演奏、音楽表現には「理知的」アプローチと「感情」面からアプローチが必要だと思っている。
そのバランスの取り方こそが「個性」となって現れるのではないだろうか。
「理知的」アプローチ、これは言い換えると「構造」をとらえるということ、「様式」や「理論」に基づいたアプローチ、ということだ。
「骨格」となるのが「拍節」だ(もちろん、普段私たちが接している音楽に見られるような「拍節」を持たない音楽もあるが)。
「骨格」というのは、人体に置き換えると分かるのだが、決してそれ自体が表に現れてくるものではない。しかし、全体を見ればどのような骨格かは結構分かるものだ。
「拍子」だってそのようなものだろう。
(そう思うと、「拍<節>」とはよくできた言葉だ。骨同士は「関<節>」でつながっている。)
「感情」面が優位になると、「骨格」に無理がいく。私のような年代になると痛みが和らいでいく速度も遅くなる。
(多少の無理や刺激は必要だ。それにより、自分の骨格がいかに弱くなっているかを知ることができるというものだ…)
一方、「骨格」が強調されすぎると、人を寄せ付けない冷たい奴、面白みのない奴だと思われることもある(そこが面白いのだ、という人もいるだろうが)。
しかし、「骨格」がしっかりしていればこそ、自在に動きがとれるはずだ。それにより「感情」面からのアプローチも多彩になるだろう。
「第14回」で書いた、「私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどがこうした「拍節」や「リズム」の問題が大いに関わってくる」背景にはこのような考えがあるからなのだ。
「拍節」や「拍子」については、考えているようで意外に疎かになっていたなぁ、と自分では思う。目まぐるしく「拍子」が変化するような曲に向き合うときはとても気にするのだが…。
おそらく「拍節」や「リズム」に関する考察は尽きることなく続くことだろう。音楽に限らず、人間の生命の根幹でもあるとも言えるのだから。
(そうした、ある種の「解けない謎」が学問を発展させ、またそれにより人間を成長させたのだろうと思う。「謎」は「謎」のままでもいい、だからこそ面白いのだ、と最近は思うようになった。)
日本人と『三拍子』関係を考察するところから始まった話、何ら結論めいたものを導き出したわけではないが(結論は出ない)、現時点で私なりの方向性はある程度出せたと思っている。
とは言え、ドイツの哲学者で『リズムの本質』などの著書で知られるルートヴィヒ・クラーゲスや、『リズムはゆらぐ』などの著書があるヴィオラ奏者の藤原義章氏などに大きな影響を受けながら、本稿では言及することはなかったし、ジャック=ダルクローズやリュシーについても考察できていない。
今後さらに掘り下げていくことができるだろう。その過程で、考えが変わることもあるだろうが、その時はまた綴っていこうと思う。
そして、私が「これから考察しようとしていること」に反映させたい。
最後に、ある尺八奏者の方の言葉を…
「実際に音楽をしようとしたら、3拍子どころか、2拍子だって、4拍子だって簡単にできません。」
「苦手な理由ははっきりしています。練習してないからです。」
「楽器を手に取ってから、4拍子を基礎とした練習しかしてないからです。」
「4拍子に偏る基礎練習をやめましょう。基礎練習の時に、3拍子系の音出し、運指練習をとりいれてください。」
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(終)
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