ある作曲家がこう言った。
「作曲家には、例えば音楽で「希望」のようなものを表現することはできない。そんなこと言う作曲家がいれば、それは音楽をまるで解っていない。」
こうも言っている。
「作曲家が感じている「何か」は、その音楽を磨き上げていくことで、その音楽を通して響くものだ。」
例えば、大きな犠牲を伴った災害や事件が起きると、「「人の苦悩」や「祈り」を表現しました」的な音楽が濫造される。全てが悪いとはもちろん言わないが、あまりにも安っぽいものが多い。そして、そうした音楽を「製造」する者のほとんどは、そんな大きな苦難とは無縁だ。
私が身を置いている業界、というかジャンルでもそうしたことがある。
こうした音楽を売ることが、大きな犠牲を強いられた方々への物資的な、あるいは経済的な助けになることは百も承知だ。
しかし、例のインチキ野郎(誰とは言わずともわかるだろう)のように、「人の苦悩」や「祈り」さえも利用しようとする輩も出てくる。
当事者の「苦悩」や「祈り」を、他人が「表現」することはできないと思っている。ましてや音楽で「祈り」を「表現する」ことは不可能だ。
私は、音楽そのものが「祈り」だと思っている。
その「祈り」は、作曲家自身の「苦悩」から生まれるものであって、作曲家は言葉にできない想いを音に込めるものなのだ。
そして、演奏者や聴衆が、「作曲家が感じている「何か」」をどう受けとめるかも実は求められているように思う。冒頭に書いたある人の言葉にある「音楽を磨き上げ」るのは、演奏者であり、聴衆であるということを忘れたくない。
まあ、濫造される音楽の中にも、磨き上げられていくものがあるかもしれないが…。
音楽で「祈り」を「表現する」ことはできないが、「祈り」を音楽として伝えることはできる。私はそう思いたい。
国際政治学者であり音楽評論家としても著名だった故矢野暢氏が、著書の中で、「戦争を題材として、あるいは戦争を契機として生まれた音楽には、名作が少ない」と書いている。上述したこと何か共通するものがあるように感じる。
例えば、ベートーヴェンの『ウェリントンの勝利(戦争交響曲)』やリストの『マゼッパ』などについては、作曲者がいかに戦争とは無縁であったかを述べており、バーバーの『交響曲第2番』などは、「時代錯誤」とまで言っている。
確かにいずれの作品も名作とは言えないなぁ…。
そして、矢野氏は、戦争を題材とした、あるいは戦争を契機に作曲された作品は、単に「音響素材」として表現されているか、または「政治的メッセージ」かのどちらかに陥りやすい旨のことを書いている。
数多の「祈りを表現しました」的音楽も、そうした傾向はあるかもしれない。「政治的メッセージ」が込められたような、ある種の厳しさを持ったものは少ないようにも思うが.…。
音楽が「祈り」であるのは、世の中には、あるいは人生には苦難や障害があるから。
だからこそ音楽の存在価値もあるはずだ。
苦難や障害がなければ、音楽の意味合いも変わってしまうだろう。
戦争を契機に作られた作品の中で、個人的に惹かれるものもある。例えば、ニールセンの『交響曲第4番』など。
こうした音楽は、実は今後生まれてほしくはないのである。こうした音楽が次々に生まれてくる世の中では、正直希望が持てなくなるから。
そういう意味で、「祈りを表現しました」的な音楽が次々と生まれてこないことを「祈って」いる。
(2015年)