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タグ: 音程

「ピュタゴラスと鍛冶屋」の話

2021年3月2日 公開

⬛️はじめに

 昨年の5月から『Wind Band Press』というサイトで『スコアの活用と向き合い方』という連載を持っています。不定期ではありますが、これまで5回書いてきました。

https://windbandpress.net/category/column/column-column/masakado-score

 今後さらに数回書き進める予定です。

 この連載を通じて、ひとりの高校生と知り合いました。この方は学校の吹奏楽部で指揮も担当されているとのこと(普段は外部の方が指揮されているそうです)。日常の練習でどのようなことに気をつけたら良いか、などの質問をしてこられたのですが、メールをやり取りするうち、いわゆる「楽典」や音楽理論というものをどう演奏(あるいは練習)に役立てることができるか、という話になり、私もいずれそうしたことをまとめてみたいという思いを持っておりましたので、一緒に勉強することにしました。

「音階」や「音程」、「音律」など、さまざまな「楽典」本でも最初の方に書かれている内容から始めたのですが、この方の探究心には本当に圧倒されます。

 例えばこのような質問が…

・「ピタゴラス音律は、上行する旋律に有効」とありますが、これはピタゴラス音律の半音の狭さが導音という概念に繋がったということなのでしょうか。それとも、後に生まれた導音という概念が「結果的に」ピタゴラス音律と近くなったということなのでしょうか?

・前者であれば、長調の下行形というもの自体が自然界では「異質なもの」なのではないかと感じてしまいますが、そういう訳でもないのでしょうか…?

・後者なのであれば、「導音」という概念はどのようにして生まれたのか…?

 私自身普段考えているようで、実は深く考えていなかったかもしれません(笑)。

 (ちなみに、この方は「音楽の道に進もう」と思っているわけではないようです。)

 決して簡単に答えられるような内容ではありません(笑)。しかし、できる限りのことはしたいものです。昨年『バンドジャーナル 』誌に「アップデート」という文章を掲載していただきました(11月号)が、「これは自分自身をアップデートする、勉強し直すいい機会だな」と思い、さまざまな書籍を読み返すなどし始めたところです。

(「このような本を読んでみたらどうですか」的な回答をすることは簡単ですが、それではこの方の思いに応えることができない、とも思ったわけです。)

 早速、いろんな疑問が湧いてきました。

 そのひとつが、これから書きます「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の話です。

 私はここで決して「理論的」に解明することを目的とはしていません。

⬛️違和感

 下の写真は、勉強し直す際に参考にしている書籍の一部です。嫌味なように思われるかもしれませんが(笑)、決して全てを熟読していたわけではないことを告白しておきます。「辞書的」にめくってきたものがほとんどです(理系人間ではない私にとって、古い音楽理論を読み解くのはなかなか骨の折れることなのです。確かに「つまみ食い」、「いいとこ取り」というのも後々問題が発生する可能性が十分にあるのですが…)。

 さて、「ピュタゴラスの音律」は音楽理論を語る上では必ず言及されるもの、基礎となっているもののひとつであることは疑いようもありません。ここでその理論を改めて説明する必要ないと思います。数多の書籍のみならず、インターネット上でもさまざまな記事が出てていますので、概要は知ることができます。ただし、「ピュタゴラスが「自然倍音列」を発見し音階を作った」というような誤った記事(これを「調律師」さんが書いているので唖然としましたが…)もありますので留意する必要はあります。

 特にインターネット上の記事には、「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」に関することがよく書かれています。

 簡単に言うなら、「鍛冶屋の金槌(ハンマー)が金床にあたる音を聞き、金槌の重さと音程の間に数学的な関係があることに気づいた」ということです。

 この逸話、私にとってはずっと「違和感」でした。

 私たちは「鉄琴(グロッケンシュピールやヴィブラフォーン)」という楽器を知っています。ひとつの鍵をどのようなマレット(撥)で打っても基本的は音高が変わらないことを知っています。「重さの違うマレットで打って違う高さの音が出た」という経験をした方はいらっしゃいますか?

 トライアングルもそうですよね? 演奏する曲によって大中小さまざまな大きさのトライアングルを使い分けることがあります。曲にふさわしい「音色」を探ろうとしてさまざまなビーターを試した経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。しかし基本的な音高はそう変わらないはずです。

(インターネット上には、このトライアングルの大きさの違いを例に、ピュタゴラスの逸話を検証しようとした記事がありましたが、考えてもみてください。トライアングルでビーターを打つ人はまずいないでしょう。)

 少し考えれば分かる話なのですが、この「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の逸話は、いまだまことしやかに「伝承」されているのです。

⬛️「ウソ」か「マコト」か…

 ピュタゴラス自身やピュタゴラス学派に関しては確実な史実が極めて乏しいとされています。「鍛冶屋」の逸話もピュタゴラス自身が述べたものであるかは分からないのです。

 この逸話が伝承されるきっかけとなったのはボエティウス(480〜525?)の『音楽教程』のようですが、それでもピュタゴラスの時代からは1000年近く経過しています。

 中世・ルネッサンスの時代にいたっても、この逸話は信じられていました。

 “ドレミの始祖”として知られるグイド・ダレッツォ(991/2〜1033以降)の理論書『ミクロログス』(上掲写真)はこの逸話を紹介しつつ締めくくられています。

 『西洋音楽理論にみるラモーに軌跡』(上掲写真)の著者・伊藤友計氏によれば、ヴィンチェンツォ・ガリレイ(1520s〜91)が実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、一般にはあまり知られていないようですね。この逸話が16世紀になるまで延々と受け継がれ、伝承され続けた、という事実は興味深い論点である、と伊藤氏は述べています。そして、「近代が到来する中世まで人間の思考形態としては「原理から現実へ」という「演繹的思考形態」が趨勢であったということ」と指摘しています。

 伊藤氏が述べる「演繹的思考形態」に関しては、ピーター・ぺジックがその著書『近代科学の形成と音楽』(上掲写真)でプトレマイオスの言葉を引用し、次のように述べています。少し長いですが引用します。

 アレクサンドリアの偉大な天文学者で音楽理論家でもあるクラウディオス・プトレマイオス(紀元前2世紀)は、こうした物語が眉唾であることに気づいていたのだろう。プトレマイオスは、葦笛や横笛(フルート)、「弦に吊るされた錘」や「重さの異なる球や円盤」による証拠を一蹴し、ハンマーにいたってはいっさい触れていないが、一弦琴(註:いわゆる「モノコルド」のことだろう)を使えば「協和音を生みだす比を正確に、より簡単に確かめられる」と言っている。プトレマイオスの言葉を聞くと、鍛冶屋の物語はあらかじめ弦であきらかになったことをドラマチックに脚色したのではないかと思えてくる。すべてがまことしやかで、ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい。弦や管ですでに確認された比に、ハンマーが従わないことがあるものか?と。

 ここで実験につきもののもうひとつの危険があきらかになる。ある文脈において、ある特定のパターンが観察されると、一見したところ同じような状況でもそのパターンが生じるに「違いない」と決めつけてしまうのだ。こうした問題は、ピタゴラスの神話には影も形もない。ピタゴラスの神話は、「数は鍛冶屋の仕事でさえも勝利をおさめる」奇跡としてこの物語を示している。本当の奇跡は、数の比が他では複雑だとしても、一本の単純な弦については明白であることだ。この根底を貫く糸は、ローマ時代末期にボエティウスが伝えた要約〜これはピタゴラスに関する最初の文献から約1000年後に書かれたものでる〜現存するギリシャ語最古の文献をよく考えると見えてくる。

 半ば「けちょんけちょん」に言っていますよね(笑)

 ぺジックはその前段でも「けちょんけちょん」に言っています。

 (職人たちの腕力ではなく交換したハンマーによって変化した、というのであれば、)ピタゴラスが「神の加護によって」鍛冶屋の前を通りかかったのだとしても、そこで起きたことは、神の力の働きによる超自然的な、奇跡的な出来事ではなくなる。人間がありふれた仕事場を訪れて、そこで繰り広げられている日常の出来事を不思議に思って中止するのだ。ピタゴラスの啓示は、神の崇拝や静かな瞑想へ彼を誘いはしなかった。なぜかわからないが調和している音の原因を探るという人間らしい行動へ駆り立てた。これを神の啓示の場面だと言うのなら、その後の出来事は、神の啓示にふさわしくない、いや神への冒瀆と言ってもおかしくないだろう。ピタゴラスは、世にも不思議と感じたまさにその物事を止めよう、もしくは変えようとしたのだから。

 もし、こうした逸話が本当であれば、ぺジックが言うように「いくつかの伝承に出てくるスフロン(sphuron ハンマー)という言葉は、スファイラ(sphaira 球sphere)や円盤(disk)の読み間違いか書き間違いかもしれない。ピタゴラスが耳にしたのは大小さまざな金属の円盤の音だったのかもしれない」のですが…。

 こうしてみると、ピュタゴラスの逸話はどうもインチキ臭い(笑)ようにも思えてくるのですが、では、本当に「インチキか、さもなくば万にひとつの偶然の一致だった」(F.V.ハント『音の科学文化史』1978)とか、「事実に反する」(キティ・ファーガスン『ピュタゴラスの音楽』2008)と切り捨ててもいいのでしょうか?

 実は、ピュタゴラスの逸話に否定的な立場をとる人が見落としている点があるのです。

⬛️鍵は「重さ」

 金床の上の鉄が叩かれる音を実際に聞いたことがある、という方はいらっしゃいますか?

 ピュタゴラスの時代の鍛冶屋さんが実際どのようにお仕事されていたかは正直わからないのですが、動画サイトで、例えば「日本刀」が生み出される行程を見ることができます。「鉄を打つ」ということについてはピュタゴラス時代と変わらないと思われますので、是非ご覧いただきたい、そして「鉄を打つ」音を聞いていただきたいと思います。きっと「こういう音をピュタゴラスは聞いたのかもしれない」という場面に出会えるはずです。

 私もいくつかの動画で確認しました。そのひとつがこちらです。

 『日本刀奉納鍛錬』

 (少々長い動画ですが、)11分40秒を過ぎたところから、それらしい音を聞くことができます。ピュタゴラスもこのような音を聞いたのでしょうか…?

 お聞きの通り、同じ地鉄を打つ2つの槌(ハンマー)の音は違いますよね?いわゆる「振動の比率」(つまり音程差)は違うでしょうが、ピュタゴラスが聞いたと言われる音の違いは、このようなことだったのではないか、と私は思うのです。

 ピュタゴラスの逸話に否定的な立場を取る人たちは、金床の上の「鉄」ではなく、金床を打った音を拠り所にしています。その点がそもそもの誤りです。もし、「鉄」を打った音を拠り所に否定的な立場を訴える人がいるのなら、「実際に鉄が打たれるところを確かめたのですか?」と問いたくなります(笑)

 この逸話を読み解く鍵は、「重さ」です。

 動画で確認できる槌(ハンマー)による音の違い、これは明らかに2つの槌(ハンマー)の「重さ」の違いからきていると思えます。そして、これら2つの槌(ハンマー)が、打たれている地鉄よりも(はるかに)「重い」ということをも表していると思っています。

 ピュタゴラス(学派)への反論は、明らかにこの点も見落としている(無視している)ように思えます。

 上述の「鉄琴」や「トライアングル」も、基本的に「打たれる側」が重い。金床も槌(ハンマー)よりは重いのではないでしょうか? ですから、私が上で、幾分否定的な含みを込めて書いたトライアングルを使った検証は、あながち誤りではないのです。

 私自身が科学的に証明したわけではないのですが、二つの物体がぶつかり合った時は重量のある方(密度も関係するのでしょうか…?)の音が大きい。であるなら、ピュタゴラス(学派)の説を「インチキ」と決めつけることはできないように思うのです。

 ヴィンチェンツォ・ガリレイが実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、私はまだその詳細を読んでいませんので、いずれ、ここまでの考察を再検討する時がくるかもしれません。

⬛️おわりに

 拙稿は、私自身が抱いた「違和感」を解消しようと勉強し直したことに端を発します。

 一度はその「違和感」も解消されたように思えた(本音を言えば、伊藤氏やぺジックの記述に沿うような方向に結論付けようとしていた)のですが、文中にも取り上げたぺジックの言葉「ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい」がそっくりそのまま自分にも当てはまる、と気づきます(笑)。おかげで、少しだけ「アップデート」できたのではないかと思っています。

 結論めいたものは何ら出していませんし、今後再検討する余地が多分にある、ということだけはご理解ください。

 冒頭に書きました通り、現在はひとりの高校生の方と「楽典」や「音楽理論」を実際の演奏(あるいは練習)に活かそうという視点で一緒に勉強しています。まだまだ始めたばかりですが、この過程で、演奏には直接結びつかない領域に踏み込んでいく機会もあるかもしれません。その際はこのような形で公開していこうと考えております。

 長文乱文にお付き合いいただきありがとうございました。

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「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

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