奏付きの「三部合唱」として掲載されています。

『標準歌曲』(1940年)より

なお、作品のタイトルは「こきょう」と読みます(上掲の『新作唱歌 第五集』の画像を参照ください)。


②原曲を探る

「Wikipedia」では、

ドイツ語原詞は、ドイツ民謡「Der letzte Abend」(最後の夜)または「Abschied」(別れ)と題する(曲を)原曲としたと伝えられている。

と解説されていますし、『故郷を離るる歌』について記された日本国内のウェブサイトもはほぼそのように記されています。

歌詞は以下のとおりです(一番のみ)

Wenn ich an den letzten Abend gedenk,
Als ich Abschied von dir nahm!
Wenn ich an den letzten Abend gedenk,
Als ich Abschied von dir nahm!
Ach, der Mond, der schien so hell,
Ich mußt scheiden von dir,
Doch mein Herz bleibt stets bei dir,
     Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
     Feinsliebchen lebe wohl!
     Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
     Feinsliebchen lebe wohl!

ドイツ中南部のフランケン地方の民謡ともされているが、原民謡はよく知られていない。

ともされていますが、やはり探ってみようという思いに駆られます。

というのも、果たして吉丸がこの歌詞の内容を「唱歌」とするに相応しいと考えたのだろうか、という疑問が湧いてきたからです。

現在日本で「原曲」(または「元歌」)とされている歌詞の翻訳はおおむね以下のとおりです。

昨晩のことを思い出すと、
君に別れを告げたあの夜を!
昨晩のことを思い出すと、
君に別れを告げたあの夜を!
ああ、月はとても明るく輝いていた、
私はあなたと別れる必要があった、
しかし、私の心はいつもあなたとともにいる、
さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、
愛しい人よ、さようなら!
さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、
愛しい人よ、さようなら!

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

「別れの歌」ではありますが、「失恋」を思わせる内容であり、個人的には「唱歌」の素材と断言するには少々無理があるような気がします。

「この点をある程度クリアにしなと編曲の方向性が定まらない…」と思い、締め切りが迫る中、引き続き「元歌」についての調査を進めます。


まずはDer letzte Abend」(最後の夜)Abschied」(別れ)という言葉でウェブ検索してみますが、「これだ!」というものはヒットしません。しかし、歌詞の一部(例えば、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk,」や「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で試みたところ、いくつかの興味深いサイトに辿り着くことができました。

その一つが、「Volksliederarchiv」です。

『Volksliederarchiv』のトップページ

「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で検索した際にヒットしたのが、以下の曲でした。

調性は違いますし、メロディに少し違いが見られますが、『故郷を離るる歌』と同じものとみてよいでしょう。
(吉丸らが編纂に際し手を加えたものと推測されますが、今回はそれについて検討はしません。)

この曲(楽譜)については以下のような説明がついています。

作詞・作曲:作者不詳
ドイツ歌曲集(1856年、第101番「最後の夜」)および歌曲集II(1893年、第555番)
ヴォルフガング・シュタイニッツ著『民主的な性格を持つドイツ民謡』第64番

ベルクシュトラーセ、ライン川流域、シレジア、フランケン、テューリンゲン、オーデンヴァルトで口伝で広く伝承されている。同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen(私はたくさんの涙を流した)」が歌われている。

しかし、これで「万事解決」とはいきません。このメロディに関連する楽曲がいくつか紹介されているのです。「民謡」ですから、当然「異版」のようなものが存在していてもおかしくはない(もっとも、本来「楽譜」などが存在するはずもないのでしょうが…)。「同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen」が歌われている。」という記述も気になるところです。

関連楽曲

その『Tränen hab ich viele viele vergossen』もサイトで紹介されていました。

調性は違うものの、確かにメロディは「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」という歌詞のものと同じです。この『Tränen hab ich viele viele vergossen』は、

作詞:ホフマン・フォン・ファラーズレーベン(1842年)
⾳楽:作曲者不明: 「Wenn ich an den letzten Abend gedenk(最後の夜を思い出すとき)」のメロディー(ホフマン・フォン・ファラーズレーベンによると、シレジアの⺠謡)

と説明されています。そして、

『Hundert Schullieder(100の学校唱歌)』(1848年、第3号)より ‒ ⼦供たちの視点から⾒た移⺠の歌。ここでは、ホフマン・フォン・ファラーズレーベンが11 歳から13 歳の⼦供たちのために書いたもの。

とも記されています。ここで重要なのが、「11 歳から13 歳の⼦供たちのために」書かれた、という点です。

ホフマン・フォン・ファラーズレーベンによる歌詞を翻訳すると以下のようになります。

私はたくさんの涙を流した
ここから離れなければならないから
でも、親愛なる⽗がそう決めた
故郷を離れるんだって
故郷よ、今⽇、私たちは旅⽴つ
今⽇、永遠に旅⽴つ
だから、さようなら、さようなら、さようなら
だから、さようなら、さようなら、さようなら
だから、さようなら、さようなら

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

上述のように「移民の歌」であり、それこそ、「故郷を離るる」歌と言えるような気がします。

直感ではあるのですが、吉丸一昌がこの『Tränen hab ich viele viele vergossen』を基に「作歌」したのではないか

吉丸の著書に『新撰作歌法』(大正2年10月5日発行 敬文館)というものがあります。その緒言(しかも最初に)で吉丸はこう書いているのです。

一、本書は著者が年來作歌教授に用ひ來れる教案を以て、中等學校の教科用に編成したるものなり。書中に戀愛の歌を引用せざるは之が爲なり。

吉丸らが「恋愛の歌」を参照したと考えにくいポイントはこんなところにあると言ってもいいでしょう。


(2026年2月24日 追記)
また、酒井宏さんの研究によると、「新作唱歌 第三集」の緒言で吉丸は、

本書所載の外国曲は、極めて邦人の趣味に合える名曲のみを取り、歌詞も出来うる限り原歌曲の意を酌んで、しかも我国語の音調を損ぜざれん事に力(つと)めたり

と記しているとのこと。
吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)を参照したと考えるに十分な根拠となり得ると思います。


もう一点あります。

最初の楽節(4小節)は繰り返されるのですが、今日原曲とされている「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」は歌詞もそのまま繰り返されます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』や吉丸は、楽節が繰り返される際に歌詞を変えています。もちろん吉丸が「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」を基にしていたとしても(楽節が繰り返される際に)歌詞を変えた可能性はあるのでしょうが…。

Tränen hab ich viele viele vergossenの「二部合唱」譜(一部)

なお、両曲とも「二部合唱」になった楽譜も残っていますので、合唱編曲の参考にしたことも十分に考えられます。
(「Volksliederarchiv」内で確認できます。)


ここまでの調査結果を酒井さんに報告したところ、「吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』をベースにしたことは十分に考えられますね。」と返信をいただいたことから、私の中で編曲の方向性はほぼ定まりました。


ただ、「元歌」をただひとつの楽譜に断定していいのか…。

実は断定しにくいポイントがあります。

今一度、『新作唱歌 第五集』に掲載された楽譜を見てみましょう。
楽譜の最初に、「Mässig」と記されています。現在では「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」を意味する発想標語として用いられています。
この語が用いられているということは、吉丸らが参照した楽譜にも用いられていたのではないか、と考えることができます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の冒頭に付されている発想標語は「Wehmütig」。「もの悲しい」、「物憂げに」、「悲しげに」を意味します。一方、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜には「Sehr mässig」(とても穏やかに)と記されており、こちらの方がむしろ『故郷を離るる歌』に近い標記です。

もし、吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』のみを参照していたのなら、標語を「Mässig」にした意図は何だったのか、という疑問は残ります。

Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の右上には「Volksweise(民謡):Wenn ich an den letzten Abend gedenk」と記されていますので、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜も参照した可能性はゼロではないと思います。

ちなみに、『新作唱歌』を校閲した島崎はドイツ留学の経験がありますので(1902〜1906年)、多くの楽譜を持ち帰り、それらの中にこうした民謡を収めた曲集も多数あったのではないかと推測できますし、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」、『Tränen hab ich viele viele vergossen』双方が吉丸らの手許にあったと考えることは可能でしょう。


あくまでも個人的な解釈なのですが、いくつもの『故郷を離るる歌』を聴くにつけ、内容と「テンポ感」とが合っていないように感じられるのです。ストレートに言えば、「少々速いのではないか」、ということです。これは、その後多くの楽譜に付されている「Moderato」という標語によるものと思われるのですが、既述の『標準歌曲』で既に用いられています。おそらく「Mässigmäßig)」を「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」と解釈しイタリア語表記に変えたのだろうと思われます。

私自身は『Tränen hab ich viele viele vergossen』に込められた「Wehmütig」の気分が不可欠なように思っています。ですから、個人的には「Wehmütig」の気分を持った「適度な」速さ、つまり、やや緩やかなテンポの方が良いと思っています。

「適度」や「ほどよさ」というものは曲の性格によって違うもの、私は「Mässig」が特定の、あるいは一定範囲の「テンポ」を規定した標語ではない、と思いたいのです(「Moderato」や「Allegro」といったイタリア語も語源を辿ればテンポを規定する用語でないことはご存知のとおりです)。もちろん、曲の持つ「気分」がテンポに与える影響は大きいのですが、例えば、「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」という意味で「Mässig」を使ったとき、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」のように「Sehr」が付くと、「非常に適度に」や「とてもほどよい中くらいの速さ」と、少々訳がわからなくなってしまいます。ここでの「Mässig」は「節度を持って」、「穏やかに」と解すことができると個人的にはと考えます。そう解すれば、「Sehr」がついても、「非常に節度を持って」や「とても穏やかに」となります。

Mässig」は「bewegt」や 「geschwind」、 「langsam」などの言葉を伴うことで「適度な」や「ほどよく」という意味を持つように感じるのですが、その辺りはドイツ語の専門家に尋ねてみる必要がありそうです。


以上のような背景から、編曲の方向性はある程度定まったもののまだまだスッキリしない状態でしたが、以下のサイトにたどり着いたことでようやく光が見えてきたのです。

二木紘三のうた物語

2007年9月4日(2022年1月20日改稿)付の記事で二木さまが『故郷を離るる歌』の「原典」を探っておられます。
(この記事、何とWikipediaの脚注に置かれていたのです。もっと早く気づくべきでした…)
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_d5d3.html

さらに、この二木さまの記事を通して次のブログを知ることになります。

唱歌深層 尋常小学唱歌『歌詞評釈』から分かる「故郷」「朧月夜」のホント

ここでは、崎山輝一郎さまが「《故郷を離るる歌》原曲/元歌を探索する」という記事を書いておられます(2020年3月31日から4月7日)。
http://blog.livedoor.jp/kiichirou_sakiyama/archives/cat_1274947.html

ここでは、「Der letzte Abend =元歌」がなぜ通説となったのか、その経緯について詳細に調査・考察されている点が特に目を惹きます。

これら『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が元歌であるとする記事に出会ったことで、私は、自身の当初の読み、疑問が決して見当違いのもではなかったことに安堵しました。
(とは言え、私は、「Der letzte Abend」も参照されていた可能性があることを否定するわけではありません。)


それにしても、『故郷を離るる歌』にも「異版」(作曲:メンデルスゾーン/原詩:ハイネ)があったことは新鮮な驚きです(崎山さまの記事参照)。『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』を読み返すと、確かに、ここで検討したものの5か月前、大正2年2月8日の土曜演奏会で演奏されています。

メンデルスゾーンによる「元歌」は以下のようなものです。

そして、ハイネによる詞です。

私と一緒に逃げ出して、私の妻になってください。
そして、私の胸の中で休んでください。
遠い異国で、私の心が
あなたの祖国であり、実家であるように。

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

吉丸がどのような歌詞を付けたのかは、上記崎山さまのサイトを参照ください。

ちなみに、メンデルスゾーンの歌曲等の作詞者には、ハイネやゲーテのほか、ホフマン・フォン・ファラーズレーベンも名を連ねています。こんなところにも『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が元歌であるのではないか、と考えるヒントがあるようにも思われます。


しかしながら、作編曲に携わる者としての最大の疑問は、崎山さまも最後に言及されているように、メロディの音が一部変えられている点。いずれ調査・研究してみようと考えています。


(2026年2月4日 追記)
本記事をX(旧ツイッター)で紹介していましたところ、アカウント名「唱歌深層」さまから、以下のブログを紹介していただきました。

言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密
https://ameblo.jp/kotoyo-sakiyama/entry-12579528539.html

このブログの第151話から第158話に、『故郷を離るる歌』の元歌に関する考察が詳細に記されています。ぜひお読みいただきたいと思います。
(改めて、酒井さんや私の考察が見当違いのものでなかったことに安堵しました。)
ここでは、上記の二木さまのブログが、崎山輝一郎さまの指摘により書き換えられていたことも分かります。


なお、YouTubeには、「ついに登場、「故郷を離るる歌」 の忘れ去られた原曲、ドイツ歌姫によるドイツ語版 Der letzte Abend (Untertitel)/The Last Evening (subtitles)」という動画が挙げられていますが、これは、吉丸らが発表した楽譜に「Der letzte Abend」の歌詞を乗せたものです。元の民謡から音が一部変更されていることを全く無視したものであり(おそらくご存じなかったのでしょう)、これを「原曲」として発表することには無理がある、ということを指摘しておきます。


さて、独唱と吹奏楽のための編曲、前奏(私自身の創作)に続き『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が歌われます(一番のみ/もちろんドイツ語で)。間奏(前奏に基づく)を挟み吉丸作歌の『故郷を離るる歌』(これも一番のみですが…)が歌われる、という構成です。いくつかの声部が歌を装飾しますが、和声は基本的に吉丸らの歌に従っており、複雑な和音は間奏部を除き一切使っていません。
そして、楽譜の冒頭にはあえて「Mässig(mäßig)」と記しました。「節度を持って」、「穏やかに」という意味で用いています。

2026年2月22日(日)、「大分県庁職員吹奏楽団 定期演奏会 2026」で幾嶋明日香さんの独唱により演奏されました。


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九州管楽合奏団・「ミュージカル・コンサート」のための編曲


公演:M=ミュージカル・ミーツ・ウインドオーケストラ
公演:N=なみき芸術祭「九州管楽合奏団ミュージカル・コンサート」


■2025年
 メモリー(「キャッツ」より)
  公演:M 2025年(熊本)
 シーズンズ・オブ・ラブ(「レント」より)
  公演:M 2025年(福岡/熊本)
 ドリーム・ガールズ(「ドリーム・ガールズ」より)
  公演:M 2025年(福岡)
 スターズ(「レ・ミゼラブル」より)
  公演:M 2025年(鳥栖)
 ワン・デイ・モア(「レ・ミゼラブル」より)
  公演:M 2025年(鳥栖)
 命をあげよう(「ミス・サイゴン」より)
  公演:M 2025年(鳥栖)
 世界が終わる夜のように(「ミス・サイゴン」より)
  公演:M 2025年(鳥栖/福岡/熊本)
 ディス・イズ・ミー(「ザ・グレイティスト・ショーマン」より)
  公演:M 2025年(鳥栖)
 フレンド・ライク・ミー(「アラジン」より)
  公演:M 2025年(鳥栖)


■2024年
 美女と野獣(「美女と野獣」より)
  公演:N 2024年/M 2025年(鳥栖/福岡)
 踊り明かそう(「マイ・フェア・レディ」より)
  公演:N 2024年/M 2025年(鳥栖)


■2023年
 僕こそ音楽(「モーツァルト!」より)
  公演:M 2023年(北九州)/M 2024年(福岡)
     M 2025年(福岡/熊本)
 星から降る金(「モーツァルト!」より)
  公演:M 2023年(北九州)/M 2024年(福岡)
     M 2025年(福岡/熊本)
 バルコニー(「ロミオとジュリエット」より)
  公演:M 2023年(北九州)/M 2024年(福岡)
 私が踊るとき(「エリザベート」より)
  公演:M 2023年(北九州)/ M2024年(福岡)


■2022年
 シンク・オブ・ミー(「オペラ座の怪人」より)
  公演:M 2022年(宗像)/M 2023年(北九州)
     M 2024年(福岡)/M 2025年(福岡/熊本)
 オペラ座の怪人(「オペラ座の怪人」より)
  公演:M 2022年(宗像)/M 2023年(北九州)
     M 2024年(福岡)/M 2025年(福岡/熊本)
 ミュージック・オブ・ザ・ナイト(「オペラ座の怪人」より)
  公演:M 2022年(宗像)/M 2023年(北九州)
     M 2024年(福岡)/M 2025年(福岡/熊本)
 私だけに(「エリザベート」より)
  公演:M 2022年(宗像)/M 2025年(福岡)
 闇が広がる(「エリザベート」より)
  公演:M 2022年(宗像)/M 2025年(福岡/熊本)
 ホール・ニュー・ワールド(「アラジン」より)
  公演:M 2022年(宗像)/N 2024年/M2025年(鳥栖)


■2021年
 サークル・オブ・ライフ(「ライオン・キング」より)
  公演:M 2021年(宗像)/N 2022年/M 2022年(宗像)
     M 2023年(北九州)/M 2024年(福岡)
     M 2025年(福岡/熊本)
 早く王様になりたい(「ライオン・キング」より)
  公演:M 2021年(宗像)/N 2022年
 お前の中に生きている(「ライオン・キング」より)
  公演:M 2021年(宗像)
 愛を感じて(「ライオン・キング」より)
  公演:M 2021年(宗像)
 ハクナ・マタタ(「ライオン・キング」より)
  公演:M 2021年(宗像)/N 2022年/M 2022年(宗像)
     M 2023年(北九州)/M 2024年(福岡)
     M 2025年(福岡/熊本)


← 【arrangement & transcription】


ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

参照楽譜を概観する


校訂譜は既述の手稿(スコア、パート譜)やピアノ・リダクション版などを参照し制作されました。まずは、それぞれについて概観してみます。


(1) スコア(手稿)

図8
スコア(手稿)の1ページ目

○写譜者:C. Bailly(推定/Gallicaによる)
ペロネ博士は「この帰属には甚だ疑問がある。」と述べています。なお、Baillyに関する情報はほとんどありません。

○ピエールは、1794年8月10日の演奏以降に作られたものと推定しています。
図4にある楽器編成で作曲しその後、「国民祭典」のために新たな楽器を加えた、と考える理由はここにあります。ただし、図4にある楽器編成によるスコアの存在は確認できません。

○タイトルは『Grande Simphonie en ut Du Citoyen Gossec』と表記されています。

○楽器は以下の順に配列されています。
 (楽器の表記は現代の表記に合わせました。)

  トランペット 1°&2° ハ調
  ホルン1°&2° ハ調
  クラリネット1° ハ調
  クラリネット 2° ハ調
  オーボエ 1°
  オーボエ 2°
  ピッコロ 1°
  ピッコロ 2°
  トロンボーン 1° (※ アルト譜表)
  トロンボーン 2° (※ テノール譜表)
  トロンボーン 3°
  ブッチーナ(2パート)
  テューバ・クルヴァ (2パート)ハ調
  ファゴット
  セルパン
  ティンパニ

○ピッコロの採用は、純粋に実用的な理由や物理的な制約だけによるものではなかったと推測されます。音量の明らかな物理的限界はさておき、貴族的なイメージを連想させるという理由でヴァイオリンが軍楽隊から排除されたのと同様に、戦場や庶民を連想させるピッコロは、宮廷風のフルートよりも、革命の民主的な精神に合致していると見なされたと言えるでしょう。ピッコロは、中世以来歩兵部隊の象徴として用いられてきたファイフ(素朴な横笛)の系譜を継ぐ楽器として認識されていたようです。とはいえ、フルートが完全に疎外されていたわけではない。その証拠に、フルートの名手としても知られたフランソワ・デヴィエンヌの軍楽作品には、フルートが採用されています。

○「テューバ」という呼称は、ゴセックが1791年に作曲した作品で「復活」したようです(註19)。

○セルパンは低音域の補強が目的であると考えられます。ゴセックの他の軍楽作品の自筆譜を見ると、セルパンはバスーンと同じ段に書かれている(つまり、ほぼ同じ動きをする)ケースが多いのですが、この『Symphonie en ut』場合それぞれの楽器が独立した動きを求められる場面もありますので段を分けて記譜されているのでしょう。

○スコアには数箇所記譜の誤りが認められますが、そのうちの1箇所に誤りを指摘する書き込みがあります。写譜者であるC. Baillyによるものか、あるいは別の者によるものかは不明です(後年、研究者等によって書き込まれた可能性もあります)。事後にスコアを整理するということは、再演や出版の可能性があったということかもしれませんが、これまで収集した史料等からはそうした事実は確認できません。


(2) パート譜(手稿)

○現在確認できるパート譜は以下の通りです

  ピッコロ 1° 2部
  ピッコロ 2° 2部
  オーボエ 1°(クラリネット 3°)1部
  オーボエ 2°(クラリネット 4°)1部
  クラリネット(ハ調) 1° 6部
  クラリネット(ハ調) 2° 6部
  ホルン 1° 2部
  ホルン 2° 2部
  バスーン 6部

図4と同様のメモがもう1部添付されているのですが、そこには「Total 28 Part」と記されていることから、現存するパート譜が「オリジナル」の編成であったと推測できます。(図9)。

図9

○これらのパート譜を、ピエールはオペラ座の写譜家ジャン=バティスト=フランソワ=オーギュスタン・ルフェーブル Jean-Baptiste-François-Augustin Lefèvre(1738-1814)の手によるもの、と記していますし、Gallicaもそのように説明していますが、ペロネ博士は、「間違いなく誤りである。副楽長のジャン=グザヴィエ・ルフェーブルに間違いない」と強調します。そして、「楽長は指揮だけでなく、リハーサル、レパートリーとパート譜の制作及び維持管理に責任を持つのだが、楽長ゴセックが年齢的な理由(1794年、彼は60歳)で指揮することを控えていたことからも、副楽長のルフェーブルが写譜(パート譜の制作)を担当したことはまったく論理的であり、普通のことである」と述べます。しかし、筆致の違いが認められること、タイトルの表記が4通り(『Simphonie』『Symphonie』『Symphonie du Citoyen Gossec』『Symphonia』)あることなどから、実際には複数人の手によるものとも考えられます(図10)(註20)。

図10

そして、各パート譜には最初のページに楽器別の整理(管理)番号のようなものが書かれているのですが、例えば、クラリネット 1°にはNo.8、ホルン 1°にはNo.3 、バスーンにはNo.9というように、現存する部数よりも大きな数字が付されているものがあるのです(図11)。8月10日の祭典に際し多くのパート譜が追加で作成されたと推測されるのですが、パート譜を整理、管理する過程で、「オリジナル」と「追加分」が混在することになったと考えることはできるでしょう。

図11

○ピエールの著書『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』が書かれた時期(註5参照)には以下のようなパート譜の存在も確認されていました。
(何らかの事情で紛失したものと考えられます。)

  セルパン 4部
  コントラバス(弦) 6部
  ブッチーナまたはテューバ・クルヴァ 部数不明
  トロンボーン 3部

これらの楽器と(やはり紛失したと思われる)トランペット、ティンパニのパート譜は、ここまでの考察から、8月10日の祭典に際し書き加えられたのではないかと思われます。
セルパン、コントラバス(弦)、トロンボーンの部数は、「オリジナル」の編成に対応した数と考えられますが、これらのパートも祭典の際にはもっと多くの部数が作られていたと思われます。
コントラバス(弦)はセルパン同様低音域の補強を目的としています。上述のスコアには含まれていないのですが、例えば、1793年作曲の『Symphonie militaire [RH 62]』にも「SERPENT ou CONTRE=BASSE」というパート譜(図12)(註21)が作られているように、ゴセックの軍楽隊ではコントラバス(弦)を使用することは普通であったようです。ですから、この『Symphonie en ut』の場合も、パート譜自体は分けられてはいるものの、セルパンと同じ役割を求められたと思われます。

図12
Symphonie militaire (RH 62)』のパート譜

トロンボーンの使用は内声部の充実を図るものと考えられます。まだヴァルブが発明されていない時代、トランペットとホルンは演奏できる音が限られます(主にトニックとドミナント)ので、機動性に優るトロンボーンの使用は必然とも言っていいでしょう。また、もともと教会の楽器であったトロンボーンやセルパンの使用は、フランス革命期における非キリスト教化運動の活発化に伴い、「音楽の解放」を示すひとつの象徴と見なすこともできます。


(3) ピアノ・リダクション版

○記述の通り、コンスタン・ピエール著Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』に掲載されています(図13)。このリダクションを誰が担ったのかはピエールの著書からは分からないのですが、作曲家でもあったピエールを含め音楽院の関係者の手によるものと考えられます。

図13
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』より

○このリダクションは、上記のスコアおよびパート譜を基に作られたと思われますが、それらと異なる点がいくつかあります。最も大きな違いは、前打音の記譜です。スコアおよびパート譜では小さな八分音符で記されている(解決音である四分音符を装飾している)前打音がこのリダクションでは全て通常の八分音符で記されています(四分音符を分割しています)。これは、リダクション担当者の解釈なのでしょうが、『Musique des fêtes』に掲載されている他の作曲家の軍楽作品(のリダクション)では装飾的な前打音がそのまま活かされているケースもあります。ゴールドマンとスミスによる編曲ではこの前打音の記譜が踏襲されています。既述(参照 ①作品成立の経緯を探る)のように彼らがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考える理由のひとつはこの点にあります。


(4) ゴールドマンとスミスによる編曲版

○上述のように、ピアノ・リダクション版を基に編曲されたと考えられます。

○フレデリック・フェネル Frederick Fennell(1914-2004)が著書『タイム&ウインズ (1954)』でゴールドマンの著書『The Concert Band (1946)』を引用しながら「フランス革命とバンドの発展」について述べているのですが(註22)、そこで引用されたゴールドマンの記述にはMusique des fêtesの記述を参照したと思われる部分があり(参照 ①作品成立の経緯を探る)、ゴールドマンがピエールの著書を読み、研究したことがうかがえます。ゴールドマンらがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考えるもうひとつの理由はこのようなところにあります(もちろん、スコアやパート譜の手稿を参照した可能性を否定するものではありません)。
ただし、Musique des fêtesでは作品の作曲年が「(178 -1794)」と記されていますので(図6 参照)、ゴールドマンらが本当に同書を研究したのであれば、出版譜の解説になぜ「1794年から95年にかけて作曲」と記されているのか、という疑問は残ります。

○出版された楽譜セットはコンデンスド・スコアとパート譜で構成されており、フルスコアありません(註23)。当初よりフルスコアが制作されていないことも考えられます。

図14
「音楽之友社」版のスコアより

○楽器編成は以下の通りです。

 ピッコロ
 フルート 1&2
 オーボエ 1&2
 バスーン 1&2
 Eb クラリネット
 Bb クラリネット 1, 2&3
 Eb アルト・クラリネット
 Bb バス・クラリネット
 Eb アルト・サクソフォーン 1&2
 Bb テナー・サクソフォーン
 Eb バリトン・サクソフォーン
 Bb コルネット 1, 2&3
 Bb トランペット
 F ホルン 1, 2, 3&4
 トロンボーン 1, 2&3
 ユーフォニアム (バリトン)
 テューバ
 コントラバス
 ティンパニ

当時の「ゴールドマン・バンド」の編成に合わせたものであることは疑いようもありません。これは今日一般的な吹奏楽の編成と変わりません(註24)。

○ピアノ・リダクション版をベースにしつつ、独自の強弱変化やアーテキュレーションも施されています。

○ゴールドマンとスミスは、1953年にカテルの『序曲(ハ調) Ouverture pour instruments à vent』(1793年)を編曲してますが、このピアノ・リダクションもMusique des fêtesに掲載されています。『古典序曲 Symphonie en ut』同様、編曲の基になったと考えられます(註25)。


(5) 博士論文

2014年に、アメリカ・サウスカロライナ大学音楽学部 指揮専攻 音楽芸術博士号取得要件の一部として提出された論文に『Critical Editions and Comparative Analysis of Three Representative Wind Band Works from the French Revolution』というものがあります。この論文で、著者のAdam Gary Kehl氏は、カテルの『序曲(ハ調) Ouverture pour instruments à vent』(1793年)、ジャダンの『序曲 Ouverture pour instruments à vent』(1794年)、そして『古典序曲 Symphonie en ut』について述べており、また、そのすべてについて、当時の手稿や印刷譜に基づく「校訂譜」を制作しています。

論文自体は、ほぼアメリカの資料や書物に基づいて書かれています。参照された資料の一覧からもわかるように、フランスの資料や史料を検討したようには思われません。この点については、Kehl氏が参照したアメリカの資料等を私はほぼ読んでいませんので、この論文自体について批評することは控えたいと思います。

しかし、「校訂」された楽譜についてはいくつか問題点があります。
ここでは『古典序曲 Symphonie en ut』についてのみ指摘します。

最大の問題点は、パート譜(手稿)を参照していないことです。
スコア(手稿)とパート譜(手稿)の大きな違いは、212〜213小節目のオーボエ2のパートです。パート譜(手稿)では、クラリネット2とオクターブを形成しているのが分かります。和声的にも、また、前後のオーケストレーションからも、スコアに書かれた音が間違いであることは明らかですが、何の疑問も持たれていないようです(既述の東京ウインド・シンフォニカも同じ間違いを犯しています)。その結果、本来ユニゾンであるべき214〜215小節目ではオーボエ2がクラリネット2のオクターヴ上を演奏するよう記譜されています(私が、ゴールドマンらがピアノ・リダクション版を参照した、つまり手稿を参照していないと考える理由はこのような点にもあるのです)。

ホルンは、当然「ナチュラル・ホルン」、当時はまだヴァルブが発明されていませんので、演奏できる音が限られます。したがってゴセックは本来書きたかったであろう音(つまり、自然倍音ではない音)を別の音(隣の自然倍音)で記しています(234〜235小節目のホルン2)。Kehl氏はその点には触れていません(気づいていないのかもしれません)。

冒頭の拍子記号についても重要な指摘をしておかなければなりません。総譜(手稿)には「C」と記されているですが、Kehl氏はこの記号を現代の「Common time」と解釈し、「4/4」に書き換えているのです。これは重大な誤りであると言わざるを得ません。総譜(手稿)に記された「C」は、4分音符に基づく4拍子を示すものではなく、中世およびルネサンス時代のメンスーラ記譜法に由来する「二分割」を表していると解釈できます。つまり、現代のアッラ・ブレヴェと同様に、2分音符が構造的なタクトゥスとして機能しているのです。この変更は、当時の拍子記号とテンポの直接的な相関関係を含め、当時の音楽理論を十分に調査していないことを如実に示していると言えます。
(※ この件については別のページで考察していますのでご一読ください。こちら

他にも、手稿の明らかな誤記に気づいていない場所がありますし、133〜137小節目のピッコロはKehl氏の単純な記譜ミスということができます。「Critical Editions 」と銘打っている以上、より細かな確認が必要かと思います。(註26


註19)アンソニー・ベインズ著(福井一訳)『金管楽器の歴史』(1991年 音楽之友社)p.267

註20)コンスタン・ピエール著『Le Conservatoire national de musique et de déclamation :documents   historiques et Administratifs』(1900年)からは、1794年頃の国立音楽院 Institut National de Mnsiqueには副楽長ルフェーブルのほかに“Fouquet”、“Thiémé”、“Sarazin”という3人の「写譜者」がいたことが分かる。

註21)『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年フロレアール号)

註22)フレデリック・フェネル著(秋山紀夫監修/隈部まち子訳)『タイム&ウインズ』(1984年 佼成出版社)p.23-24。オリジナル(英文)は1954年、ルバンク G.Lebanc Corp.から出版された。
フェネルが『タイム&ウインズ』で「ゴールドマン・バンド」の活動そのものに言及していない点は興味深い。また、父エドウィンの行動にも言及がない(フェネルが「バンド歴史学者」と紹介している息子リチャードは、1956年、父の死後にバンドの指揮を引き継いだ)。同書が著された1954年はフェネルが「ウインド・アンサンブル」の活動を活発化させていた時期でもあり(「イーストマン・ウインド・アンサンブル」は1952年発足)、「ゴールドマン・バンド」の活動期と重なる。フェネルが「ゴールドマン・バンド」やエドウィンの業績をどのように評価していたのかは気になるところであるが、何も言及していないという点に評価の一端が見えるようにも思う。しかしながら、「歴史的な評価をするタイミングではない」との判断から言及を避けているということも十分に考えられる。なお、当時のアメリカの吹奏楽をめぐる状況は、同書の第5章「アマチュア・バンドの発展」および第6章「ウインド・アンサンブルの現在」に詳しい。

註23)現在はテオドール・プレッサー (Theodore Presser)から出版されているが、やはりフルスコアはセットされていない。

註24)秋山紀夫氏(1929-2025)によると、1930年のゴールドマン・バンドの編成は62名。 『吹奏楽の歴史 〜学問として吹奏楽を知るために』(2013年 ミュージックエイト)p.47

註25)カテルが作曲した『Ouverture pour instruments à vent』は、そのパート譜が月刊誌『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年ジェルミナール号)に掲載されている。ゴールドマンらはこれも参照した可能性はある。

(註26) Kehl校訂による『Le Grande Simphonie en Ut』は2019年にオーストラリアの「Maxime’s Music」から出版されており、YouTubeでその音源も公開されている。出版されたスコアと音源を確認したが、本稿で指摘したスコア(手稿)とパート譜(手稿)間の違いについては解消されていない。


→④校訂内容

← ②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求

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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求


さて、『古典序曲』あるいは『Symphonie en ut』、近年日本で演奏される機会は少ないのですが、フランスではどうなのでしょうか?

ゴセックを含め「革命期」の音楽(軍楽)を巡る状況をぺロネ博士は次のように考察します。

1) 革命期の音楽を吹奏楽で演奏すること。
革命期の作品は、1989年から1995年にかけて音楽家や音楽学者の注目を集めた。デジレ・ドンディーヌ(1921-2015)と音楽学者フレデリック・ロベール(1932-2023)の再オーケストレーションにより、多くの楽譜が再発見された。フランス革命200周年を記念して、数多くのコンサートや録音が行われた(註11)。これらの作品の多くは再販されている(CMFディフュージョン、その後ロベール・マルタンが買収)。これらの作品はフランスの主要なプロおよびアマチュア・オーケストラのレパートリーの一部ではあるが、ここ15年間は演奏される機会がかなり減っている。
音楽学的な考察がこの主題に及んでいる。再オーケストレーション(現代楽器、特にサクソフォンを使用)は、純粋主義者やバロック音楽の愛好家たちの間で大きな論争となっている。しかし同時に、後者はフランス革命の野外祝典のために書かれた作品(それらは基本的にパリ国家警備隊の音楽隊に捧げられたものだった)にはほとんど関心を示さない。叙情的な作品(オペラ)は、バロック・オーケストラやヴェルサイユ・バロック音楽センター(CMBV)によって演奏されている。

2)オリジナル・アンサンブル
フランスには、バロック楽器を使用し、この音楽を演奏するために部数に応じて編成された吹奏楽団(管楽器のアンサンブル)が存在しない。

3)これらの欠点の原因
バロック音楽を愛する大衆は、野外音楽に興味がない。比較的簡単でオリジナリティに欠けると批判される。
また、これらの器楽作品、特にカテル、メユール、ドゥヴィエンヌといった著名な巨匠によるこの時期の「序曲」に対する無知も大きい。
現代の吹奏楽団は、人的資源(有能な音楽家)と物的資源(ピリオド楽器)の不足のために、ピリオド楽器の演奏を始めていない。
公的機関(国、地方、町)は、この芸術的な 「ニッチ」を発展させることに関心がない。

状況は日本でも同じではないでしょうか?

それでは、今の時代に『古典序曲/Symphonie en ut』を演奏する意義とは?
今一度、当時の状況や評価をも振り返りながら、現在における作品への向き合い方を探求します。


繰り返すようですが、ゴセックをはじめ革命期の著名作曲家が作った軍楽作品は今日の吹奏楽の歴史の出発点と言ってもいいでしょう。これらの作品がなければ、エクトル・ベルリオーズ Louis Hector Berlioz(1803~1869)の『葬送と勝利の大交響曲 Grande symphonie funèbre et triomphale』(1840年)は生まれなかったかもしれません。さらに言えば、(これは軍楽隊に限ったことではありませんが)空間配置(ステージ上・ステージ外)へのこだわりもベルリオーズ以降のロマン派音楽の展開に大きな影響を与えていると考えることができるのです。

革命期、確かに音楽の機能、ありようは変化しました。求められたのは専門的知識や音楽的素養のない民衆にも聴きやすく「理解する」必要のないもの。旋律的なものが前面に出ており、伴奏は可能な限り単純であること。確かに革命に関連する作品に見られる傾向ですが、『Symphonie en ut』はどうでしょうか?

伝統的なポリフォニーの書法を離れ、「展開」の素材としての主題、和声的展開、いわゆる「マンハイム・クレッシェンド」も含めた強弱法と、バロックから古典派への転換期の典型とも言える構造は確かに多くの「革命歌」や行進曲とは一線を画しています(ロールとエナンがこの曲を「革命の音楽」に分類しなかったのも理解できる気がします)。

果たして、この作品がどのように演奏され、そしてどう受け止められたのか、という点に興味が湧いてきます。


既述の音楽誌『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号には次のような記述があります(ピエールも『Les hymnes et chansons de la Révolution』で引用しています)。(図7)(註12

楽器は、まだ知られていなかったような完璧さでそれを演奏した。ボエティウス註13は、指と声だけで音楽を練習するような人を、音楽家という名前で称えたくはなかったのだが、もし彼が国立音楽院の芸術家たちの演奏を聴いたなら、彼らを音楽家と思わずにはいられなかっただろう。

図7
Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号 より

作品そのものへの言及はないのですが、演奏の水準は高かったのでしょう。それは、軍楽隊員を養成する国立音楽院 Institut National de Mnsiqueの教育水準の高さをも示していると言えます。当時国民祭典で演奏する軍楽隊には、音楽院の生徒だけでなく教師も加わっていました(その中にはフルートの名手であり作曲家としても活躍したドゥヴィエンヌもいました)。もっとも、ぺロネ博士によると、国立音楽院はもともと(劇場の音楽家と同様)訓練された「学識ある」音楽家を対象にしていたとのことです。であるなら、演奏の水準が高かったことも頷けます(一方で、「騎士団員」と呼ばれる軍人音楽家−それは主にトランペット奏者や太鼓奏者−たちは、この種の訓練を受けていないそうです)(註14)。しかも、既述音楽誌がボエティウス引き合いに演奏を賞賛していることから見ても、それが単に実践的な演奏技術の高さを見せるだけのものではなかったということでしょう。なお、この時軍楽隊の指揮をとったのは副楽長のジャン=グザヴィエ・ルフェーブル Jean-Xavier Lefèvre (ou Lefèbvre)(1763~1829)であったようです(註15)。

しかし、野外で開催される国民祭典、反響もない空間、かつ現代のように電気的な増幅装置もないような状況で音楽が十分に届いていたのだろうか、という疑問は湧いてきます。静かに音楽を聴くという環境でないことは容易に想像できるからです。ティエリー・ブザール Thierry Bouzard(註16)が8月10日の国民祭典(:ブザールは「コンサート」と表現しています)についてこう記しています。

何万人もの民衆が庭園とその周辺に押し寄せたが、効果音はかえって聴衆をパニックと恐怖に陥れ、反革命軍がチュイルリー通りの人々を銃で撃っているのだと思わせた。群衆は恐怖のあまり逃げ惑い、多くの犠牲者を出した。(中略)音楽の演奏という点では失敗に終わった。」(註17

祭典に集ったすべての民衆に音楽が届いたというわけではないようです。

なお、既述の音楽誌は、聴衆が一番熱狂したのはメユール作曲の『Le Chant du départ, Hymne de guerre』(図5=①作品成立の経緯を探る 参照)だったと報じています。


ピエールは著書『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』(既述)での中で『Symphonie en ut』についてこうコメントしています。

この作品は純粋な交響曲的性格を持たないので、器楽曲の代名詞としてとらえるべきだろう。(中略)全体として、面白いものは何もない。

確かに五線紙に書かれた情報は多くありません。ゴセックは「その時代」の書き方で作品を書いています。その背景には当然「その時代」の演奏習慣、様式(スタイル)といったものがあります。19世紀以降の、細かに書かれるようになった楽譜を見るのと同じ目で『Symphonie en ut』の楽譜を見た時、ピエールが書いているような、「特徴的な旋律はなく、展開もなく、代わりに単純なリズムの定型が豊富で、絶えず繰り返され、」という印象を持つ人がいても不思議ではありません。もちろん、ピエールを批判するわけではありません。おそらく実演を聴いたことはなかったでしょうし、古い時代の演奏法などを探求するような機運も今日ほど高くはなかったでしょうから。

一方、ゴールドマンらの仕事も、彼らのバンドの編成や聴衆の耳に合わせた(アーノンクールの言葉を借りるなら)「当世風の編曲」と言えますが、これも決して批判されるものではありません。確かに、今日の「原典主義」とも言えるひとつの潮流からするとゴールドマンらの編曲は再考の余地があるのですが、ゴセックが「その時代」の書き方で作品を書いたようにゴールドマンらも「その時代」の書き方で編曲したのです(この点について『古典序曲』のスコアには、「現在使用されている楽器を加えて再構成されている。このことは、ゴセックの時代においても、バンドの編成には柔軟さがあり、指揮者が完全な演奏をするために新しい楽器を加えたりしていたことと軌をひとつにしている。」と記されています)。ゴセックやカテル、メユールらの作品を蘇演し、吹奏楽の大きな遺産の存在を知らしめてくれただけでもゴールドマンらは大きな仕事をしたのです。


ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の楽長を務めたピエール・デュポン Pierre Léon Dupont(1888~1969)はこう述べています。

吹奏楽は、幅広いプログラムの演奏をめざすことができなければならないだろう。(中略)フランスに点在している吹奏楽団と金管合奏団は、大衆の上に普及と教化の使命を遂行する運命を持っている。これらの団体はほんとうの民衆のための音楽院を形成している。」(註18

管弦楽曲などからの吹奏楽編曲を数多く手がけレパートリーの拡張に力を注ぎ、ギャルドの黄金時代を築いたデュポンの発言は、フランス革命以降の軍楽隊の歴史を踏まえてのものでしょう。

「普及と教化の使命」と言う点ではアメリカも同じです。パトリック・サースフィールド・ギルモア Patrick Sarsfield Gilmore(1829~1892)の時代からジョン・フィリップ・スーザ John Philip Sousa(1854~1932)、そしてゴールドマン父子の時代と吹奏楽団の果たした役割は(たとえその手法が商業的なものであっとしても)大きなものだったのです。

それでは、時代も変わった現代において吹奏楽団にできることは?


それは、「作曲された当時の姿」の探求。

今日のクラシック音楽界では当たり前になった(とも言える)この探求は吹奏楽ではまだまだ当たり前ではないようにも思えます(これは、今日の吹奏楽のレパートリーがほぼ20世紀以降のものであることとも関係していると思います)。

ゴセックがハイドンやモーツァルトと同時代の人であることを思い出してみましょう(パリで初めてハイドンの交響曲を紹介したのはゴセックですし、モーツァルトはゴセックを「素晴らしい友達」と父への手紙に書いています)。ハイドンやモーツァルトの交響曲に向き合うのと同じ姿勢で、そして(今一度アーノンクールの言葉を借りるなら)「シューベルトもブラームスも知らず、むしろバロック音楽に通じた音楽家や聴衆のために書かれたという前提」に立てば、『古典序曲/Symphonie en ut』への向き合い方もこれまでとは違ったものになるような気がします。

日本でもそうした動きがないわけではありません。

2013年4月11日には東京ウインド・シンフォニカが『Symphonie en ut』を山本訓久氏の校訂(同じ手稿=おそらくスコアのみ=を参照したと思われます)および指揮により一部ピリオド楽器を用いて演奏していますし(「序曲ハ長調」とアナウンス)、2015年5月29日には名古屋アカデミックウインズが仲田守氏の指揮によりサクソルン属が加わらない編成で演奏しています。

作曲された時代の様式(スタイル)を考証した演奏を提供することは、革命期の音楽遺産の価値を問い直すことにもなるでしょうし、もしかすると、ペロネ博士の考察にもあった「比較的簡単でオリジナリティがない」とするバロック音楽愛好家たちに関心を持ってもらうきっかけになるかもしれません。そして、ゴセックの幅広い作品群に興味を持つ人々が増えるきっかけにもなれば喜ばしいことです。


註11)1990年にラジオ・フランスが『MUSIQUE & REVOLUTION』という3枚組のC Dを製作した(発売はERATO Diaques)。クロード・ピショロー指揮パリ警視庁音楽隊その他の演奏により44曲が収めされている。ゴセックの作品は9曲選ばれているが、『Symphonie en ut』は収録されていない。
それに先立つ1988年には、ロジェ・ブートリー指揮ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団らがフランス革命期の作品を録音し、CDが発売された。23トラック中、ゴセックの作品は3曲。日本語版CDの解説によると、収録曲のほとんどはブートリーの手により編曲された。

註12)寄稿者はマリー=エミール=ギヨーム・デュショサール(1763~1806)。彼について詳細は不明であるが、Gallicaによると「文学者、ボルドー議会弁護士。元警察庁長官、移民委員会委員」とある。

註13)言わずと知れた古代ローマの哲学者。古代ギリシャの音楽論を伝承した『音楽教程』で、音楽を「世界の調和としての音楽(ムジカ・ムンダーナ)」「人間の調和としての音楽(ムジカ・フマーナ)」「楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス)」に分類している。

註14)論文『Le musicien militaire en France de 1795 à 1914 : éducation musicale et statut professionnel』(2015年)
ぺロネ博士は、1793年から1795年の間にフランスの楽器演奏者の教育が進展し、音楽家の質が向上した、と述べる。軍楽隊の音楽家(教師)は、平均して2人の兵士を育成する義務を負っていたという。

註15)コンセール・スピリチュエルのクラリネット奏者を務め、1778年からMusique des Gardes Françaisesで活躍、1789年から1817年までオペラ座のオーケストラ(音楽院)に在籍した。革命が始まると、パリ国民衛兵音楽隊の副楽長兼クラリネット奏者となる。ゴセックとともに音楽院の創設者の一人である。

註16)ティエリー・ブザールは2019年から2023年まで、サトリの陸軍音楽司令部(COMMAT)で軍音楽の歴史を教えた。

註17)論文『Instruments fabuleux et concerts-monstres : les extraordinaires orchestres militaires』(2018年)

註18)ルイ・オベール、マルセル・ランドスキ共著(小松清訳)『管弦楽』(1961年 白水社)p.157-158 ※翻訳の一部を改めた。


→ ③参照楽譜を概観する

← ①作品成立の経緯を探る

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【重要】お願い


(2024年9月10日)
著作権には「著作者人格権」という、著作者だけが保持する誰にも譲渡できない権利があり、その中のひとつが「同一性保持権」(法第20条)で、自分の著作物の内容などを自分の意に反して改変(変更・切除等)されない権利です。

私が作品の管理を信託している「一般社団法人 日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、「上演権」「複製(出版)権」など多くの権利を管理しています。信託の範囲は作詞家・作曲家(あるいは、著作権を譲渡されている出版社等)により違いがありますが、「著作者人格権」についてはJASRAC(や他の管理団体)は管理していません(管理することができないのです)。つまり、JASRACは編曲、改変などの許諾をすることはできないのです。「上演」の許諾を得たからといって、編曲や改変までもが認められた訳ではありません。また、楽譜を購入したからといって、好き勝手に改変しても良い、ということでもありません(ご自分自身で(公にせず)楽しむだけなら話は別ですが)。
どうかご理解くださいますようお願い申し上げます。


私は、演奏者の事情による「改変」を何がなんでも排除しようという考えではありません。吹奏楽など比較的人数の多い編成の場合、団体によっては楽譜が要求する楽器がない(不足)ということはあります。「部分的に」別の楽器で補うことは現場の判断でやっていただいて構わない、というのが私のスタンスです(この辺りは作曲家によって考え方が違うと思います)。
また、小編成の作品でも、演奏なさりたい方の音楽的意図や想いが伝われば、条件つきで認める可能性はあります
まずは、当方、あるいは出版社にお問合せください。

楽譜を購入いただき、また、演奏していただく皆様には、特に「著作者人格権」、とりわけ「同一性保持権」について十分にご配慮いただきたくお願い申し上げます(これは、私の作品に限ったことではありません!!)。


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2024年


(2024年12月29日)
去る12月22日(日)、「第46回 大分第九の夕べ(ファイナル公演)」において拙編『荒城の月 〜合唱と管弦楽のための』(瀧廉太郎 作曲)が初演されました。公演を主催したNPO法人「おおいた第九を歌う会」様の委嘱により編曲したものです。


(2024年12月8日)
来たる2025年2月9日(日)、大分県庁職員吹奏楽団様の「定期演奏会 2025」において新作『BE HAPPY !』が初演されます。
この作品は、同団の委嘱により楽団創立75周年を記念して作曲したものです。
同演奏会にて、同作ほか数曲の指揮を執らせていただきます。

 日時:2025年2月9日(日) 14:00開演
 場所:iichiko総合文化センター iichikoグランシアタ


(2024年12月8日)
来たる2025年3月15日(土)、博多ウインドオーケストラ様の第30回定期演奏会において新作『シンフォニエッタ・ロザリウム』が初演されます。
この作品は、同団の委嘱により30回目となる定期演奏会を記念して作曲したものです。

 日時:2025年3月15日(土) 15:30開演
 場所:福岡市立南市民センター 文化ホール

博多ウインドオーケストラ


(2024年10月23日)
来たる10月27日(日)、岐阜県各務原市「プリニーの市民会館」にて開催される【第39回国民文化祭 第24回全国障害者芸術・文化祭「清流の国ぎふ」文化祭2024】の「吹奏楽の祭典」において、拙作『Toward the Blue』が下野竜也氏指揮 広島ウインドオーケストラの皆さまにより演奏されます。
この作品は、2022年8月に下野氏と同団により初演され、イタリアのScomegna Edizioni Musicaliさまから出版されています。

※ 初演時の動画がwelcomeページの下部にございます。

「清流の国ぎふ」文化祭2024
広島ウインドオーケストラ


(2024年8月14日)
来たる9月1日(日)、大分県大分市の「鶴崎吹奏楽団」が開催する「真昼の音楽会 25」で拙作『夏宴 〜鶴崎踊によるラプソディ』が演奏されます。
2010年に同団の創立20周年記念作品として作曲した作品で、1560年頃に始まったとされる大分県の「鶴崎踊」(国選択無形民俗文化財)の音楽、「猿丸大夫」と「左衛門」をベースにしています。
※ 本年春に改訂した版での再演です。

鶴崎吹奏楽団


(2024年7月10日)
本日発売の『バンドジャーナル』誌 8月号(音楽之友社刊)に、去る5月18日に福岡シンフォニーホール(アクロス福岡)で開催された「九州管楽合奏団 演奏会 2024」のレビューを寄稿しています。
九州管楽合奏団の創立20周年と、ヨハン・デ=メイ氏の首席客演指揮者就任10周年を記念したコンサート、客演に伊藤悠貴氏(チェロ)、中村愛氏(ハープ)を迎え、「オール・デ=メイ・プログラム」で開催されました。

九州管楽合奏団
伊藤悠貴
中村愛
ヨハン・デ=メイ

当日の演奏曲目
終演後、デ=メイ氏と共に

(2024年7月5日)
福岡県大野城市を拠点に2022年から活動を開始した「NCウインドアンサンブル」の「オータムコンサート 2024」で指揮をとることになりました。
自作(編曲含む)を3曲プログラミングしていただいてます。
なお、このコンサートを機に「常任指揮者」の称号も頂戴しました。


(2024年6月12日)
本年2月17日に大分県庁職員吹奏楽団によって初演された瀧廉太郎作曲『荒城の月』の吹奏楽編曲版の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから出版、販売開始されました。廉太郎自身による「原典版」と、「山田耕筰編曲版」に基づく新編曲です。


(2024年5月20日)
2019年に「ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ」さまから出版されたブラスバンド(英国式金管バンド)曲『アライズ・マイ・ミューズ!!』(2010年作曲)、この度、部分的な手直し(改訂)を行いました。
楽譜は、引き続きゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから販売されています(音源も更新されました)。

なお、この度の改訂に併せ、ウインド・オーケストラ版も制作、音源を公開しました。
楽譜についてはお問い合わせください(準備中)。


(2024年5月1日)
新しい日の出のための挽歌
2004年に金沢サクソフォンアンサンブルの委嘱により作曲したラージ・アンサンブル作品を吹奏楽編成に改編し、音源を公開しました。
楽譜についてはお問い合わせください(準備中)。


(2024年4月9日)
吹奏楽作品『BE COOL !』の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから出版、販売開始されました。2023年3月に初演されたポップス系の作品です。


(2024年3月25日)
巡礼:春 〜ヴァイオリン、チェロとピアノのために』の初演時(2016年2月13日)の動画をリンクしました。
※動画の冒頭から約11分間です(曲目紹介を含みます)。
  演奏者:朝来桂一さん(ヴァイオリン)
      辛島慎一さん(チェロ)
      後藤秀樹さん(ピアノ)


(2024年3月23日)
2020年5月に「Wind Band Press」様に寄稿したコラム「なぜスコアを買って勉強した方がいいの?」を「column / essay」のページに転載しました。


(2024年3月22日)
2010年に鶴崎吹奏楽団(大分県)の結成20周年記念作品として委嘱された『夏宴 〜鶴崎踊によるラプソディ』を改訂、音源を公開しました。
楽譜についてはお問い合わせください(準備中)。

1560年頃に始まったとされる大分県の「鶴崎踊」(国選択無形民俗文化財)の音楽、「猿丸大夫」と「左衛門」をベースにした作品です。


(2024年3月11日)
column / essay」のページの「in Just」に記事を追加しました。


(2024年3月7日)
my works」のページを一部更新しました。


(2024年3月4日)
吹奏楽作品『KURODA-BUSHI』の楽譜がゴールデン・ハーツ・パブリケーションズさまから出版、販売開始されました。福岡県の民謡「黒田節」をベースにしたジャズ調の作品です。


(2024年2月18日)
2024年2月17日、瀧廉太郎作曲『荒城の月』の吹奏楽編曲版が廉太郎ゆかりの地、大分県竹田市で大分県庁職員吹奏楽団によって初演されました。廉太郎自身による「原典版」と、「山田耕筰編曲版」に基づく新編曲です。
楽譜は出版準備中です。


(2024年1月31日)
私がゲスト指揮者として出演した「ユリックス吹奏楽団コンサート」(1月28日 宗像ユリックス イベントホール)のメイキング動画が公開されました。



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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

①作品成立の経緯を探る


バロック後期から前古典派の時代にフランスで活躍したベルギー生まれの作曲家フランソワ・ジョセフ・ゴセック François-Joseph Gossec(1734~1829)。彼が作曲した『古典序曲 Classic Overture』は1951年にアメリカで初演されたリチャード・フランコ・ゴールドマン Richard Franko Goldman(1910~1980)とロジャー・スミス Roger Smithによる編曲が広く知られています。この編曲は1955年に「マーキュリー・ミュージック (Mercury Music)」から出版され、1970年代には日本にも紹介されました(註1)。ゴールドマンとスミスは「ゴールドマン・バンド」(リチャードの父、エドウィンが1911年に結成)のために編曲したのですが、その経緯(どのような資料、史料に基づいて編曲したのか、など)は明らかになっていません。ゴールドマンらの編曲は、ゴセックの時代にはまだ発明されていなかった「サクソルン族」(サキソフォーンなど)が加えられるなど大幅に拡大されており、現代の一般的な編成となっています。21世紀も4分の1が過ぎようとする今となっては、そのサウンドにやや「古さ」を感じる人もいるでしょう(もちろんこの「古さ」にも良さはあるのですが)。この編曲は、1950年代のアメリカの吹奏楽の響きを楽しむことはできるものの、ゴセック(の時代)の音楽様式あるいは演奏様式の点で再考の余地があるように思います。

校訂譜の制作方針を定めるためには、作品成立の経緯を知ることが極めて大切であると考えますので、まずはゴセックの時代(フランス革命期)の軍楽隊の活動を交え探っていきます。


確かに、近代の大規模な吹奏楽(管楽合奏)の歴史はゴセックが活躍した時代、つまりフランス革命期(1789〜1895)の軍楽隊に起源を持つと言っても過言ではありません。革命前のフランスの軍楽隊の規模や楽器編成などは決して大規模とは言えないもの(20人に満たない)でしたが、1789年のバスティーユ襲撃後に結成された国民衛兵隊 la Garde nationaleに置かれた軍楽隊は45人であり、当時としては異例の規模でした。この軍楽隊の設立に尽力したのはベルナール・サレット Bernard Sarrette大尉(1765~1858)。そして、楽長(中尉)の任にあったのがゴセックです。軍楽隊の最初のメンバーは、「衛兵学校l’École des Gardes Françaises」(1764年設立)の音楽学生たちでした(註2)。

のちの国立高等音楽院の上級事務官で作曲家でもあったコンスタン・ピエール Constant Pierre (1855~1918)が著書『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』(以下『Musique des fêtes』)(図1)の中で、この軍楽隊の業績を簡潔かつ的確に記しています。

パリ国民衛兵の音楽家たちが革命期の祝祭や公的儀式に参加したことが、音楽院創設の契機となったことは周知の事実である。彼らの賢明な取り組みと驚くべき活動により、これらの芸術家たちは人気を博し、当局と芸術の発展に貢献すると同時に、音楽の力、ひいては音楽の普及と発展に専念する大規模な教育機関の有用性と必要性を実証した。こうした公的・公式の行事への彼らの協力の経緯は、音楽院の特別な歴史と、一般的な政治史と深く結びついたパリ市の歴史の両方に関連している。
(中略)
この特別なジャンルの音楽(註:「軍楽」のこと)において、それらが、パリ国民衛兵の音楽家たち、すなわちコンセルヴァトワールの創設者たちのイニシアティヴにより、著しい進歩を遂げているという観点からも、(「軍楽」を)復活させることにこだわったのです。この芸術家たちは、それまでクラリネット、ホルン、ファゴットで構成されていた軍楽に、まだほとんど使われていなかった既知の管楽器を採用し、新しいものを創造した。加わったのは小フルート(ピッコロ)、オーボエ、トランペット、セルパン、トロンボーン、テューバ・クルヴァ、ブッチーナ、打楽器など。さらに、彼らはレパートリーの幅を広げ、独創的な曲でレパートリーを充実させた。楽器の編成も多様で、演奏会用序曲や交響曲の形で構想され、当時の音楽をほぼ独占的に形成していた喜歌劇のアリアのメドレーよりも発展的で興味深いものであった。確かに、これらの作品は、今日与えられているような発展性からはほど遠い。それでも、当時としては驚くべき革新性を持っている。これらの作品は、回顧的な主題を扱った作品の中で呼び起こすべき、古くからの特徴的なモチーフを探している人たちにテーマを提供するものであり、また、これらの作品のいくつかは、チボリ公園 Jardin Tivoli,やパヴィヨン・ダノーヴル Pavillon de Hanovreなど、さまざまな公共施設が主催する吹奏楽コンサートのプログラムに登場していることにも触れておきたい。

図1
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』の表紙

国民衛兵隊の軍楽隊は翌年70人に拡大されます。財政的な問題もあり1792年には解散の憂き目に遭いますが、その後「国立音楽院 Institut National de Mnsique」(1973年11月8日設立)に統合されました。この国立音楽院は、サレットとゴセックが1792年6月9日に設立した「国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale」(註3)が基になっており、1795年8月3日設立の「高等音楽院 Conservatoire de Musique」(今日の「パリ音楽院」)へ繋がっていきます(註4)。国立音楽院は国の要請により、すべての公的な祭典に軍楽隊を提供する義務を負っていました。ゴセックはこれら教育機関で指導的役割を果たす傍ら、軍楽隊向け、「国民祭典」向けの作曲を多く行なったのです。大規模な合唱を伴う吹奏楽作品が目立ちますが、行進曲や序曲、交響曲なども作曲しました。


ピエールには『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』(以下『Les hymnes』)という著書もあります(図2)(註5)。『Musique des fêtes』では主に「音楽院」にゆかりのある作家の148曲がすべてピアノ・リダクション版で紹介されていますが、『Les hymnes』ではその対象がさまざまな作家にまで拡大され、1789年から1802年にかけて作られた「革命歌」など2337曲を演奏形態別に整理し、それらの概要(タイトル、作者名、テーマ、出典、出版社、版の性質などに加えて、その起源、特殊性、変種、回想や備考、主な演奏などを記述した注釈など)が記されています。その中で『Symphonie en ut, par GOSSEC.』という作品が譜例(冒頭のみ)を伴い紹介されているのですが、これこそ私たちが知る『古典序曲』の原典なのです。なお、『Musique des fêtes』にはピアノ・リダクション版が掲出されています。

図2
Les hymnes et chansons de la Révolution 』の表紙

幸いなことに、この『Symphonie en ut』のスコアとパート譜(一部)の手稿はフランス国立図書館(BnF)が運営する電子図書館(Gallica)で閲覧することができます。ただし、いずれもゴセック自身の手によるものではありません。おそらく、ゴールドマンらはこれら史料に基づき編曲したのでしょう。もちろん、編曲当時に電子的な手段はありませんから、当時国立高等音楽院に保存されていたと思われる手稿を直接見たか、『Musique des fêtes』を手に入れたのではないかと思われますが、ピアノ・リダクション版を基に編曲した可能性が極めて高いと考えられます(③参照楽譜を概観する」で詳述します)。


現在も出版されているゴールドマンらによる編曲譜での解説によると、作品は「1794年から95年にかけて作曲」とされており、日本国内では「1795年作曲」と認識されていますが、今回参照した史料等からはそれを証明する記述を見つけることはできません。
当時の音楽誌(日刊)『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号(1794年8月21日/共和国暦II年フリュクティドール4日)(以下『Journal des théâtres』)(図3)からは、作品が1794年8月10日(共和国暦II 年/テルミドール23日)に、「国立庭園(現在のチュイルリー公園)」における「国民祭典」の幕開けに演奏されたことがされたことが確認できます。ただし、これが初演であったかどうかは不明です。また、同誌の記述から、国立音楽院 l’Institut National de Mnsiqueの軍楽隊が演奏したということも分かります。当時の音楽院には教師115名、生徒600名ほどがいたとされていますが、これらすべての人が演奏に携わったのかどうかは不明です。しかし、この祭典の2か月前に催された「最高存在の祭典」には全員で参加し、ゴセックの『Hymne à l’être suprême』(自筆のスコアのみ現存します)などを演奏したようです(註6)。

図3
Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号

Gallicaは、演奏場所を「オペラ座」と説明しています。それは、パート譜の作成がオペラ座の写譜家の手によるものであると推定されること(実際は違うようです。「③参照楽譜を概観する」に詳述)、また、保存されているパート譜に「オペラ座における演奏会のために作曲」とのメモが添えられているためだと思われます(図4)。なお、8月10日にオペラ座で何らかの演奏会が催されたことを確認することはできていません(ちなみに、『Journal des théâtres』第6号(1794年8月23日/共和国暦II年フリュクティドール6日)では、移転したオペラ座が8月7日(テルミドール20日)に舞台『Réunion du 10 août』の無料公演で幕を開けたことが報じられています)。

図4
パート譜(手稿)に添えられたメモ

上述の通り『Symphonie en ut』は「国民祭典」で演奏されたことは確認できているのですが、それが目的で作曲されたわけではないと考えられます。


1794年から発行された月刊誌に『Musique à l’usage des fêtes nationales』というものがあります。「国民祭典」で使用された音楽作品の楽譜(主にパート譜)のみで編集されたものです。その第6号(共和国暦II年フリュクティドール号)には8月10日の祭典で演奏された作品が掲載されていますが、『Symphonie en ut』は掲載されていません(図5)。それは編集上の都合かもしれませんので、これをもって作曲の目的、経緯を推定することは難しいと思われます(註7)。

図5
Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号

前掲のピーエルの記述にあるように、さまざまな公共施設が吹奏楽コンサートを主催していたようですから、オペラ座がそのようなコンサートを開催していたとしても不思議ではありません。であるなら、8月10日ではない別の日だったのではないかと考えられます。つまり、Gallicaが説明している「1794年」よりも前に作曲された可能性もあるわけです。ピエールが『Musique des fêtes』で『Symphonie en ut』の作曲年代を確定させていないのも頷けます(図6)。

図6
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』より

ここで断言することはできませんが、図4にある楽器編成で作曲しその後、「国民祭典」のために新たな楽器を加えたと考えることは可能でしょう(別項で考察します)。

ちなみに、フランスの音楽学者パトリック・ぺロネ Patrick Péronnet博士(註8)によると、1794年以降民衆は屋内(革命によって破棄された教会や寺院)で「祭典」と行うことを好んだそうです。当然ながら、軍楽隊(オーケストラ)や合唱団の規模は縮小されることになります。80人の合唱団に対し約20人の器楽(管楽器。弦楽器は貴族的すぎると考えられていました)奏者、という規模です。図4にある楽器編成はそれに近いものがありますので、「オペラ座における演奏会」もまた「祭典」であったと考えることができます。
(ぺロネ博士を紹介してくださった作曲家ギョーム・デトレ Guillaume Détrez 氏に対し多大なる感謝の意を表します。)


さて、Gallicaの説明には興味深い記述があります。それは、『Symphonie en ut』が『Symphonie à grand orchestre n°2 en do majeur [RH 47 / B 85] 』第一楽章の管楽版ということです(註9)。手稿や『Les hymnes』にはそれと分かる既述はありません。ゴセックの最新の伝記作家であるクロード・ロール Claude Roleがシャルル・エナン Charles Héninとともに2004年に編纂した作品目録(ヴェルサイユ・バロック音楽センター(以下「CMBV」)刊)によると『Symphonie à grand orchestre n°2』は1777年頃に作曲されています。

ゴセックは「フランス交響曲の父」と称されるほど多くの交響曲を作りました(60曲ほど)。大作曲家ジャン=フィリップ・ラモー Jean-Philippe Rameau(1683~1764)率いるオーケストラ「ラ・ププリニエール La Pouplinière」でヴァイオリン奏者を務めた時期に客演指揮者として招かれたヨハン・シュターミッツ Johann Wenzel Stamitz(1717~1757)と出会い、彼は「マンハイム楽派」のスタイル、その革新性を知ることになります(その影響はもちろん『Symphonie à grand orchestre n°2』/『Symphonie en ut』にも見てとれます)。そして、「ラ・ププリニエール」在籍中に約30曲、その後も、1769年に自ら創設したオーケストラ「コンセール・デ・ザマテュール Concert des Amateurs」や、1773年に再建され人気を博した「コンセール・スピリチュエル Concert Spirituel 」のために交響曲を作曲、指揮しました。当時彼の交響曲の主たる客層は上流、中流の市民たちであったのは確かです。オペラ座でも仕事を持ち、貴族による長年の庇護にもかかわらず、「革命」が始まるや民衆の側に立ち、国民衛兵隊の軍楽隊で活躍した彼は、どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?ちなみに、ロールとエナン編纂の作品目録(上述)には「革命の音楽」という分類項目がありますが、『Symphonie en ut』や、同じく軍楽隊向けの『Symphonie militaire [RH 62]』(1793年)は「交響作品」に分類されています(その辺りの事情を直接ロールやエナンに尋ねようとしたのですが、CMBVによると「ともにかなりの高齢であるため対応困難」とのことでした)。

あくまでも推測なのですが、“マエストーソ”の音楽”(楽譜にはAllegro maestosoと標記されています)が軍楽に相応しいと考えたのではないか、ということです。ゴセックに限らず、革命期に作曲された音楽や祭典の音楽の多くは“マエストーソ”です。もうひとつは、“ハ長調”という調性にあります。当時の楽器(特にクラリネット)の機能、性能を考えて、ということは十分考えられます。ハ長調やヘ長調の作品が多いのは当時の楽器の機能、性能と無関係ではありません。すでに17世紀末には、マルカントワーヌ・シャルパンティエ Marc-Antoine Charpentier(1643~1704)が「愉快、軍隊的」と表現していますし、かのジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau(1712~1778)もハ長調を「愉快、壮大」と表現しています。ドイツでも、ヨハン・マッテゾン Johann Mattheson(1681~1764)が1713年に、「軍隊を鼓舞することに役立っている」(註10)と書いているくらいですから、ゴセックがマエストーソでハ長調の『Symphonie à grand orchestre n°2』第一楽章を軍楽隊向けに改編しようと考えても不思議でないように思います。


革命をきっかけに音楽は民衆に近づきました。ゴセックをはじめ多くの作曲家が「革命歌」を作りました。それらは民衆にも聴きやすいものであったはずです。ただし、これはニコラウス・アーノンクール Nikolaus Harnoncourt(1929~2016)も指摘するように「一種の衰微」とも言えます。ゴセックらが言わば「使命」として「革命歌」を作っていたことは十分に理解できるのですが、それだけで満足していたわけではないと思いたくなります。ゴセックだけでなくフランソワ・ドゥヴィエンヌ François Devienne(1759~1803)やエティエンヌ=ニコラ・メユール Etienne Nicolas Méhul(1763~1817)、シャルル・シモン・カテル Charles Simon Catel(1773~1830)など著名な作曲家たちも「交響曲」や「序曲」を軍楽隊むけに作曲しています。これは何を意味するのでしょうか?

主に宮廷や上流、中流階層のために作曲していたゴセックらが、軍楽隊を通して「こうした音楽も民衆の手にあるのだ」と伝えようとした、と考えることはできないでしょうか?先に呈した「どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?」という疑問に対する答えはこんなところにもあるような気がします。

ゴセックは、「音楽は国家(言い換えれば 「国民」)によって賄われるものであり、それはすべてのフランス国民の音楽である」と書きました。このことは、「民衆のために」書くことの重要性を説明している、とペロネ博士は言います。革命期、祭典向けの賛歌や行進曲といった機会音楽を作ることが多かったゴセックが『Symphonie en ut』を作曲(改編)をしたことは、宮廷や上流階層というある意味閉鎖的な環境に置かれた音楽が全ての民衆に開かれたことを示す一例と考えていいでしょう。


註1)初演に関する詳細な情報は未確認だが、リチャードの父エドウィン・フランコ・ゴールドマン Edwin Franko Goldman(1878~1956)の指揮により演奏されたと考えられる。日本版は「音楽之友社」より出版(マーキュリー版のリプリント)。日本と大韓民国のみでの販売が認可された。現在は廃番。

註2)学生は兵士の息子であることが必須条件であった。

註3)国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale は120人の学生音楽家(全員国民衛兵の息子たち)を擁するまでになり、14の軍隊、そして共和国の軍隊のために軍楽士を養成した。各生徒は制服、楽器、楽譜を自分で用意しなければならなかった。

註4)現在の正式名称は「パリ国立高等音楽・舞踊学校」

註5)『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』はもともと、1882年にピエールらが行った音楽院設立の準備行為を掘り下げる研究に端を発しており、『Là musique aux fêtes et cérémonies de là Révolution française』、『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』とともにパリ市の刊行物として発刊された。もっとも、その内容は1894年から1895年にわたり数度発表されていたようだ。

註6)井上さつき著『フランス・フルート奏者列伝 ヴェルサイユの音楽家たちから』(2024年 音楽之友社)p.81-83

註7)1794年8月10日の祭典では、『Symphonie en ut』に続き、やはりゴセックが作曲した『Hymne à l’être suprême』が再演されている(初演は1793年11月10日、「理想崇拝の祭典」にて)。作詞はマリー=ジョセフ・シェニエ Marie-Joseph Chénier(1764~1811)。『Hymne à l’être suprême』の楽譜も『Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号には掲載されていない。(図5参照)なお、『Hymne à l’être suprême』は1794年6月8日の「最高存在の祭典」においては歌詞を変えて演奏されているが、1794年8月10日の祭典ではシェニエの歌詞に戻されたようだ。

註8)パトリック・ぺロネ博士(1959~):音楽学博士(パリ・ソルボンヌ大学)、IReMus音楽学研究所(BnF / CNRS)準研究員であり、AFEEV(Association Française pour l’Essor des Ensembles à Vent)幹事。専門領域は18世紀から20世紀の管楽アンサンブル、その範囲はレパートリー研究にとどまらず、政治的、社会的影響にまで及ぶ。著書に『Les Enfants d’Apollon. Les ensembles d’instruments à vent en France de 1700 à 1914』(2023)など。

註9)「RH○○」はロールとエナンによる整理番号。「B○○」はアメリカの音楽学者バリー・S.ブルックによる整理番号(「Br○○」と記されることもある)。ブルックは『Symphonie à grand orchestre n°2』の作曲年を1773年としている。なお、ロールとエナンは『Symphonie en ut』に「RH 63」という整理番号を与えているが、ブルックは整理番号を与えていない。

註10)ヨハン・マッテゾン著(村上曜訳)『新しく開かれたオーケストラ(1713年)』(2022年 道和書院)p.194-195
マッテゾンは「ハ長調(イオニア旋法)はひどく粗野で厚かましい属性を持っているが、お祭り騒ぎや、さもなくば喜びを爆発させるような場面にも不適ではない。」と書いている。


→ ②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求

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