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カテゴリー: 三拍子の話

三拍子の話 〜第15回/最終回〜


演奏、音楽表現には「理知的」アプローチと「感情」面からアプローチが必要だと思っている。

そのバランスの取り方こそが「個性」となって現れるのではないだろうか。

「理知的」アプローチ、これは言い換えると「構造」をとらえるということ、「様式」や「理論」に基づいたアプローチ、ということだ。

「骨格」となるのが「拍節」だ(もちろん、普段私たちが接している音楽に見られるような「拍節」を持たない音楽もあるが)。

「骨格」というのは、人体に置き換えると分かるのだが、決してそれ自体が表に現れてくるものではない。しかし、全体を見ればどのような骨格かは結構分かるものだ。

「拍子」だってそのようなものだろう。
(そう思うと、「拍<節>」とはよくできた言葉だ。骨同士は「関<節>」でつながっている。)

「感情」面が優位になると、「骨格」に無理がいく。私のような年代になると痛みが和らいでいく速度も遅くなる。
(多少の無理や刺激は必要だ。それにより、自分の骨格がいかに弱くなっているかを知ることができるというものだ…)

一方、「骨格」が強調されすぎると、人を寄せ付けない冷たい奴、面白みのない奴だと思われることもある(そこが面白いのだ、という人もいるだろうが)。

しかし、「骨格」がしっかりしていればこそ、自在に動きがとれるはずだ。それにより「感情」面からのアプローチも多彩になるだろう。

「第14回」で書いた、「私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどがこうした「拍節」や「リズム」の問題が大いに関わってくる」背景にはこのような考えがあるからなのだ。

「拍節」や「拍子」については、考えているようで意外に疎かになっていたなぁ、と自分では思う。目まぐるしく「拍子」が変化するような曲に向き合うときはとても気にするのだが…。

おそらく「拍節」や「リズム」に関する考察は尽きることなく続くことだろう。音楽に限らず、人間の生命の根幹でもあるとも言えるのだから。

(そうした、ある種の「解けない謎」が学問を発展させ、またそれにより人間を成長させたのだろうと思う。「謎」は「謎」のままでもいい、だからこそ面白いのだ、と最近は思うようになった。)

日本人と『三拍子』関係を考察するところから始まった話、何ら結論めいたものを導き出したわけではないが(結論は出ない)、現時点で私なりの方向性はある程度出せたと思っている。
とは言え、ドイツの哲学者で『リズムの本質』などの著書で知られるルートヴィヒ・クラーゲスや、『リズムはゆらぐ』などの著書があるヴィオラ奏者の藤原義章氏などに大きな影響を受けながら、本稿では言及することはなかったし、ジャック=ダルクローズリュシーについても考察できていない。
今後さらに掘り下げていくことができるだろう。その過程で、考えが変わることもあるだろうが、その時はまた綴っていこうと思う。
そして、私が「これから考察しようとしていること」に反映させたい。


最後に、ある尺八奏者の方の言葉を…

「実際に音楽をしようとしたら、3拍子どころか、2拍子だって、4拍子だって簡単にできません。」

「苦手な理由ははっきりしています。練習してないからです。」

「楽器を手に取ってから、4拍子を基礎とした練習しかしてないからです。」

「4拍子に偏る基礎練習をやめましょう。基礎練習の時に、3拍子系の音出し、運指練習をとりいれてください。」

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(終)


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三拍子の話 〜第14回〜


「拍節」や「小節」、「拍子」、あるいは「リズム」という言葉を定義(少々肩苦しいが…)するのはなかな難しいものだ。

私もここまで随分と曖昧なままで使ってきた。
それぞれが、昔からいろいろと研究され語られてきた。
様々な考え方がある。

どれが正しいとか間違っているなどと言うことも困難だ、正直今の私には。
ただ、これだけ語られていると言うことは、それだけ「拍節」や「リズム」などの問題が音楽の、音楽表現の根幹に関わるからだろうと思う。

この『三拍子の話』に限らず、私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどにこうした「拍節」や「リズム」の問題が大きく関わってくる。


例えば、私の活動の中心になっている吹奏楽のフィールドでは、最近「指南書」的なものが多く出版されている。昨今の部活動を取り巻く状況を鑑みるに、こうした「指南書」の類はとてもよくまとめられていると思う(部活動に特化したノウハウや心構えなどに少々偏りすぎかな、と思うものもあるが…)。

また、吹奏楽コンクールの時期になると、課題曲を中心に、「このように演奏すれば効果的」といった「虎の巻」的な出版物、動画なども出てくる。

これらをもとに勉強し、練習し演奏しても「差」は出てくる。
なぜ…?
もちろん、楽器演奏の技術習得の度合いもあるが、圧倒的な違いは、「指南書」等を活用する以前の下地ができているか否かにある、と思っている。

基本的な「理論」に裏付けられた演奏か否か、と言ってもいい。

「理論」に裏付けられた演奏と言うと、何やら堅苦しく感情を抑えたような演奏と考える人もいるかもしれない。表面上整えられただけの演奏と感じる人もいるだろうが…。


私たちは「文法」を学ぶことなく、言葉を身につけコミュニケーションをとることができるようになった。「文法」を知ることでよりコミュニケーションがとれるようになったのでは…?

(「文法」という言葉には、自分でも拒絶反応が出てしまうけど…。ただでさえヘタクソな文章綴っておいてよく言えたものだ…)

「理論」と「文法」はイコールとは言えないのだが、これらを知ること、身につけることでよりコミュニケーションがとれるようになるのではないか、と思う。

もっとも、自分がどれほどのことができているだろうか…。


「第9回」の最後の方でつぶやいたように、「音楽理論というものは、「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない」。

最終的には、「自分なりの理論・文法」を持つことが必要なのだろう。
ちなみに、「自分なりの理論・文法」をしっかり持っている作曲家の方は、大抵文章も素晴らしいものだ(自分で書いていて耳が痛い…)。

(そのためにも、時代を遡ってみること、振り返ることが大切なのだ。いつの時代もそうなのだが、私たちは常に「過去」と向き合っているはずなのだ。「新しい」音楽が現れたところで、音になってしまえばそればそれは「過去」のものとなってしまう。「過去」と向き合わずして「未来」はない。これは音楽に限ったことではない。)


吹奏楽のフィールドにおける「指南書」的なものの多くは「理論」面にまで踏む込んだものとはいえない(「和声法」や「形式論」などに特化したものはあるけど)し、「音楽表現」に関するところまで踏み込んだものはまずお目にかかれない。

著者(多くは演奏家)それぞれの「理論・文法」があるので、簡単に踏み込むことができないのだ。自らが長年の経験で培ってきた「手の内」を簡単に明かすことはできない、とうい人もいるだろう。

様々な考え方を集めて一冊にすることもできるのだろうが、それはそれは分厚い本になるだろうし、読む気も失せるだろうなぁ…
(だからこそ、やってみる価値はあるかもしれないけど…)

そんな中、今年8月に亡くなられた佐伯茂樹氏の『金管楽器 演奏の新理論』と『木管楽器 演奏の新理論』は、このフィールドで、これまでにない視点で書かれた素晴らしい著書だと思う。

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「第15回」/最終回につづく

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三拍子の話 〜第13回〜


先頃亡くなったピアニストのパウル・バドゥラ=スコダ(私はこの人のモーツァルトやベートーヴェンの録音をきっかけにフォルテピアノの音に惹かれた時期があった)は、「音楽表現には音量の変化や呼吸の感覚が大切」であること、「楽譜には書かれていないにもかかわらず、演奏の際に反映しなければならない必須のデュナーミク − インネレ・デュナーミク innere Dynamik」の重要性について語っている。

「インネレ・デュナーミク」とは「音価、リズム、和声や音程などによって変化する微妙な音量の差違」ということであり、「音楽の自然な表現力は、このデュナーミクによって初めて与えられる」とバドゥラ=スコダは言う。(「ベートーヴェンの強弱法」に関する講演)

アーノンクールが、(バロック期の)拍節の「強弱関係」に「ヒエラルキー(階級制)」の存在を指摘し、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」と著書に書いていることは既に「第5回」で触れたが、ここで彼が、その単調さを回避するために必要なこと、そして「強弱のヒエラルキー」の上に立つものとして述べているのが、第一に「和声法」次いで「リズムと強勢法」だ。

言っていることは二人とも同じであると考えて良いだろう。

バドゥラ=スコダもの話も、拍節における基本的な「強弱」関係の存在が前提となっている。


大演奏家二人の話を通して、心得ておきたい大切なことは、基本的な「(拍節における)強弱関係」を守って演奏するだけでは音楽表現はできない、言い換えると、曲の性格やイメージを演奏者がしっかり読み取り、基本的な「(拍節における)強弱関係」と「インネレ・デュナーミク」とを上手に組み合わせる(作用させ合っていく)ことなのではないか、と私は思う。

これは作曲(には限らないが…)をする上で学ぶ「和声法」や「対位法」にも言えることだ。

私たちが通常学ぶ「和声法」や「対位法」も、ある特定の時代にまとめられたものが基本となっている。そこには「禁則」も盛り沢山だ。

意図的に「禁則」を使うということはありだと思うし、歴史的に見ても、「規則」をはみ出すことで新たな創造を行なってきた大作曲家がいることは述べるまでもない(もっとも、「何も考えていないな」、「本人は気づいてないんだろうな」と思うような曲も最近の吹奏楽にはあるが…)。

私たちが現在お世話になっているいわゆる「楽典」に書かれている内容も、どこかの時代で取りまとめられたものであり、もしかすると(「第7回」で触れたスタッカートのように)何らかの経緯で「標準化」されたにすぎないのかもしれないし、本来の意味から変容しているものもあるかもしれない。

一度、古い時代の「理論」に触れてみることは、(「第9回」の最後でつぶやいた)「そういう決まりになっているから」と、無批判に理論を受け入れがちな私たちを、むしろ「解放」してくれることになるのではないか、と思っている。

「音楽において、日本人は三拍子が苦手だとよく言われる」という、最初の話。これは「理論」ではないが、果たして私たちは無意識に(無批判に)この話を受け入れているだけではないのだろうか…。
(まぁ、それをここまで考えてきたのであるが…)

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「第14回」につづく

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三拍子の話 〜第12回〜


ある「拍」が次の「拍」に向かう(小節線をまたぐ、つまり次の「一拍目」に向かう時に限らない)ための「準備」…この「準備」のために意識すること、これは、「拍」が「点」ではないということだ。

「拍」には(時間的な)幅があることを私たちは忘れがちだ。

拍:『音楽で、個々の音の持続(時間的な長さ)を規定する基本単位。多くの場合は等間隔の脈動で、手などを規則的に打ち鳴らして数えることができ、その長短がテンポ(速度)の遅速につながる。』(大辞林)

この「幅」を意識しない限り、実際の音で表現しようとしても音楽的なつながりは希薄になる。手拍子の「パンッ!」なり、指揮の「打点」は、「拍」そのものを示しているのではなく、単に拍の初め(拍頭)を示しているに過ぎないのだ。

齋藤秀雄が『指揮法教程』を作る際助手として関わった紙谷一衛氏は、「叩き」(斎藤が指揮の運動を体系づけた中のひとつで、最も基本的なもの)や「打法」という言葉が誤解を生んでいると言う(紙谷一衛著『人を魅了する演奏』より)。

となると、やはり「いちっ、にっ、さんっ」という言葉の影響は大きいかもしれない。

「拍」が、音の持続(時間的な長さ)を前提としているなら、そこに言葉を当てはめた時、その言葉は必然的に「長さ」を持つことになる。

したがって、一番最初(「第1回」)で紹介した、ピアニストの方の提案、「いち、に、さ〜」と数えてみるということは、実に道理に叶うのだ。それをさらに押し進めて、私が「ひ〜、ふ〜、み〜」と数えたらどうか、と提案した理由は、まさにここにあるのだ。


少し振り返ってみよう。

いくつか取り上げたバロック期や古典派の時代の音楽家・理論家の著書、「拍節」に関する言及は、「個々の音の持続(時間的な長さ)」を前提としていないと一見受け取れる。

果たしてそうだろうか…。

「第3回」で触れたように、
①バロック期の拍子には、私たちが普段使う「拍子」とは異なる概念があった。
②テンポの基準となったのは、音符ではなく「小節」であった。
③このテンポシステムはバロック以前からウィーン古典派まで続いた。

あえて「拍節」と「小節」とを同義として述べるが、バロック期や古典派の時代の音楽家・理論家も「持続(時間的な長さ)」を十分に意識していたはずである。

彼らはあくまでも(私たちが普段使う意味での)「小節」を基準に、それを(二つないし三つに)「分割」することが前提であったのだ。

「小節」の持続なくして「分割」はできない。

私たちは(というか、現代の「拍節論」は)、その「分割」された「拍」を基準に、それをグルーピングすることで「拍節(小節)」を作ることを前提としている。

そもそも、考え方、捉え方が違うのだ、「分割」か「グルーピング」か、という点で。

バロック期のテンポのひとつの基準は人間の「脈動」、「鼓動」だったと言われている。「脈動」、「鼓動」1に対して1「小節」1、それを2ないし3に分割している。

「分割」、そこには周期的なものは生まれるが、回帰を示すような「準備」の意識は希薄だと言っていいかもしれない。
そして、血管のそれこそ「伸縮」のリズムを「強弱」で表現した、というのは少々考えすぎだろうか…。
まぁ、「縮」の時点で「伸」のためのエネルギーを溜めている、と考えれば、「次への準備」をしている、と言えなくもないが…。

話がまたまた逸れてしまったが、何れにしても、「拍」には「持続(時間的な長さ)」が必要だということは強調しておきたい。

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「第13回」につづく

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三拍子の話 〜第10回〜


「第5回」で、「「アクセントの正確な周期的回帰」により旋律が韻律なり拍節を獲得する」というキルンベルガーの話を取り上げたが、「アクセント」云々はともかく、「拍節」が、「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは、疑いようもない。

では何が「周期性」、「回帰性」をもたらすのか…?

小節の頭にアクセント(ヒンデミットの言う「音量的」な)をつけることが周期性や回帰性を示すとは言い切れない思うのだ。
(最終的には「何らかの」アクセントが付くが、それを第一に考えるということではない、ということ。)

私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性、回帰性をもたらすのでは、と考える。
その「準備」はどこで?
それは、「三拍子」であれば「三拍目」、ということになる。

(「歴史は繰り返す」とよく言われるが、歴史だって突然変わったわけではなく、そこに至る経過、つまり「準備」と言える時間(あるいは背景)があったはずだ!)


2年前、高校生たちと一緒に音楽を作る機会をいただいていたが、その際何度となく言ったのが、「小節の中で完結させないように!」
小節の最初、つまり1拍目を合わせること、ズレないことに意識が向きすぎて音楽が「流れない」「繋がらない」…。
これは、ここまで述べた「拍節アクセント」に直接結びつくものとは言えないかもしれないのだが、「次へ向かう」という意識が音からは感じられないのだ。
演奏者は、音楽が続いていくという意識は当然ある(目の前に楽譜もあるし…)。
ここには、音楽的な「まとまり」、フレージング、和声進行などをどう捉えるか、という問題も絡んではくるのだが、何れにしても「次へ向かう」ための「準備」が疎かになっていると言わざるを得ない。


コンサートで、アンコールを求める拍手がいつの間にか手拍子に変わっていく、という経験はよくあるが、あれがしばらく続くと、「二拍子」か「四拍子」に感じられる、という経験はないだろうか?
これこそ、既に述べた人間本来の持つ「グルーピング」の心理の顕著な例と言えるかもしれない。
そこでは、意識的に「特別な(音量的な)」アクセントを(小節の頭に)つける人はまずいないだろう。
もちろん、人によって「ズレ」はあると思うが、この手拍子を「三拍子」で打とうとする人が果たしているだろうか…

「三拍」で回帰させようとすると、むしろ三拍目の方に意識が向かないだろうか…
この意識は「二拍」の時や「四拍」で回帰させるよりも強いものだと思う。
いや、「二拍」や「四拍」の時より強く意識する必要がある、ということだ。

ここが「三拍子」の難しさなのではないかしら。


「第11回」につづく

「第9回」にもどる



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三拍子の話 〜第9回〜


ヒンデミットのおかげで私自身は(やや)スッキリしたのだが、もうひとつ、見逃せない考察がある。

2011年に翻訳が出版され話題になった『音楽の科学』の著者フィリップ・ボールは、科学者(彼は職業音楽家ではなく、物理学者だ)としての視点で、拍子について考察している。

仮にどの拍も強調されていなくても、無意識のうちにどれかを強く感じてしまう傾向が人間にはある。

と、ヒンデミットと同じような意味のことを述べているのに加えて、

この傾向はすでに乳幼児の段階で見られるので、基本的には生まれつきのものだと考えられる。

とも述べている。さらに、

文化の影響も無視できない。同じように規則的に繰り返される音を聴いても、イギリス人と日本人では、そこに見出すパターンは微妙に違っているだろう。おそらく、使っている言語によく似たパターンを見出すはずである。


「第7回」で「音楽の「規則」を分かりやすく市民層に伝える(教育する)にも、標準となるものが必要となるのでは…」と述べた件、必要となる理由はこんなところにもあるのだ。言い換えると、文化や言語の違いがあるからこそ「標準化」しなければならなかった、ということだ。


ただし、忘れてならないのは、「標準化された理論」がベースになった音楽作品もあるはずだから、演奏にあたっては、そうした点も踏まえておかねばならない、ということ。

そのような(標準化された理論に基づく)演奏が、リストをはじめロマン派の音楽家やその時代の理論家の言葉を見るまでもなく、時代の流れとともに人間の感覚に合わなくなってしまう、ということは当然ある。
結局、音楽理論というものは、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない、いくら「科学の目」が入っていようとも…。
純正調の三和音だって、私たちがそれを「美しい」と感じるのは、そう思い込まされているからなのかもしれない。地域や風土といったバックボーンによっては、「美しい」とされる純正調の三和音を「不快」に思う人がいても不思議ではない。
私たちが陥りやすいのは、「そういう決まりになっているから」、と無批判に理論を受け入れようとするところだ。
そして、無批判に受け入れた理論をそのまま伝承していく…。
物事が成立するには、その時にそうならざるを得なかった背景(理由)が必ずある。その背景(理由)が、時代の変化とともに意味を持たなくなることもある。そのような状態で無批判に物事を受け入れては、私たちは窮屈になるだけだ。歪みも生まれるだろう。
『三拍子の話』などと言いつつ、「拍節」等について考えようと思ったのは、こんなところに理由があるのだ。きっかけは些細なことだが、「個人的な感覚」として窮屈な思いや歪みを感じていたからに他ならない。

余計なつぶやきが多くなってしまった…
次こそ『三拍子の話』に戻そう…

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「第10回」につづく

「第8回」にもどる



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三拍子の話 〜第8回〜


17世紀フランスでは、古典詩学の詩脚を音楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと言われている。詩と音楽の統合のための理論であるのだが、これは音楽を(詩の)テクストに従属させたものであり、18世紀に音楽的な拍節がもっぱらアクセントと結びつけられて考えられるようになると、急速に顧みられなくなったという。
ここには、器楽の発展という側面があると考えていい。先に参照した理論書は改めるまでもなくクラヴィーア、ヴァイオリン、フルートと器楽のためのものだ。

器楽の発展が、「拍節アクセント」優位とも取れる音楽理論(演奏理論)へと変容させた、と言えなくもない。17世紀の音楽理論では「小節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの言及を含んでいない」とされている。


「拍節アクセント」優位の音楽理論(演奏理論)に否定的な考えを示した音楽家や理論家はロマン派の時代に多く存在したようだ(リストもそのひとり!)。
彼らの発言の中には、「機械的」という言葉が出てくる。
そう、「メトロノーム」の影響もそのひとつと考えていいだろう。
もともと「拍節リズム」自体は決して「機械的」ではないはずだ。
「メトロノーム」という当時のいわば最先端のテクノロジーが、「拍節アクセント」優位に拍車をかけたということだろう。

(テクノロジーの発達は生活を豊かにしてくれる反面、どこかに歪みを生み出すものだ。それは、今も昔も変わらない、ということか…)


そして、20世紀に入り、パウル・ヒンデミットがこう述べている。
少し長くなるが引用させてもらう。

等しい時間的間隔をおいて現れ、あらゆる点において同一条件のもとにある一連の音を、われわれの耳は、規則的にくり返される一群の音としてとらえようとする。言いかえれば、ある音を他の音より重要なものとして聞き取っているわけである、そして、この耳の機能が、アクセントのある音とない音との間に、起伏する線が引かれているように思わせるのである。

「第4回」で述べた「グルーピング」や、「第5回」で述べたキルンベルガーの「他の鼓動より強く聞こえるように思ったりするのである。」に通じる見解だ。)

ここでいうアクセント(=拍子のアクセント)は、われわれの感覚によって生じるものであって、音自体に存在する客観性によるものではない。これは他の種類のアクセント(音量的アクセント)とは本質的に違うのである。それは、単に人工的につくりだされたものにすぎない。この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば一致し、拍子のアクセントが強調されるのである。

(「音量的アクセント」とは、ここまで私が記した「表現のためのアクセント」と解釈していいと思う。)

音楽作品は、拍子の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。

このヒンデミットの見解、賛否はあるだろうが、私の中にあるモヤモヤを随分解消してくれる。ようやくスッキリ!

ちなみに、このヒンデミットの見解、私の世代の武蔵野音大生なら皆お世話になった『新訂 音楽家の基礎練習』の中に書いてある。
今さらこれが役に立つとは、学生時代いかに不真面目だったか、ということだ…

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「第9回」につづく

「第7回」にもどる



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三拍子の話 〜第7回〜


「表現のためのアクセント」と「拍節リズム」がいつの頃からか混同して考えられるようになった…と仮定し、いつ頃から、どのような背景でそうなったのかを推測してみよう。


先に触れたアーノンクールの指摘(「第5回」を参照)にあった、バロック期の音楽におけるヒエラルキー(階級制)、これはひとつのポイントになりそうだ。

このヒエラルキー(私自身は既に述べたとおり「表現としての」強弱関係だと思っている)は、後の時代に著される数多の理論書で述べられる、「拍節」における「強拍・弱拍」の概念と一致する。

こうしたヒエラルキーがフランス革命以後はほとんど存在しないということもアーノンクールは言っていたが、この「フランス革命以後」というのもポイントのひとつとなりそうだ。

フランス革命以後、音楽の世界で何が変わったかというと、音楽を享受し、支える層が、貴族層から市民層へ移っていったことだ。そこで何が必要となるか…

出版」と「教育」だ(もちろん「楽器」もそうだ)!

音楽が貴族層にとっての「教養」であった時代、作曲家は楽譜に多くを書き込むことはなかったが、市民層に音楽が広まるにつれ、作曲家は演奏指示を細かく書いていくことになる。アーティキュレーションもそのひとつだが、作曲家によって考え方(意味)、書き方は異なる。出版者にとって、こうした違いをそのまま反映することは、混乱を招きかねない。記号に一定の意味を定めるのが最善だ。こうして生まれたのが、現在私たちが使っている点(・)のスタッカートなのだ(笑)

音楽の「規則」を分かりやすく市民層に伝える(教育する)にも、標準となるものが必要となるのではないだろうか…

特定の音楽家なり理論家の考え方が標準化したとも考えられるし、何人かの考え方をひとつにまとめ標準化した、とも考えられる。
この過程で「表現のためのアクセント」と「拍節」リズムが混同して論じられるようになった(むしろ「拍節アクセント優位」になった)のでは、と考えることはできないだろうか。

「第6回」で触れた、レオポルド・モーツァルトやツェルニーのみならず、C.P.E.バッハ(『正しいクラヴィーア奏法』)、テュルク(『クラヴィーア教本』)、クヴァンツ(『フルート演奏試論』)など、18世紀には、現代においても名著とされる書物が次々と著され、それらはヨーロッパ中で高く評価されていたという。つまり、あらゆる地域で役立ったということだが、そうしたもののエッセンスを集めた(特に市民層向けの)教本が出版されたとしても不思議ではないだろう。
ただし、これら音楽家なり理論家の考え方は国や地域によっても異なるし、当然言語の違いも大きく影響しているはずだから、標準化することは極めて難しい。かつ時間を要する作業ではあるはずだ。

結果、アーノンクールが「フランス革命以後はほとんど存在しない」と言っていたヒエラルキーが、「拍節内の強弱関係」として伝えられ続けた…

そう考えるのは、ちょっと厳しいかな…?


もっと当時の出版物などを手に入れて、詳細な研究をすれば面白いのだろうが、それには時間と労力(語学力も)が必要だし、場合によっては資金だって必要だ。
今の私には(資金も含め)そんな余裕はない。
ましてや、「拍節」や「リズム」について世界各国でどのような教育が行われているかもつかんでいない状態だ…。

ここまでいろいろ書いてきたが、本稿は「研究論文」ではない。
私に何か結論めいたものを導き出そうという意図がないことをご承知おきくださいませ。

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「第8回」につづく

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三拍子の話 〜第5回〜


先(第4回)に触れた「日本人独特の感覚」という点でひとつ付け加えておく。

幼い頃から触れる音楽の幅が、私のような世代からすると本当に多様になってきた。
しかし、新たに生み出される作品には、やはり、「日本人独特の感覚」が色濃く現れているものだ。
近年の(ポップス系の)ヒット曲、例えば星野源の曲や今こどもたちの間でもヒットしている米津玄師の『パプリカ』などは、その旋律の構造を見れば、ほぼ「ヨナ抜き」なのだ。
う〜ん、日本的…? ただ、それを「日本的」と感じながら聴く人、歌う人はどれほどいるだろうか、という疑問は残るのだ。
ご本人たちは作曲する上で、「日本人」であることを強く意識したわけではないと思う(もちろん、「日本人」だからこそ書けるメロディ、という面はある)。
しかし、意識はしていなくとも、それぞれの音楽経験や持って生まれた感覚、風土や言語、環境(これには「教育」も当然含まれる)から多分に影響を受けているのだ、と思わずにはいられないのだ。


さて、「拍節リズム」の話に戻ろう。

ここまで書いてきた中で、私なりにクリアにしておきたいのは次の点だ。
つまり、「拍節」における(規則化された)強弱の関係は人間の持つ感覚とは相容れないものなのではないか、ということ。そして、私たちは何の疑問もなく拍節の「強弱関係」を取り入れようとして、却って窮屈な思いをしているのではないか、ということ。

これをクリアしないことには「三拍子」の話に戻れそうもない…。

ニコラウス・アーノンクールが著書『古楽とは何か − 言語としての音楽』の中で興味深い指摘をしている。

①バロック音楽においては、当時の生活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。それは、フランス革命以降ほとんど存在しない。
②音符にも「高貴なもの(良い音符)」と「卑しい(悪い音符)」があった。
③尊卑の観念はもちろん強調と関係する。
④この図式は拡大され、小節群や全曲にも当てはめられた。また縮小もされた。

アーノンクールは、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」、「単調ほど完全に反バロック的な概念はない」と言っている。

ここでアーノンクールが示した「強弱」の関係は、現代の「拍節論」におけるアクセントと一致するものの、あくまでも「表現」としての「強弱」関係と言っていいだろう。

大バッハの弟子で、その作曲技法の集大成とも言える『純正作曲の技法』を著した理論家ヨハン・フィリップ・キルンベルガーは、既述の(音楽心理学上の)グルーピング(群化)にも言及しつつ、「アクセントの正確な周期的回帰」により旋律が韻律なり拍節を獲得する、と説いているが、このグルーピングについて見逃せない記述がひとつあるのだ。

各グループの第1鼓動にアクセントをつけたり、第1鼓動は他の鼓動より強く聞こえるように思ったりするのである。

「強く聞こえるように思う」…

どうも、これが「拍節リズム」(あるいは拍節におけるアクセント)、の正体なのでは、と思えなくもない…。

「三拍子」の話が、「拍節リズム」の話にまで広がってしまったが、もう少しお付き合いのほどを。

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三拍子の話 〜第4回〜


私は「拍節リズム」を「強弱」のストレスのみで語ることにずっと違和感を持っていた。

拍節とは、等間隔で打たれる拍を何らかの方法でグルーピングすることで作られたものある一定の法則で秩序づけられたもの、と私は理解している。
ということは、この「拍節リズム」における強調(アクセント)は、「自然」のものではなく、誰かが「規則化」した、ということにもなるわけだ(この点については後述する)。

音響心理学では、「一定の周期的打拍が音刺激として繰り返された場合、人間は「群」にして纏めようとする。」とされており、これは「群化」と呼ばれる感覚的処理、人間としての生理的・本能的な処理なのだそうだ。
自然発生的な群化は2または4個の音集団となり、これは人間的感覚からは最も普遍的ということらしい。
半強制的に群化を行わせることで、3音あるいは5音単位の非生理的・非本能的なリズムも可能になるということだ。

やはり、三拍子は特別なのだ。
が、ここに、三拍子が難しいと言われる(そう思い込んでいる)理由のひとつはあるのかもしれない。


音楽にそれほど関わりのない方々が、三拍子の音楽をずっと二拍子で手拍子してる場面に出会うことは意外にあるし、音楽経験の浅い方に指揮棒を振っていただくと、大抵二拍子だ、それが三拍子の音楽であろうとも。さらに言うなら、人は音楽を聴取する際、余程音楽と関わりを持たない限りは、「この曲は◯拍子!」と思いながら聴き続けることはしない。こどもたちは、童謡「ぞうさん」が三拍子であることを意識しながら歌うことはまずないだろうし、カラオケで気持ちよく歌っている人だって、「これは◯拍子だ!」と思いながら歌ったりはしないものだ…。


グルーピングあるいは群化するということは、「始まり」を示す必要がある。
大抵、始まりの音は強調される。
これも人間の生理的・本能的な処理の一部なのだろう。

もっとも、一定の周期的打拍だけを聴き続けるということは日常まずあり得ない。
まぁ、「ミニマル・ミュージック」に一部それに近いものはあるだろうが…。
だから、「拍節」について、こうしたグルーピングや群化という視点のみで語ること(結局私自身もだが…)には少々抵抗があるのだ。

ただ、この点だけは指摘しておきたい。
誰もが知っている「ハッピーバースデイ」の歌。これは、アウフタクトで始まる4分の3拍子だが、大抵の人は「二拍子×三小節」という周期(フレーズ?)で手拍子を取ってしまう、ということだ。

もしかしたら、これは日本人独特の感覚なのかもしれない(「アウフタクト」の感覚がないという…。「アウフタクト」についてはいずれ考察してみるつもり。)が、「二拍」という周期が分かるくらいのある種の強調(アクセント)が、自然と生まれているのは、人間の生理的・本能的な処理なのだろう、ということは理解できる。私の師のひとりである東川清一先生は、「人々が聴いている音楽自体に、人々の手拍子を秩序づける何ものかがある」(著書『だれも知らなかった楽典のはなし』より)と仰っているが、こうした「秩序」も、国や風土、言語などによって異なるのだろうと思わざるを得ない。

しかし、音楽に携わる者にとって「三小節」という周期は、やはり「何となく収まりがつかないよなぁ…」という気分にはなる。

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