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「秩序」としての音楽

結局、私たちは音楽に何を求めているのだろう…?

世の中、社会の有り様でその存在価値は大きく歪められることさえある。前に書いたショスタコーヴィチの『レニングラード』(『ちちんぷいぷい/ショスタコーヴィチ』参照)ではないが、置かれた状況によっては全く違う姿になることもある。

作品を創る側、演奏する側、聴取する側、そのいずれもが音楽にある種の「秩序」を求めているのではないか、見出そうとしているのではないか、というのが今の私の考え方。

「秩序」とは、調和が保たれている状態と言っていいだろう。

例えば、心の。

例えば、社会の、世界の…。

今向き合っている音楽(作品)のどこに「秩序」を見出そうとするかは人それぞれ。

いろいろな「秩序」を見出すことができると思う。

実は、私たちはほとんど無意識のうちに見出しているのではないか…?

そして私たちは、それを楽しんでいるのだ。

ただ、音楽を利用して誤った「秩序」を作り出そうとすることだけはゴメンだ。

創る側は、音のひとつひとつに意味、いや存在価値を与え「秩序」ある世界を生み出そうとする。

しかし、調和を保つにはある種の「緊張」が必要だ。その「緊張」は、演奏する側、聴取するに側にも必要。

「秩序」あるいは「調和」は「平和、平穏」と繋がっているかもしれないし、「平和、平穏」は「祈り」にも繋がるだろう。

先に書いた、「作曲家が感じる「何か」」(『「祈りの音楽」考』参照)とは、つまるところ、作曲家が想い描く「秩序」と言ってもいいのかもしれない。

(2015年)

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