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タグ: 團伊玖磨

『音楽を発明した男』をめぐって


(2021年3月23日)

先日は、楽譜の誤植の件に触れたが、Facebookの別の友達のところでは、作品タイトルの「誤訳」についていろいろと話がひろがっていた。

「誤訳」というほどでもないかもしれないが、私には忘れられない曲がある。

ドン・ギリスDon Gillis 1912〜1978)作曲の『The Man who invented Music』というナレーション付きの曲だ。

日本では『音楽の創造者』や『音楽の発明者』といった訳が一般的かな…?

しかし、話の内容からすると、どうもしっくりこないのですよ(笑)

孫娘のウェンディを寝かしつけてゲームを楽しもうとしていたおじいさん。そのウェンディに「(枕元で)お話をして」とせがまれる。お話ではなく子守唄を歌ってあげようとするがウェンディは、「子守唄なんて知らないでしょ?お話をして」と…。「私が子守唄を知らないだって?私は子守唄を発明したんじゃぞ!いやいや、音楽を発明したのはこのわしなんじゃ!」とおじいさん。「じゃあ、どんなふうに音楽を発明したのかお話しして」とせがまれ、400万年前に遡って話を始めるのだ。

オーケストラで使われる楽器や行進曲、ダンス音楽、コンサート、果ては有名な作曲家までが全てこのおじいさんの発明らしい…(笑)

このようなストーリーからすると、「創造者」や「発明者」という訳は少々堅苦しいではないか(笑)。

私はストレートに、『音楽を発明した男』とした。
一気にコミカルな感じが出たような気がする。

「直訳」がしっくりくるケースもきっとあるはずなのだ!


ギリスというと、吹奏楽に携わっている方であれば、『台所用品による変奏曲』が最も知られているかもしれないし、『ジャニュアリー・フェブラリー・マーチ』(以前の吹奏楽コンクール課題曲『マーチ・エイプリル・メイ』のタイトルは、きっとこの曲がなければ生まれなかったと思う)、管弦楽からの編曲ではあるが『交響曲第5 1/2番』、『タルサ 〜石油についての交響的肖像』などをご存知の方もいらっしゃるだろう。また、「カナディアン・ブラス」のアレンジャーであったことを知る人もいるかしら…?

少々ご年配の音楽ファンの方であれば、かのトスカニーニの右腕として「NBC交響楽団」のプロデューサーを務めたり、第2次大戦後初めて来日した海外のオーケストラである「シンフォニー・オブ・ジ・エア」の会長として来日したことをご存知の方もいるだろう(来日時、指揮台にも登って自作を指揮しているようだ)。

ギリスの作品については、近年アメリカのAlbanyから随分とCDが発売されている。

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純粋なクラシック音楽というよりは、「ライト・クラシック」といった範疇の音楽かもしれないが、古き良きアメリカを偲ばせる作品が多い。同時代のモートン・グールド(Morton Gould 1913〜1996)の作品と併せて聴いてみると、アメリカの「大きさ」が感じられるような気がして面白い。

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さて、『音楽を発明した男』であるが…。

私はこの作品を、大分県警音楽隊在職時の定期演奏会で取り上げた。それこそ、写譜があまりにも酷い團伊玖磨氏の行進曲『べっぷ』を演奏した時と同じ演奏会だ。

この曲を取り上げようと思った理由は二つ。

一つ目は、「楽器紹介」的な要素を持った作品であること。

演奏会のアンケートでよく「楽器紹介をしてほしい」と書かれていたこともあり、ひとつずつコメントしながら各楽器に何か一曲やってもらうよりは、一曲の中でやりたかった。
(ただし、原曲が管弦楽なので、サクソフォーンやユーフォニアムの紹介が曲中ではできなかったが…)

二つ目は、県警の警察官に「役者」がいた、ということ。

音楽隊員ではない。ちょうどプログラムの検討に入った頃、地元の新聞でこの警察官が紹介されていた。彼のことはこの記事で初めて知ったのだが、元「歌舞伎」役者だ。片岡愛之助さんのもとで修行したとのこと。記事は、彼が警察官拝命後その経歴を活かし、地域の講話などで他の警察署員らと寸劇を通して「振り込め詐欺」などの被害防止を呼びかけているというものだった。寸劇を取り入れた講話は、どこの警察でもよく行われているだろうし、大分県警には各警察署に「○○劇団」というものがある(あった)。音楽隊の演奏会に出演していただくこともよくあった。

「彼に手伝ってもらいたい」と思い、上司に相談し彼が所属する警察署に交渉。ありがたいことに即決だった。



ナレーションの台本は私が和訳して準備したが、なかなか難しい…(笑)しかし、楽しくもある(本音を言えば、「大分弁」を存分に取り入れたかったのだが…笑)。

三交代勤務で大変な中、そして、ナレーションだけということで少し勝手が違う中、彼はしっかりと準備をしてくれた。彼は、当直明けや休みの日に音楽隊まで足を運んで練習に参加してくれた。練習後には「しっかり稽古します!」と(「稽古」というのがいいね! ちなみに、私は今だに「訓練」という言葉が出てしまうことがある)。

『音楽を発明した男』の本番、彼のおかげで(演奏のキズは多かったが…笑)お客様に喜んでいただけた(と私自身は思っている)。


随分遠回りをしたようだが、ここからが本題。

『音楽を発明した男』、実は準備段階で、演奏する側に曲に対する「拒否反応」があるのを感じていた。皆、口には出さないが、そんな空気は漂っていた(笑)。

まぁ、私の想いが強すぎたのかもしれないが…。
(楽譜を自分で買ったくらいだからそんな雰囲気になっても仕方ないか…笑)

奏者の中には、自分が「知らない曲」を取り上げることに「拒否反応」を示す者が必ずいるのは事実だ。しかし、「今知っている曲だってもともとは知らない曲だったのでしょう?」と問うてみたい(笑)。
その人にとっては、曲を知る「きっかけ」がどのようなものだったかが重要であるようだ(大抵、吹奏楽コンクールで流行ったから、昔やったことがあるから、というのがオチだ…笑)。
「楽長が持ってきた曲」というのがどうも引っかかる、というのもあるだろう(笑)。
まぁ、その気持ち、分からないでもない。



私が、演奏する側として、あるいは選曲する者として心がけているのは、過度に「ノスタルジック」にならない、ということだ。そして、「好き嫌い」を言っていては仕事にならない、ということ。

ただでさえ、警察音楽隊の演奏会には「吹奏楽」とは、「クラシック音楽」とは日頃関わりの少ないお客様が多く足を運ばれる。皆様は「警察音楽隊」というジャンルを楽しみにしておられる(と私は強く思っていた)。
そのお客様も多くは「知っている曲」を望まれる。しかし、演奏者側が強い想いを持って選曲し、演奏すれば多くのお客様が心に留めてくれるということも随分体験した。
だから、吹奏楽界隈で流行った曲を何が何でも締め出す、ということもしなかった(演奏してみて考えが変わることもあるので)。

誰も知らない曲を取り上げることが目的でもないのだ。どのような想いでその曲を取り上げるか…。そこが大切なのは言うまでもない。

『べっぷ』だって『音楽を発明した男』だって、私は演奏したことはなかった。それでも、その時は「これらを演奏することは意味あることだ」との想いが強かったのだけは確か。

「流行っているから」、「昔やったことがある」と曲(実はこれだってお客様のほとんどが知らないであろう)を持って来る者に、その意図を訪ねてみると、大抵嫌な顔をされるし(笑)。
そこに確固たる理由はない。「やりたいから」が理由だ…。
ただ、それはそれで否定はできないところもある。大きなホールで演奏できる機会は年1回、ふだん演奏できない曲に取り組める貴重な機会でもあるので。

それにしても、『音楽を発明した男』の練習の際、彼のナレーションに接した時の空気の変わりようと言ったら…(笑)。

「知らない曲」だったからこそ味わえた「変化」だったと今でも思っている。

何やらとりとめのない文章になってしまったが、「知らない曲」を取り上げることの意義、難しさ、いろいろと考えさせられたなぁ、と少々「ノスタルジック」に気分になる…(苦笑)。

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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誤植


(2021年3月19日)

昨日一昨日とツイッターの方で写譜があまりにも酷い楽譜(團伊玖磨氏の行進曲)のことをつぶやいていたところ、Facebookの方では、(友達の)鍵盤奏者の方が、ご自身が演奏された『ダフニスとクロエ』のパート譜の誤植について触れておられた。老婆心ながらちょっと調べてみると、初版の際のミス(チェック漏れ)が修正されずにいるのではないか、ということが分かった(もちろん、断定はできない)。

彼女が演奏なさったのは「第2組曲」。実際に使用された楽譜は一昨年廃業したKalmus 社による「全曲版」のリプリントのようだ。

「第2組曲」の開始4小節は4分の4拍子(5小節目からは3拍子)なのだが、彼女の楽譜には最初から3拍子の表記。しかも、5小節目から段が変わるので「拍子変更」の予告もきちんと記されている。いやいや、困ったものです…

ところが、「第2組曲」単独の出版(1913年)の際にはこの誤りが修正されているのだ。しかも譜面をよく見ると、全曲版の版を利用しているのではないか、と思えるのだ。


ここからはあくまでも推測。

作曲の遅れもあり、ラヴェルと、ディアギレフ、フォーキンらとの間には結構「すきま風」が吹いていたようだ。バレエの上演も当初の予定から随分遅れたらしい(ちなみに、バレエ初演に先んじて「第1組曲」が公の場で演奏されていたようで、これが振付家フォーキンの怒りを買うことにもなったようだ)。

ラヴェルともなると、作曲したスコアから自分でパートを作ったりはしないだろう。書き上げたスコアはそのままDurand社に持ち込まれ、演奏用のパート譜が作られていたはずだ(ディアギレフがDurandとの契約破棄をほのめかしたことがあることから、当初からDurand社が関わっていたことは確かだろう)。

全曲の完成はバレエ初演予定日の2ヶ月前、ここから演奏用のパート譜を作るというのはかなり厳しい。時間との闘いだ。チェック漏れは必ず起こるというものだ。通常行われるはずの「校正」だって行われることはなかったのではないか…?
(現代のように、数日、内容によっては数時間でパート譜が作れるような時代ではないですからね…)

断定はもちろんできないが、よく耳にするDurand社の誤植の多さはこんなところに起因するのではないか…?


初演に際し問題点は出てくるものだ。それをチェックし、修正してようやく「出版」ということになるのが普通なのだろうが、どうも、この工程が抜けているのかな…?

確かに、一旦彫版したものに修正を加えることは大変だと思う。

ここでシェアした動画は、Henle社が公開しているものだが、おそらくDurand社でも当時同様の工程で楽譜が作られていたと思われる。なかなか骨の折れる作業ではないか。

Sharp as a tack – Japanese version

『ダフニスとクロエ』も当初は上演用に楽譜が作られはしたものの、最初から大量に印刷されたとは思えない(もちろん弦楽器などはプルト分刷られたはずだが)。バレエがしばらく再演されなかったことから、楽譜も重刷されることはなかったのかもしれない。

「第2組曲」はバレエ初演の翌年(1913年)に出版されている。バレエ第3場の音楽をほぼそのまま抜き出しているので、「全曲版」の版(銅版?)を利用していても不思議ではない。この時いくらかのチェックはなされたはずだ、時間的な余裕もいくらかあっただろうから。少なくとも単純ミス(例えば上述の拍子の間違いなど)は修正されているのだろう(細かく調べたわけではないのでご容赦を)。

ということは、「全曲版」を再版する必要が出た場合、新たに彫版する必要が出てくる。しかし、動画を見ていただくとわかる通り…手間とコスト、そして今後どれほど再演されるのかということを考えるとなかなか…ですよね。しかし、作品にとっては少々不幸なことかもしれないよなぁ、と思ってしまう。

結局、間違ったままの楽譜がいまだに流通している…。せめて「正誤表」みたいなものでも出版社が提供してくれれば、なんて思うのは私だけではないだろう。そもそも「第2組曲」を出版する際、どこがどう修正されたかの記録は残されていないのだろうか?


私は、冒頭に触れた写譜の酷い團伊玖磨氏の行進曲について、ホームページ内でそのことを綴った際こう締めくくっている。

「質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。」

どうやら、考えを改めないといけないようだ(笑)

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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行進曲「べっぷ」

行進曲「べっぷ」。

團伊玖磨作曲のこの作品、どれほどの方がご存知だろうか?

毎年恒例の「別府大分毎日マラソン」の開催25回目の年(1976年)に作曲されたものだ。(下の写真、「第50回別府国際マラソン」となっているが…)

おそらく、大分県内でもこの曲の存在を知る人はほとんどいないだろう(余程吹奏楽に関わりを持たない限り)。

名曲『祝典行進曲』の作曲者らしい、気品ある4拍子のグランド・マーチだ。

(註:以下、「楽譜」とは「出版譜」のこと)

私は2006年に大分県警察音楽隊で仕事をさせていただくようになってからこの曲の存在を知った(隊所有の楽譜で)。

好き嫌いは別として、やはり地元にゆかりのある曲は大切にしていかねば、との思いもあったので、こちらも毎年恒例の「定期演奏会」でいつか取り上げようと思った。

2016年2月、その機会は訪れた(というより、楽長の権限でプログラムに入れた)。

準備に一苦労した。

まず、スコア(総譜またはコンデンスド)が行方不明。自分で作成するしかなかった。

ただ、各パート譜を細かにチェックできたのは良かった(正誤表をもとにパート譜への書き込みをしつつ)。

実はこの過程で、楽譜の不備が原因で音楽作品が埋もれてしまうことがあるのかもしれないと、思ったのだ。それは、作者自身によるものと、楽譜を制作した側に問題がある場合とがある。「べっぷ」の場合は後者かな…。

「べっぷ」のパート譜は五線紙に手書きされた(かなり乱雑に)ものがそのまま印刷されているのだが、おそらく作曲者本人の筆跡ではないと思われる(以前拝見した他の曲の筆跡とはあまりにも違う)し、もちろん浄書家さんの手によるものでもない。

しかも、正誤表にはない、考えられないような間違いが…。

例えば、フルートのパート譜。

旋律が何故か一音高く書いてある箇所があるのだ。しかし途中から正しい音に…(B♭クラリネットとユニゾンなので、写す途中でそちらのパートを見てしまったか…?)。

バス・クラリネットのパート譜。

ト音譜表で書かれるのが慣習となっているが、一ヶ所5度上の位置に音符が書かれている(そこだけ、in E♭のバリトン・サックスを写してしまったのだろう…)。

正直、こんな楽譜では再演の機会はなかなか訪れないだろう、と思った。

もし、本当に作曲者自身(あるいは浄書家さん)が書いた楽譜でないとすれば、こんな不備だらけの楽譜を世に出すことは、作曲者や作品にとっても不幸なことだ。

それとともに、作品の質とは無関係に楽譜の質が作品の先行きを左右することもあるのだ、と感じたり…。

例えば、海外の古い行進曲の楽譜には、スコア(ほぼほぼコンデンスドスコア)とパート譜との間に音の間違いやアーティキュレーションの違いなど結構見られるのだが(それをどのように解決するかが一つの面白さでもあった)、さすがにこの「べっぷ」のようなことは経験したことはない。

今ではコンピュータ浄書も一般的になり、スコアとパート譜が食い違う、ということは確かに少なくなった(ほとんどの場合、スコアが間違っていればパート譜も同じ様に間違っているから)。ただ、その方がかえって厄介かもしれない。

演奏者に余計な苦労を強いるような楽譜はいただけないが、まずは作品の質(と、自分に言い聞かす)。

(歴史的な評価を確立している作品を除けば)質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。

(2019年10月9日)

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