仮に、一拍目に「音量的なアクセント」をつけて打拍するとしよう。
三拍目を打った後、両手の開きは一拍目や二拍目を打った時より大きいはずだ。次の一拍目に入るための準備をしているのだから。
この準備なしに一拍目に音量的なアクセントをつけることは、実はかなり難しいはずだ。
無理に続けようとすると、何だか「押しつぶされたような」アクセントになるように思う。
体にも余計な力が入ってしまう、弱拍とされる二拍目三拍目がもっとハッキリしなくなる(一拍目に力が入りすぎる分、「抜けて」しまうように感じられる)。
そのため一拍目にますます力が入る…、という具合だ。
「第10回」で書いた、「一拍目を合わせること、ズレないことに意識が向きすぎて」というのと同じ状況にも思える、これは何も「三拍子」に限ったことではないが。
「意識」する、「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは、(僅かなものではあるが)音量的なアクセントだったり、長さであったり…。つまり、私(たち)が教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」の関係とは異なるものだ。
簡潔に整理すると…
●「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」とは同じではない。
●「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば一拍目の)音に何らかの「重さ」を加えることではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、一拍目が強調されることは当然起こる)。
私は、そう考える。
余談かもしれないが…、水前寺清子の『365歩のマーチ』(おそらく二拍子系だろう)で、「ワン、ツー、ワン、ツー …」と繰り返される部分がある。
意識せずとも「ツー」の方が強調されると感じる人は多いと思う。
「ツー」が強調されることで「回帰性」が生まれているように思うのだ。
これは、「ツー」という言葉が長音であることも関係していると思うが、試しに、「ワン」の方を強調してみると…。
一拍目に強調(アクセント)を置くと変なところに力が入りませんか、という一例だ。
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