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タグ: 強弱

「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

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楽譜の「表情」

相田みつをの書いた文字のひとつひとつは、見事な「表情」を持っている。

勿論、書かれている言葉にも味があるけど。

しかし、もしこれが、活字で印刷されただけの言葉だったら…。

私も普段は、きちんと印刷された楽譜を使っているし、作品も最終的にはパソコンで浄書している。

楽譜というものは便利だが、実に厄介で、かつ不完全なもの。

作曲や編曲で五線紙(あるいはPC)に向かっている時、私は(私だけじゃないと思う)当然のことながら、「このような演奏をしてもらいたい」という理想像を浮かべている。

それは、響であったり、強弱であったり、抑揚であったり…(時には、演奏していただく演奏者の顔が浮かんで、「こんな難しいこと書いて…!!」と言われてるような気分も味わうが…笑)。

しかし、楽譜に用いる一般的な記号だけではそれらを表しきれないのが現実。

例えば「フォルテ」とか「ピアノ」という、所謂強弱を表す記号。

どの位強くするのか、どの位弱めるのかは最終的に演奏者に委ねるしかない。

記号に対する強弱の感覚って、やはり人によって様々だと思う。

それから「スタッカート」や「フェルマータ」。

どの位短く?どの位延ばしたら?

やはり、これも演奏者に委ねるしかない。

(余談ながら、「スタッカート」や「フェルマータ」は、「奏法」のための記号と思われているようだが、「表情」記号だと私は思っている。)

この不完全極まりない「楽譜」という代物、奏法や表現が多様化したこともあり、現在ではいろいろな記譜法も考えられているが、現実。一般化しきれていないように思う。

私自身は、楽譜の持つある種の曖昧さが演奏者のイマジネーションを広げるものだと考えている。

作曲家の中には、自分の理想通りに再現されることを求める方もいらっしゃるようだが、私は、自分が思ってもみなかった演奏に出会う方が好きである(「適当(いいかげん)」な演奏でなければ)。

じゃあ、演奏する立場から見ると…

「楽譜」の持つ曖昧さに苦労することは確かにある!!

ただ、私も楽譜を作る身、作る人の苦労もわかっている(つもり)だから、それ以上のコメントは控えておきます…。

先日、片付けものをしている際、以前書いた(箸にも棒にもかからない…)作品の手稿(手書きの楽譜)を久しぶりに眺めた。

当時を思い出したりして何だか懐かしいやら、面白いやら。

印刷されたものや、PCで制作したものとは違う表情があって、それはそれでいいものだなぁと。

有名作曲家の古い手稿というのも結構残っていて、私はそこに、既述の相田みつを「書」を見るような思いを以前したものだ。

楽譜にだって「表情」があってもいいんじゃないのかな…?

「たまには手書きに戻ってみるか」と思いつつも、PCでの楽譜制作にに慣れてしまった私。いっそのこと、(楽譜に表情をつける)新しい方法でも考えてみますか…。

そんなことより、音楽の中身ですよね、問題は…。

(2006年)

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