Wenn ich an den letzten Abend gedenk, Als ich Abschied von dir nahm! Wenn ich an den letzten Abend gedenk, Als ich Abschied von dir nahm! Ach, der Mond, der schien so hell, Ich mußt scheiden von dir, Doch mein Herz bleibt stets bei dir, Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade, Feinsliebchen lebe wohl! Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade, Feinsliebchen lebe wohl!
まずは「Der letzte Abend」(最後の夜)や「Abschied」(別れ)という言葉でウェブ検索してみますが、「これだ!」というものはヒットしません。しかし、歌詞の一部(例えば、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk,」や「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で試みたところ、いくつかの興味深いサイトに辿り着くことができました。
その一つが、「Volksliederarchiv」です。
『Volksliederarchiv』のトップページ
「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で検索した際にヒットしたのが、以下の曲でした。
ベルクシュトラーセ、ライン川流域、シレジア、フランケン、テューリンゲン、オーデンヴァルトで口伝で広く伝承されている。同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen(私はたくさんの涙を流した)」が歌われている。
しかし、これで「万事解決」とはいきません。このメロディに関連する楽曲がいくつか紹介されているのです。「民謡」ですから、当然「異版」のようなものが存在していてもおかしくはない(もっとも、本来「楽譜」などが存在するはずもないのでしょうが…)。「同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen」が歌われている。」という記述も気になるところです。
関連楽曲
その『Tränen hab ich viele viele vergossen』もサイトで紹介されていました。
調性は違うものの、確かにメロディは「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」という歌詞のものと同じです。この『Tränen hab ich viele viele vergossen』は、
作詞:ホフマン・フォン・ファラーズレーベン(1842年) ⾳楽:作曲者不明: 「Wenn ich an den letzten Abend gedenk(最後の夜を思い出すとき)」のメロディー(ホフマン・フォン・ファラーズレーベンによると、シレジアの⺠謡)
と記しているとのこと。 吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)を参照したと考えるに十分な根拠となり得ると思います。
もう一点あります。
最初の楽節(4小節)は繰り返されるのですが、今日原曲とされている「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」は歌詞もそのまま繰り返されます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』や吉丸は、楽節が繰り返される際に歌詞を変えています。もちろん吉丸が「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」を基にしていたとしても(楽節が繰り返される際に)歌詞を変えた可能性はあるのでしょうが…。
『Tränen hab ich viele viele vergossen』の「二部合唱」譜(一部)
ここまでの調査結果を酒井さんに報告したところ、「吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』をベースにしたことは十分に考えられますね。」と返信をいただいたことから、私の中で編曲の方向性はほぼ定まりました。
ただ、「元歌」をただひとつの楽譜に断定していいのか…。
実は断定しにくいポイントがあります。
今一度、『新作唱歌 第五集』に掲載された楽譜を見てみましょう。 楽譜の最初に、「Mässig」と記されています。現在では「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」を意味する発想標語として用いられています。 この語が用いられているということは、吉丸らが参照した楽譜にも用いられていたのではないか、と考えることができます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の冒頭に付されている発想標語は「Wehmütig」。「もの悲しい」、「物憂げに」、「悲しげに」を意味します。一方、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜には「Sehr mässig」(とても穏やかに)と記されており、こちらの方がむしろ『故郷を離るる歌』に近い標記です。
もし、吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』のみを参照していたのなら、標語を「Mässig」にした意図は何だったのか、という疑問は残ります。
『Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の右上には「Volksweise(民謡):Wenn ich an den letzten Abend gedenk」と記されていますので、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜も参照した可能性はゼロではないと思います。
ちなみに、『新作唱歌』を校閲した島崎はドイツ留学の経験がありますので(1902〜1906年)、多くの楽譜を持ち帰り、それらの中にこうした民謡を収めた曲集も多数あったのではないかと推測できますし、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」、『Tränen hab ich viele viele vergossen』双方が吉丸らの手許にあったと考えることは可能でしょう。
私自身は『Tränen hab ich viele viele vergossen』に込められた「Wehmütig」の気分が不可欠なように思っています。ですから、個人的には「Wehmütig」の気分を持った「適度な」速さ、つまり、やや緩やかなテンポの方が良いと思っています。
「適度」や「ほどよさ」というものは曲の性格によって違うもの、私は「Mässig」が特定の、あるいは一定範囲の「テンポ」を規定した標語ではない、と思いたいのです(「Moderato」や「Allegro」といったイタリア語も語源を辿ればテンポを規定する用語でないことはご存知のとおりです)。もちろん、曲の持つ「気分」がテンポに与える影響は大きいのですが、例えば、「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」という意味で「Mässig」を使ったとき、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」のように「Sehr」が付くと、「非常に適度に」や「とてもほどよい中くらいの速さ」と、少々訳がわからなくなってしまいます。ここでの「Mässig」は「節度を持って」、「穏やかに」と解すことができると個人的にはと考えます。そう解すれば、「Sehr」がついても、「非常に節度を持って」や「とても穏やかに」となります。
ここでは、「Der letzte Abend =元歌」がなぜ通説となったのか、その経緯について詳細に調査・考察されている点が特に目を惹きます。
これら『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が元歌であるとする記事に出会ったことで、私は、自身の当初の読み、疑問が決して見当違いのもではなかったことに安堵しました。 (とは言え、私は、「Der letzte Abend」も参照されていた可能性があることを否定するわけではありません。)
ちなみに、メンデルスゾーンの歌曲等の作詞者には、ハイネやゲーテのほか、ホフマン・フォン・ファラーズレーベンも名を連ねています。こんなところにも『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が元歌であるのではないか、と考えるヒントがあるようにも思われます。
なお、YouTubeには、「ついに登場、「故郷を離るる歌」 の忘れ去られた原曲、ドイツ歌姫によるドイツ語版 Der letzte Abend (Untertitel)/The Last Evening (subtitles)」という動画が挙げられていますが、これは、吉丸らが発表した楽譜に「Der letzte Abend」の歌詞を乗せたものです。元の民謡から音が一部変更されていることを全く無視したものであり(おそらくご存じなかったのでしょう)、これを「原曲」として発表することには無理がある、ということを指摘しておきます。
さて、独唱と吹奏楽のための編曲、前奏(私自身の創作)に続き『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が歌われます(一番のみ/もちろんドイツ語で)。間奏(前奏に基づく)を挟み吉丸作歌の『故郷を離るる歌』(これも一番のみですが…)が歌われる、という構成です。いくつかの声部が歌を装飾しますが、和声は基本的に吉丸らの歌に従っており、複雑な和音は間奏部を除き一切使っていません。 そして、楽譜の冒頭にはあえて「Mässig(mäßig)」と記しました。「節度を持って」、「穏やかに」という意味で用いています。
○セルパンは低音域の補強が目的であると考えられます。ゴセックの他の軍楽作品の自筆譜を見ると、セルパンはバスーンと同じ段に書かれている(つまり、ほぼ同じ動きをする)ケースが多いのですが、この『Symphonie en ut』場合それぞれの楽器が独立した動きを求められる場面もありますので段を分けて記譜されているのでしょう。
これらの楽器と(やはり紛失したと思われる)トランペット、ティンパニのパート譜は、ここまでの考察から、8月10日の祭典に際し書き加えられたのではないかと思われます。 セルパン、コントラバス(弦)、トロンボーンの部数は、「オリジナル」の編成に対応した数と考えられますが、これらのパートも祭典の際にはもっと多くの部数が作られていたと思われます。 コントラバス(弦)はセルパン同様低音域の補強を目的としています。上述のスコアには含まれていないのですが、例えば、1793年作曲の『Symphonie militaire [RH 62]』にも「SERPENT ou CONTRE=BASSE」というパート譜(図12)(註21)が作られているように、ゴセックの軍楽隊ではコントラバス(弦)を使用することは普通であったようです。ですから、この『Symphonie en ut』の場合も、パート譜自体は分けられてはいるものの、セルパンと同じ役割を求められたと思われます。
○記述の通り、コンスタン・ピエール著『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』に掲載されています(図13)。このリダクションを誰が担ったのかはピエールの著書からは分からないのですが、作曲家でもあったピエールを含め音楽院の関係者の手によるものと考えられます。
図13 『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』より
○このリダクションは、上記のスコアおよびパート譜を基に作られたと思われますが、それらと異なる点がいくつかあります。最も大きな違いは、前打音の記譜です。スコアおよびパート譜では小さな八分音符で記されている(解決音である四分音符を装飾している)前打音がこのリダクションでは全て通常の八分音符で記されています(四分音符を分割しています)。これは、リダクション担当者の解釈なのでしょうが、『Musique des fêtes』に掲載されている他の作曲家の軍楽作品(のリダクション)では装飾的な前打音がそのまま活かされているケースもあります。ゴールドマンとスミスによる編曲ではこの前打音の記譜が踏襲されています。記述(参照 ①作品成立の経緯を探る)のように彼らがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考える理由のひとつはこの点にあります。
(4) ゴールドマンとスミスによる編曲版
○上述のように、ピアノ・リダクション版を基に編曲されたと考えられます。
○フレデリック・フェネル Frederick Fennell(1914-2004)が著書『タイム&ウインズ(1954)』でゴールドマンの著書『The Concert Band(1946)』を引用しながら「フランス革命とバンドの発展」について述べているのですが(註22)、そこで引用されたゴールドマンの記述には『Musique des fêtes』の記述を参照したと思われる部分があり(参照①作品成立の経緯を探る)、ゴールドマンがピエールの著書を読み、研究したことがうかがえます。ゴールドマンらがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考えるもうひとつの理由はこのようなところにあります(もちろん、スコアやパート譜の手稿を参照した可能性を否定するものではありません)。 ただし、『Musique des fêtes』では作品の作曲年が「(178 -1794)」と記されていますので(図6 参照)、ゴールドマンらが本当に同書を研究したのであれば、出版譜の解説になぜ「1794年から95年にかけて作曲」と記されているのか、という疑問は残ります。
○ゴールドマンとスミスは、1953年にカテルの『序曲(ハ調) Ouverture pour instruments à vent』(1793年)を編曲してますが、このピアノ・リダクションも『Musique des fêtes』に掲載されています。『古典序曲 Symphonie en ut』同様、編曲の基になったと考えられます(註25)。
(註19)アンソニー・ベインズ著(福井一訳)『金管楽器の歴史』(1991年 音楽之友社)p.267
(註20)コンスタン・ピエール著『Le Conservatoire national de musique et de déclamation :documents historiques et Administratifs』(1900年)からは、1794年頃の国立音楽院 Institut National de Mnsiqueには副楽長ルフェーブルのほかに“Fouquet”、“Thiémé”、“Sarazin”という3人の「写譜者」がいたことが分かる。
(註21)『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年フロレアール号)
(註25)カテルが作曲した『Ouverture pour instruments à vent』は、そのパート譜が月刊誌『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年ジェルミナール号)に掲載されている。ゴールドマンらはこれも参照した可能性はある。
それでは、今の時代に『古典序曲/Symphonie en ut』を演奏する意義とは? 今一度、当時の状況や評価をも振り返りながら、現在における作品への向き合い方を探求します。
繰り返すようですが、ゴセックをはじめ革命期の著名作曲家が作った軍楽作品は今日の吹奏楽の歴史の出発点と言ってもいいでしょう。これらの作品がなければ、エクトル・ベルリオーズ Louis Hector Berlioz(1803~1869)の『葬送と勝利の大交響曲Grande symphonie funèbre et triomphale』(1840年)は生まれなかったかもしれません。さらに言えば、(これは軍楽隊に限ったことではありませんが)空間配置(ステージ上・ステージ外)へのこだわりもベルリオーズ以降のロマン派音楽の展開に大きな影響を与えていると考えることができるのです。
革命期、確かに音楽の機能、ありようは変化しました。求められたのは専門的知識や音楽的素養のない民衆にも聴きやすく「理解する」必要のないもの。旋律的なものが前面に出ており、伴奏は可能な限り単純であること。確かに革命に関連する作品に見られる傾向ですが、『Symphonie en ut』はどうでしょうか?
図7 『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号 より
作品そのものへの言及はないのですが、演奏の水準は高かったのでしょう。それは、軍楽隊員を養成する国立音楽院 Institut National de Mnsiqueの教育水準の高さをも示していると言えます。当時国民祭典で演奏する軍楽隊には、音楽院の生徒だけでなく教師も加わっていました(その中にはフルートの名手であり作曲家としても活躍したドゥヴィエンヌもいました)。もっとも、ぺロネ博士によると、国立音楽院はもともと(劇場の音楽家と同様)訓練された「学識ある」音楽家を対象にしていたとのことです。であるなら、演奏の水準が高かったことも頷けます(一方で、「騎士団員」と呼ばれる軍人音楽家−それは主にトランペット奏者や太鼓奏者−たちは、この種の訓練を受けていないそうです)(註14)。しかも、既述音楽誌がボエティウス引き合いに演奏を賞賛していることから見ても、それが単に実践的な演奏技術の高さを見せるだけのものではなかったということでしょう。なお、この時軍楽隊の指揮をとったのは副楽長のジャン=グザヴィエ・ルフェーブル Jean-Xavier Lefèvre (ou Lefèbvre)(1763~1829)であったようです(註15)。
確かに五線紙に書かれた情報は多くありません。ゴセックは「その時代」の書き方で作品を書いています。その背景には当然「その時代」の演奏習慣、様式(スタイル)といったものがあります。19世紀以降の、細かに書かれるようになった楽譜を見るのと同じ目で『Symphonie en ut』の楽譜を見た時、ピエールが書いているような、「特徴的な旋律はなく、展開もなく、代わりに単純なリズムの定型が豊富で、絶えず繰り返され、」という印象を持つ人がいても不思議ではありません。もちろん、ピエールを批判するわけではありません。おそらく実演を聴いたことはなかったでしょうし、古い時代の演奏法などを探求するような機運も今日ほど高くはなかったでしょうから。
「普及と教化の使命」と言う点ではアメリカも同じです。パトリック・サースフィールド・ギルモア Patrick Sarsfield Gilmore(1829~1892)の時代からジョン・フィリップ・スーザ John Philip Sousa(1854~1932)、そしてゴールドマン父子の時代と吹奏楽団の果たした役割は(たとえその手法が商業的なものであっとしても)大きなものだったのです。
ゴセックがハイドンやモーツァルトと同時代の人であることを思い出してみましょう(パリで初めてハイドンの交響曲を紹介したのはゴセックですし、モーツァルトはゴセックを「素晴らしい友達」と父への手紙に書いています)。ハイドンやモーツァルトの交響曲に向き合うのと同じ姿勢で、そして(今一度アーノンクールの言葉を借りるなら)「シューベルトもブラームスも知らず、むしろバロック音楽に通じた音楽家や聴衆のために書かれたという前提」に立てば、『古典序曲/Symphonie en ut』への向き合い方もこれまでとは違ったものになるような気がします。
日本でもそうした動きがないわけではありません。
2013年4月11日には東京ウインド・シンフォニカが『Symphonie en ut』を山本訓久氏の校訂(同じ手稿=おそらくスコアのみ=を参照したと思われます)および指揮により一部ピリオド楽器を用いて演奏していますし(「序曲ハ長調」とアナウンス)、2015年5月29日には名古屋アカデミックウインズが仲田守氏の指揮によりサクソルン属が加わらない編成で演奏しています。
(註14)論文『Le musicien militaire en France de 1795 à 1914 : éducation musicale et statut professionnel』(2015年) ぺロネ博士は、1793年から1795年の間にフランスの楽器演奏者の教育が進展し、音楽家の質が向上した、と述べる。軍楽隊の音楽家(教師)は、平均して2人の兵士を育成する義務を負っていたという。
(註15)コンセール・スピリチュエルのクラリネット奏者を務め、1778年からMusique des Gardes Françaisesで活躍、1789年から1817年までオペラ座のオーケストラ(音楽院)に在籍した。革命が始まると、パリ国民衛兵音楽隊の副楽長兼クラリネット奏者となる。ゴセックとともに音楽院の創設者の一人である。
確かに、近代の大規模な吹奏楽(管楽合奏)の歴史はゴセックが活躍した時代、つまりフランス革命期(1789〜1895)の軍楽隊に起源を持つと言っても過言ではありません。革命前のフランスの軍楽隊の規模や楽器編成などは決して大規模とは言えないもの(20人に満たない)でしたが、1789年のバスティーユ襲撃後に結成された国民衛兵隊 la Garde nationaleに置かれた軍楽隊は45人であり、当時としては異例の規模でした。この軍楽隊の設立に尽力したのはベルナール・サレット Bernard Sarrette大尉(1765~1858)。そして、楽長(中尉)の任にあったのがゴセックです。軍楽隊の最初のメンバーは、「衛兵学校l’École des Gardes Françaises」(1764年設立)の音楽学生たちでした(註2)。
のちの国立高等音楽院の上級事務官で作曲家でもあったコンスタン・ピエール Constant Pierre (1855~1918)が著書『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』(以下『Musique des fêtes』)(図1)の中で、この軍楽隊の業績を簡潔かつ的確に記しています。
「パリ国民衛兵の音楽家たちが革命期の祝祭や公的儀式に参加したことが、音楽院創設の契機となったことは周知の事実である。彼らの賢明な取り組みと驚くべき活動により、これらの芸術家たちは人気を博し、当局と芸術の発展に貢献すると同時に、音楽の力、ひいては音楽の普及と発展に専念する大規模な教育機関の有用性と必要性を実証した。こうした公的・公式の行事への彼らの協力の経緯は、音楽院の特別な歴史と、一般的な政治史と深く結びついたパリ市の歴史の両方に関連している。 (中略) この特別なジャンルの音楽(註:「軍楽」のこと)において、それらが、パリ国民衛兵の音楽家たち、すなわちコンセルヴァトワールの創設者たちのイニシアティヴにより、著しい進歩を遂げているという観点からも、(「軍楽」を)復活させることにこだわったのです。この芸術家たちは、それまでクラリネット、ホルン、ファゴットで構成されていた軍楽に、まだほとんど使われていなかった既知の管楽器を採用し、新しいものを創造した。加わったのは小フルート(ピッコロ)、オーボエ、トランペット、セルパン、トロンボーン、テューバ・クルヴァ、ブッチーナ、打楽器など。さらに、彼らはレパートリーの幅を広げ、独創的な曲でレパートリーを充実させた。楽器の編成も多様で、演奏会用序曲や交響曲の形で構想され、当時の音楽をほぼ独占的に形成していた喜歌劇のアリアのメドレーよりも発展的で興味深いものであった。確かに、これらの作品は、今日与えられているような発展性からはほど遠い。それでも、当時としては驚くべき革新性を持っている。これらの作品は、回顧的な主題を扱った作品の中で呼び起こすべき、古くからの特徴的なモチーフを探している人たちにテーマを提供するものであり、また、これらの作品のいくつかは、チボリ公園 Jardin Tivoli,やパヴィヨン・ダノーヴル Pavillon de Hanovreなど、さまざまな公共施設が主催する吹奏楽コンサートのプログラムに登場していることにも触れておきたい。」
図1 『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』の表紙
国民衛兵隊の軍楽隊は翌年70人に拡大されます。財政的な問題もあり1792年には解散の憂き目に遭いますが、その後「国立音楽院 Institut National de Mnsique」(1973年11月8日設立)に統合されました。この国立音楽院は、サレットとゴセックが1792年6月9日に設立した「国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale」(註3)が基になっており、1795年8月3日設立の「高等音楽院 Conservatoire de Musique」(今日の「パリ音楽院」)へ繋がっていきます(註4)。国立音楽院は国の要請により、すべての公的な祭典に軍楽隊を提供する義務を負っていました。ゴセックはこれら教育機関で指導的役割を果たす傍ら、軍楽隊向け、「国民祭典」向けの作曲を多く行なったのです。大規模な合唱を伴う吹奏楽作品が目立ちますが、行進曲や序曲、交響曲なども作曲しました。
ピエールには『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』(以下『Les hymnes』)という著書もあります(図2)(註5)。『Musique des fêtes』では主に「音楽院」にゆかりのある作家の148曲がすべてピアノ・リダクション版で紹介されていますが、『Les hymnes』ではその対象がさまざまな作家にまで拡大され、1789年から1802年にかけて作られた「革命歌」など2337曲を演奏形態別に整理し、それらの概要(タイトル、作者名、テーマ、出典、出版社、版の性質などに加えて、その起源、特殊性、変種、回想や備考、主な演奏などを記述した注釈など)が記されています。その中で『Symphonie en ut, par GOSSEC.』という作品が譜例(冒頭のみ)を伴い紹介されているのですが、これこそ私たちが知る『古典序曲』の原典なのです。なお、『Musique des fêtes』にはピアノ・リダクション版が掲出されています。
図2 『Les hymnes et chansons de la Révolution 』の表紙
幸いなことに、この『Symphonie en ut』のスコアとパート譜(一部)の手稿はフランス国立図書館(BnF)が運営する電子図書館(Gallica)で閲覧することができます。ただし、いずれもゴセック自身の手によるものではありません。おそらく、ゴールドマンらはこれら史料に基づき編曲したのでしょう。もちろん、編曲当時に電子的な手段はありませんから、当時国立高等音楽院に保存されていたと思われる手稿を直接見たか、『Musique des fêtes』を手に入れたのではないかと思われますが、ピアノ・リダクション版を基に編曲した可能性が極めて高いと考えられます(③校訂方針〜1. 参照楽譜を概観するで詳述します)。
現在も出版されているゴールドマンらによる編曲譜での解説によると、作品は「1794年から95年にかけて作曲」とされており、日本国内では「1795年作曲」と認識されていますが、今回参照した史料等からはそれを証明する記述を見つけることはできません。 当時の音楽誌(日刊)『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号(1794年8月21日/共和国暦II年フリュクティドール4日)(以下『Journal des théâtres』)(図3)からは、作品が1794年8月10日(共和国暦II 年/テルミドール23日)に、「国立庭園(現在のチュイルリー公園)」における「国民祭典」の幕開けに演奏されたことがされたことが確認できます。ただし、これが初演であったかどうかは不明です。また、同誌の記述から、国立音楽院 l’Institut National de Mnsiqueの軍楽隊が演奏したということも分かります。当時の音楽院には教師115名、生徒600名ほどがいたとされていますが、これらすべての人が演奏に携わったのかどうかは不明です。しかし、この祭典の2か月前に催された「最高存在の祭典」には全員で参加し、ゴセックの『Hymne à l’être suprême』(自筆のスコアのみ現存します)などを演奏したようです(註6)。
図3 『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号
Gallicaは、演奏場所を「オペラ座」と説明しています。それは、パート譜の作成がオペラ座の写譜家の手によるものであると推定されること(実際は違うようです。「③校訂方針 1. 参照楽譜を概観する」に詳述)、また、保存されているパート譜に「オペラ座における演奏会のために作曲」とのメモが添えられているためだと思われます(図4)。なお、8月10日にオペラ座で何らかの演奏会が催されたことを確認することはできていません(ちなみに、『Journal des théâtres』第6号(1794年8月23日/共和国暦II年フリュクティドール6日)では、移転したオペラ座が8月7日(テルミドール20日)に舞台『Réunion du 10 août』の無料公演で幕を開けたことが報じられています)。
図4 パート譜(手稿)に添えられたメモ
上述の通り『Symphonie en ut』は「国民祭典」で演奏されたことは確認できているのですが、それが目的で作曲されたわけではないと考えられます。
1794年から発行された月刊誌に『Musique à l’usage des fêtes nationales』というものがあります。「国民祭典」で使用された音楽作品の楽譜(主にパート譜)のみで編集されたものです。その第6号(共和国暦II年フリュクティドール号)には8月10日の祭典で演奏された作品が掲載されていますが、『Symphonie en ut』は掲載されていません(図5)。それは編集上の都合かもしれませんので、これをもって作曲の目的、経緯を推定することは難しいと思われます(註7)。
図5 『Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号
前掲のピーエルの記述にあるように、さまざまな公共施設が吹奏楽コンサートを主催していたようですから、オペラ座がそのようなコンサートを開催していたとしても不思議ではありません。であるなら、8月10日ではない別の日だったのではないかと考えられます。つまり、Gallicaが説明している「1794年」よりも前に作曲された可能性もあるわけです。ピエールが『Musique des fêtes』で『Symphonie en ut』の作曲年代を確定させていないのも頷けます(図6)。
図6 『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』より
ちなみに、フランスの音楽学者パトリック・ぺロネ Patrick Péronnet博士(註8)によると、1794年以降民衆は屋内(革命によって破棄された教会や寺院)で「祭典」と行うことを好んだそうです。当然ながら、軍楽隊(オーケストラ)や合唱団の規模は縮小されることになります。80人の合唱団に対し約20人の器楽(管楽器。弦楽器は貴族的すぎると考えられていました)奏者、という規模です。図4にある楽器編成はそれに近いものがありますので、「オペラ座における演奏会」もまた「祭典」であったと考えることができます。 (ぺロネ博士を紹介してくださった作曲家ギョーム・デトレ Guillaume Détrez氏に対し多大なる感謝の意を表します。)
さて、Gallicaの説明には興味深い記述があります。それは、『Symphonie en ut』が『Symphonie à grand orchestre n°2 en do majeur [RH 47 / B 85] 』第一楽章の管楽版ということです(註9)。手稿や『Les hymnes』にはそれと分かる既述はありません。ゴセックの最新の伝記作家であるクロード・ロール Claude Roleがシャルル・エナン Charles Héninとともに2004年に編纂した作品目録(ヴェルサイユ・バロック音楽センター(以下「CMBV」)刊)によると『Symphonie à grand orchestre n°2』は1777年頃に作曲されています。
ゴセックは「フランス交響曲の父」と称されるほど多くの交響曲を作りました(60曲ほど)。大作曲家ジャン=フィリップ・ラモー Jean-Philippe Rameau(1683~1764)率いるオーケストラ「ラ・ププリニエール La Pouplinière」でヴァイオリン奏者を務めた時期に客演指揮者として招かれたヨハン・シュターミッツ Johann Wenzel Stamitz(1717~1757)と出会い、彼は「マンハイム楽派」のスタイル、その革新性を知ることになります(その影響はもちろん『Symphonie à grand orchestre n°2』/『Symphonie en ut』にも見てとれます)。そして、「ラ・ププリニエール」在籍中に約30曲、その後も、1769年に自ら創設したオーケストラ「コンセール・デ・ザマテュール Concert des Amateurs」や、1773年に再建され人気を博した「コンセール・スピリチュエル Concert Spirituel 」のために交響曲を作曲、指揮しました。当時彼の交響曲の主たる客層は上流、中流の市民たちであったのは確かです。オペラ座でも仕事を持ち、貴族による長年の庇護にもかかわらず、「革命」が始まるや民衆の側に立ち、国民衛兵隊の軍楽隊で活躍した彼は、どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?ちなみに、ロールとエナン編纂の作品目録(上述)には「革命の音楽」という分類項目がありますが、『Symphonie en ut』や、同じく軍楽隊向けの『Symphonie militaire [RH 62]』(1793年)は「交響作品」に分類されています(その辺りの事情を直接ロールやエナンに尋ねようとしたのですが、CMBVによると「ともにかなりの高齢であるため対応困難」とのことでした)。
あくまでも推測なのですが、“マエストーソ”の音楽”(楽譜にはAllegro maestosoと標記されています)が軍楽に相応しいと考えたのではないか、ということです。ゴセックに限らず、革命期に作曲された音楽や祭典の音楽の多くは“マエストーソ”です。もうひとつは、“ハ長調”という調性にあります。当時の楽器(特にクラリネット)の機能、性能を考えて、ということは十分考えられます。ハ長調やヘ長調の作品が多いのは当時の楽器の機能、性能と無関係ではありません。すでに17世紀末には、マルカントワーヌ・シャルパンティエ Marc-Antoine Charpentier(1643~1704)が「愉快、軍隊的」と表現していますし、かのジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau(1712~1778)もハ長調を「愉快、壮大」と表現しています。ドイツでも、ヨハン・マッテゾン Johann Mattheson(1681~1764)が1713年に、「軍隊を鼓舞することに役立っている」(註10)と書いているくらいですから、ゴセックがマエストーソでハ長調の『Symphonie à grand orchestre n°2』第一楽章を軍楽隊向けに改編しようと考えても不思議でないように思います。
革命をきっかけに音楽は民衆に近づきました。ゴセックをはじめ多くの作曲家が「革命歌」を作りました。それらは民衆にも聴きやすいものであったはずです。ただし、これはニコラウス・アーノンクール Nikolaus Harnoncourt(1929~2016)も指摘するように「一種の衰微」とも言えます。ゴセックらが言わば「使命」として「革命歌」を作っていたことは十分に理解できるのですが、それだけで満足していたわけではないと思いたくなります。ゴセックだけでなくフランソワ・ドゥヴィエンヌ François Devienne(1759~1803)やエティエンヌ=ニコラ・メユール Etienne Nicolas Méhul(1763~1817)、シャルル・シモン・カテル Charles Simon Catel(1773~1830)など著名な作曲家たちも「交響曲」や「序曲」を軍楽隊むけに作曲しています。これは何を意味するのでしょうか?
主に宮廷や上流、中流階層のために作曲していたゴセックらが、軍楽隊を通して「こうした音楽も民衆の手にあるのだ」と伝えようとした、と考えることはできないでしょうか?先に呈した「どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?」という疑問に対する答えはこんなところにもあるような気がします。
ゴセックは、「音楽は国家(言い換えれば 「国民」)によって賄われるものであり、それはすべてのフランス国民の音楽である」と書きました。このことは、「民衆のために」書くことの重要性を説明している、とペロネ博士は言います。革命期、祭典向けの賛歌や行進曲といった機会音楽を作ることが多かったゴセックが『Symphonie en ut』を作曲(改編)をしたことは、宮廷や上流階層というある意味閉鎖的な環境に置かれた音楽が全ての民衆に開かれたことを示す一例と考えていいでしょう。
(註3)国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale は120人の学生音楽家(全員国民衛兵の息子たち)を擁するまでになり、14の軍隊、そして共和国の軍隊のために軍楽士を養成した。各生徒は制服、楽器、楽譜を自分で用意しなければならなかった。
(註4)現在の正式名称は「パリ国立高等音楽・舞踊学校」
(註5)『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』はもともと、1882年にピエールらが行った音楽院設立の準備行為を掘り下げる研究に端を発しており、『Là musique aux fêtes et cérémonies de là Révolution française』、『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』とともにパリ市の刊行物として発刊された。もっとも、その内容は1894年から1895年にわたり数度発表されていたようだ。
(註7)1794年8月10日の祭典では、『Symphonie en ut』に続き、やはりゴセックが作曲した『Hymne à l’être suprême』が再演されている(初演は1793年11月10日、「理想崇拝の祭典」にて)。作詞はマリー=ジョセフ・シェニエ Marie-Joseph Chénier(1764~1811)。『Hymne à l’être suprême』の楽譜も『Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号には掲載されていない。(図5参照)なお、『Hymne à l’être suprême』は1794年6月8日の「最高存在の祭典」においては歌詞を変えて演奏されているが、1794年8月10日の祭典ではシェニエの歌詞に戻されたようだ。
(註8)パトリック・ぺロネ博士(1959~):音楽学博士(パリ・ソルボンヌ大学)、IReMus音楽学研究所(BnF / CNRS)準研究員であり、AFEEV(Association Française pour l’Essor des Ensembles à Vent)幹事。専門領域は18世紀から20世紀の管楽アンサンブル、その範囲はレパートリー研究にとどまらず、政治的、社会的影響にまで及ぶ。著書に『Les Enfants d’Apollon. Les ensembles d’instruments à vent en France de 1700 à 1914』(2023)など。
(註9)「RH○○」はロールとエナンによる整理番号。「B○○」はアメリカの音楽学者バリー・S.ブルックによる整理番号(「Br○○」と記されることもある)。ブルックは『Symphonie à grand orchestre n°2』の作曲年を1773年としている。なお、ロールとエナンは『Symphonie en ut』に「RH 63」という整理番号を与えているが、ブルックは整理番号を与えていない。