人間誰しも「無駄」なことはしたくないし、自分にとって有益ではないものは「無駄」と感じるものだ。
しかし、自分にとって無駄なものも、それなりの背景、理由があって存在しているということは忘れたくないものだ。
もちろん、全てとは言わない。
何時ぞやの「事業仕分け」ではないが、物事の価値や有益性が、ほとんど数字のみで判断されていたように感じる。
確かに裏付けとなる数字、データは正直だし、最終的にはそこで判断するしかないのだろうとも思う。
しかし、物事の成り立ちの背景や理由ということについては、数字、データで表せないことも多い。
当時はそれが最善だと判断されたからこそ、それこそ「無駄」のないように、ということで成り立ったものもあるはずだ。
そうした想いを述べようものなら、「綺麗ごと」と切り捨てられるのがオチだ。
ただ、例の「2番じゃダメなんですか?」は、その「綺麗ごと」を切り捨てるというよりは、むしろ引き出そうとしていたように思える。
時代の変化(「変質」の方が相応しいかな…)は、当然物事の変化を要求してくる。人間の価値観も変わってくる。
世の中は、人の想いの積み重ねで成り立っている。その時代時代の人の想いが支えとなって今があるのだ。
その支えを切り捨てては、足元が揺らいで、どうにも不安定になるだろう。 今の時代、数字やデータでは表せない「綺麗ごと」こそ実は必要なのかもしれない、と思っている。
(2015年5月13日)