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カテゴリー: in Just

音楽は強くもあり弱くもある(2)


(2022年3月10日)

先日(2月25日)自作が出版されたことを投稿した際、「音楽は強くもあり弱くもある」と私は書きました。(参照/https://in-just-music.com/archives/2511)

音楽は置かれた環境によっては全く違う意味を持たされてしまうことがあるのです。

私くらいの世代なら覚えている方もいるでしょうが、随分前にシュワルツェネッガーを起用した栄養剤のコマーシャル、「♪ちー・ちーん・ぷい・ぷい」とコミカルに演出されていました。コマーシャルの意図するところは、「ちちんぷいぷい!とおまじないのように疲れが和らぐ」といったものだと思うのですがが、何せ、使われている音楽そのものが、「ちちんぷいぷい」とおまじないにかかって、全く別の姿に変わってしまったのですから。

そこで使用されていた音楽は、ショスタコーヴィチが1941年に作曲した『交響曲第7番“レニングラード”』、その第1楽章でラヴェルの『ボレロ』よろしく、繰り返し流れるメロディです。ご存知の方も多いでしょうが、この『レニングラード』という曲は、作曲年を見ても分かる通り、第二次世界大戦の最中、独ソ戦争の最大のドラマのひとつとなったレニングラード攻防戦が背景となって作られたものです。あのコマーシャルのようなコミカルさとは無縁です。クラシック音楽とあまり縁のない皆さんはきっと、そのコマーシャルのために作られた音楽としか思わなかったでしょうね…。

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音楽は作られた当時の社会状況や環境などを(時には作曲者が意図せずとも)反映するものだ、と私は考えていたのですが、この時初めて「音楽そのものは、置かれる状況によっては作者が全く意図しない方向に変化してしまうこともあるのだ」ということを実感しました。そういう意味では、「ちちんぷいぷい」と音楽におまじないをかけてしまうマスメディア(マスコミ)の力恐るべし、と言うべきか…。

この数週間、音楽芸術を巡る動きも良くない意味で活発…

「音楽の強さと弱さ」を改めて感じています。

そして、私たち自身も「ちちんぷいぷい」とおまじないにかけられないよう向き合っていきたいものです。


そう、私は最近オネゲルの『交響曲第5番“三つのレ”』(1950年作曲)に耳を傾けることがあります。私はまだ生を受けていない時代に生まれた作品なのですが、米ソ冷戦の時代を反映しているように思われ(オネゲルがそれを意識したかどうかは分かりませんが、自身の体調も優れなかったこともあってか、世界の先行きについて悲観的な見方をしていたのは確かです)、最近の動向と重なるように思えるのです。

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音楽は歴史の証言者になり得る」と言ってもいいでしょう。そこにこそ音楽の「強さ」があるのだとも思っています。
(そもそも、芸術は庶民と権力者とのある種「対話」、という側面があると私は思っています。異論はあるかもしれませんが、私たちが意図せずとも「政治的」な一面は持ち合わている。だからと言って「政治的」に利用されるのはごめんです!)

『交響曲第5番“三つのレ”』然り、フサの『プラハ1968年のための音楽』然り、ショスタコーヴィチ然り…こうした作品がもう生まれてこないで済むような世界に…。

だからこそ、こうした作品を通して歴史を振り返ることを忘れてはならないのではないか、とも思ったり…。

ちなみに、今日3月10日はオネゲルの誕生日(1892年)。



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オネゲルとカザルス


(2022年3月2日)

カザルスが同時代の作曲家オネゲルについて「これぞ音楽の理想と言えるものに忠実だ」といった発言をしている。「因習に囚われすぎず、かといって現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」というのがカザルスのオネゲル評だ。
(チェロ奏者でカザルスの弟子でもあったジュリアン・ロイド=ウェッバーが編纂したカザルスの言葉をまとめた文庫本に出ていた。残念なながらその本が今手元にないので、私は記憶で書いている。若干表現が異なるかもしれない。)


カザルスとオネゲルの関係をネット上で探ってみたが、カザルスがチェロ奏者としてオネゲル作品と向き合った記録は見つけることができなかった。

指揮者カザルスは故郷カタロニアでパウ・カザルス管弦楽団を組織し活動していた時期にオネゲル作品を取り上げたことがあるようだ。おそらく1920年代から彼が(スペイン内戦のため)フランスへ亡命するまでの間のことだろう。

ともにパリの「エコール・ノルマル」で教鞭をとったことがあるため、関係は深からずとも決して浅くはなかったに違いない。

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具体的にカザルスがオネゲルのどの作品を指揮したのか、どのような作品について「これぞ音楽の理想と言えるもの」と語ったのかまではまだ調べ尽くしていないのだが、上述の期間から考えるに、初期の作品ということになろう。

ニガモンの歌(1917年)
交響詩『夏の牧歌』(1920年)
交響的黙劇『勝利のオラース』(1920年)
喜びの歌(1923年)
『テンペスト』のための前奏曲(1923年)
交響的運動第1番『パシフィック231』(1923年)
ピアノ小協奏曲(1924年)
交響的運動第2番『ラグビー』(1928年)
チェロ協奏曲(1929年)
交響曲第1番(1930年)
交響的運動第3番(1933年)

と、管弦楽作品ならこんなところか…
(チェロ協奏曲を演奏しなかったのだろうか、なんて思ってしまう…)

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カザルスは同時代の音楽には目も暮れなかったと言われているが、上述のように同時代のオネゲル(カザルスより16歳下)を評価しているし、他にも数人の作曲家の名前を挙げている。しかし、今日ではそのほとんどが見向きもされていない状況にあるのが何とも…


さて、私は学生時代にオネゲルについて調べたり考えたりすることが多かった(研究した、と言い切ることができないのが情けない…)。ひとつ言えることは、オネゲルの音楽に出会ってなければ、創作に対する考え方は違っていたかもしれない、ということ。

だからと言って、私の作品の中に「オネゲルっぽいもの」を探しても無駄だ。
私はオネゲルではないので、「オネゲルっぽいもの」を創ったって意味はない。

加えて言うと、よく「誰々(の○○という作品)に影響を受けて」とか「誰々(の○○という作品)へのオマージュとして」と謳う作品を見聴きするのだが、私にはそれはできない。

とは言え、「オネゲルっぽいもの」を創ろうと試みたことはある。「典礼風交響曲(交響曲第3番)」の第二楽章のようなものを…


構築、主題(動機)の操作といったところが彼の音楽の肝だと思っている。バッハやベートーヴェンからも多くを得ているオネゲルだが、当然、バッハやベートーヴェンの音楽をただなぞるようなことはしていない。

カザルスの言う「因習に囚われすぎていない」と思わせることは、例えば、交響曲第4番「バーゼルの喜び」(カザルスが語ったと思われる初期の作品ではないのだが)にも見ることができる。

第一楽章は序奏付きのソナタ楽章と見る向きは多いが、私は、序奏とされる部分が「提示部」であり、ソナタの開始がすでに大きな「展開部」の開始であると解釈している。そこには、オネゲルの「なぜ、ソナタは主題が二つしかないとされるのですか?」という発言が根底にある。第二楽章はパッサカリアのようでありながら低音主題が分割されたり消えたり、第三楽章におけるポリフォニックな処理…。
オネゲル自身、「要素の点で進歩があり、〜」と述べているほどだ(著書『私は作曲家である』より)。
今日演奏される機会は稀だが、今にして思うと、私は随分影響を受けているかもしれない。

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カザルスの言った「現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」と思わされる点は、例えば(こちらも初期の作品ではないが)晩年の交響曲第5番「三つのレ」の第二楽章に見ることができる。そこでは冒頭から主題の原形の提示→逆行+反行形→反行形→逆行形と、まるで新ウィーン楽派の「音列」による作曲法のような主題操作。しかしその音列は「十二音」ではない。「旋律性」を重視していたオネゲルにしてみれば、「無調」音楽を否定しないまでも、時代的に(作曲されたのは1950年)この技法を敢えて取り入れることで何らかのメッセージを残そうとしたのではないかと思ってみたり…
(著書(先掲)には、「十二音技法」に対する厳しい意見が述べられている。)

そう思うと、ここからの影響も随分受けているなぁ、と…

しかし、もう一度言う。私の作品の中に「オネゲルっぽいもの」を探しても無駄だ。

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シャコンヌ 〜唱歌「砂山」による(クラリネットとピアノのための)

この作品が「Rocky Mountain音楽コンクール」(カナダ/オンライン)で作曲部門(上級/プロフェッショナル)で「第3位」、そして「聴衆賞」を獲得しました。

「聴衆賞」は、作曲部門にエントリーした13名(年齢や、一般、上級/プロフェッショナルなどの区別なく)の作品の中からノルウェーの方、アメリカの方お二人と賞を分け合う結果となりました。

「聴衆賞」というのは意味ある受賞です。

専門家による評価ももちろん大切なのですが、専門家の評価が聴衆の評価とイコールになるとは限りません。私は特定の専門家だけのために創作しているわけではありません。

ですから、一般の聴衆の方々(もちろん、そこには専門家の方や参加者の関係者もいらっしゃるでしょうが)に拙作を受けとめていただいたことは大変光栄です。
投票していただきました皆さま、ありがとうございました。

それこそ私は「因習に囚われすぎず、かといって現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」作品だと思っております。

音楽のリパーカッションを求めて: アルチュール・オネゲル〈交響曲第3番典礼風〉創作

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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音楽は強くもあり弱くもある(1)


(2022年2月25日)

ツイッターのあるフォロワーさんがこうお書きになっていました。

軍楽隊や行進曲というのは戦争と対のような関係であって、スーザ、アルフォード、タイケといった名作曲家達も避けて通らなかった道でもあるので、この時勢に戦争が起きたとしても、ブレることなく愛好していきたいと思う次第です。それだけの覚悟がないと、行進曲を愛でるのは難しいと思うのです。


私の創作活動の中で「行進曲」の作曲は今や特別な位置にあります。ただ、私は最初からそれを目指したわけではありません。むしろ避けようとしていた時期もあります。

思い返せば、私の「作曲家」デビューは「行進曲」でした。スーザの形式を模倣し、「ミリタリー・マーチ」と銘打ったものでした。その後、特別な機会に行進曲の作曲を依頼されることもあり、私の中で徐々に特別な位置を占めるようになってきました。

昨年イタリアの「国際行進曲作曲コンクール」での受賞後、「Wind Band Press」様のインタビューで私は、「吹奏楽といえば行進曲!と言うつもりはないが、行進曲には吹奏楽が一番合うと思う」といったことをお話ししました。私の創作活動の中心が吹奏楽であることから、私はこれからも行進曲を作る機会を持つことになると思います。


「行進曲」と聞くとそれだけで眉をひそめる方はまだまだいらっしゃるかもしれません。特に実際に戦争を経験された方など…。それはフォロワーさんもおっしゃるように、行進曲、吹奏楽(軍楽隊)が歴史的に見ても戦争と結びついていることに起因すると思います。

音楽というものは「強くもあり弱くもある」というのが私の思いです。

時に人々の心を固く結びつけるだけの強さを示してくれますが、権力者によって利用される、場合によっては違った意味を持たされる時もあります。

果たして、「行進曲」はどうだったでしょうか…?

現代においても様々な行進曲が生まれています。伝統的なスタイルや語法を踏襲したものもあれば、全く新たなスタイルを追求したようなものも…。
「規律」や「統率」といった目的からは離れた位置に立つ行進曲だって…。

きっと、これまでとは違った「強さと弱さ」を持った行進曲が今後も生まれてくるでしょう。

まだまだ行進曲は必要とされている…私はそう思っています。


世界がある場所の動向を注視している中、私の2つ行進曲を『Golden Hearts Publications』様が出版してくださいました。

もちろん、「戦争」や「規律」、「統率」といったものとは無縁です。見かけの派手さや力強さはないかもしれませんが、強い意志を持たせたつもりでいます。

コンサート・マーチ「シャイニング・ソウル2」

行進曲「ステップ・フォー・ステップ」

(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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「協創」 〜九州管楽合奏団ミュージカル・コンサート


(2021年11月30日)

昨今の風潮なのだろうか、音楽をはじめ舞台芸術に何か特別のメッセージを込めることが求められ、奏者や演者が「みなさんに感動や勇気、元気を届けられるように」と声高に叫ぶ姿に接することがよくある(スポーツでもよくあるかな…)。

受け取る側がその舞台に「何か」を感じることは普通だし、それが舞台芸術の一つの役割でもあるのは確か。だが、奏者・演者の役割は「感動や勇気、元気を届ける」ことが第一ではないと私は思っている。作品に込められたメッセージを伝えることこそが第一の役割なのでは?

作品には、「勇気や元気」与えることのできないような題材、背景を持つものだってあるのだ。奏者・演者が「感動や勇気、元気を届ける」ことばかりを声高に叫ぶようになれば、作品に込められたメッセージが二の次になってしまうのではないか、と私はよく思うのだ。


今回微力ながらお手伝いさせていただいた『九州管楽合奏団ミュージカルコンサート』(2021年11月28日/宗像ユリックス イベントホール)は、そうした私の危惧(と言っては大袈裟かな…)が全くの杞憂に終わるものだった。

それにしても豪勢だ。贅沢な舞台だ。

劇団四季で活躍されていた方々を中心に構成された歌手陣は圧巻、ダンサーも、加藤敬二さんのお眼鏡に叶っただけあり言葉も出ないほどの素晴らしさ。

吹奏楽のコンサートで、ここまで本格的に、「ミュージカル」に特化したコンサートは極めて稀ではないだろうか?

歌手の皆さんだって、ここまで大きな編成の楽団と共演することは稀であろう。総合プロデューサーの今川誠さんや振付の加藤敬二さんとお話しする時間があったのだが、今回の「共演」について並々ならぬ想いを語ってくださった。

極めて稀な「共演」、それには準備段階でいくつものハードルがあったことも確かだ。

(私自身も決して楽なハードルではなかったのが正直なところ。)


私はリハーサルの2日目から本番当日までの3日間立ち会った。とは言っても、本番以外はほぼ客席で出演される皆さんの動きを見ていただけなのだが(私のメインの仕事は10月までに終わっていたので)。

当初想定されていた構成からは随分と規模が大きくなったと聞いた。

「いいものを創りたい」という気持ちは誰でも同じだ。進めていくうちに想定を超えるものが出来上がっていく。やはりプロの現場だ。

歌手陣、楽団それぞれのやり方、流儀、しきたりのようなものもある。それをぶつけ合うため、ピリピリとしたムードも生まれるのだが、前日のゲネプロで突然同じ方向に音楽が進みだす。それは決して妥協し合ったからではないのだ。そう、終演後に指揮者の松尾共哲さんがおっしゃった「根っこは皆同じ」ということを出演者・スタッフ全員が感じていたからだろう。

協創」…ふと、こんな言葉が私の頭をよぎった。

出演者・スタッフの皆さんは手を取り合って新たな舞台を「創造」しているのだ。

そして、新たな舞台を「創造」するのは何も出演者・スタッフばかりではない。お客様も一緒に舞台を創るのだということを改めて感じた、お客様の存在が準備段階のいくつものハードルを超えさせてくれるのだということも(ゲネプロの際にお客様を感じていた出演者はきっと多かったと思う)。


井上智恵さんの圧倒的な存在感、背筋が伸びるほどの神々しさ。

宇都宮直高さんはパワフルな歌唱とそのカリスマ性で、舞台を仕切ってくれる。

熊本亜記さんの繊細さと意志の強さを併せ持った歌唱にはそのお人柄が反映されているかのよう(初めてお目にかかったのに、全くと言っていいほど初対面という感じがしなかった)。

ひのあらたさんは「円熟」という言葉だけでは表現しきれないほどの歌唱・演技。

増本藍さんの歌唱には心を抉られるような不思議な(と言っては失礼か)パワーが秘められている。

四宮吏桜さんにいたっては、これからの「ミュジーカル」界を背負っていくであろうと思わせる。

松井英理さんのダンスは圧巻のひとこと(というより、上に書いた通り、言葉が出ない)。

その他ステージを彩った若いシンガー・ダンサーたちの熱演にも拍手だ。

そして九州管楽合奏団、これまでとは違った一面を見せていただいたような気がしている(もちろんいい意味で)。

指揮をとった松尾共哲さん、彼がいてこそ今回の出演者・スタッフ全員がひとつになれたと思う。

今回のコンサート、「腹八分目」を少し超えたけれども、決して「満腹」にはならない。そこは総合プロデューサー今川誠さんの手腕だろう。「またいつか…」と思わせるところがにくい。


しかし、私が個人的に願うのは、このコンサートのお客様で今まで本格的なミュージカルやダンスをあまり観たことがない方々、あるいは九州管楽合奏団の演奏に接したことがなかった方々が、それぞれの公演等に足を運んでみようと思っていただけたら、ということ。そんなお客様が一人でも二人でもいらっしゃったのなら、今回のコンサートは大きな意味を持ったと思うし、もしかしたら今後、第二弾、第三弾…ということにもなるのかもしれない。

私自身、ミュージカルの素晴らしさに改めて気付かされた。

そして何よりも、吹奏楽に携わる者として、ミュージカル関係者に吹奏楽のことを、九州管楽合奏団のことを知ってもらえたことを嬉しく思っている。

こうした「出会い」は貴重だし、大切に育てていきたいものだ。

「出会い」ということで言えば、個人的にもいくつか。

もちろん「新しい出会い」はたくさんある。
歌手の皆さんやスタッフの皆さんとご一緒できたことは本当に得難い経験だった。
指揮者の松尾共哲さんとも「はじめまして」だった。

「お久しぶり」な「出会い」もある。

九州管楽合奏団には旧知の楽員さんが多数いる。一緒に仕事をしていた楽員さんも。これまでとは違った形で関わる機会をいただきとても幸せでした。客演奏者の中にも「お久しぶり」な方がいらして…。とても楽しかった。

「びっくり」な「出会い」もあった。

一曲だけオルガンが入る曲があったのだが、客演のオルガン奏者は、私が大学卒業後半年だけ中学校の先生をした時の生徒…当然彼女もびっくりしたようだが、いろいろと話ができて嬉しかった。

この歳になってさらに視野が広がったような気がするし、まだまだやれそうなことがあるな、と感じた3日間。

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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『音楽を発明した男』をめぐって


(2021年3月23日)

先日は、楽譜の誤植の件に触れたが、Facebookの別の友達のところでは、作品タイトルの「誤訳」についていろいろと話がひろがっていた。

「誤訳」というほどでもないかもしれないが、私には忘れられない曲がある。

ドン・ギリスDon Gillis 1912〜1978)作曲の『The Man who invented Music』というナレーション付きの曲だ。

日本では『音楽の創造者』や『音楽の発明者』といった訳が一般的かな…?

しかし、話の内容からすると、どうもしっくりこないのですよ(笑)

孫娘のウェンディを寝かしつけてゲームを楽しもうとしていたおじいさん。そのウェンディに「(枕元で)お話をして」とせがまれる。お話ではなく子守唄を歌ってあげようとするがウェンディは、「子守唄なんて知らないでしょ?お話をして」と…。「私が子守唄を知らないだって?私は子守唄を発明したんじゃぞ!いやいや、音楽を発明したのはこのわしなんじゃ!」とおじいさん。「じゃあ、どんなふうに音楽を発明したのかお話しして」とせがまれ、400万年前に遡って話を始めるのだ。

オーケストラで使われる楽器や行進曲、ダンス音楽、コンサート、果ては有名な作曲家までが全てこのおじいさんの発明らしい…(笑)

このようなストーリーからすると、「創造者」や「発明者」という訳は少々堅苦しいではないか(笑)。

私はストレートに、『音楽を発明した男』とした。
一気にコミカルな感じが出たような気がする。

「直訳」がしっくりくるケースもきっとあるはずなのだ!


ギリスというと、吹奏楽に携わっている方であれば、『台所用品による変奏曲』が最も知られているかもしれないし、『ジャニュアリー・フェブラリー・マーチ』(以前の吹奏楽コンクール課題曲『マーチ・エイプリル・メイ』のタイトルは、きっとこの曲がなければ生まれなかったと思う)、管弦楽からの編曲ではあるが『交響曲第5 1/2番』、『タルサ 〜石油についての交響的肖像』などをご存知の方もいらっしゃるだろう。また、「カナディアン・ブラス」のアレンジャーであったことを知る人もいるかしら…?

少々ご年配の音楽ファンの方であれば、かのトスカニーニの右腕として「NBC交響楽団」のプロデューサーを務めたり、第2次大戦後初めて来日した海外のオーケストラである「シンフォニー・オブ・ジ・エア」の会長として来日したことをご存知の方もいるだろう(来日時、指揮台にも登って自作を指揮しているようだ)。

ギリスの作品については、近年アメリカのAlbanyから随分とCDが発売されている。

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純粋なクラシック音楽というよりは、「ライト・クラシック」といった範疇の音楽かもしれないが、古き良きアメリカを偲ばせる作品が多い。同時代のモートン・グールド(Morton Gould 1913〜1996)の作品と併せて聴いてみると、アメリカの「大きさ」が感じられるような気がして面白い。

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さて、『音楽を発明した男』であるが…。

私はこの作品を、大分県警音楽隊在職時の定期演奏会で取り上げた。それこそ、写譜があまりにも酷い團伊玖磨氏の行進曲『べっぷ』を演奏した時と同じ演奏会だ。

この曲を取り上げようと思った理由は二つ。

一つ目は、「楽器紹介」的な要素を持った作品であること。

演奏会のアンケートでよく「楽器紹介をしてほしい」と書かれていたこともあり、ひとつずつコメントしながら各楽器に何か一曲やってもらうよりは、一曲の中でやりたかった。
(ただし、原曲が管弦楽なので、サクソフォーンやユーフォニアムの紹介が曲中ではできなかったが…)

二つ目は、県警の警察官に「役者」がいた、ということ。

音楽隊員ではない。ちょうどプログラムの検討に入った頃、地元の新聞でこの警察官が紹介されていた。彼のことはこの記事で初めて知ったのだが、元「歌舞伎」役者だ。片岡愛之助さんのもとで修行したとのこと。記事は、彼が警察官拝命後その経歴を活かし、地域の講話などで他の警察署員らと寸劇を通して「振り込め詐欺」などの被害防止を呼びかけているというものだった。寸劇を取り入れた講話は、どこの警察でもよく行われているだろうし、大分県警には各警察署に「○○劇団」というものがある(あった)。音楽隊の演奏会に出演していただくこともよくあった。

「彼に手伝ってもらいたい」と思い、上司に相談し彼が所属する警察署に交渉。ありがたいことに即決だった。



ナレーションの台本は私が和訳して準備したが、なかなか難しい…(笑)しかし、楽しくもある(本音を言えば、「大分弁」を存分に取り入れたかったのだが…笑)。

三交代勤務で大変な中、そして、ナレーションだけということで少し勝手が違う中、彼はしっかりと準備をしてくれた。彼は、当直明けや休みの日に音楽隊まで足を運んで練習に参加してくれた。練習後には「しっかり稽古します!」と(「稽古」というのがいいね! ちなみに、私は今だに「訓練」という言葉が出てしまうことがある)。

『音楽を発明した男』の本番、彼のおかげで(演奏のキズは多かったが…笑)お客様に喜んでいただけた(と私自身は思っている)。


随分遠回りをしたようだが、ここからが本題。

『音楽を発明した男』、実は準備段階で、演奏する側に曲に対する「拒否反応」があるのを感じていた。皆、口には出さないが、そんな空気は漂っていた(笑)。

まぁ、私の想いが強すぎたのかもしれないが…。
(楽譜を自分で買ったくらいだからそんな雰囲気になっても仕方ないか…笑)

奏者の中には、自分が「知らない曲」を取り上げることに「拒否反応」を示す者が必ずいるのは事実だ。しかし、「今知っている曲だってもともとは知らない曲だったのでしょう?」と問うてみたい(笑)。
その人にとっては、曲を知る「きっかけ」がどのようなものだったかが重要であるようだ(大抵、吹奏楽コンクールで流行ったから、昔やったことがあるから、というのがオチだ…笑)。
「楽長が持ってきた曲」というのがどうも引っかかる、というのもあるだろう(笑)。
まぁ、その気持ち、分からないでもない。



私が、演奏する側として、あるいは選曲する者として心がけているのは、過度に「ノスタルジック」にならない、ということだ。そして、「好き嫌い」を言っていては仕事にならない、ということ。

ただでさえ、警察音楽隊の演奏会には「吹奏楽」とは、「クラシック音楽」とは日頃関わりの少ないお客様が多く足を運ばれる。皆様は「警察音楽隊」というジャンルを楽しみにしておられる(と私は強く思っていた)。
そのお客様も多くは「知っている曲」を望まれる。しかし、演奏者側が強い想いを持って選曲し、演奏すれば多くのお客様が心に留めてくれるということも随分体験した。
だから、吹奏楽界隈で流行った曲を何が何でも締め出す、ということもしなかった(演奏してみて考えが変わることもあるので)。

誰も知らない曲を取り上げることが目的でもないのだ。どのような想いでその曲を取り上げるか…。そこが大切なのは言うまでもない。

『べっぷ』だって『音楽を発明した男』だって、私は演奏したことはなかった。それでも、その時は「これらを演奏することは意味あることだ」との想いが強かったのだけは確か。

「流行っているから」、「昔やったことがある」と曲(実はこれだってお客様のほとんどが知らないであろう)を持って来る者に、その意図を訪ねてみると、大抵嫌な顔をされるし(笑)。
そこに確固たる理由はない。「やりたいから」が理由だ…。
ただ、それはそれで否定はできないところもある。大きなホールで演奏できる機会は年1回、ふだん演奏できない曲に取り組める貴重な機会でもあるので。

それにしても、『音楽を発明した男』の練習の際、彼のナレーションに接した時の空気の変わりようと言ったら…(笑)。

「知らない曲」だったからこそ味わえた「変化」だったと今でも思っている。

何やらとりとめのない文章になってしまったが、「知らない曲」を取り上げることの意義、難しさ、いろいろと考えさせられたなぁ、と少々「ノスタルジック」に気分になる…(苦笑)。

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(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



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誤植


(2021年3月19日)

昨日一昨日とツイッターの方で写譜があまりにも酷い楽譜(團伊玖磨氏の行進曲)のことをつぶやいていたところ、Facebookの方では、(友達の)鍵盤奏者の方が、ご自身が演奏された『ダフニスとクロエ』のパート譜の誤植について触れておられた。老婆心ながらちょっと調べてみると、初版の際のミス(チェック漏れ)が修正されずにいるのではないか、ということが分かった(もちろん、断定はできない)。

彼女が演奏なさったのは「第2組曲」。実際に使用された楽譜は一昨年廃業したKalmus 社による「全曲版」のリプリントのようだ。

「第2組曲」の開始4小節は4分の4拍子(5小節目からは3拍子)なのだが、彼女の楽譜には最初から3拍子の表記。しかも、5小節目から段が変わるので「拍子変更」の予告もきちんと記されている。いやいや、困ったものです…

ところが、「第2組曲」単独の出版(1913年)の際にはこの誤りが修正されているのだ。しかも譜面をよく見ると、全曲版の版を利用しているのではないか、と思えるのだ。


ここからはあくまでも推測。

作曲の遅れもあり、ラヴェルと、ディアギレフ、フォーキンらとの間には結構「すきま風」が吹いていたようだ。バレエの上演も当初の予定から随分遅れたらしい(ちなみに、バレエ初演に先んじて「第1組曲」が公の場で演奏されていたようで、これが振付家フォーキンの怒りを買うことにもなったようだ)。

ラヴェルともなると、作曲したスコアから自分でパートを作ったりはしないだろう。書き上げたスコアはそのままDurand社に持ち込まれ、演奏用のパート譜が作られていたはずだ(ディアギレフがDurandとの契約破棄をほのめかしたことがあることから、当初からDurand社が関わっていたことは確かだろう)。

全曲の完成はバレエ初演予定日の2ヶ月前、ここから演奏用のパート譜を作るというのはかなり厳しい。時間との闘いだ。チェック漏れは必ず起こるというものだ。通常行われるはずの「校正」だって行われることはなかったのではないか…?
(現代のように、数日、内容によっては数時間でパート譜が作れるような時代ではないですからね…)

断定はもちろんできないが、よく耳にするDurand社の誤植の多さはこんなところに起因するのではないか…?


初演に際し問題点は出てくるものだ。それをチェックし、修正してようやく「出版」ということになるのが普通なのだろうが、どうも、この工程が抜けているのかな…?

確かに、一旦彫版したものに修正を加えることは大変だと思う。

ここでシェアした動画は、Henle社が公開しているものだが、おそらくDurand社でも当時同様の工程で楽譜が作られていたと思われる。なかなか骨の折れる作業ではないか。

Sharp as a tack – Japanese version

『ダフニスとクロエ』も当初は上演用に楽譜が作られはしたものの、最初から大量に印刷されたとは思えない(もちろん弦楽器などはプルト分刷られたはずだが)。バレエがしばらく再演されなかったことから、楽譜も重刷されることはなかったのかもしれない。

「第2組曲」はバレエ初演の翌年(1913年)に出版されている。バレエ第3場の音楽をほぼそのまま抜き出しているので、「全曲版」の版(銅版?)を利用していても不思議ではない。この時いくらかのチェックはなされたはずだ、時間的な余裕もいくらかあっただろうから。少なくとも単純ミス(例えば上述の拍子の間違いなど)は修正されているのだろう(細かく調べたわけではないのでご容赦を)。

ということは、「全曲版」を再版する必要が出た場合、新たに彫版する必要が出てくる。しかし、動画を見ていただくとわかる通り…手間とコスト、そして今後どれほど再演されるのかということを考えるとなかなか…ですよね。しかし、作品にとっては少々不幸なことかもしれないよなぁ、と思ってしまう。

結局、間違ったままの楽譜がいまだに流通している…。せめて「正誤表」みたいなものでも出版社が提供してくれれば、なんて思うのは私だけではないだろう。そもそも「第2組曲」を出版する際、どこがどう修正されたかの記録は残されていないのだろうか?


私は、冒頭に触れた写譜の酷い團伊玖磨氏の行進曲について、ホームページ内でそのことを綴った際こう締めくくっている。

「質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。」

どうやら、考えを改めないといけないようだ(笑)

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カレル・フサに会った日


(2021年3月9日)

ここに紹介するパンフレット、これは、1987年に行われた『イェール大学コンサート・バンド』の日本ツアーのものだ。
バンドにとって初めての「アジア演奏旅行」だったそうで、5月下旬から6月上旬にかけて、天理、金沢、松任、小松、宇都宮、東京で演奏会を行い、またレコーディングも行なっている。東京以外の地では、地元の高校と交流を深めたようだ。そして、録音はCDとして、同じ5月に来日したオハイオ州立大学のバンド(こちらは私の母校・武蔵野音楽大学でも演奏会を行った)のものと同時発売されたはず…。

当時私は大学3年生。秋山紀夫先生の講義を受講しており、その時の受講生数名と一緒に6月7日、東京・バリオホールでのツアー最後の演奏会を鑑賞した。

この日の演奏会は、「日本吹奏楽指導者協会」の総会に併せて開催されたもので、本来は「関係者のみ」なのだが、秋山先生にお世話いただき鑑賞することができたのだ(あくまでも授業の一貫として)。

このパンフレット、一応右開き(A4タテ)になっています。

表紙の絵、これはイェール大学がコレクションしている『PARADE OF THE RUSSIAN MISSION’S BAND IN JAPAN』(日本語の題がわかりません…)。

作者は、長崎でかのシーボルトの日本に関する研究を支えたとされる画家(絵師)川原慶賀(かわはら けいが)。彼が1850年頃に制作した木版画(多色)だ。
(こうした情報までパンフレットにきちんと載せているのはさすが!)

なかなか粋な作りのパンフレット(の表紙)だ。

右上にあるのは、この日のみ出演したカレル・フサユージン・ルソーの直筆サインだ!!

フサ自身の指揮で『プラハ1968年のための音楽』と『アルト・サクソフォーン協奏曲』を聴くことができただけでもありがたいのに、休憩中だったか終演後にロビーでにこやかに応対してくれた両氏。
(英語を話すことができれば…と、心底悔やんだのはこの時が初めてかもしれない。)

そして、フサのあの優しい笑顔と、『プラハ〜』のような厳しい作品とのギャップにも驚いたものだ。

今になって思うこと…、

それは、『プラハ〜』のような作品が次々と生まれるような世界にしてはならない、ということだ。そして、『プラハ〜』のような作品を通じて過去に学ぶことを忘れてはならない、ということも…。

音楽だけにとどまらず、文化・芸術は「時代の証人」という側面がある。庶民と時の権力者との「対話」でもあるのではなかろうか…。時にはそんなことを意識しながら音楽に向き合ってもいいかな、などと思っている。

そうそう、ルソーが西暦ではなく「S 62」と元号で日付を書いているのに気づきましたか?

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『ディオニソスの祭り』のこと


(2020年11月21日)

 ベートーヴェンの生誕250年の陰に隠れてしまっているが、今年はフローラン・シュミット(Florent Schmitt)の生誕150周年にあたる。吹奏楽に関わる者にとっては避けて通れない作曲家のひとりだ。

 この記念の年を特に意識していたわけではないのだが、私はこの夏から『ディオニソスの祭り(Dionysiaques)』について少し調べていた。

デュラン社版スコアの最初のページ(1925年出版)

 この作品、「ギャルド ・レピュブリケーヌ吹奏楽団のために作曲された」とされている。国内はもとより、海外での認識もほぼそれで通っている。

 この説明(解説)でひとつ引っかかるのが、「ギャルド」がシュミットに委嘱したのか否かがはっきりしないことだ。私はずっと疑問に思っていた。

 シュミットの作品(出版譜)の多くには、タイトルの上か左側に献呈の辞が記されている(これは何もシュミットに限ったことではないだろう)。『ディオニソス』は1913年に作曲されてはいるものの、初演は1925年。その年にデュラン社から出版されているが、特に献呈の辞は記されていない(シュミットの他の管楽作品の出版譜には記されている)。もちろんこれだけで、何か結論が出せるというものではない。

 ちなみに、初演前の1917年にはシュミット自身の手による4手ピアノ版がデュラン社から出版されており、ここには レオン=ポール・ファルグ(Léon-Paul Fargue)という詩人への献呈の辞が記されている。

4手ピアノ(連弾)版(デュラン社版)

 疑問に思う理由がもうひとつあった。

 1973年から1997年まで「ギャルド」の楽長を務めたロジェ・ブートリー(Roger Boutry)のインタービュー記事を読んだ記憶だ。そこにはこう書かれてあった。

「『ディオニソス』はシュミットが全く自発的に書いたもので、演奏が難しいことから「ギャルド」が初演することになった。」(要旨)

 私がこの記事を読んだのはおそらく、高校生から大学生の時期。『バンドジャーナル』誌ではなかったかと思う。『バンドジャーナル』誌はほぼ毎月購読していた。

 「ギャルド」は1984年(私は高校3年生)に2度目の来日を果たした。私の故郷・福岡でも公演があり聴きに行った(会場は、大相撲も開催される「福岡国際センター」)。インタビューが掲載されていたとすれば、この年以降のことだろう(ブートリー在任中に数回来日している)。

 ということで、『バンドジャーナル』誌の赤井淳副編集長に「記事を見ることはできないか?」と、相談してみた。

 赤井副編集長はお忙しい中快く記事を探してくださった。しかし全く見当たらない…。「日本の吹奏楽の生き字引」ともいえる秋山紀夫先生(私も大学時代に随分お世話になった)にまで尋ねてくださったそうだが、秋山先生も、「そのような記事は全く記憶にない」とのこと。
(まさか、違う雑誌だったのか…?それとも私の全くの勘違い…?)
 お手を煩わせてしまったこと、本当に申し訳なく思っている。



 私は思い切って、「ギャルド」に直接尋ねてみることにした。

 フランスでもコロナ感染が続き楽団の活動もままならない中、少し時間はかかったが、丁寧に対応していただいた。

 結論を言うと、「記録が残っていないため解答不能」とのこと(作曲されたのが100年以上前のことだから、それはそれで仕方ない…)。
 ただし、「楽団のために作曲された」との認識ではあるようだ。

 私の疑問は解消されなかったのだが、思わぬ副産物が!

 「ギャルド」が現在使用している『ディオニソス』のパート譜を送ってきてくれたのだ。

 ブートリー体制下で「ギャルド」の編成は大きく変わった(サクソルン族の削減)のだが、それによりどのように楽譜に手が加えられているかを知ることができる。

 それら全てをここで公開することはできないのだが、パートによって、オリジナル(1925年出版)のパート譜を使っていたり、手書きされたものや、コンピューター浄書されたものがあったりと興味深い。スコアはオリジナルのままだという。

 今後時間を作ってじっくり調べてみようと思う。そして、可能な限りホームページの方で紹介できれば、と思っている。

 それにしても、「本家」の「ギャルド」でさえ今やオリジナルの編成で『ディオニソス』を演奏することができない状況にあることには少々寂しさも感じる。しかし、考えてみれば、私たちはバッハやベートーヴェンの作品を現代の楽器で演奏するのが当たり前だ(当時の楽器を使った演奏にも私は魅力を感じるが)。
 吹奏楽がこれからどのような変化を見せるかは正直わからないが、時代の変化に耐えうるだけの内容、価値を『ディオニソス』が持っていることだけは確かだ。大切にしていかねば。

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国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由…

正直言って、個々の分野の素晴らしさを(語弊はあるかもしれないが)半ば感情的に訴えたとしても、どうも今の権力者や国の中枢機関には通じないように思っている。

しかし私は、声をあげていかねばならないと思うし、できる限りのことはしたいと思っている。

国が文化、芸術分野に携わる方々を支えなくてはならない理由を、私は少し違う視点から見ている。

端的に言おう。

国は、音楽や美術(図工)などを学校教育に(「教科」として)取り入れているではないか。

●音や音楽は,「自己のイメージや感情」,「生活や文化」などとの関わりにおいて,意味あるものとして存在している。

●「音楽的な見方・考え方を働かせて学習をすることによって,児童の発達の段階に応じた,「知識及び技能」の習得,「思考力,判断力,表現力等」の育成、「学びに向かう力,人間性等」の涵養が実現していく。このことによって,生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力は育成される。

●音楽的な見方・考え方は,音楽的な見方・考え方を働かせた音楽科の学 習を積み重ることによって広がったり深まったりするなどし,その後の人生に おいても生きて働くものとなる。

●児童の生活や,児童が生活を営む社会の中には,様々な音や音楽が存在し,人々の生活に影響を与えている。したがって,生活や社会の中の音や音楽と豊か に関わる資質・能力を育成することによって,児童がそれらの音や音楽との関わりを自ら築き,生活を豊かにしていくことは,音楽科の大切な役割の一つである。

●生活や社会の中の音や音楽と 豊かに関わることのできる人を育てること,そのことによって心豊かな生活を営むことのできる人を育てること,ひいては,心豊かな生活を営むことのできる社会の実現に寄与することを目指している。

●思いや意図をもって表現したり,音楽を味わって聴いたりする過程において,理解したり考えたりしたこと,音楽を豊かに表現したこと,友達と音や音楽及び言葉によるコミュニケーションを図って交流し共有したり共感したりしたことなどが,自分の生活や自分たちを取り巻く社会とどのように関わり,また,どのような意味があるのかについて意識できるようにすることが大切である。

 いずれも、小学校の「学習指導要領(音楽)」にある記述だ。

人間形成に必要と認めているではないか。音楽教育の必要性を説いているではないか。

 実社会で、あるいは普段の生活の中で活かされてこそ、学校での教育は意味を持つ。これは何も音楽に限ったことではない。「国語」だって「算数」だって。

学校でいろいろと音楽について習ったけど、それを実際に体験できる場、実践できる場がない、というのはどこか矛盾していないだろうか? 

人間形成に必要だとしているのなら、実際に体験できる場、実践できる場、そうした環境を整えること、そうしたフィールドで仕事をする方々を支えることは、国の「義務」だと言ってもいいくらいだ。

 文化、芸術、あるいはエンターテインメントに携わる方々(いわゆる「裏方さん」も含め)を積極的に支援しないということは、自らが定めた学校教育のあり方、考え方を自ら否定することにもなるのだ。

 その理屈で言うなら、ほぼ全ての人が等しく(仕事の種別など関係なく)支援を受けて当然だろう。

※断っておくが、今の状況で文化、芸術の分野にだけ何か特別のことを、と訴えているのではない。あくまでも「等しく」ということだ。

(2020年5月14日)

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著作権

新型コロナウィルスの拡がりがまだまだ続きそうで(クラスター感染の疑いがある病院は我が家の生活圏内にある…)、心穏やかではない日々を過ごしているが、最近自分の身に起こったことから考えさせられることがあったので忘れないうちに書き留めておこうと思う。

それは、「著作権」に関すること。

あることをきっかけに、作品を出版していただいている側との契約内容に疑義が生じたのだ。経緯等を含め先方に質問状を送付したところ、必要な調査をしてくださり、大分まで説明に来られた。全てを納得したわけではないが、先方の考え方を理解することはできた。

原因は2つ。

① 私自身が契約当時、著作権についてあまりに知らなさすぎたこと。

② 先方の説明不足

私は先方が送ってきた契約書を、(もちろん読んだけれども)理解不十分のまま署名捺印し返送している。先方はただ契約書を郵送してくるだけ…。

今回説明を受けて分かったことだが、この契約上の重要点が契約書には書かれておらず、口頭説明(それだって、なされていたという確証はないのだ。一部は記憶していたが)。この件に関する調査を進める際、助言を求めた弁護士にも契約書自体の不備を指摘されたそうだ。

先方は、契約時点での説明不足を謝罪され、今後に活かすことを約束された。

正直言って、新たな疑問も湧いてきたのだが、こちらの疑問にしっかりと向き合っていただき、これまでの経緯を包み隠さず説明していただいたので、今のところ、これ以上の追求(?)はしないつもりでいる。今後改善され、私と同じような疑義を生じる方が出ないことを祈るばかりだ。

教訓など

① 契約する際は、余程の信頼関係が築けていない限り、可能な限り先方と顔を合わせて。

② クリエイティブな仕事をしている以上(そうでなくても、だけれど)、著作権に関する知識は必須。

どちらも当たり前のことなのだけれど。

さて、警察音楽隊勤務時(着任した年)にこんなことがあった。

大分県庁内(大分県警本部は大分県庁内にある)で職員や来訪者を対象とした「昼休みコンサート」を実施した時のこと。

その日の夜、上司(広報課長兼音楽隊長)から電話があった。

「(着任したばかりの)警務部長から「ジブリ系は著作権が厳しいと聞いているが、勝手に演奏していいのか?」と尋ねられた。明日説明するから準備しておくように」という内容。

警務部長というのは地方の警察本部ではNo.2にあたり、国(警察庁)からの出向者。

正直驚いたが、同時に「さすがだ!」とも。目の付け所が違う!

私たちは出版された楽譜を使用しているので、もちろん「問題なし」ということは理解している。が、それがなぜ「問題なし」なのか、まで突き詰めて考えることなんてなかった。

つまり「法的根拠」だ。

改めて「著作権法」を読み直し、根拠となる条文をピックアップし取りまとめる…。

十分に理解していただいた。

自分たちの演奏に「法的根拠」を求められたのは、後にも先にもこの時だけ。

しかし、こうした経験が後々に活かされる、ということが今になってようやく分かった。

人生、何が「きっかけ」なるかは分からない。

「きっかけ」を与えることが(ある意味)最大の教育だと私は思っている。

私、著作権に関して相当な教育をしていただいた(考える「きっかけ」をいただいた)ことだけは確かだ。

(2020年3月23日)

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