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ベートーヴェン(2)

(メモ)ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調作品125」 〜その「ジャンル史的立ち位置」

※本メモは、2013年に友人の依頼で作成したものです(加筆、修正の上掲載)。

「第九」を取り上げる意味

 この時代(すでに「ロマン派の時代」になったといってもいい)、交響曲はその規模や内容の豊かさから、器楽曲の最高の形態であった。作曲家にとっても独自の語法を作り出し自我を表明するのに最高の表現手段になっていた。確かに、ベートーヴェンにより交響曲は器楽曲の首座を占めることとなったが、もしかすると、ベートーヴェンは同時に、「第九」によって、古典的な交響曲を崩壊の道に向かわせたのではないかと思える。

 「第九」交響曲は、ベートーヴェンのあらゆる作品の中で最も広い影響力をもっており、今日に至るまで最も広範な解釈を受けてきたが、その多くは、作品全体よりも「歓喜に寄せて」だけに焦点を当て、ジャンル史的視点(後世にどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのか、などを含め)で述べられることは多くなかった。しかも、この、反体制的内容の頌歌を用いた交響曲の構造的側面に言及した著述を目にすることは意外なことに少ない。むしろ、「歓喜頌歌」に結びつけてこの作品の要素を意味づけようとする記述が多い。

 構造的側面に焦点を当てることで、ジャンル史的な意義や立ち位置がわかるのではないか。

特徴

●独唱、合唱の導入(第4楽章) → シラー「歓喜頌歌」への付曲

●ニ短調 → 意外なことに、それまで交響曲で用いた調性はほとんど長調(5番のみハ短調)→ 彼が範のひとりとしていたモーツァルトにとって、この調性は絶望や不穏な情緒を示すに効果的な調性だった。そのためか、ベートーヴェンがこの調性で書いた作品は驚くほど少ない

●楽章構成等

それまでの交響曲(ベートーヴェンのみならず)の基本的な楽章構成からの変更 → スケルツォ楽章が第三楽章ではなく第二楽章に置かれた(但し、彼は第4番から「スケルツォ」の語は用いていない) → 第一楽章のアレグロが、それまでの「アレグロ」楽章のような性格を有しないため、音楽的均衡を図る意図があったか、または第四楽章の劇的な導入のためには緩徐楽章が必要だったのか・・・

・第一楽章におけるソナタ形式 → 提示部の繰り返しを持たない

・第二楽章におけるフーガ風テクスチュア

・第四楽章 → 古典音楽を支配していた規範的な図式(ソナタ形式あるいはロンド形式)からの大きな逸脱 → シラー「歓喜頌歌」への付曲が前提であったため、ある意味当然のこと → 変奏曲の手法(二重フーガまで用いている)

・第四楽章において、それまでの三楽章の主題を再現

・第四楽章における変奏に、「トルコ軍楽」の様式を用いている → 楽器編成の面にも影響 → ピッコロ、トライアングル、シンバル、バスドラムの導入 → 「トルコ軍楽」は当時のドイツ・オーストリーの音楽家に何かしらの影響を与えており、ベートーヴェン自身もそれまでに「トルコ軍楽」のスタイルで作品を書いている → このスタイルで変奏を書く必然性とはなにだったのだろうか?

●作品の規模

・それまで一番長かった第三番(50分前後)よりもさらに20分ほど長い

 フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1952年)/第三番 → 約55分

     〃      フィルハーモニア管(1954年)/第九番 → 約75分

 バーンスタイン指揮ウィーン・フィル/第三番 → 約53分 第九番 → 約71分

 グッドマン指揮ハノーヴァー・バンド/第三番 → 約47分 第九番 → 約66分

独唱、合唱を用いた第四楽章は当然のことではあるが、スケルツォ楽章の長さも彼の他の作品に比べ際立っている → 新しい交響曲(第九)を以前の交響曲と比肩する価値をもつものとして書きたいという願望と、シラーの「頌歌」によるカンタータ風の作品を創作したいというかねてからの願望を実現させるためには、これほどの規模が必要であったのかもしれない

第四楽章は、それまでに彼が作曲した交響曲のうち、第一番、第八番の一曲分の長さに相当する

次世代、後世への影響

●神格化されたベートーヴェン

・音楽技法的にみるかぎり、ロマン派の音楽はウィーン古典派のアンチテーゼではない

・ロマン派の音楽家たちは、古典派が完成した様式や形式を引き継ぎ、それらを発展あるいは磨き上げることに力を注いだ

・特に、ベートーヴェンの音楽にしばしば自己の創作のインスピレーションを求める、ということがおこった

●では、交響曲は…?

・シューベルト → ベートーヴェンと同じ時代を生き、古典派の交響曲の豊かな実りを受け継ぎ、それを後世に伝えようとした → しかし、特にソナタ楽章で重要視されていた論理性、主題の展開の独創性などは失われ、表情豊かで親しみやすく美しい旋律が優先される(外形はとどめつつも、ソナタの性格は消極的になった) → 見方によっては、ベートーヴェンほどの展開の独創性を出すことができなかったともいえる(明らかにベートーヴェンとは異なる音楽理念を持っていたとはいえ)

・メンデルスゾーン → 慎重で控えめな表現 → 音楽的発展に乏しい → 流麗で均整がとれているものの、聴き手の精神を高揚させ、あるいは圧倒するような根源的な力強さに不足 

しかし、ベートーヴェンの影響をみる要素もある

交響曲第2番「讃歌」:ベートーヴェンの「第九」とほぼ同じ構成(「シンフォニア」と題された前半三楽章と、後半のカンタータ。カンタータでは、「シンフォニア」の要素が登場)

交響曲第4番「イタリア」:第四楽章で、サンタレロ舞曲のリズムを使用

・シューマン → シューベルト、メンデルスゾーン同様、古典派の枠組みは守られてはいるが論理性よりも叙情性が重視されている

・つまり、ベートーヴェンに次ぐ世代のドイツ、オーストリーの作曲家は交響曲というジャンルに新しい生命を付与することは出来なかったといえる → 彼らの理念によるところも大きいだろうが、ベートーヴェンが大きく立ちはだかっていたのは確か(つまり、古典的形式の枠内で創作するには、「第九」まででやり尽くされていたと、彼らが考えていたとも思える) 

●交響曲の新たな展開はフランスでおこる

・ベルリオーズ → 評論「ベートーヴェンの交響曲に関する分析的研究」 → ベートーヴェンの全交響曲に関して論評した最初の書物 → 「幻想交響曲」の下地のひとつ → 「固定楽想」 → 明らかに、ベートーヴェンの展開技法の影響 → また、「第九」の第四楽章に見られる、それまでの三主題の再現という技法からの影響もある → オーケストラに新たな楽器を導入(これも、「第九」がなくてはできなかったこと。) → 主題の創作力に乏しかったことの裏返し → 実はベートーヴェンも主題あるいは旋律を書くという点においては創作力に乏しかったのではないかと思える

いずれにしろ、「第九」の影響が大きいといえる「幻想交響曲」は標題交響曲という新しい展開をもたらすことになるが、それは、古典的交響曲の崩壊へとつながっていくといっていい → リストの「ファウスト」や「ダンテ」などの標題交響曲や、「交響詩」へとつながっていく → 音楽的な論理性は保持しつつも、ソナタのような形式にこだわらない自由な形式

●ワーグナー以降

・「第九」に魅せられることでその経歴が形成されていった作曲家にワーグナーがいる。しかし、ワーグナーは、いくつかの交響曲を作曲しているとはいえ、オペラを楽劇に変えること、つまり、ベートーヴェンが交響曲のあり方を変質させ、器楽に言葉を結合させることによって世界に語りかけようとしたように、民族的神話に基づく楽劇という手段によってドイツの文化をつくりかえようとした。 → 「ベートーヴェンの第九交響曲の神秘的な感化によって、音楽の最深層部を探求しようとの欲求にかられた」 → 交響曲以外のジャンルへ影響を与えたことは興味深い

・前述のメンデルスゾーン、シューマンだけでなく、ブラームス、ブルックナー、マーラーに至るまで、「第九」交響曲は後世の交響曲作曲家としての自らの道を切り拓くために直面すべき、音楽的経験の巨大な中心的防壁になっていると理解していた。

例えば、「第九」以後のニ短調の交響曲は、シューマンの第四、ブルックナーの第三、フランクの交響曲いずれもが、「第九」なしには考えられないし、マーラーの巨大な交響曲、独唱や合唱の導入も、「第九」という先例があればこそ。

しかし、そのいずれもが「第九」ほど神話的な地位を獲得しているわけではない。

・ベートーヴェンが「第九」を作曲した時代、音楽はすでに貴族階級から市民階級の手に完全に移っていた。

「教養としての音楽」から「大衆の音楽」に変わっていたといっていい → 音楽家は、それまでよりも、はるかに広範囲にわたる不確定な聴衆を相手にしなければならない → 表現の形式や手段の拡大

音楽は、市民階級の多彩な要求に応えながら変貌していった。

特に、ドイツ、オーストリーでは、多分に閉鎖的な社会感情を反映した内向的で情緒的な音楽が生まれるという結果になった。

つまり、時代が「古典的な交響曲」を必要としなくなったともいえる。

もちろん、ブラームスやブルックナー、マーラーのように、交響曲の作曲を自己の創作の一里塚にする者もいたが、特にブルックナーやマーラーの場合は、交響曲を作曲することの意味がベートーヴェンとは大きく変わっている。

●20世紀以降

・ドビュッシーはこう指摘している。

「ベートーヴェン以来、交響曲の無用性は証明されているように思われる。交響曲は、シューマンにおいても、メンデルスゾーンにおいても、すでに力の衰えている同じ形式の恭しい繰り返しにすぎない。(中略)さまざまな変容が試みられたにもかかわらず、交響曲は、その直線的な優雅さや様式ばった配列やうわべだけの哲学的な聴衆などのすべてからいって、過去にぞくするものだと結論づけなければならないだろう。」

ドビュッシーのこの指摘は、1901年に発表された文章であるが、この頃はブルックナーの九曲は完成されており、マーラーも四番までは初演されている。ロシアやチェコでも、民族の伝統に基づいた新しい交響曲の世界が開拓されつつあった。

しかし、それは「交響曲」の「成熟」といえるのであろうか…

ドビュッシーは「死の影」を読み取っていたと推測できる。

その証拠に、二十世紀にもなると、「交響曲」はますます崩壊の道をたどることになる。

「交響曲」というタイトルは付いているものの、概念そのものが変質している場合が多い。

では、「第九」のジャンル史的立ち位置とは﷒… 

・確かに「第九」は、後世に大きな影響を与えてきたが、その影響は「交響曲」というジャンルというよりは音楽史そのものに与えた影響である(だからこそ、今日に至るまで様々に解釈、評論され続け、また意味づけされようとしている)

・当時から構造上の欠陥を指摘する者がいたのは確かだし、現代でも、チェリビダッケのように「第四楽章は全く無駄」と考えた者もいる。

・「交響曲」を器楽曲の最高の形態にまで成熟させたベートーヴェンは、早い時期から独唱・合唱の導入を考えていたのではあるが、もしかすると、器楽のみで表現することへの限界を感じていたのかもしれない。

・音楽表現の新たな可能性を示した意味では「偉大な」作品であることは疑いようもないが、こと「交響曲」の成熟、発展のという意味では意外なまでに大きな影響を残さなかったといえる(もちろん、時代背景、社会状況が多分に影響しているのではあるが)。それは、「第九」が「交響曲」の崩壊への入り口だったことを意味しているように思う。

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