最近やたらと聞く言葉が、
「丁寧に説明し…」や「丁寧な議論を…」など。
これは明らかに、「今まで丁寧にやっていませんでした」と表明しているようなものだ。
おまけに、いつ、どこで丁寧にやったかなどは全く伝わってこない。
一時のモードのように軽々しく口にして欲しくないものだ。
実は当たり前のことなのだから。
広島で、丁寧な説明を求めた被爆者の皆さんに対し、「「見解の相違」と切り捨てた人がいた。
どうもあの方は、自分の言葉に酔っているようだ。
天皇陛下が仰る「国民に寄り添う」というお言葉も、あの方の口から時々聞かれる。
あのように軽々しく口にされると、少々バカにされているように感じる。
何様だと思っているのだろう。
選んでいただいた、という謙虚が微塵も感じられないのだ。
「丁寧な説明」、「丁寧な議論」という言葉は決して丁寧なものではない。
却って分かりづらいものだ。
そして、丁寧ということは、平易な、分かりやすいということではない。
平易な言葉、分かりやすい言葉は、むしろ誤解を招きかねない、ということを知るべきだ。
以前「言語明瞭、意味不明瞭」と言われた方と、そう言う意味では同じだ。
私たちは一体何を学んできたのだろうか…?
大震災の時、「絆」という言葉が連呼された。
決して否定的な思いはないのだが、
あれほど、モードのように叫ばなくても、との思いもあった。
私たちは、そう叫ばなくてもそうした心を持っているはずだから。
それでも、あの時の「絆」という言葉には、心があった。
そう、やはり言葉は心なのだ。
「心が入っていない言葉はゴミでしかない」とは、以前いた職場の先輩。
本当の意味での「丁寧な説明」、「丁寧な議論」というものは、
心と心でやるものだ。
決して、表面的な、分かりやすい言葉を使うことではないのだ。
(2015年5月12日)