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タグ: 芸術

音楽は強くもあり弱くもある(2)


(2022年3月10日)

先日(2月25日)自作が出版されたことを投稿した際、「音楽は強くもあり弱くもある」と私は書きました。(参照/https://in-just-music.com/archives/2511)

音楽は置かれた環境によっては全く違う意味を持たされてしまうことがあるのです。

私くらいの世代なら覚えている方もいるでしょうが、随分前にシュワルツェネッガーを起用した栄養剤のコマーシャル、「♪ちー・ちーん・ぷい・ぷい」とコミカルに演出されていました。コマーシャルの意図するところは、「ちちんぷいぷい!とおまじないのように疲れが和らぐ」といったものだと思うのですがが、何せ、使われている音楽そのものが、「ちちんぷいぷい」とおまじないにかかって、全く別の姿に変わってしまったのですから。

そこで使用されていた音楽は、ショスタコーヴィチが1941年に作曲した『交響曲第7番“レニングラード”』、その第1楽章でラヴェルの『ボレロ』よろしく、繰り返し流れるメロディです。ご存知の方も多いでしょうが、この『レニングラード』という曲は、作曲年を見ても分かる通り、第二次世界大戦の最中、独ソ戦争の最大のドラマのひとつとなったレニングラード攻防戦が背景となって作られたものです。あのコマーシャルのようなコミカルさとは無縁です。クラシック音楽とあまり縁のない皆さんはきっと、そのコマーシャルのために作られた音楽としか思わなかったでしょうね…。

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音楽は作られた当時の社会状況や環境などを(時には作曲者が意図せずとも)反映するものだ、と私は考えていたのですが、この時初めて「音楽そのものは、置かれる状況によっては作者が全く意図しない方向に変化してしまうこともあるのだ」ということを実感しました。そういう意味では、「ちちんぷいぷい」と音楽におまじないをかけてしまうマスメディア(マスコミ)の力恐るべし、と言うべきか…。

この数週間、音楽芸術を巡る動きも良くない意味で活発…

「音楽の強さと弱さ」を改めて感じています。

そして、私たち自身も「ちちんぷいぷい」とおまじないにかけられないよう向き合っていきたいものです。


そう、私は最近オネゲルの『交響曲第5番“三つのレ”』(1950年作曲)に耳を傾けることがあります。私はまだ生を受けていない時代に生まれた作品なのですが、米ソ冷戦の時代を反映しているように思われ(オネゲルがそれを意識したかどうかは分かりませんが、自身の体調も優れなかったこともあってか、世界の先行きについて悲観的な見方をしていたのは確かです)、最近の動向と重なるように思えるのです。

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音楽は歴史の証言者になり得る」と言ってもいいでしょう。そこにこそ音楽の「強さ」があるのだとも思っています。
(そもそも、芸術は庶民と権力者とのある種「対話」、という側面があると私は思っています。異論はあるかもしれませんが、私たちが意図せずとも「政治的」な一面は持ち合わている。だからと言って「政治的」に利用されるのはごめんです!)

『交響曲第5番“三つのレ”』然り、フサの『プラハ1968年のための音楽』然り、ショスタコーヴィチ然り…こうした作品がもう生まれてこないで済むような世界に…。

だからこそ、こうした作品を通して歴史を振り返ることを忘れてはならないのではないか、とも思ったり…。

ちなみに、今日3月10日はオネゲルの誕生日(1892年)。



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「協創」 〜九州管楽合奏団ミュージカル・コンサート


(2021年11月30日)

昨今の風潮なのだろうか、音楽をはじめ舞台芸術に何か特別のメッセージを込めることが求められ、奏者や演者が「みなさんに感動や勇気、元気を届けられるように」と声高に叫ぶ姿に接することがよくある(スポーツでもよくあるかな…)。

受け取る側がその舞台に「何か」を感じることは普通だし、それが舞台芸術の一つの役割でもあるのは確か。だが、奏者・演者の役割は「感動や勇気、元気を届ける」ことが第一ではないと私は思っている。作品に込められたメッセージを伝えることこそが第一の役割なのでは?

作品には、「勇気や元気」与えることのできないような題材、背景を持つものだってあるのだ。奏者・演者が「感動や勇気、元気を届ける」ことばかりを声高に叫ぶようになれば、作品に込められたメッセージが二の次になってしまうのではないか、と私はよく思うのだ。


今回微力ながらお手伝いさせていただいた『九州管楽合奏団ミュージカルコンサート』(2021年11月28日/宗像ユリックス イベントホール)は、そうした私の危惧(と言っては大袈裟かな…)が全くの杞憂に終わるものだった。

それにしても豪勢だ。贅沢な舞台だ。

劇団四季で活躍されていた方々を中心に構成された歌手陣は圧巻、ダンサーも、加藤敬二さんのお眼鏡に叶っただけあり言葉も出ないほどの素晴らしさ。

吹奏楽のコンサートで、ここまで本格的に、「ミュージカル」に特化したコンサートは極めて稀ではないだろうか?

歌手の皆さんだって、ここまで大きな編成の楽団と共演することは稀であろう。総合プロデューサーの今川誠さんや振付の加藤敬二さんとお話しする時間があったのだが、今回の「共演」について並々ならぬ想いを語ってくださった。

極めて稀な「共演」、それには準備段階でいくつものハードルがあったことも確かだ。

(私自身も決して楽なハードルではなかったのが正直なところ。)


私はリハーサルの2日目から本番当日までの3日間立ち会った。とは言っても、本番以外はほぼ客席で出演される皆さんの動きを見ていただけなのだが(私のメインの仕事は10月までに終わっていたので)。

当初想定されていた構成からは随分と規模が大きくなったと聞いた。

「いいものを創りたい」という気持ちは誰でも同じだ。進めていくうちに想定を超えるものが出来上がっていく。やはりプロの現場だ。

歌手陣、楽団それぞれのやり方、流儀、しきたりのようなものもある。それをぶつけ合うため、ピリピリとしたムードも生まれるのだが、前日のゲネプロで突然同じ方向に音楽が進みだす。それは決して妥協し合ったからではないのだ。そう、終演後に指揮者の松尾共哲さんがおっしゃった「根っこは皆同じ」ということを出演者・スタッフ全員が感じていたからだろう。

協創」…ふと、こんな言葉が私の頭をよぎった。

出演者・スタッフの皆さんは手を取り合って新たな舞台を「創造」しているのだ。

そして、新たな舞台を「創造」するのは何も出演者・スタッフばかりではない。お客様も一緒に舞台を創るのだということを改めて感じた、お客様の存在が準備段階のいくつものハードルを超えさせてくれるのだということも(ゲネプロの際にお客様を感じていた出演者はきっと多かったと思う)。


井上智恵さんの圧倒的な存在感、背筋が伸びるほどの神々しさ。

宇都宮直高さんはパワフルな歌唱とそのカリスマ性で、舞台を仕切ってくれる。

熊本亜記さんの繊細さと意志の強さを併せ持った歌唱にはそのお人柄が反映されているかのよう(初めてお目にかかったのに、全くと言っていいほど初対面という感じがしなかった)。

ひのあらたさんは「円熟」という言葉だけでは表現しきれないほどの歌唱・演技。

増本藍さんの歌唱には心を抉られるような不思議な(と言っては失礼か)パワーが秘められている。

四宮吏桜さんにいたっては、これからの「ミュジーカル」界を背負っていくであろうと思わせる。

松井英理さんのダンスは圧巻のひとこと(というより、上に書いた通り、言葉が出ない)。

その他ステージを彩った若いシンガー・ダンサーたちの熱演にも拍手だ。

そして九州管楽合奏団、これまでとは違った一面を見せていただいたような気がしている(もちろんいい意味で)。

指揮をとった松尾共哲さん、彼がいてこそ今回の出演者・スタッフ全員がひとつになれたと思う。

今回のコンサート、「腹八分目」を少し超えたけれども、決して「満腹」にはならない。そこは総合プロデューサー今川誠さんの手腕だろう。「またいつか…」と思わせるところがにくい。


しかし、私が個人的に願うのは、このコンサートのお客様で今まで本格的なミュージカルやダンスをあまり観たことがない方々、あるいは九州管楽合奏団の演奏に接したことがなかった方々が、それぞれの公演等に足を運んでみようと思っていただけたら、ということ。そんなお客様が一人でも二人でもいらっしゃったのなら、今回のコンサートは大きな意味を持ったと思うし、もしかしたら今後、第二弾、第三弾…ということにもなるのかもしれない。

私自身、ミュージカルの素晴らしさに改めて気付かされた。

そして何よりも、吹奏楽に携わる者として、ミュージカル関係者に吹奏楽のことを、九州管楽合奏団のことを知ってもらえたことを嬉しく思っている。

こうした「出会い」は貴重だし、大切に育てていきたいものだ。

「出会い」ということで言えば、個人的にもいくつか。

もちろん「新しい出会い」はたくさんある。
歌手の皆さんやスタッフの皆さんとご一緒できたことは本当に得難い経験だった。
指揮者の松尾共哲さんとも「はじめまして」だった。

「お久しぶり」な「出会い」もある。

九州管楽合奏団には旧知の楽員さんが多数いる。一緒に仕事をしていた楽員さんも。これまでとは違った形で関わる機会をいただきとても幸せでした。客演奏者の中にも「お久しぶり」な方がいらして…。とても楽しかった。

「びっくり」な「出会い」もあった。

一曲だけオルガンが入る曲があったのだが、客演のオルガン奏者は、私が大学卒業後半年だけ中学校の先生をした時の生徒…当然彼女もびっくりしたようだが、いろいろと話ができて嬉しかった。

この歳になってさらに視野が広がったような気がするし、まだまだやれそうなことがあるな、と感じた3日間。

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由…

正直言って、個々の分野の素晴らしさを(語弊はあるかもしれないが)半ば感情的に訴えたとしても、どうも今の権力者や国の中枢機関には通じないように思っている。

しかし私は、声をあげていかねばならないと思うし、できる限りのことはしたいと思っている。

国が文化、芸術分野に携わる方々を支えなくてはならない理由を、私は少し違う視点から見ている。

端的に言おう。

国は、音楽や美術(図工)などを学校教育に(「教科」として)取り入れているではないか。

●音や音楽は,「自己のイメージや感情」,「生活や文化」などとの関わりにおいて,意味あるものとして存在している。

●「音楽的な見方・考え方を働かせて学習をすることによって,児童の発達の段階に応じた,「知識及び技能」の習得,「思考力,判断力,表現力等」の育成、「学びに向かう力,人間性等」の涵養が実現していく。このことによって,生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力は育成される。

●音楽的な見方・考え方は,音楽的な見方・考え方を働かせた音楽科の学 習を積み重ることによって広がったり深まったりするなどし,その後の人生に おいても生きて働くものとなる。

●児童の生活や,児童が生活を営む社会の中には,様々な音や音楽が存在し,人々の生活に影響を与えている。したがって,生活や社会の中の音や音楽と豊か に関わる資質・能力を育成することによって,児童がそれらの音や音楽との関わりを自ら築き,生活を豊かにしていくことは,音楽科の大切な役割の一つである。

●生活や社会の中の音や音楽と 豊かに関わることのできる人を育てること,そのことによって心豊かな生活を営むことのできる人を育てること,ひいては,心豊かな生活を営むことのできる社会の実現に寄与することを目指している。

●思いや意図をもって表現したり,音楽を味わって聴いたりする過程において,理解したり考えたりしたこと,音楽を豊かに表現したこと,友達と音や音楽及び言葉によるコミュニケーションを図って交流し共有したり共感したりしたことなどが,自分の生活や自分たちを取り巻く社会とどのように関わり,また,どのような意味があるのかについて意識できるようにすることが大切である。

 いずれも、小学校の「学習指導要領(音楽)」にある記述だ。

人間形成に必要と認めているではないか。音楽教育の必要性を説いているではないか。

 実社会で、あるいは普段の生活の中で活かされてこそ、学校での教育は意味を持つ。これは何も音楽に限ったことではない。「国語」だって「算数」だって。

学校でいろいろと音楽について習ったけど、それを実際に体験できる場、実践できる場がない、というのはどこか矛盾していないだろうか? 

人間形成に必要だとしているのなら、実際に体験できる場、実践できる場、そうした環境を整えること、そうしたフィールドで仕事をする方々を支えることは、国の「義務」だと言ってもいいくらいだ。

 文化、芸術、あるいはエンターテインメントに携わる方々(いわゆる「裏方さん」も含め)を積極的に支援しないということは、自らが定めた学校教育のあり方、考え方を自ら否定することにもなるのだ。

 その理屈で言うなら、ほぼ全ての人が等しく(仕事の種別など関係なく)支援を受けて当然だろう。

※断っておくが、今の状況で文化、芸術の分野にだけ何か特別のことを、と訴えているのではない。あくまでも「等しく」ということだ。

(2020年5月14日)

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