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タグ: 有田正広

「シンコペーション」論

2020年10月21日


[0]はじめに

 本論は「シンコペーション」について、その「正体」を考察するとともに、その「演奏法」、あるいは「表現方法」の新たな可能性を探ることを目的としており、特に学校現場等で指導にあたる皆さまの参考になれば、と考えています。

 前半では、古今の作曲家や演奏家、理論家などの著述を参照しつつ、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直します。

 後半は、前半の考察と私の実践を踏まえた「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を提案します。

 なお、本論で参照する海外の書籍等については、原文ではなく日本語訳のものを基にしていることを了承ください。


[1]シンコペーションの正体

●「シンコペーション」について音楽理論書等ではおおよそ以下のように解説されています。

「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらす」

「強拍と弱拍の位置を本来の場所からずらしてリズムに変化を与えること」

「「切分音」ともいい,拍子,アクセント,リズムの正常な流れを故意に変えること」

「1小節内の弱拍あるいは弱部を強調するリズムの取り方」

「軸となる拍の位置を意図的にずらし、リズムを変化させることで、楽曲に表情や緊張感をあたえる手法」

「アクセントの位置を変えることで、楽曲に緊張感や表情をつける手法」

「本来強調されない拍を強調したり,逆に強調されるべき拍を強調しないことによって、 規則的な拍子の強弱パターンを一時的に変化させること」

 多くの理論書では、「拍節」に絡めてシンコペーションを解説していますが、そもそも、「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」とが混同して述べられているのではないかという疑問が私にはあります。上の記述にある「アクセント」という言葉も、拍節内の「強弱によるストレス関係」(つまり、強拍、弱拍の存在)を前提に書かれてものであると推測できます。

 問題は、「拍節リズム」における「強弱ストレス」が音自体に存在する(実際の音で示される)かのように述べられているところにある、と私は考えています。


●例えば、17 世紀の⾳楽理論では「⼩節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの⾔及を含んでいない」とされており、フランスでは古典詩学の詩脚を⾳楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと⾔われています。

 「拍節」がアクセントと結びつけられて考えられるようになるのは18世紀、つまりバロックの時代ですが(そこには、器楽の発展という側面があると考えていいでしょう)、パウル・ヒンデミット(1895~1963)が言うように、もともと「「拍節リズム」における「強弱のストレス」は「われわれの感覚によって⽣じるものであって、⾳⾃体に存在するものではない」(『新訂 音楽家の基礎練習』より)のです。

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 ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が著書『古楽とは何か ―言語としての音楽』で次のように指摘しています。

・バロック⾳楽においては、当時の⽣活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。

・⾳符にも「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」があった。

・尊卑の観念はもちろん強調と関係する。

・この図式は拡⼤され、⼩節群や全曲にも当てはめられた。また縮⼩もされた。

 アーノンクールの言う「ヒエラルキー」が「拍節」にも当てはめられたと考えることは十分可能でしょう。

 こうした指摘は、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「拍節」における「強弱」関係が、ある意味「人工的」に作られたということを示唆しているように思えるのです。

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 また、アマデウスの⽗、レオポルド・モーツァルト(1719~1787)は著書『ヴァイオリン奏法』(1756)の中で、「表現のためのアクセント」について述べているのですが、そこで⽰された「強調」は、現代の「拍節」論におけるアクセントと⼀致しています(「作曲家が特別の指⽰をしていない限りにおいて」、との但し書きがあります。そして、レオポルドの記述は、アーノンクールが言及した「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」という考え方がこの時代にも残っていたことを示しています)。

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 ヒンデミットはさらに、こうも言っています。

(「拍節」のアクセントは)音量的アクセント(=「表現のためのアクセント」と解釈していいだろう)とは本質的に違うものであり、この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば⼀致し、拍⼦のアクセントが強調されるのだ。

 「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」との混同は、こうしたところに理由があるのかもしれません。 (ヒンデミットは、「⾳楽作品は、拍⼦の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。」とまで言っています。そこには「和声」も大きく関わってくると言っていいでしょう。)


●ところで、「拍節」が「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは疑いようもありません。古くから音楽の理論書等では「最初の音」に強勢を置くことでその構造を説明してきたのですが、果たしてそれが周期性や回帰性を示すことになるのでしょうか?

 拙稿『三拍子の話』でも考察しているのですが、私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性や回帰性をもたらすのではないか、と考えています。

 その「準備」は当然小節内の最後の拍で行われることになります。「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは(僅かなものではあるが)、音量的なアクセントだったり、長さであったりするかもしれなません(強さには長さが、長さには強さが伴うということも知っておきたいです)。つまり、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」関係とは異なるものです。

(そう考えると、例えば練習でメトロノームを使用する際、拍節の変わり目を意識づけるという意味では、「チーン、カチッ、カチッ、カチッ」というパターンを、「カチッ、カチッ、カチッ、チーン」というパターンに変えてやってみることを検討してもよいのではないか、という気もします。)

 以下、簡単にまとめてみます。

・もともと「拍節」における「強弱」は⾳⾃体に存在するものではない。

・「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」(ここには作曲と演奏の両領域が含まれる)の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」と同じとはいえない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば1拍目の)音に何らかの「重さ(あるいは強勢)」を置くことで起こるのではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、1拍目が何らかの形で強調されることは当然起こり得る)。


●いくつかの作品で確かめてみましょう。

 まずは、日本人なら誰でも知っているこの歌、

 旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型です。

 この旋律を上記譜例のような強弱を実際に付けて歌う人はまずいないでしょう。歌詞(言葉)に内在するアクセントが優先されるはずです(この曲であれば、奇数小節の最初の音にわずかながら強勢が置かれるでしょう)。

 この曲はどうでしょう?

 これも旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型ですが、言葉(シラブル)の持つ強弱ストレスも「拍節リズム」の強弱ストレスと一致しています。つまり、上述のヒンデミットの言及「2種類のアクセントの位置が一致する」典型でもあると言っていいと思います。

 だからと言って、各小節の最初の音符にさらに強いアクセントを付けて歌うことは考えられませんよね。

(ヨーロッパの著名なピアニスト(故人)が、ベートーヴェンの強弱法に関する講演の中で、この部分を例に「拍節リズム」における強弱の重要性を説いています。次節で詳述します)。

 上記2つの例は歌詞(言葉)を伴うものですが、では、歌詞(言葉)を伴わない場合 はどうでしょうか?

 拙作で恐縮ですが、『メモリアル・マーチ「ニケの微笑み」』を例に挙げてみます。

 行進曲は特に「拍節感」が大切だとされていますが、譜例の上の段の旋律に「拍節リズム」の強弱を当てはめて歌ってみるとどうでしょうか?

 下の段のベースライン、これも「拍節リズム」の強弱関係に従って強勢を置いて歌ってみましょう。

 非常に窮屈な思いをするのではないでしょうか?

 歌詞のない作品に取り組むときでもよく、「歌いましょう」と言われることは多いのですが(「拍節感」が大切だとされる行進曲であっても)、常に「拍節」の強弱関係に意識が向いてしまうと(それが優先されてしまうと)「歌」は成り立たないでしょう。

 とはいえ、「拍節リズム」を全く無視するわけにはいきません。

 「拍節リズム」は「音楽リズム」に「秩序」と「刺激」をもたらすからです。

(「拍節アクセント優先」の考え方は、「言葉」によるアクセントがないため何らかの「秩序」を示す必要があったからかもしれない、とも思えてきます。)


●「シンコペーション」自体は「音楽リズム」に「刺激」を与えますが、その刺激は「拍節リズム」によってもたらされます。「拍節リズム」があるからこそ「シンコペーション」という概念が生まれたとも言えるのです。だから、「シンコペーション」を「拍節」の強弱ストレスに基づいて述べることは不可能なことではありません。しかし、「拍節リズム」の本質(「強弱」が⾳⾃体に存在しない、ということ)を理解しておく必要があります。

 「シンコペーション」には「切分音」という訳語が当てられています。「切分拍」ではありません。実際に響く音を切り分けるということです。「拍節リズム」の「強弱」が音自体に存在しないということを前提とすれば、「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて」や「拍の位置をずらす」という説明は成り立たなくなります。ヴィオラ奏者・藤原義章氏の「今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくるリズムパターン」(『リズムはゆらぐ』より)という説明が最も本質を突いているように思われます。

「シンコペーション」は、「拍節」における「強弱」の位置を入れ替えることではない、「拍」がシンコペートされるわけではないのです。

 (藤原義章氏の著書『リズムはゆらぐ』や『美しい演奏の科学』は、リズムを考察する上で一読に値すると思います。ただし、藤原氏が「強弱リズム論」に徹底して批判的な態度を示しているのに対し、私は「古くからある理論は上手に活用すべし」という考えです。氏は著書で「自然リズム」という言葉を使っており、演奏する上で最重要視しておられます。人間の深層部分に潜在しているものということですが、それは私が本論で用いる「音楽リズム」という言葉と同じです。もともと音楽自体、人間が音をコントロールすることで創造されたものですから、「自然」というものを音楽に求めることは極めて難しいのではないか、と私は考えます。ドイツの哲学者で『リズムの本質』という著書でも知られるルートヴィヒ・クラーゲス(1872~1956)が言うように、人間の深層部分に潜在するリズムが優位に立てば立つほど緊張感は緩む。だから、上述したように「拍節リズム(クラーゲスは「拍子」としています。)」を無視するわけにはいかないのです。私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と考えるのはこうしたところに理由があります。)

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●「ヴィーン古典派」時代の音楽家・理論家・教育者であったダニエル・ゴットロープ・テュルク(1750~1813)の名著『クラヴィーア教本』(1789)には次のような記述があります。

シンコペートされた音とは、拍ないし部分拍を数えるときに、頭のなかで切り分けなければならない音符のこと。換言すれば、その半分が先行する拍に属し、他の半分は後続の拍に属するという音符のことである。(「拍節」の項で述べられています。)

 この点については、私の師のひとりである東川清一先生が著書『だれも知らなかった楽典のはなし』で触れていらっしゃるのですが、先生はシンコペーションの本質的特徴は「アクセントの移動」と仰る…。
 しかし、よく読めば、「拍節リズム」のアクセントの移動ではなく「音楽アクセント」の移動であることがわかります。

  上の楽譜中、*印が付された音が「シンコペートされた音」ですが、テュルクの記述に従い各音を切り分けて記譜すると、以下のようになります。

(譜例は筆者による)

  テュルクの言う「シンコペートされた音」とは、「拍頭を跨いで奏せられる音(拍頭でアタックしなおさずに)」ということが明らかです。

 では、音がシンコペートされる前はどのようなリズムでしょうか?

 上記の譜例から「シンコペーション」を除くと、以下のようになるでしょう。

 「cyncopate」は本来「中略」や「中断」、「短縮」を意味します。であるなら「シンコペートされた音」は、テュルクの言う音とは違うものになるのではないでしょうか?

 どの音が「中断、短縮」されたかは一目瞭然です。

 つまり、テュルクの言う「シンコペートされた音」は、「先行する音をシンコペートした音」ということになるのです。

 「切分音」という訳語もこうした、「された」「した」の関係を理解することで初めて意味を持つのだろう、と思います(一部理論書にはこうした点に言及したものがあります)。

 歴史的な理論書に対し批判的な視点で述べたのですが、それでも、テュルクの記述からは、得るものがあります。「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立ったものだということも示しているからです。

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●テュルクは「強調されるべき音」の項でこうも述べています。

シンコペートされた音(=「先行する音をシンコペートした音」)はその出だしから、したがってそれが弱拍と強拍のいずれにあたるにせよ、強く奏さなければならない(中略)このようなシンコペートされた音が用いられるのはなかでも、しばらくのあいだ過度の単調さを打ち破って、いってみれば拍の位置をずらすためである。シンコペートされた音の前半が弱く奏され、その後半が強調されたのでは、達成されないのである。

 「弱拍」や「強拍」、「拍の位置をずらす」という記述は、ここまでの考察とかけ離れたものですが、この時代の音楽のありようを示していることは確かです。

テュルクが述べているように、「先行する音をシンコペートした音」には何らかの強調が必要となります。

・先行する音をシンコペートしたことを示すため

・先行する音をシンコペートしたことにより、「長さ」を持ったため(一部例外はある/長さには強さが伴う、ということは既述の通り)

という2つの理由からです。つまり、「シンコペーション」の強調は、「拍節」の「強弱ストレス」とは無関係になされるものなのです。結果として「弱拍」とされる拍にあたる音が強調されることになるのですが、テュルクが「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立っているからこそ、「いってみれば」という表現をしているようにも思えるのです。

 ちなみに、レオポルド・モーツァルトは『ヴァイオリン奏法』の第12章でこのように言及しています。

 小節をまたぐような音符を分けてしまったり、それを強調したりしてはいけない。むしろ拍の最初にあるかのように始め、静かに保っただけでいい。

 「シンコペーション」を思わせる記述なのですが(そもそもレオポルドの著書に「シンコペーション」という言葉は出てきません)、ここでレオポルドが言う「強調」は「表現のためのアクセント」として(意識的に)付されるアクセントを意味しており、「長さ」を持ったことにより生じる強調までをも否定したわけではない、と読み取れます。「拍の最初」(「拍節の最初」の間違いではないだろうか…?)という記述が、それほどの強調は必要とはされなくとも、他とは区別される音であるということを示していると、考えられるからです。

(もし、「拍節の最初」ということであれば、レオポルドが同著の同じ章で、「強拍にあるその他の音(つまり、「表現のためのアクセント」が付けられていない音符)は、常に少し強くして他の音と区別されるが、あまり強くしすぎてはいけない」と述べていることとの整合性が取れるのではないか、と考えるのですが…。)


●もっとさまざまな(古今の)理論書等を参照する必要があるのかもしれませんが、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直すことがある程度できたのではないかと考えています。

 次節では、ここまでの考察と実践を踏まえ「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を探っていきます。


[2] 「アーティキュレーション」の視点から演奏法を考える

●楽譜に記された「シンコペーション」を実際の音としてどのように示すか…

 その音の立ち上がりに何らかの強勢を与えることが現代では一般的でしょう。ここまでの考察からも、あるいは歴史的な理論書にある記述からも疑いようはありません。そして、それが「強拍」と「弱拍」のパターンを変えるという類のものではない、ということは再度確認しておきたいと思います。

 ただし、強勢を与えることが単に「慣習」だからということであれば少々問題でしょう。

 拙稿『三拍子の話』や雑誌への寄稿文にも書いているのですが、「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。 既存の、誰もが理解していると思われる(「慣習化」している)理論であろうとも、一度は「なぜそうなったのか」「なぜそうでなければならないのか」と考えてみることは有益であると私は思います。


●以前、ヨーロッパのある著名ピアニスト(故人)がベートーヴェンの強弱法について講演したものを目にする機会がありました。ベートーヴェンの時代の音楽様式、演奏様式に沿った、深い内容でした。このピアニストは、楽譜に書き表すことのできないデュナーミク(インネレ・デュナーミク)の大切さを説いた上で、実際の音にもそうした強弱が反映されることの重要性を強調していたのですが、このインネレ・デュナーミクの中心に置かれたのが「拍節リズム」の強弱でした。

 「音楽の自然な表現力」を求めるこのピアニストが「拍節リズム」を「音楽の自然な抑揚」として述べている(前節で取り上げた「第九」も例に挙げているのですが、明らかに、言葉の持つ自然なアクセントと「拍節における強弱」を混同して述べています)ことに若干の違和感を持ったのですが、いくつかの作品を例に何度となく「通常の法則(リズムの強弱に準拠したデュナーミクのイントネーション)に固執することなく」と繰り返していたところを見ると、「そのように決まっているから」だけでは音楽にならない、ということを言っているようにも感じました。

 ちなみに、このピアニストが「通常の法則に固執することなく」と言っていたベートーヴェンの初期のソナタのある部分、実際そのように演奏しているかを確かめてみたところ、見事に「通常の法則」で演奏されていました(録音と講演の年代に数十年の開きがあるので、このピアニストの中で何らかの変化があっても不思議ではありません。そこがまた、音楽の不思議、魅力でもあるのです。私は、決してこのピアニストを否定しているのではなく、むしろ、若い頃からその演奏に繰り返し触れてきました)。


●さて、「シンコペーション」の演奏法、表現方法ですが、その音の立ち上がりに何らかの強勢を置くということは、本当に「そう決まっている」からなのでしょうか?であれば、「なぜ」?違う方法、他の可能性はないのでしょうか?

 アントニー・バートンが編集した『古典派の音楽 歴史的背景と演奏習慣』の「弦楽器」の章でダンカン・ドルースが「シンコペーション」について次のような記述をしています。

当時は、また19世紀に入ってからも、これと(各音の最初にアクセントをつけてシンコペーションを強調するやり方)は違った方法が使われたという証拠がある。バイヨは1834年の『ヴァイオリンの技法』でもっとも完璧な説明を行なっている。すなわち、移動したアクセントがシンコペーションの最初にスフォルツァンドを要求したり、曲の静かな性格がアクセントのない演奏を暗示するのでないかぎり、演奏者は「音をだんだんふくらませて、音の最後まで弓を、ただし穏やかに、加速させなければならない」―したがって、次の音を静かに始めるよう注意しなければならない―というのである。古典派のレパートリーには、このような抑揚を付けたシンコペーションによって効果を高めるパッセージが無数にある。

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 レパートリーの一例としてドルースは、ベートーヴェンの『ソナタ第7番』の第一楽章を挙げています。

 果たして、バイヨが述べるような演奏法は実際に受け継がれているのでしょうか?

 譜例に挙がったベートーヴェンの『ソナタ』、20世紀の大演奏家たち、現在活躍する演奏家たちがどのように演奏しているかを確かめてみました。

 シゲティ、ハイフェッツ、シェリング、グリュミオー、メニューイン、スターン、オイストラフ、ヘンデル、パールマン、ズッカーマン、クレーメル、ムター、カヴァコス、ファウスト、樫本大進、庄司紗矢香…、誰一人としてドルースが取り上げたバイヨの演奏法は採っていません(もっとも、譜例に挙げられたこのフレーズ、ヴァイオリンが演奏する前にピアノに登場します。ピアノがこの譜例のような強弱を表出できるでしょうか(フレーズ自体がクレッシェンドしているのならまだしも)?つまり、例として挙げること自体に少々無理があるような気がするのですが…。そもそも、ベートーヴェン自身がそれを意図していたとも考えにくいです)。

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 ただし、受け継がれてはいないものの、現在「慣習」となっている演奏法とは違う考え方があったという事実は知っておいたほうがよいでしょう。こうした演奏法が顧みられ、数十年後には一般化する可能性がないとは言えないのです。そして、バイヨの論が、「シンコペーション」を「拍節」の「強弱」の移動とは考えていないという点は見逃せません(ただし、読み方によっては、バイヨが「拍節」内の各拍頭にある種の強勢を置かねばならないと考えていたのではないか、とも思えます。前節で見たテュルクの考えとは全く逆です)。

 しかしながら、「その音の立ち上がりに何らかの強勢を置く」という演奏法にある意味淘汰されてきたということは、そこに人間の「感覚」が大きく関わっているということだけは言えるでしょう(いつも思うことですが、「理論」というものはいくら科学の目が入ろうとも、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされ、それを繰り返して今日に至っているはずなのです)。

 では、その感覚とは?

 今一度、前節で参照した藤原義章氏の説や、テュルクの論述に関する考察から。

・今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくる

・先行する音をシンコペートしたことを示す

・先行する音をシンコペートしたことにより「長さ」を持った

 こうした条件下、人間の感覚としては何らかの強勢を置きはしないでしょうか?それが例え、上記譜例のベートーヴェンの『ソナタ』のように p のフレーズになったとしても(件のフレーズの直前までは f )。もちろん、「シンコペーション」のよる「中断」が音量の変化を伴って行われることは、上記ベートーヴェンの『ソナタ』の例を見るまでもなく普通にあることです。そして、音量的な変化と音(あるいはフレーズ)の立ち上がりに置かれる強勢とを混同してはならないことは今さら言うまでもありません(バイヨやドルースの論述に違和感を持つのはこうした点に起因します)。

●バイヨやドルースの論述に接したことから、多くの演奏に触れることができたのはある意味収穫です。

 どれひとつとっても同じ表現はありません。件の「シンコペーション」を取り上げてみても、強勢の置き方、音の「抜き方」、音の保持のしかた、と演奏者それぞれの色があります、味があります。つまり「アーティキュレーション」が明瞭である、ということです。

 「アーティキュレーション」、ここに「シンコペーション」の演奏、表現を豊かにするヒントがあるのではないでしょうか?

 これまでの考察から、「拍節」における「強弱」の移動ということ以上に「アーティキュレーション」という視点から「シンコペーション」演奏法を考える方がはるかに音楽表現を豊かにするはずだ、というのが私の結論です(私がベートーヴェンで接した多くの演奏家だって、「拍節」の「強弱」の移動ということよりも、その音にどう表情づけするかに神経を使っているはずですから)。

 「ここは拍の強弱が入れ換わっているから強く弾いて」と指導するよりもはるかに音楽的と言えるでしょう。


●今一度、前節(テュルクの論述に関する考察の項)の譜例を挙げてみましょう。

 「シンコペーション」の音(テュルクの言う「頭の中で切り分けなければならない音符」)は拍頭を跨ぎ「タイ」でつながれています。この「タイ」をどのように考えるかがポイントでしょう。

 ここからは、古典の音楽理論、演奏法を活用、応用してみましょう。

 「タイ」は、音をつなぐという意味では「スラー」と同じです(ここで言う「スラー」はあくまでも、「アーティキュレーション」を示す短い「スラー」だ)。「タイ」も「スラー」も弧線で示されます。「スラー」」はイタリア語で『ligatura』、「タイ」は『ligatura di volare』、つまり「音価のスラー」と呼ばれます。

 フルート奏者の有田正広氏(1949~)は、「古典では、スラーはディミヌエンドを作るもの」(佐伯茂樹著『木管楽器 演奏の新理論』より)と言います。また、ヴァイオリン奏者のシモン・ゴールドベルク(1906~1993)の「スラー」に関する言及には次のようなものがあります。

スラーの最初の音は特別な音。特にそのことを示したり印づける必要はなくとも、その音の長さを縮めない。

スラーの音を毎回強調する必要はない。ただし、最初の音であることをなおざりにしないこと。

スラーのかかった二つの音は二つとも聞こえなければならない。しかし二つ目の音へのディミヌエンドの度合いは緻密な意識のもとに造り出すこと。

ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 – シモン・ゴールドベルク』より)

 ゴールドベルクにも有田氏同様、基本的には「スラーはディミヌエンドを作るもの」という認識があるのは確かなようです。

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●例えば、次のような楽譜を生徒に与えてみましょう。

 「スラーはディミヌエンドを作るもの」という意識がなくても、生徒は最初の音に何らかの形で目立たせようとする(表情をつけようとする)はずです。後ろの音を強調することはまずありません(前述したように、それが人間の「自然な感覚」なのでしょう)。  

 では、同じ高さで隣り合う音をつないでみましょう。

 多くの生徒は、「リズム」を正確にとること(音が立ち上がる位置を間違えないようにすること)に意識が向き、表情をつけることができない…。「シンコペーションは拍節内の強弱の移動」などという以前の問題です。

 ここで、手を打ってカウントを取らせながら最初の2小節を歌ってみます(テンポやデュナーミクは任意で)。

 「シンコペーション」が「拍節の強弱の入れ換え」、という意識の強い生徒ほど、2拍目のカウントを強くとるでしょう。気をつけておきたいのは、2拍目に強くカウントをとっているのは、旋律の持つリズムと「拍節」リズムとを混同してしまっている、ということです。このとき、旋律の二分音符にはすでに過剰とも言えるアクセントがつけられていると言っていいでしょう(曲想や作品の性格にもよりますが)。

 既述の通り、「シンコペーション」は「拍節リズム」あってこそのもの、「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(そう考えると、手を打ってカウントしながら歌うことは意外に難しいですよね)。

 優先されるべきは、単にそこに「アクセントを置く」ということではなく、「表情」を作ることです。

(別の場所でさらに考察する予定ですが、「リズム」は1音だけでは成り立ちません。「アクセントを置く」にしても、前の音がどのような表情なのか、次の音がどのような表情なのかを十分に検討することが大切なのです。


●では、テュルクが言うように「頭の中で切り分け」て考えてみましょう。

 「タイ」が音価の「スラー」であるなら、そこには、単に「長さ」を作る以上の役割があると言えないでしょうか?

 既に言及したように、「長さ」にはある種の「強さ」が伴いますから、「タイ」の架かりはじめの音には何らかの強勢が置かれると考えていいでしょう。繰り返しますが、それは「拍節」アクセントの移動ではありません。曲想や曲の性格を見極めた上で(加えて前後の音との関係を踏まえた上で)導き出されたものでなくてはならないのです。

 「スラーはディミヌエンドを作る」という「法則」に従うなら、「タイ」が架けられた最後の音に向かってディミヌエンドすることになります。当然そのディミヌエンドも次の音との関係(次の音にどのような表情を求めるか)を踏まえた上で作らねばなりません。

 「スラー」や「タイ」が架けられた最後の音はやや短めにするのが「慣習」となっていますが、この点に関しゴールドベルクは次のように述べています。

スラーの後、次の音に性急に飛び込みたくなるのは誰もがしがちな間違い。スラーまたはタイの最後の音の長さを短縮しないこと。そしてスラーの最後にくる次の音に早く入りすぎないこと。

 これも曲想や曲の性格(あるいは様式)に応じ検討されなければならないことは、既述のベートーヴェンの『ソナタ』の多くの演奏からもわかります。

 「タイ」が架けられた最後の音の次に来る音に早く入りすぎるのであれば、それは跨いだ「拍頭」を十分に意識していないからでしょう。「タイ」が架けられた最後の音はアタックしないのですから、なおさら意識する必要があります。(これも繰り返しますが、)「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(「拍節リズム」は「音楽リズム」に秩序を与えるものですから)。音の「強さ」や「長さ」に意識が向いたとしても、「着地点」が見えなければそれらは曖昧に処理されかねません。「音を頭の中で切り分け」、「スラー」でつなぐ、ととらえることで、「着地点」は明確になるでしょうし、それにより「最初の音の強勢」の度合いや「ディミヌエンド」の度合い、「スラー(タイ)が架かった最後の音の保持」の度合いなどをより広い視野で検討できるのではないか、と思うのです。

 「シンコペーション」における音の「強勢」を、「拍節リズムの強弱の入れ替え」ではなく、「アーティキュレーション」の視点でぜひとらえてみていただきたいです。


[3]おわりに

●私たちの生活には一定の「リズム」があります。人それぞれに違いはありますが、朝起きてから夜寝るまでの間、「生活のリズム」、「行動のパターン」を持っています(寝ることもひとつの行動ですよね)。そこに「秩序」をもたらすのが「時間」です。「時間」を「拍節」、「生活のリズム」を「音楽のリズム」に置き換えてみるとどうでしょうか?

 「時間(拍節)」に「強弱」は基本的に存在しません。もし、個々の体の内、脳内で強く意識されている「時刻(拍)」があるということであれば、それは「生活のリズム(音楽のリズム)」が持つ「アクセント」なのです。いつも決まった「時刻(拍)」にすることを、意識的にずらして変化を与えてみる…。どこか「シンコペーション」を思わせますよね。

 「時間」を基準に生活の全て組み立てると、どこかで窮屈な思いをします。しかし、「時間」があることで私たちの「生活リズム」は活性化します。音楽も同じでしょう。


●音楽には、一定の理論や法則があり、私たちはそれらを吸収しながら演奏や創作といった活動に活かしています。しかし、本論でも述べたように「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。そして、理論そのものも変容してきたという事実…。

 情報が容易に手に入る時代になり、理論書や入門書なども様々な工夫がなされたものが多く出回っていますが、それらをどう演奏に役立てるか、という視点で書かれた書籍等はそう多くはありません。「既存の著述の言い回しを少し変えてみた」、単に「わかりやすくした」程度のものもあり、多くは「そのように決まっているから」という視点で書かれたものです(それらを決して批判するわけではありません)。楽器の教則本や合奏用のメソッドなどでも、楽譜をどう読んで演奏に活かすか、という観点が欠けていることが多いです。いわゆる「表現」というものは、技術の習得以上に「経験」や「学習」の違いが現われるものです。さまざまな考え方、可能性があると言えます。そうしたもの全てを教則本などに取り入れようとすれば、本も分厚くなり、かえって学習意欲も失せてしまうだろうな、と思っていました。

 私自身も既存の理論等に窮屈な思いをすることはあります。そして、それは時代の変化、音楽をめぐる環境の変化によるところもあるでしょうが、理論そのものが変容してきた過程で何か見落とされたことがあるのではないか、と私は強く思うようになりました。それが、こうした文章を書くようになったきっかです(その第一弾が拙稿『三拍子の話』です)。

 (これも本論で述べましたが)理論の変容には「人間の感覚」が大きく関わっています。もし、「そのように決まっている」と思われるものに対し「なぜ?」と感じることがあったとしても、それは決しておかしなことではなく、むしろ、その成り立ちや変容の過程を探ることで、表現のための「選択肢」が増える可能性があるということです(私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と言うのは、そうした意味です)。「なぜ?」という問いかけこそが、いわゆる「表現の幅」を広げることになるのです。

 理論面からのアプローチ、そして「問いかけ」が、演奏技術の向上にもつながることを私は期待しています。

 本論では私自身の結論のようなものを提示しましたが、今後の実践によっては、その考え方が変化することがあるかもしれません(その時は改めて考察していきます)。お読みいただいた皆さまなりの結論をお出しいただき、実践に役立てていただきたいと思います。

 拙文が少しでも学校現場等で指導にあたる皆さまのお役に立てれば嬉しく思います。

(完)


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