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カテゴリー: music lab

唱歌『故郷を離るる歌』をめぐって

(2026年1月14日公開)

大分県庁職員吹奏楽団さまからの依頼で2026年1月、唱歌『故郷を離るる歌』を独唱と吹奏楽のために編曲しました。毎年2月に開催する「定期演奏会」では大分に所縁のある人物、あるいは音楽や物語に焦点を当てた選曲をなさっており、2024年には滝廉太郎作曲『荒城の月』を、廉太郎が作曲した際の「オリジナル」版と、後に山田耕筰が編曲した(現在一般的に広まっている)ものの両方を取り入れた吹奏楽編曲をする機会をいただきました(参照)。

故郷を離るる歌』は、吉丸一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 – 1916年(大正5年)3月7日)がドイツ民謡に日本語の歌詞を添えたものが愛唱されてきました。吉丸は大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。東京音楽学校(現・東京芸術大学)で倫理、歌文、国語の教授を務めるなどした作詞家、文学者です。代表作は『早春賦』(中田章作曲)など。


今回の編曲の「発案者」である酒井宏さん(大分県庁職員吹奏楽団指揮者・サクソフォーン奏者/「荒城の月」編曲の発案者でもある)の構想は、「原曲(ドイツ語)と吉丸の歌詞の両方を取り入れたもの」。打ち合わせでは、楽曲に対する情報や酒井さんの想いだけではなく、吉丸の研究者である故吉田稔氏 (郷土史家・臼杵音楽連盟会長)の話なども伺うことができましたが、ここで大きな話題となったのが、「原曲」の存在が不明である点です。「これをどうにかクリアにしたい」という点で一致しました。

ここから『故郷を離るる歌』を巡る旅が始まるのです(その結果、編曲作業に時間がかかってしまうのですが…)。


①吉丸一昌作歌『故郷を離るる歌

吉丸が作歌した『故郷を離るる歌』が、『新作唱歌 第五集』(1913年(大正2年)7月22日発行)に掲載されたのち愛唱されるようになったことは広く認識されています。今でこそ、いくつもの編曲楽譜が出回っていますが、それらを集めて今回の「素材」にすることは創作者としてあるべき姿勢ではないと思っています。やはり、最初がどのような形であったかを探ることが大切。この点でも酒井さんとは考えが一致しています。

「最初の姿」を探すことは決して難しい仕事ではありませんでした。以下に掲げた史料はどれも、「国立国会図書館」の電子アーカイヴから容易に入手することができました。いずれも無償でダウンロードできます(パブリックドメインのため)。

『新作唱歌 第五集』より

『新作唱歌 第五集』では、「変ホ長調」で、「合唱曲」(伴奏譜なし)として発表されていたことがわかります。歌詞(右ページ)の最後にはは、「大正二、六、十九、土曜演奏會の爲めに」と記されています。おそらく、大正2年6月19日に歌詞(あるいは訳詞)を完成したという意味でしょう。
なお、この合唱編曲を誰が担ったのかは不明ですが、『望郷の歌 吉丸一昌』(吉田稔著/昭和63年8月・臼杵音楽連盟)によると、『新作唱歌』(全十集)は「すべて吉丸一昌作歌で作曲は東京音楽学校卒の若手を起用した」とのことですのです。そして、当時音楽学校の作曲教授であった島崎赤太郎による「厳密なる校閲を経たるもの」であるとのこと。

『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』より

『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』によると、1913年(大正2年)7月5日(吉田は『望郷の歌 吉丸一昌』で当該演奏会を6月19日と記していますが、ここでは『東京芸術大学百年史』に従います。)に合唱曲として披露されています。『新作唱歌 第五集』の発行日の直前です。「演奏會の爲に」とは記されているものの、『新作唱歌 第五集』への掲載を前提に作られていたのは確かでしょう(音楽学校での演奏において「伴奏」がついていたのかは不明)。

 その後、1920年(大正9年)には『新案小学唱歌帖 尋常科第六学年』に、「ニ長調」、「二部合唱」のものが掲載されたようですし、1940年(昭和15年)には東京府師範学校聯合が編纂した『標準歌曲』(蛍雪書院)に、「変ホ長調」で伴奏付きの「三部合唱」として掲載されています。

『標準歌曲』(1940年)より

②原曲を探る

「Wikipedia」では、

ドイツ語原詞は、ドイツ民謡「Der letzte Abend」(最後の夜)または「Abschied」(別れ)と題する原曲としたと伝えられている。

と解説されていますし、『故郷を離るる歌』について記された日本国内のウェブサイトもはほぼそのように記されています。

歌詞は以下のとおりです(一番のみ)

Wenn ich an den letzten Abend gedenk,
Als ich Abschied von dir nahm!
Wenn ich an den letzten Abend gedenk,
Als ich Abschied von dir nahm!
Ach, der Mond, der schien so hell,
Ich mußt scheiden von dir,
Doch mein Herz bleibt stets bei dir,
     Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
     Feinsliebchen lebe wohl!
     Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
     Feinsliebchen lebe wohl!

ドイツ中南部のフランケン地方の民謡ともされているが、原民謡はよく知られていない。

ともされていますが、やはり探ってみようという思いに駆られます。

というのも、果たして吉丸がこの歌詞の内容を「唱歌」とするに相応しいと考えたのだろうか、という疑問が湧いてきたからです。

現在日本で「原曲」とされている歌詞の翻訳はおおむね以下のとおりです。

昨晩のことを思い出すと、
君に別れを告げたあの夜を!
昨晩のことを思い出すと、
君に別れを告げたあの夜を!
ああ、月はとても明るく輝いていた、
私はあなたと別れる必要があった、
しかし、私の心はいつもあなたとともにいる、
さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、
愛しい人よ、さようなら!
さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、さようなら、
愛しい人よ、さようなら!

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

「別れの歌」ではありますが、「失恋」を思わせる内容であり、個人的には「唱歌」の素材と断言するには少々無理があるような気がします。

「この点をある程度クリアにしなと編曲の方向性が定まらない…」と思い、締め切りが迫る中、引き続き「原曲」についての調査を進めます。


まずはDer letzte Abend」(最後の夜)Abschied」(別れ)という言葉でウェブ検索してみますが、「これだ!」というものはヒットしません。しかし、歌詞の一部(例えば、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk,」や「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で試みたところ、いくつかの興味深いサイトに辿り着くことができました。

その一つが、「Volksliederarchiv」です。

『Volksliederarchiv』のトップページ

「Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,」で検索した際にヒットしたのが、以下の曲でした。

調性は違いますし、メロディに少し違いが見られますが、『故郷を離るる歌』と同じものとみてよいでしょう。
(吉丸らが編纂に際し手を加えたものと推測されますが、今回はそれについて検討はしません。)

この曲(楽譜)については以下のような説明がついています。

作詞・作曲:作者不詳
ドイツ歌曲集(1856年、第101番「最後の夜」)および歌曲集II(1893年、第555番)
ヴォルフガング・シュタイニッツ著『民主的な性格を持つドイツ民謡』第64番

ベルクシュトラーセ、ライン川流域、シレジア、フランケン、テューリンゲン、オーデンヴァルトで口伝で広く伝承されている。同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen(私はたくさんの涙を流した)」が歌われている。

しかし、これで「万事解決」とはいきません。このメロディに関連する楽曲がいくつか紹介されているのです。「民謡」ですから、当然「異版」のようなものが存在していてもおかしくはない(もっとも、本来「楽譜」などが存在するはずもないのでしょうが…)。「同じメロディーで「Tränen hab ich viele viele vergossen」が歌われている。」という記述も気になるところです。

関連楽曲

その『Tränen hab ich viele viele vergossen』もサイトで紹介されていました。

調性は違うものの、確かにメロディは「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」という歌詞のものと同じです。この『Tränen hab ich viele viele vergossen』は、

作詞:ホフマン・フォン・ファラーズレーベン(1842年)
⾳楽:作曲者不明: 「Wenn ich an den letzten Abend gedenk(最後の夜を思い出すとき)」のメロディー(ホフマン・フォン・ファラーズレーベンによると、シレジアの⺠謡)

と説明されています。そして、

『Hundert Schullieder(100の学校唱歌)』(1848年、第3号)より ‒ ⼦供たちの視点から⾒た移⺠の歌。ここでは、ホフマン・フォン・ファラーズレーベンが11 歳から13 歳の⼦供たちのために書いたもの。

とも記されています。ここで重要なのが、「11 歳から13 歳の⼦供たちのために」書かれた、という点です。

ホフマン・フォン・ファラーズレーベンによる歌詞を翻訳すると以下のようになります。

私はたくさんの涙を流した
ここから離れなければならないから
でも、親愛なる⽗がそう決めた
故郷を離れるんだって
故郷よ、今⽇、私たちは旅⽴つ
今⽇、永遠に旅⽴つ
だから、さようなら、さようなら、さようなら
だから、さようなら、さようなら、さようなら
だから、さようなら、さようなら

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

上述のように「移民の歌」であり、それこそ、「故郷を離るる」歌と言えるような気がします。

直感ではあるのですが、吉丸一昌がこの『Tränen hab ich viele viele vergossen』を基に「作歌」したのではないか

吉丸の著書に『新撰作歌法』(大正2年10月5日発行 敬文館)というものがあります。その緒言(しかも最初に)で吉丸はこう書いているのです。

一、本書は著者が年來作歌教授に用ひ來れる教案を以て、中等學校の教科用に編成したるものなり。書中に戀愛の歌を引用せざるは之が爲なり。

吉丸らが「恋愛の歌」を参照したと考えにくいポイントはこんなところにあると言ってもいいでしょう。

もう一点あります。

最初の楽節(4小節)は繰り返されるのですが、今日原曲とされている「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」は歌詞もそのまま繰り返されます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』や吉丸は、楽節が繰り返される際に歌詞を変えています。もちろん吉丸が「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」を基にしていたとしても(楽節が繰り返される際に)歌詞を変えた可能性はあるのでしょうが…。

Tränen hab ich viele viele vergossenの「二部合唱」譜(一部)

なお、両曲とも「二部合唱」になった楽譜も残っていますので、合唱編曲の参考にしたことも十分に考えられます。
(「Volksliederarchiv」内で確認できます。)


ここまでの調査結果を酒井さんに報告したところ、「吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』をベースにしたことは十分に考えられますね。」と返信をいただいたことから、私の中で編曲の方向性はほぼ定まりました。


ただ、「原典」をただひとつの楽譜に断定していいのか…。

実は断定しにくいポイントがあります。

今一度、『新作唱歌 第五集』に掲載された楽譜を見てみましょう。
楽譜の最初に、「Mässig」と記されています。現在では「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」を意味する発想標語として用いられています。
この語が用いられているということは、吉丸らが参照した楽譜にも用いられていたのではないか、と考えることができます。しかし、『Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の冒頭に付されている発想標語は「Wehmütig」。「もの悲しい」、「物憂げに」、「悲しげに」を意味します。一方、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜には「Sehr mässig」(とても穏やかに)と記されており、こちらの方がむしろ『故郷を離るる歌』に近い標記です。

もし、吉丸らが『Tränen hab ich viele viele vergossen』のみを参照していたのなら、標語を「Mässig」にした意図は何だったのか、という疑問は残ります。

Tränen hab ich viele viele vergossen』の楽譜の右上には「Volksweise(民謡):Wenn ich an den letzten Abend gedenk」と記されていますので、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」の楽譜も参照した可能性はゼロではないと思います。

ちなみに、『新作唱歌』を校閲した島崎はドイツ留学の経験がありますので(1902〜1906年)、多くの楽譜を持ち帰り、それらの中にこうした民謡を収めた曲集も多数あったのではないかと推測できますし、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」、『Tränen hab ich viele viele vergossen』双方が吉丸らの手許にあったと考えることは可能でしょう。


あくまでも個人的な「解釈」なのですが、いくつもの『故郷を離るる歌』を聴くにつけ、内容と「テンポ感」とが合っていないように感じられるのです。ストレートに言えば、「少々速いのではないか」、ということです。これは、その後多くの楽譜に付されている「Moderato」という標語によるものと思われるのですが、既述の『標準歌曲』で既に用いられています。おそらく「Mässigmäßig)」を「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」と解釈しイタリア語表記に変えたのだろうと思われます。

私自身は『Tränen hab ich viele viele vergossen』に込められた「Wehmütig」の気分が不可欠なように思っています。ですから、個人的には「Wehmütig」の気分を持った「適度な」速さ、つまり、やや緩やかなテンポの方が良いと思っています。

「適度」や「ほどよさ」というものは曲の性格によって違うもの、私は「Mässig」が特定の、あるいは一定範囲の「テンポ」を規定した標語ではない、と思いたいのです(「Moderato」や「Allegro」といったイタリア語も語源を辿ればテンポを規定する用語でないことはご存知のとおりです)。もちろん、曲の持つ「気分」がテンポに与える影響は大きいのですが、例えば、「適度の」や「ほどよい中くらいの速さで」という意味で「Mässig」を使ったとき、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」のように「Sehr」が付くと、「非常に適度に」や「とてもほどよい中くらいの速さ」と、少々訳がわからなくなってしまいます。ここでの「Mässig」は「節度を持って」、「穏やかに」と解すことができると個人的にはと考えます。そう解すれば、「Sehr」がついても、「非常に節度を持って」や「とても穏やかに」となります。

Mässig」は「bewegt」や 「geschwind」、 「langsam」などの言葉を伴うことで「適度な」や「ほどよく」という意味を持つように感じるのですが、その辺りはドイツ語の専門家に尋ねてみる必要がありそうです。


以上のような背景から、編曲の方向性はある程度定まったもののまだまだスッキリしない状態でしたが、以下のサイトにたどり着いたことでようやく光が見えてきたのです。

二木紘三のうた物語

2007年9月4日(2022年1月20日改稿)付の記事で二木さまが『故郷を離るる歌』の「原典」を探っておられます。
(この記事、何とWikipediaの脚注に置かれていたのです。もっと早く気づくべきでした…)
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_d5d3.html

さらに、この二木さまの記事を通して次のブログを知ることになります。

唱歌深層 尋常小学唱歌『歌詞評釈』から分かる「故郷」「朧月夜」のホント

ここでは、崎山輝一郎さまが「《故郷を離るる歌》原曲/元歌を探索する」という記事を書いておられます(2020年3月31日から4月7日)。
http://blog.livedoor.jp/kiichirou_sakiyama/archives/cat_1274947.html

これら『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が「原典」であるとする記事に出会ったことで、私は、自身の当初の読み、疑問が決して見当違いのもではなかったことに安堵しました。
(とは言え、私は、「Wenn ich an den letzten Abend gedenk」も参照されていた可能性があることを否定するわけではありません。)



それにしても、『故郷を離るる歌』にも「異版」(作曲:メンデルスゾーン/原詩:ハイネ)があったことは新鮮な驚きです(崎山さまの記事参照)。『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第2巻』を読み返すと、確かに、ここで検討したものの5か月前、大正2年2月8日の土曜演奏会で演奏されています。

メンデルスゾーンによる「原曲」は以下のようなものです。

そして、ハイネによる詞です。

私と一緒に逃げ出して、私の妻になってください。
そして、私の胸の中で休んでください。
遠い異国で、私の心が
あなたの祖国であり、実家であるように。

(一番のみ/Deep Lによる自動翻訳)

吉丸がどのような歌詞を付けたのかは、上記崎山さまのサイトを参照ください。

ちなみに、メンデルスゾーンの歌曲等の作詞者には、ハイネやゲーテのほか、ホフマン・フォン・ファラーズレーベンも名を連ねています。こんなところにも『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が「原典」であるのではないか、と考えるヒントがあるようにも思われます。


しかしながら、作編曲に携わる者としての最大の疑問は、崎山さまも最後に言及されているように、メロディの音が一部変えられている点。いずれ調査・研究してみようと考えています。


さて、独唱と吹奏楽のための編曲、前奏(私自身の創作)に続き『Tränen hab ich viele viele vergossen』(Abschied von der Heimat)が歌われます(一番のみ/もちろんドイツ語で)。間奏(前奏に基づく)を挟み吉丸作歌の『故郷を離るる歌』(これも一番のみですが…)が歌われる、という構成です。いくつかの声部が歌を装飾しますが、和声は基本的に吉丸らの歌に従っており、複雑な和音は間奏を除き一切使っていません。
そして、楽譜の冒頭にはあえて「Mässig(mäßig)」と記しました。「節度を持って」、「穏やかに」という意味で用いています。

2026年2月22日(日)、「大分県庁職員吹奏楽団 定期演奏会 2026」でお披露目です。


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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

③校訂方針 〜1. 参照楽譜を概観する


校訂譜は既述の手稿(スコア、パート譜)やピアノ・リダクション版などを参照し制作されました。まずは、それぞれについて概観してみます。


(1) スコア(手稿)

図8
スコア(手稿)の1ページ目

○写譜者:C. Bailly(推定/Gallicaによる)
ペロネ博士は「この帰属には甚だ疑問がある。」と述べています。なお、Baillyに関する情報はほとんどありません。

○ピエールは、1794年8月10日の演奏以降に作られたものと推定しています。
図4にある楽器編成で作曲しその後、「国民祭典」のために新たな楽器を加えた、と考える理由はここにあります。ただし、図4にある楽器編成によるスコアの存在は確認できません。

○タイトルは『Grande Simphonie en ut Du Citoyen Gossec』と表記されています。

○楽器は以下の順に配列されています。
 (楽器の表記は現代の表記に合わせました。)

  トランペット 1°&2° ハ調
  ホルン1°&2° ハ調
  クラリネット1° ハ調
  クラリネット 2° ハ調
  オーボエ 1°
  オーボエ 2°
  ピッコロ 1°
  ピッコロ 2°
  トロンボーン 1° (※ アルト譜表)
  トロンボーン 2° (※ テノール譜表)
  トロンボーン 3°
  ブッチーナ(2パート)
  テューバ・クルヴァ (2パート)ハ調
  ファゴット
  セルパン
  ティンパニ

○ピッコロが使われていること、古代ローマの楽器ブッチーナやテューバ・クルヴァが加えられていることからも、野外での演奏を想定していたと思われます。ゴセックが革命期に作曲した軍楽(賛歌や行進曲、交響曲など)の多くはこのような編成が採られています。ちなみに、「テューバ」という名前は1791年のゴセックの作品で復活したとのことです(註19)。

○セルパンは低音域の補強が目的であると考えられます。ゴセックの他の軍楽作品の自筆譜を見ると、セルパンはバスーンと同じ段に書かれている(つまり、ほぼ同じ動きをする)ケースが多いのですが、この『Symphonie en ut』場合それぞれの楽器が独立した動きを求められる場面もありますので段を分けて記譜されているのでしょう。

○スコアには数箇所記譜の誤りが認められますが、そのうちの1箇所に誤りを指摘する書き込みがあります。写譜者であるC. Baillyによるものか、あるいは別の者によるものかは不明です(後年、研究者等によって書き込まれた可能性もあります)。事後にスコアを整理するということは、再演や出版の可能性があったということかもしれませんが、これまで収集した史料等からはそうした事実は確認できません。


(2) パート譜(手稿)

○現在確認できるパート譜は以下の通りです

  ピッコロ 1° 2部
  ピッコロ 2° 2部
  オーボエ 1°(クラリネット 3°)1部
  オーボエ 2°(クラリネット 4°)1部
  クラリネット(ハ調) 1° 6部
  クラリネット(ハ調) 2° 6部
  ホルン 1° 2部
  ホルン 2° 2部
  バスーン 6部

図4と同様のメモがもう1部添付されているのですが、そこには「Total 28 Part」と記されていることから、現存するパート譜が「オリジナル」の編成であったと推測できます。(図9)。

図9

○これらのパート譜を、ピエールはオペラ座の写譜家ジャン=バティスト=フランソワ=オーギュスタン・ルフェーブル Jean-Baptiste-François-Augustin Lefèvre(1738-1814)の手によるもの、と記していますし、Gallicaもそのように説明していますが、ペロネ博士は、「間違いなく誤りである。副楽長のジャン=グザヴィエ・ルフェーブルに間違いない」と強調します。そして、「楽長は指揮だけでなく、リハーサル、レパートリーとパート譜の制作及び維持管理に責任を持つのだが、楽長ゴセックが年齢的な理由(1794年、彼は60歳)で指揮することを控えていたことからも、副楽長のルフェーブルが写譜(パート譜の制作)を担当したことはまったく論理的であり、普通のことである」と述べます。しかし、筆致の違いが認められること、タイトルの表記が4通り(『Simphonie』『Symphonie』『Symphonie du Citoyen Gossec』『Symphonia』)あることなどから、実際には複数人の手によるものとも考えられます(図10)(註20)。

図10

そして、各パート譜には最初のページに楽器別の整理(管理)番号のようなものが書かれているのですが、例えば、クラリネット 1°にはNo.8、ホルン 1°にはNo.3 、バスーンにはNo.9というように、現存する部数よりも大きな数字が付されているものがあるのです(図11)。8月10日の祭典に際し多くのパート譜が追加で作成されたと推測されるのですが、パート譜を整理、管理する過程で、「オリジナル」と「追加分」が混在することになったと考えることはできるでしょう。

図11

○ピエールの著書『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』が書かれた時期(註5参照)には以下のようなパート譜の存在も確認されていました。
(何らかの事情で紛失したものと考えられます。)

  セルパン 4部
  コントラバス(弦) 6部
  ブッチーナまたはテューバ・クルヴァ 部数不明
  トロンボーン 3部

これらの楽器と(やはり紛失したと思われる)トランペット、ティンパニのパート譜は、ここまでの考察から、8月10日の祭典に際し書き加えられたのではないかと思われます。
セルパン、コントラバス(弦)、トロンボーンの部数は、「オリジナル」の編成に対応した数と考えられますが、これらのパートも祭典の際にはもっと多くの部数が作られていたと思われます。
コントラバス(弦)はセルパン同様低音域の補強を目的としています。上述のスコアには含まれていないのですが、例えば、1793年作曲の『Symphonie militaire [RH 62]』にも「SERPENT ou CONTRE=BASSE」というパート譜(図12)(註21)が作られているように、ゴセックの軍楽隊ではコントラバス(弦)を使用することは普通であったようです。ですから、この『Symphonie en ut』の場合も、パート譜自体は分けられてはいるものの、セルパンと同じ役割を求められたと思われます。

図12
Symphonie militaire (RH 62)』のパート譜

トロンボーンの使用は内声部の充実を図るものと考えられます。まだヴァルブが発明されていない時代、トランペットとホルンは演奏できる音が限られます(主にトニックとドミナント)ので、機動性に優るトロンボーンの使用は必然とも言っていいでしょう。また、もともと教会の楽器であったトロンボーンやセルパンの使用は、フランス革命期における非キリスト教化運動の活発化に伴い、「音楽の解放」を示すひとつの象徴と見なすこともできます。


(3) ピアノ・リダクション版

○記述の通り、コンスタン・ピエール著Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』に掲載されています(図13)。このリダクションを誰が担ったのかはピエールの著書からは分からないのですが、作曲家でもあったピエールを含め音楽院の関係者の手によるものと考えられます。

図13
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』より

○このリダクションは、上記のスコアおよびパート譜を基に作られたと思われますが、それらと異なる点がいくつかあります。最も大きな違いは、前打音の記譜です。スコアおよびパート譜では小さな八分音符で記されている(解決音である四分音符を装飾している)前打音がこのリダクションでは全て通常の八分音符で記されています(四分音符を分割しています)。これは、リダクション担当者の解釈なのでしょうが、『Musique des fêtes』に掲載されている他の作曲家の軍楽作品(のリダクション)では装飾的な前打音がそのまま活かされているケースもあります。ゴールドマンとスミスによる編曲ではこの前打音の記譜が踏襲されています。記述(参照 ①作品成立の経緯を探る)のように彼らがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考える理由のひとつはこの点にあります。


(4) ゴールドマンとスミスによる編曲版

○上述のように、ピアノ・リダクション版を基に編曲されたと考えられます。

○フレデリック・フェネル Frederick Fennell(1914-2004)が著書『タイム&ウインズ (1954)』でゴールドマンの著書『The Concert Band (1946)』を引用しながら「フランス革命とバンドの発展」について述べているのですが(註22)、そこで引用されたゴールドマンの記述にはMusique des fêtesの記述を参照したと思われる部分があり(参照 ①作品成立の経緯を探る)、ゴールドマンがピエールの著書を読み、研究したことがうかがえます。ゴールドマンらがこのリダクションを基に編曲した可能性が高いと考えるもうひとつの理由はこのようなところにあります(もちろん、スコアやパート譜の手稿を参照した可能性を否定するものではありません)。
ただし、Musique des fêtesでは作品の作曲年が「(178 -1794)」と記されていますので(図6 参照)、ゴールドマンらが本当に同書を研究したのであれば、出版譜の解説になぜ「1794年から95年にかけて作曲」と記されているのか、という疑問は残ります。

○出版された楽譜セットはコンデンスド・スコアとパート譜で構成されており、フルスコアありません(註23)。当初よりフルスコアが制作されていないことも考えられます。

図14
「音楽之友社」版のスコアより

○楽器編成は以下の通りです。

 ピッコロ
 フルート 1&2
 オーボエ 1&2
 バスーン 1&2
 Eb クラリネット
 Bb クラリネット 1, 2&3
 Eb アルト・クラリネット
 Bb バス・クラリネット
 Eb アルト・サクソフォーン 1&2
 Bb テナー・サクソフォーン
 Eb バリトン・サクソフォーン
 Bb コルネット 1, 2&3
 Bb トランペット
 F ホルン 1, 2, 3&4
 トロンボーン 1, 2&3
 ユーフォニアム (バリトン)
 テューバ
 コントラバス
 ティンパニ

当時の「ゴールドマン・バンド」の編成に合わせたものであることは疑いようもありません。これは今日一般的な吹奏楽の編成と変わりません(註24)。

○ピアノ・リダクション版をベースにしつつ、独自の強弱変化やアーテキュレーションも施されています。

○ゴールドマンとスミスは、1953年にカテルの『序曲(ハ調) Ouverture pour instruments à vent』(1793年)を編曲してますが、このピアノ・リダクションもMusique des fêtesに掲載されています。『古典序曲 Symphonie en ut』同様、編曲の基になったと考えられます(註25)。


註19)アンソニー・ベインズ著(福井一訳)『金管楽器の歴史』(1991年 音楽之友社)p.267

註20)コンスタン・ピエール著『Le Conservatoire national de musique et de déclamation :documents   historiques et Administratifs』(1900年)からは、1794年頃の国立音楽院 Institut National de Mnsiqueには副楽長ルフェーブルのほかに“Fouquet”、“Thiémé”、“Sarazin”という3人の「写譜者」がいたことが分かる。

註21)『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年フロレアール号)

註22)フレデリック・フェネル著(秋山紀夫監修/隈部まち子訳)『タイム&ウインズ』(1984年 佼成出版社)p.23-24。オリジナル(英文)は1954年、ルバンク G.Lebanc Corp.から出版された。
フェネルが『タイム&ウインズ』で「ゴールドマン・バンド」の活動そのものに言及していない点は興味深い。また、父エドウィンの行動にも言及がない(フェネルが「バンド歴史学者」と紹介している息子リチャードは、1956年、父の死後にバンドの指揮を引き継いだ)。同書が著された1954年はフェネルが「ウインド・アンサンブル」の活動を活発化させていた時期でもあり(「イーストマン・ウインド・アンサンブル」は1952年発足)、「ゴールドマン・バンド」の活動期と重なる。フェネルが「ゴールドマン・バンド」やエドウィンの業績をどのように評価していたのかは気になるところであるが、何も言及していないという点に評価の一端が見えるようにも思う。しかしながら、「歴史的な評価をするタイミングではない」との判断から言及を避けているということも十分に考えられる。なお、当時のアメリカの吹奏楽をめぐる状況は、同書の第5章「アマチュア・バンドの発展」および第6章「ウインド・アンサンブルの現在」に詳しい。

註23)現在はテオドール・プレッサー (Theodore Presser)から出版されているが、やはりフルスコアはセットされていない。

註24)秋山紀夫氏(1929-2025)によると、1930年のゴールドマン・バンドの編成は62名。 『吹奏楽の歴史 〜学問として吹奏楽を知るために』(2013年 ミュージックエイト)p.47

註25)カテルが作曲した『Ouverture pour instruments à vent』は、そのパート譜が月刊誌『Musique à l’usage des fêtes nationales』第2号(共和国暦II年ジェルミナール号)に掲載されている。ゴールドマンらはこれも参照した可能性はある。


→③校訂方針 〜2. 校訂内容

← ②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求

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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求


さて、『古典序曲』あるいは『Symphonie en ut』、近年日本で演奏される機会は少ないのですが、フランスではどうなのでしょうか?

ゴセックを含め「革命期」の音楽(軍楽)を巡る状況をぺロネ博士は次のように考察します。

1) 革命期の音楽を吹奏楽で演奏すること。
革命期の作品は、1989年から1995年にかけて音楽家や音楽学者の注目を集めた。デジレ・ドンディーヌ(1921-2015)と音楽学者フレデリック・ロベール(1932-2023)の再オーケストレーションにより、多くの楽譜が再発見された。フランス革命200周年を記念して、数多くのコンサートや録音が行われた(註11)。これらの作品の多くは再販されている(CMFディフュージョン、その後ロベール・マルタンが買収)。これらの作品はフランスの主要なプロおよびアマチュア・オーケストラのレパートリーの一部ではあるが、ここ15年間は演奏される機会がかなり減っている。
音楽学的な考察がこの主題に及んでいる。再オーケストレーション(現代楽器、特にサクソフォンを使用)は、純粋主義者やバロック音楽の愛好家たちの間で大きな論争となっている。しかし同時に、後者はフランス革命の野外祝典のために書かれた作品(それらは基本的にパリ国家警備隊の音楽隊に捧げられたものだった)にはほとんど関心を示さない。叙情的な作品(オペラ)は、バロック・オーケストラやヴェルサイユ・バロック音楽センター(CMBV)によって演奏されている。

2)オリジナル・アンサンブル
フランスには、バロック楽器を使用し、この音楽を演奏するために部数に応じて編成された吹奏楽団(管楽器のアンサンブル)が存在しない。

3)これらの欠点の原因
バロック音楽を愛する大衆は、野外音楽に興味がない。比較的簡単でオリジナリティに欠けると批判される。
また、これらの器楽作品、特にカテル、メユール、ドゥヴィエンヌといった著名な巨匠によるこの時期の「序曲」に対する無知も大きい。
現代の吹奏楽団は、人的資源(有能な音楽家)と物的資源(ピリオド楽器)の不足のために、ピリオド楽器の演奏を始めていない。
公的機関(国、地方、町)は、この芸術的な 「ニッチ」を発展させることに関心がない。

状況は日本でも同じではないでしょうか?

それでは、今の時代に『古典序曲/Symphonie en ut』を演奏する意義とは?
今一度、当時の状況や評価をも振り返りながら、現在における作品への向き合い方を探求します。


繰り返すようですが、ゴセックをはじめ革命期の著名作曲家が作った軍楽作品は今日の吹奏楽の歴史の出発点と言ってもいいでしょう。これらの作品がなければ、エクトル・ベルリオーズ Louis Hector Berlioz(1803~1869)の『葬送と勝利の大交響曲 Grande symphonie funèbre et triomphale』(1840年)は生まれなかったかもしれません。さらに言えば、(これは軍楽隊に限ったことではありませんが)空間配置(ステージ上・ステージ外)へのこだわりもベルリオーズ以降のロマン派音楽の展開に大きな影響を与えていると考えることができるのです。

革命期、確かに音楽の機能、ありようは変化しました。求められたのは専門的知識や音楽的素養のない民衆にも聴きやすく「理解する」必要のないもの。旋律的なものが前面に出ており、伴奏は可能な限り単純であること。確かに革命に関連する作品に見られる傾向ですが、『Symphonie en ut』はどうでしょうか?

伝統的なポリフォニーの書法を離れ、「展開」の素材としての主題、和声的展開、いわゆる「マンハイム・クレッシェンド」も含めた強弱法と、バロックから古典派への転換期の典型とも言える構造は確かに多くの「革命歌」や行進曲とは一線を画しています(ロールとエナンがこの曲を「革命の音楽」に分類しなかったのも理解できる気がします)。

果たして、この作品がどのように演奏され、そしてどう受け止められたのか、という点に興味が湧いてきます。


既述の音楽誌『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号には次のような記述があります(ピエールも『Les hymnes et chansons de la Révolution』で引用しています)。(図7)(註12

楽器は、まだ知られていなかったような完璧さでそれを演奏した。ボエティウス註13は、指と声だけで音楽を練習するような人を、音楽家という名前で称えたくはなかったのだが、もし彼が国立音楽院の芸術家たちの演奏を聴いたなら、彼らを音楽家と思わずにはいられなかっただろう。

図7
Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号 より

作品そのものへの言及はないのですが、演奏の水準は高かったのでしょう。それは、軍楽隊員を養成する国立音楽院 Institut National de Mnsiqueの教育水準の高さをも示していると言えます。当時国民祭典で演奏する軍楽隊には、音楽院の生徒だけでなく教師も加わっていました(その中にはフルートの名手であり作曲家としても活躍したドゥヴィエンヌもいました)。もっとも、ぺロネ博士によると、国立音楽院はもともと(劇場の音楽家と同様)訓練された「学識ある」音楽家を対象にしていたとのことです。であるなら、演奏の水準が高かったことも頷けます(一方で、「騎士団員」と呼ばれる軍人音楽家−それは主にトランペット奏者や太鼓奏者−たちは、この種の訓練を受けていないそうです)(註14)。しかも、既述音楽誌がボエティウス引き合いに演奏を賞賛していることから見ても、それが単に実践的な演奏技術の高さを見せるだけのものではなかったということでしょう。なお、この時軍楽隊の指揮をとったのは副楽長のジャン=グザヴィエ・ルフェーブル Jean-Xavier Lefèvre (ou Lefèbvre)(1763~1829)であったようです(註15)。

しかし、野外で開催される国民祭典、反響もない空間、かつ現代のように電気的な増幅装置もないような状況で音楽が十分に届いていたのだろうか、という疑問は湧いてきます。静かに音楽を聴くという環境でないことは容易に想像できるからです。ティエリー・ブザール Thierry Bouzard(註16)が8月10日の国民祭典(:ブザールは「コンサート」と表現しています)についてこう記しています。

何万人もの民衆が庭園とその周辺に押し寄せたが、効果音はかえって聴衆をパニックと恐怖に陥れ、反革命軍がチュイルリー通りの人々を銃で撃っているのだと思わせた。群衆は恐怖のあまり逃げ惑い、多くの犠牲者を出した。(中略)音楽の演奏という点では失敗に終わった。」(註17

祭典に集ったすべての民衆に音楽が届いたというわけではないようです。

なお、既述の音楽誌は、聴衆が一番熱狂したのはメユール作曲の『Le Chant du départ, Hymne de guerre』(図5=①作品成立の経緯を探る 参照)だったと報じています。


ピエールは著書『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』(既述)での中で『Symphonie en ut』についてこうコメントしています。

この作品は純粋な交響曲的性格を持たないので、器楽曲の代名詞としてとらえるべきだろう。(中略)全体として、面白いものは何もない。

確かに五線紙に書かれた情報は多くありません。ゴセックは「その時代」の書き方で作品を書いています。その背景には当然「その時代」の演奏習慣、様式(スタイル)といったものがあります。19世紀以降の、細かに書かれるようになった楽譜を見るのと同じ目で『Symphonie en ut』の楽譜を見た時、ピエールが書いているような、「特徴的な旋律はなく、展開もなく、代わりに単純なリズムの定型が豊富で、絶えず繰り返され、」という印象を持つ人がいても不思議ではありません。もちろん、ピエールを批判するわけではありません。おそらく実演を聴いたことはなかったでしょうし、古い時代の演奏法などを探求するような機運も今日ほど高くはなかったでしょうから。

一方、ゴールドマンらの仕事も、彼らのバンドの編成や聴衆の耳に合わせた(アーノンクールの言葉を借りるなら)「当世風の編曲」と言えますが、これも決して批判されるものではありません。確かに、今日の「原典主義」とも言えるひとつの潮流からするとゴールドマンらの編曲は再考の余地があるのですが、ゴセックが「その時代」の書き方で作品を書いたようにゴールドマンらも「その時代」の書き方で編曲したのです(この点について『古典序曲』のスコアには、「現在使用されている楽器を加えて再構成されている。このことは、ゴセックの時代においても、バンドの編成には柔軟さがあり、指揮者が完全な演奏をするために新しい楽器を加えたりしていたことと軌をひとつにしている。」と記されています)。ゴセックやカテル、メユールらの作品を蘇演し、吹奏楽の大きな遺産の存在を知らしめてくれただけでもゴールドマンらは大きな仕事をしたのです。


ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の楽長を務めたピエール・デュポン Pierre Léon Dupont(1888~1969)はこう述べています。

吹奏楽は、幅広いプログラムの演奏をめざすことができなければならないだろう。(中略)フランスに点在している吹奏楽団と金管合奏団は、大衆の上に普及と教化の使命を遂行する運命を持っている。これらの団体はほんとうの民衆のための音楽院を形成している。」(註18

管弦楽曲などからの吹奏楽編曲を数多く手がけレパートリーの拡張に力を注ぎ、ギャルドの黄金時代を築いたデュポンの発言は、フランス革命以降の軍楽隊の歴史を踏まえてのものでしょう。

「普及と教化の使命」と言う点ではアメリカも同じです。パトリック・サースフィールド・ギルモア Patrick Sarsfield Gilmore(1829~1892)の時代からジョン・フィリップ・スーザ John Philip Sousa(1854~1932)、そしてゴールドマン父子の時代と吹奏楽団の果たした役割は(たとえその手法が商業的なものであっとしても)大きなものだったのです。

それでは、時代も変わった現代において吹奏楽団にできることは?


それは、「作曲された当時の姿」の探求。

今日のクラシック音楽界では当たり前になった(とも言える)この探求は吹奏楽ではまだまだ当たり前ではないようにも思えます(これは、今日の吹奏楽のレパートリーがほぼ20世紀以降のものであることとも関係していると思います)。

ゴセックがハイドンやモーツァルトと同時代の人であることを思い出してみましょう(パリで初めてハイドンの交響曲を紹介したのはゴセックですし、モーツァルトはゴセックを「素晴らしい友達」と父への手紙に書いています)。ハイドンやモーツァルトの交響曲に向き合うのと同じ姿勢で、そして(今一度アーノンクールの言葉を借りるなら)「シューベルトもブラームスも知らず、むしろバロック音楽に通じた音楽家や聴衆のために書かれたという前提」に立てば、『古典序曲/Symphonie en ut』への向き合い方もこれまでとは違ったものになるような気がします。

日本でもそうした動きがないわけではありません。

2013年4月11日には東京ウインド・シンフォニカが『Symphonie en ut』を山本訓久氏の校訂(同じ手稿=おそらくスコアのみ=を参照したと思われます)および指揮により一部ピリオド楽器を用いて演奏していますし(「序曲ハ長調」とアナウンス)、2015年5月29日には名古屋アカデミックウインズが仲田守氏の指揮によりサクソルン属が加わらない編成で演奏しています。

作曲された時代の様式(スタイル)を考証した演奏を提供することは、革命期の音楽遺産の価値を問い直すことにもなるでしょうし、もしかすると、ペロネ博士の考察にもあった「比較的簡単でオリジナリティがない」とするバロック音楽愛好家たちに関心を持ってもらうきっかけになるかもしれません。そして、ゴセックの幅広い作品群に興味を持つ人々が増えるきっかけにもなれば喜ばしいことです。


註11)1990年にラジオ・フランスが『MUSIQUE & REVOLUTION』という3枚組のC Dを製作した(発売はERATO Diaques)。クロード・ピショロー指揮パリ警視庁音楽隊その他の演奏により44曲が収めされている。ゴセックの作品は9曲選ばれているが、『Symphonie en ut』は収録されていない。

註12)寄稿者はマリー=エミール=ギヨーム・デュショサール(1763~1806)。彼について詳細は不明であるが、Gallicaによると「文学者、ボルドー議会弁護士。元警察庁長官、移民委員会委員」とある。

註13)言わずと知れた古代ローマの哲学者。古代ギリシャの音楽論を伝承した『音楽教程』で、音楽を「世界の調和としての音楽(ムジカ・ムンダーナ)」「人間の調和としての音楽(ムジカ・フマーナ)」「楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス)」に分類している。

註14)論文『Le musicien militaire en France de 1795 à 1914 : éducation musicale et statut professionnel』(2015年)
ぺロネ博士は、1793年から1795年の間にフランスの楽器演奏者の教育が進展し、音楽家の質が向上した、と述べる。軍楽隊の音楽家(教師)は、平均して2人の兵士を育成する義務を負っていたという。

註15)コンセール・スピリチュエルのクラリネット奏者を務め、1778年からMusique des Gardes Françaisesで活躍、1789年から1817年までオペラ座のオーケストラ(音楽院)に在籍した。革命が始まると、パリ国民衛兵音楽隊の副楽長兼クラリネット奏者となる。ゴセックとともに音楽院の創設者の一人である。

註16)ティエリー・ブザールは2019年から2023年まで、サトリの陸軍音楽司令部(COMMAT)で軍音楽の歴史を教えた。

註17)論文『Instruments fabuleux et concerts-monstres : les extraordinaires orchestres militaires』(2018年)

註18)ルイ・オベール、マルセル・ランドスキ共著(小松清訳)『管弦楽』(1961年 白水社)p.157-158 ※翻訳の一部を改めた。


→ ③校訂方針1. 参照楽譜を概観する

← ①作品成立の経緯を探る

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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

2025年5月11日(日)開催の「九州管楽合奏団 演奏会2025」において演奏されたF. J. ゴセック作曲『古典序曲』、楽団からの依頼により監修者として新たな校訂譜を提供しました。
本稿は、校訂譜およびプログラムノートの作成にあたり収集した史料や文献、取材内容に基づき構成しました。
※ 転載、複製等を希望される場合は事前にご相談ください。

演奏会当日のプログラムノートはこちらからどうぞ。


作品成立の経緯を探る
 (2025年3月14日 公開/12月19日 更新)

作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求
 (2025年3月19日 公開/3月31日 更新

③校訂方針
 1. 参照楽譜を概観する(2025年4月3日 一部公開/12月19日 更新)
 2. 校訂内容(準備中)



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ゴセック作曲『古典序曲』をめぐって

①作品成立の経緯を探る


バロック後期から前古典派の時代にフランスで活躍したベルギー生まれの作曲家フランソワ・ジョセフ・ゴセック François-Joseph Gossec(1734~1829)。彼が作曲した『古典序曲 Classic Overture』は1951年にアメリカで初演されたリチャード・フランコ・ゴールドマン Richard Franko Goldman(1910~1980)とロジャー・スミス Roger Smithによる編曲が広く知られています。この編曲は1955年に「マーキュリー・ミュージック (Mercury Music)」から出版され、1970年代には日本にも紹介されました(註1)。ゴールドマンとスミスは「ゴールドマン・バンド」(リチャードの父、エドウィンが1911年に結成)のために編曲したのですが、その経緯(どのような資料、史料に基づいて編曲したのか、など)は明らかになっていません。ゴールドマンらの編曲は、ゴセックの時代にはまだ発明されていなかった「サクソルン族」(サキソフォーンなど)が加えられるなど大幅に拡大されており、現代の一般的な編成となっています。21世紀も4分の1が過ぎようとする今となっては、そのサウンドにやや「古さ」を感じる人もいるでしょう(もちろんこの「古さ」にも良さはあるのですが)。この編曲は、1950年代のアメリカの吹奏楽の響きを楽しむことはできるものの、ゴセック(の時代)の音楽様式あるいは演奏様式の点で再考の余地があるように思います。

校訂譜の制作方針を定めるためには、作品成立の経緯を知ることが極めて大切であると考えますので、まずはゴセックの時代(フランス革命期)の軍楽隊の活動を交え探っていきます。


確かに、近代の大規模な吹奏楽(管楽合奏)の歴史はゴセックが活躍した時代、つまりフランス革命期(1789〜1895)の軍楽隊に起源を持つと言っても過言ではありません。革命前のフランスの軍楽隊の規模や楽器編成などは決して大規模とは言えないもの(20人に満たない)でしたが、1789年のバスティーユ襲撃後に結成された国民衛兵隊 la Garde nationaleに置かれた軍楽隊は45人であり、当時としては異例の規模でした。この軍楽隊の設立に尽力したのはベルナール・サレット Bernard Sarrette大尉(1765~1858)。そして、楽長(中尉)の任にあったのがゴセックです。軍楽隊の最初のメンバーは、「衛兵学校l’École des Gardes Françaises」(1764年設立)の音楽学生たちでした(註2)。

のちの国立高等音楽院の上級事務官で作曲家でもあったコンスタン・ピエール Constant Pierre (1855~1918)が著書『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』(以下『Musique des fêtes』)(図1)の中で、この軍楽隊の業績を簡潔かつ的確に記しています。

パリ国民衛兵の音楽家たちが革命期の祝祭や公的儀式に参加したことが、音楽院創設の契機となったことは周知の事実である。彼らの賢明な取り組みと驚くべき活動により、これらの芸術家たちは人気を博し、当局と芸術の発展に貢献すると同時に、音楽の力、ひいては音楽の普及と発展に専念する大規模な教育機関の有用性と必要性を実証した。こうした公的・公式の行事への彼らの協力の経緯は、音楽院の特別な歴史と、一般的な政治史と深く結びついたパリ市の歴史の両方に関連している。
(中略)
この特別なジャンルの音楽(註:「軍楽」のこと)において、それらが、パリ国民衛兵の音楽家たち、すなわちコンセルヴァトワールの創設者たちのイニシアティヴにより、著しい進歩を遂げているという観点からも、(「軍楽」を)復活させることにこだわったのです。この芸術家たちは、それまでクラリネット、ホルン、ファゴットで構成されていた軍楽に、まだほとんど使われていなかった既知の管楽器を採用し、新しいものを創造した。加わったのは小フルート(ピッコロ)、オーボエ、トランペット、セルパン、トロンボーン、テューバ・クルヴァ、ブッチーナ、打楽器など。さらに、彼らはレパートリーの幅を広げ、独創的な曲でレパートリーを充実させた。楽器の編成も多様で、演奏会用序曲や交響曲の形で構想され、当時の音楽をほぼ独占的に形成していた喜歌劇のアリアのメドレーよりも発展的で興味深いものであった。確かに、これらの作品は、今日与えられているような発展性からはほど遠い。それでも、当時としては驚くべき革新性を持っている。これらの作品は、回顧的な主題を扱った作品の中で呼び起こすべき、古くからの特徴的なモチーフを探している人たちにテーマを提供するものであり、また、これらの作品のいくつかは、チボリ公園 Jardin Tivoli,やパヴィヨン・ダノーヴル Pavillon de Hanovreなど、さまざまな公共施設が主催する吹奏楽コンサートのプログラムに登場していることにも触れておきたい。

図1
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』の表紙

国民衛兵隊の軍楽隊は翌年70人に拡大されます。財政的な問題もあり1792年には解散の憂き目に遭いますが、その後「国立音楽院 Institut National de Mnsique」(1973年11月8日設立)に統合されました。この国立音楽院は、サレットとゴセックが1792年6月9日に設立した「国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale」(註3)が基になっており、1795年8月3日設立の「高等音楽院 Conservatoire de Musique」(今日の「パリ音楽院」)へ繋がっていきます(註4)。国立音楽院は国の要請により、すべての公的な祭典に軍楽隊を提供する義務を負っていました。ゴセックはこれら教育機関で指導的役割を果たす傍ら、軍楽隊向け、「国民祭典」向けの作曲を多く行なったのです。大規模な合唱を伴う吹奏楽作品が目立ちますが、行進曲や序曲、交響曲なども作曲しました。


ピエールには『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』(以下『Les hymnes』)という著書もあります(図2)(註5)。『Musique des fêtes』では主に「音楽院」にゆかりのある作家の148曲がすべてピアノ・リダクション版で紹介されていますが、『Les hymnes』ではその対象がさまざまな作家にまで拡大され、1789年から1802年にかけて作られた「革命歌」など2337曲を演奏形態別に整理し、それらの概要(タイトル、作者名、テーマ、出典、出版社、版の性質などに加えて、その起源、特殊性、変種、回想や備考、主な演奏などを記述した注釈など)が記されています。その中で『Symphonie en ut, par GOSSEC.』という作品が譜例(冒頭のみ)を伴い紹介されているのですが、これこそ私たちが知る『古典序曲』の原典なのです。なお、『Musique des fêtes』にはピアノ・リダクション版が掲出されています。

図2
Les hymnes et chansons de la Révolution 』の表紙

幸いなことに、この『Symphonie en ut』のスコアとパート譜(一部)の手稿はフランス国立図書館(BnF)が運営する電子図書館(Gallica)で閲覧することができます。ただし、いずれもゴセック自身の手によるものではありません。おそらく、ゴールドマンらはこれら史料に基づき編曲したのでしょう。もちろん、編曲当時に電子的な手段はありませんから、当時国立高等音楽院に保存されていたと思われる手稿を直接見たか、『Musique des fêtes』を手に入れたのではないかと思われますが、ピアノ・リダクション版を基に編曲した可能性が極めて高いと考えられます(③校訂方針 〜1. 参照楽譜を概観するで詳述します)。


現在も出版されているゴールドマンらによる編曲譜での解説によると、作品は「1794年から95年にかけて作曲」とされており、日本国内では「1795年作曲」と認識されていますが、今回参照した史料等からはそれを証明する記述を見つけることはできません。
当時の音楽誌(日刊)『Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号(1794年8月21日/共和国暦II年フリュクティドール4日)(以下『Journal des théâtres』)(図3)からは、作品が1794年8月10日(共和国暦II 年/テルミドール23日)に、「国立庭園(現在のチュイルリー公園)」における「国民祭典」の幕開けに演奏されたことがされたことが確認できます。ただし、これが初演であったかどうかは不明です。また、同誌の記述から、国立音楽院 l’Institut National de Mnsiqueの軍楽隊が演奏したということも分かります。当時の音楽院には教師115名、生徒600名ほどがいたとされていますが、これらすべての人が演奏に携わったのかどうかは不明です。しかし、この祭典の2か月前に催された「最高存在の祭典」には全員で参加し、ゴセックの『Hymne à l’être suprême』(自筆のスコアのみ現存します)などを演奏したようです(註6)。

図3
Journal des théâtres et des fêtes nationales』第4号

Gallicaは、演奏場所を「オペラ座」と説明しています。それは、パート譜の作成がオペラ座の写譜家の手によるものであると推定されること(実際は違うようです。「③校訂方針 1. 参照楽譜を概観する」に詳述)、また、保存されているパート譜に「オペラ座における演奏会のために作曲」とのメモが添えられているためだと思われます(図4)。なお、8月10日にオペラ座で何らかの演奏会が催されたことを確認することはできていません(ちなみに、『Journal des théâtres』第6号(1794年8月23日/共和国暦II年フリュクティドール6日)では、移転したオペラ座が8月7日(テルミドール20日)に舞台『Réunion du 10 août』の無料公演で幕を開けたことが報じられています)。

図4
パート譜(手稿)に添えられたメモ

上述の通り『Symphonie en ut』は「国民祭典」で演奏されたことは確認できているのですが、それが目的で作曲されたわけではないと考えられます。


1794年から発行された月刊誌に『Musique à l’usage des fêtes nationales』というものがあります。「国民祭典」で使用された音楽作品の楽譜(主にパート譜)のみで編集されたものです。その第6号(共和国暦II年フリュクティドール号)には8月10日の祭典で演奏された作品が掲載されていますが、『Symphonie en ut』は掲載されていません(図5)。それは編集上の都合かもしれませんので、これをもって作曲の目的、経緯を推定することは難しいと思われます(註7)。

図5
Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号

前掲のピーエルの記述にあるように、さまざまな公共施設が吹奏楽コンサートを主催していたようですから、オペラ座がそのようなコンサートを開催していたとしても不思議ではありません。であるなら、8月10日ではない別の日だったのではないかと考えられます。つまり、Gallicaが説明している「1794年」よりも前に作曲された可能性もあるわけです。ピエールが『Musique des fêtes』で『Symphonie en ut』の作曲年代を確定させていないのも頷けます(図6)。

図6
Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française 』より

ここで断言することはできませんが、図4にある楽器編成で作曲しその後、「国民祭典」のために新たな楽器を加えたと考えることは可能でしょう(別項で考察します)。

ちなみに、フランスの音楽学者パトリック・ぺロネ Patrick Péronnet博士(註8)によると、1794年以降民衆は屋内(革命によって破棄された教会や寺院)で「祭典」と行うことを好んだそうです。当然ながら、軍楽隊(オーケストラ)や合唱団の規模は縮小されることになります。80人の合唱団に対し約20人の器楽(管楽器。弦楽器は貴族的すぎると考えられていました)奏者、という規模です。図4にある楽器編成はそれに近いものがありますので、「オペラ座における演奏会」もまた「祭典」であったと考えることができます。
(ぺロネ博士を紹介してくださった作曲家ギョーム・デトレ Guillaume Détrez 氏に対し多大なる感謝の意を表します。)


さて、Gallicaの説明には興味深い記述があります。それは、『Symphonie en ut』が『Symphonie à grand orchestre n°2 en do majeur [RH 47 / B 85] 』第一楽章の管楽版ということです(註9)。手稿や『Les hymnes』にはそれと分かる既述はありません。ゴセックの最新の伝記作家であるクロード・ロール Claude Roleがシャルル・エナン Charles Héninとともに2004年に編纂した作品目録(ヴェルサイユ・バロック音楽センター(以下「CMBV」)刊)によると『Symphonie à grand orchestre n°2』は1777年頃に作曲されています。

ゴセックは「フランス交響曲の父」と称されるほど多くの交響曲を作りました(60曲ほど)。大作曲家ジャン=フィリップ・ラモー Jean-Philippe Rameau(1683~1764)率いるオーケストラ「ラ・ププリニエール La Pouplinière」でヴァイオリン奏者を務めた時期に客演指揮者として招かれたヨハン・シュターミッツ Johann Wenzel Stamitz(1717~1757)と出会い、彼は「マンハイム楽派」のスタイル、その革新性を知ることになります(その影響はもちろん『Symphonie à grand orchestre n°2』/『Symphonie en ut』にも見てとれます)。そして、「ラ・ププリニエール」在籍中に約30曲、その後も、1769年に自ら創設したオーケストラ「コンセール・デ・ザマテュール Concert des Amateurs」や、1773年に再建され人気を博した「コンセール・スピリチュエル Concert Spirituel 」のために交響曲を作曲、指揮しました。当時彼の交響曲の主たる客層は上流、中流の市民たちであったのは確かです。オペラ座でも仕事を持ち、貴族による長年の庇護にもかかわらず、「革命」が始まるや民衆の側に立ち、国民衛兵隊の軍楽隊で活躍した彼は、どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?ちなみに、ロールとエナン編纂の作品目録(上述)には「革命の音楽」という分類項目がありますが、『Symphonie en ut』や、同じく軍楽隊向けの『Symphonie militaire [RH 62]』(1793年)は「交響作品」に分類されています(その辺りの事情を直接ロールやエナンに尋ねようとしたのですが、CMBVによると「ともにかなりの高齢であるため対応困難」とのことでした)。

あくまでも推測なのですが、“マエストーソ”の音楽”(楽譜にはAllegro maestosoと標記されています)が軍楽に相応しいと考えたのではないか、ということです。ゴセックに限らず、革命期に作曲された音楽や祭典の音楽の多くは“マエストーソ”です。もうひとつは、“ハ長調”という調性にあります。当時の楽器(特にクラリネット)の機能、性能を考えて、ということは十分考えられます。ハ長調やヘ長調の作品が多いのは当時の楽器の機能、性能と無関係ではありません。すでに17世紀末には、マルカントワーヌ・シャルパンティエ Marc-Antoine Charpentier(1643~1704)が「愉快、軍隊的」と表現していますし、かのジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau(1712~1778)もハ長調を「愉快、壮大」と表現しています。ドイツでも、ヨハン・マッテゾン Johann Mattheson(1681~1764)が1713年に、「軍隊を鼓舞することに役立っている」(註10)と書いているくらいですから、ゴセックがマエストーソでハ長調の『Symphonie à grand orchestre n°2』第一楽章を軍楽隊向けに改編しようと考えても不思議でないように思います。


革命をきっかけに音楽は民衆に近づきました。ゴセックをはじめ多くの作曲家が「革命歌」を作りました。それらは民衆にも聴きやすいものであったはずです。ただし、これはニコラウス・アーノンクール Nikolaus Harnoncourt(1929~2016)も指摘するように「一種の衰微」とも言えます。ゴセックらが言わば「使命」として「革命歌」を作っていたことは十分に理解できるのですが、それだけで満足していたわけではないと思いたくなります。ゴセックだけでなくフランソワ・ドゥヴィエンヌ François Devienne(1759~1803)やエティエンヌ=ニコラ・メユール Etienne Nicolas Méhul(1763~1817)、シャルル・シモン・カテル Charles Simon Catel(1773~1830)など著名な作曲家たちも「交響曲」や「序曲」を軍楽隊むけに作曲しています。これは何を意味するのでしょうか?

主に宮廷や上流、中流階層のために作曲していたゴセックらが、軍楽隊を通して「こうした音楽も民衆の手にあるのだ」と伝えようとした、と考えることはできないでしょうか?先に呈した「どのような想いで『Symphonie en ut』を作曲(改編)したのでしょうか?」という疑問に対する答えはこんなところにもあるような気がします。

ゴセックは、「音楽は国家(言い換えれば 「国民」)によって賄われるものであり、それはすべてのフランス国民の音楽である」と書きました。このことは、「民衆のために」書くことの重要性を説明している、とペロネ博士は言います。革命期、祭典向けの賛歌や行進曲といった機会音楽を作ることが多かったゴセックが『Symphonie en ut』を作曲(改編)をしたことは、宮廷や上流階層というある意味閉鎖的な環境に置かれた音楽が全ての民衆に開かれたことを示す一例と考えていいでしょう。


註1)初演に関する詳細な情報は未確認だが、リチャードの父エドウィン・フランコ・ゴールドマン Edwin Franko Goldman(1878~1956)の指揮により演奏されたと考えられる。日本版は「音楽之友社」より出版(マーキュリー版のリプリント)。日本と大韓民国のみでの販売が認可された。現在は廃番。

註2)学生は兵士の息子であることが必須条件であった。

註3)国民衛兵無償軍楽学校 École gratuite de Musique de la Garde Nationale は120人の学生音楽家(全員国民衛兵の息子たち)を擁するまでになり、14の軍隊、そして共和国の軍隊のために軍楽士を養成した。各生徒は制服、楽器、楽譜を自分で用意しなければならなかった。

註4)現在の正式名称は「パリ国立高等音楽・舞踊学校」

註5)『Les hymnes et chansons de la Révolution (1904)』はもともと、1882年にピエールらが行った音楽院設立の準備行為を掘り下げる研究に端を発しており、『Là musique aux fêtes et cérémonies de là Révolution française』、『Musique des fêtes et cérémonies de la Révolution française (1899)』とともにパリ市の刊行物として発刊された。もっとも、その内容は1894年から1895年にわたり数度発表されていたようだ。

註6)井上さつき著『フランス・フルート奏者列伝 ヴェルサイユの音楽家たちから』(2024年 音楽之友社)p.81-83

註7)1794年8月10日の祭典では、『Symphonie en ut』に続き、やはりゴセックが作曲した『Hymne à l’être suprême』が再演されている(初演は1793年11月10日、「理想崇拝の祭典」にて)。作詞はマリー=ジョセフ・シェニエ Marie-Joseph Chénier(1764~1811)。『Hymne à l’être suprême』の楽譜も『Musique à l’usage des fêtes nationales』第6号には掲載されていない。(図5参照)なお、『Hymne à l’être suprême』は1794年6月8日の「最高存在の祭典」においては歌詞を変えて演奏されているが、1794年8月10日の祭典ではシェニエの歌詞に戻されたようだ。

註8)パトリック・ぺロネ博士(1959~):音楽学博士(パリ・ソルボンヌ大学)、IReMus音楽学研究所(BnF / CNRS)準研究員であり、AFEEV(Association Française pour l’Essor des Ensembles à Vent)幹事。専門領域は18世紀から20世紀の管楽アンサンブル、その範囲はレパートリー研究にとどまらず、政治的、社会的影響にまで及ぶ。著書に『Les Enfants d’Apollon. Les ensembles d’instruments à vent en France de 1700 à 1914』(2023)など。

註9)「RH○○」はロールとエナンによる整理番号。「B○○」はアメリカの音楽学者バリー・S.ブルックによる整理番号(「Br○○」と記されることもある)。ブルックは『Symphonie à grand orchestre n°2』の作曲年を1773年としている。なお、ロールとエナンは『Symphonie en ut』に「RH 63」という整理番号を与えているが、ブルックは整理番号を与えていない。

註10)ヨハン・マッテゾン著(村上曜訳)『新しく開かれたオーケストラ(1713年)』(2022年 道和書院)p.194-195
マッテゾンは「ハ長調(イオニア旋法)はひどく粗野で厚かましい属性を持っているが、お祭り騒ぎや、さもなくば喜びを爆発させるような場面にも不適ではない。」と書いている。


→ ②作品をめぐる現状と評価、そして、向き合い方の探求

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「シンコペーション」論

2020年10月21日


[0]はじめに

 本論は「シンコペーション」について、その「正体」を考察するとともに、その「演奏法」、あるいは「表現方法」の新たな可能性を探ることを目的としており、特に学校現場等で指導にあたる皆さまの参考になれば、と考えています。

 前半では、古今の作曲家や演奏家、理論家などの著述を参照しつつ、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直します。

 後半は、前半の考察と私の実践を踏まえた「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を提案します。

 なお、本論で参照する海外の書籍等については、原文ではなく日本語訳のものを基にしていることを了承ください。


[1]シンコペーションの正体

●「シンコペーション」について音楽理論書等ではおおよそ以下のように解説されています。

「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらす」

「強拍と弱拍の位置を本来の場所からずらしてリズムに変化を与えること」

「「切分音」ともいい,拍子,アクセント,リズムの正常な流れを故意に変えること」

「1小節内の弱拍あるいは弱部を強調するリズムの取り方」

「軸となる拍の位置を意図的にずらし、リズムを変化させることで、楽曲に表情や緊張感をあたえる手法」

「アクセントの位置を変えることで、楽曲に緊張感や表情をつける手法」

「本来強調されない拍を強調したり,逆に強調されるべき拍を強調しないことによって、 規則的な拍子の強弱パターンを一時的に変化させること」

 多くの理論書では、「拍節」に絡めてシンコペーションを解説していますが、そもそも、「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」とが混同して述べられているのではないかという疑問が私にはあります。上の記述にある「アクセント」という言葉も、拍節内の「強弱によるストレス関係」(つまり、強拍、弱拍の存在)を前提に書かれてものであると推測できます。

 問題は、「拍節リズム」における「強弱ストレス」が音自体に存在する(実際の音で示される)かのように述べられているところにある、と私は考えています。


●例えば、17 世紀の⾳楽理論では「⼩節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの⾔及を含んでいない」とされており、フランスでは古典詩学の詩脚を⾳楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと⾔われています。

 「拍節」がアクセントと結びつけられて考えられるようになるのは18世紀、つまりバロックの時代ですが(そこには、器楽の発展という側面があると考えていいでしょう)、パウル・ヒンデミット(1895~1963)が言うように、もともと「「拍節リズム」における「強弱のストレス」は「われわれの感覚によって⽣じるものであって、⾳⾃体に存在するものではない」(『新訂 音楽家の基礎練習』より)のです。

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 ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が著書『古楽とは何か ―言語としての音楽』で次のように指摘しています。

・バロック⾳楽においては、当時の⽣活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。

・⾳符にも「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」があった。

・尊卑の観念はもちろん強調と関係する。

・この図式は拡⼤され、⼩節群や全曲にも当てはめられた。また縮⼩もされた。

 アーノンクールの言う「ヒエラルキー」が「拍節」にも当てはめられたと考えることは十分可能でしょう。

 こうした指摘は、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「拍節」における「強弱」関係が、ある意味「人工的」に作られたということを示唆しているように思えるのです。

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 また、アマデウスの⽗、レオポルド・モーツァルト(1719~1787)は著書『ヴァイオリン奏法』(1756)の中で、「表現のためのアクセント」について述べているのですが、そこで⽰された「強調」は、現代の「拍節」論におけるアクセントと⼀致しています(「作曲家が特別の指⽰をしていない限りにおいて」、との但し書きがあります。そして、レオポルドの記述は、アーノンクールが言及した「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」という考え方がこの時代にも残っていたことを示しています)。

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 ヒンデミットはさらに、こうも言っています。

(「拍節」のアクセントは)音量的アクセント(=「表現のためのアクセント」と解釈していいだろう)とは本質的に違うものであり、この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば⼀致し、拍⼦のアクセントが強調されるのだ。

 「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」との混同は、こうしたところに理由があるのかもしれません。 (ヒンデミットは、「⾳楽作品は、拍⼦の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。」とまで言っています。そこには「和声」も大きく関わってくると言っていいでしょう。)


●ところで、「拍節」が「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは疑いようもありません。古くから音楽の理論書等では「最初の音」に強勢を置くことでその構造を説明してきたのですが、果たしてそれが周期性や回帰性を示すことになるのでしょうか?

 拙稿『三拍子の話』でも考察しているのですが、私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性や回帰性をもたらすのではないか、と考えています。

 その「準備」は当然小節内の最後の拍で行われることになります。「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは(僅かなものではあるが)、音量的なアクセントだったり、長さであったりするかもしれなません(強さには長さが、長さには強さが伴うということも知っておきたいです)。つまり、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」関係とは異なるものです。

(そう考えると、例えば練習でメトロノームを使用する際、拍節の変わり目を意識づけるという意味では、「チーン、カチッ、カチッ、カチッ」というパターンを、「カチッ、カチッ、カチッ、チーン」というパターンに変えてやってみることを検討してもよいのではないか、という気もします。)

 以下、簡単にまとめてみます。

・もともと「拍節」における「強弱」は⾳⾃体に存在するものではない。

・「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」(ここには作曲と演奏の両領域が含まれる)の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」と同じとはいえない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば1拍目の)音に何らかの「重さ(あるいは強勢)」を置くことで起こるのではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、1拍目が何らかの形で強調されることは当然起こり得る)。


●いくつかの作品で確かめてみましょう。

 まずは、日本人なら誰でも知っているこの歌、

 旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型です。

 この旋律を上記譜例のような強弱を実際に付けて歌う人はまずいないでしょう。歌詞(言葉)に内在するアクセントが優先されるはずです(この曲であれば、奇数小節の最初の音にわずかながら強勢が置かれるでしょう)。

 この曲はどうでしょう?

 これも旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型ですが、言葉(シラブル)の持つ強弱ストレスも「拍節リズム」の強弱ストレスと一致しています。つまり、上述のヒンデミットの言及「2種類のアクセントの位置が一致する」典型でもあると言っていいと思います。

 だからと言って、各小節の最初の音符にさらに強いアクセントを付けて歌うことは考えられませんよね。

(ヨーロッパの著名なピアニスト(故人)が、ベートーヴェンの強弱法に関する講演の中で、この部分を例に「拍節リズム」における強弱の重要性を説いています。次節で詳述します)。

 上記2つの例は歌詞(言葉)を伴うものですが、では、歌詞(言葉)を伴わない場合 はどうでしょうか?

 拙作で恐縮ですが、『メモリアル・マーチ「ニケの微笑み」』を例に挙げてみます。

 行進曲は特に「拍節感」が大切だとされていますが、譜例の上の段の旋律に「拍節リズム」の強弱を当てはめて歌ってみるとどうでしょうか?

 下の段のベースライン、これも「拍節リズム」の強弱関係に従って強勢を置いて歌ってみましょう。

 非常に窮屈な思いをするのではないでしょうか?

 歌詞のない作品に取り組むときでもよく、「歌いましょう」と言われることは多いのですが(「拍節感」が大切だとされる行進曲であっても)、常に「拍節」の強弱関係に意識が向いてしまうと(それが優先されてしまうと)「歌」は成り立たないでしょう。

 とはいえ、「拍節リズム」を全く無視するわけにはいきません。

 「拍節リズム」は「音楽リズム」に「秩序」と「刺激」をもたらすからです。

(「拍節アクセント優先」の考え方は、「言葉」によるアクセントがないため何らかの「秩序」を示す必要があったからかもしれない、とも思えてきます。)


●「シンコペーション」自体は「音楽リズム」に「刺激」を与えますが、その刺激は「拍節リズム」によってもたらされます。「拍節リズム」があるからこそ「シンコペーション」という概念が生まれたとも言えるのです。だから、「シンコペーション」を「拍節」の強弱ストレスに基づいて述べることは不可能なことではありません。しかし、「拍節リズム」の本質(「強弱」が⾳⾃体に存在しない、ということ)を理解しておく必要があります。

 「シンコペーション」には「切分音」という訳語が当てられています。「切分拍」ではありません。実際に響く音を切り分けるということです。「拍節リズム」の「強弱」が音自体に存在しないということを前提とすれば、「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて」や「拍の位置をずらす」という説明は成り立たなくなります。ヴィオラ奏者・藤原義章氏の「今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくるリズムパターン」(『リズムはゆらぐ』より)という説明が最も本質を突いているように思われます。

「シンコペーション」は、「拍節」における「強弱」の位置を入れ替えることではない、「拍」がシンコペートされるわけではないのです。

 (藤原義章氏の著書『リズムはゆらぐ』や『美しい演奏の科学』は、リズムを考察する上で一読に値すると思います。ただし、藤原氏が「強弱リズム論」に徹底して批判的な態度を示しているのに対し、私は「古くからある理論は上手に活用すべし」という考えです。氏は著書で「自然リズム」という言葉を使っており、演奏する上で最重要視しておられます。人間の深層部分に潜在しているものということですが、それは私が本論で用いる「音楽リズム」という言葉と同じです。もともと音楽自体、人間が音をコントロールすることで創造されたものですから、「自然」というものを音楽に求めることは極めて難しいのではないか、と私は考えます。ドイツの哲学者で『リズムの本質』という著書でも知られるルートヴィヒ・クラーゲス(1872~1956)が言うように、人間の深層部分に潜在するリズムが優位に立てば立つほど緊張感は緩む。だから、上述したように「拍節リズム(クラーゲスは「拍子」としています。)」を無視するわけにはいかないのです。私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と考えるのはこうしたところに理由があります。)

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●「ヴィーン古典派」時代の音楽家・理論家・教育者であったダニエル・ゴットロープ・テュルク(1750~1813)の名著『クラヴィーア教本』(1789)には次のような記述があります。

シンコペートされた音とは、拍ないし部分拍を数えるときに、頭のなかで切り分けなければならない音符のこと。換言すれば、その半分が先行する拍に属し、他の半分は後続の拍に属するという音符のことである。(「拍節」の項で述べられています。)

 この点については、私の師のひとりである東川清一先生が著書『だれも知らなかった楽典のはなし』で触れていらっしゃるのですが、先生はシンコペーションの本質的特徴は「アクセントの移動」と仰る…。
 しかし、よく読めば、「拍節リズム」のアクセントの移動ではなく「音楽アクセント」の移動であることがわかります。

  上の楽譜中、*印が付された音が「シンコペートされた音」ですが、テュルクの記述に従い各音を切り分けて記譜すると、以下のようになります。

(譜例は筆者による)

  テュルクの言う「シンコペートされた音」とは、「拍頭を跨いで奏せられる音(拍頭でアタックしなおさずに)」ということが明らかです。

 では、音がシンコペートされる前はどのようなリズムでしょうか?

 上記の譜例から「シンコペーション」を除くと、以下のようになるでしょう。

 「cyncopate」は本来「中略」や「中断」、「短縮」を意味します。であるなら「シンコペートされた音」は、テュルクの言う音とは違うものになるのではないでしょうか?

 どの音が「中断、短縮」されたかは一目瞭然です。

 つまり、テュルクの言う「シンコペートされた音」は、「先行する音をシンコペートした音」ということになるのです。

 「切分音」という訳語もこうした、「された」「した」の関係を理解することで初めて意味を持つのだろう、と思います(一部理論書にはこうした点に言及したものがあります)。

 歴史的な理論書に対し批判的な視点で述べたのですが、それでも、テュルクの記述からは、得るものがあります。「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立ったものだということも示しているからです。

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●テュルクは「強調されるべき音」の項でこうも述べています。

シンコペートされた音(=「先行する音をシンコペートした音」)はその出だしから、したがってそれが弱拍と強拍のいずれにあたるにせよ、強く奏さなければならない(中略)このようなシンコペートされた音が用いられるのはなかでも、しばらくのあいだ過度の単調さを打ち破って、いってみれば拍の位置をずらすためである。シンコペートされた音の前半が弱く奏され、その後半が強調されたのでは、達成されないのである。

 「弱拍」や「強拍」、「拍の位置をずらす」という記述は、ここまでの考察とかけ離れたものですが、この時代の音楽のありようを示していることは確かです。

テュルクが述べているように、「先行する音をシンコペートした音」には何らかの強調が必要となります。

・先行する音をシンコペートしたことを示すため

・先行する音をシンコペートしたことにより、「長さ」を持ったため(一部例外はある/長さには強さが伴う、ということは既述の通り)

という2つの理由からです。つまり、「シンコペーション」の強調は、「拍節」の「強弱ストレス」とは無関係になされるものなのです。結果として「弱拍」とされる拍にあたる音が強調されることになるのですが、テュルクが「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立っているからこそ、「いってみれば」という表現をしているようにも思えるのです。

 ちなみに、レオポルド・モーツァルトは『ヴァイオリン奏法』の第12章でこのように言及しています。

 小節をまたぐような音符を分けてしまったり、それを強調したりしてはいけない。むしろ拍の最初にあるかのように始め、静かに保っただけでいい。

 「シンコペーション」を思わせる記述なのですが(そもそもレオポルドの著書に「シンコペーション」という言葉は出てきません)、ここでレオポルドが言う「強調」は「表現のためのアクセント」として(意識的に)付されるアクセントを意味しており、「長さ」を持ったことにより生じる強調までをも否定したわけではない、と読み取れます。「拍の最初」(「拍節の最初」の間違いではないだろうか…?)という記述が、それほどの強調は必要とはされなくとも、他とは区別される音であるということを示していると、考えられるからです。

(もし、「拍節の最初」ということであれば、レオポルドが同著の同じ章で、「強拍にあるその他の音(つまり、「表現のためのアクセント」が付けられていない音符)は、常に少し強くして他の音と区別されるが、あまり強くしすぎてはいけない」と述べていることとの整合性が取れるのではないか、と考えるのですが…。)


●もっとさまざまな(古今の)理論書等を参照する必要があるのかもしれませんが、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直すことがある程度できたのではないかと考えています。

 次節では、ここまでの考察と実践を踏まえ「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を探っていきます。


[2] 「アーティキュレーション」の視点から演奏法を考える

●楽譜に記された「シンコペーション」を実際の音としてどのように示すか…

 その音の立ち上がりに何らかの強勢を与えることが現代では一般的でしょう。ここまでの考察からも、あるいは歴史的な理論書にある記述からも疑いようはありません。そして、それが「強拍」と「弱拍」のパターンを変えるという類のものではない、ということは再度確認しておきたいと思います。

 ただし、強勢を与えることが単に「慣習」だからということであれば少々問題でしょう。

 拙稿『三拍子の話』や雑誌への寄稿文にも書いているのですが、「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。 既存の、誰もが理解していると思われる(「慣習化」している)理論であろうとも、一度は「なぜそうなったのか」「なぜそうでなければならないのか」と考えてみることは有益であると私は思います。


●以前、ヨーロッパのある著名ピアニスト(故人)がベートーヴェンの強弱法について講演したものを目にする機会がありました。ベートーヴェンの時代の音楽様式、演奏様式に沿った、深い内容でした。このピアニストは、楽譜に書き表すことのできないデュナーミク(インネレ・デュナーミク)の大切さを説いた上で、実際の音にもそうした強弱が反映されることの重要性を強調していたのですが、このインネレ・デュナーミクの中心に置かれたのが「拍節リズム」の強弱でした。

 「音楽の自然な表現力」を求めるこのピアニストが「拍節リズム」を「音楽の自然な抑揚」として述べている(前節で取り上げた「第九」も例に挙げているのですが、明らかに、言葉の持つ自然なアクセントと「拍節における強弱」を混同して述べています)ことに若干の違和感を持ったのですが、いくつかの作品を例に何度となく「通常の法則(リズムの強弱に準拠したデュナーミクのイントネーション)に固執することなく」と繰り返していたところを見ると、「そのように決まっているから」だけでは音楽にならない、ということを言っているようにも感じました。

 ちなみに、このピアニストが「通常の法則に固執することなく」と言っていたベートーヴェンの初期のソナタのある部分、実際そのように演奏しているかを確かめてみたところ、見事に「通常の法則」で演奏されていました(録音と講演の年代に数十年の開きがあるので、このピアニストの中で何らかの変化があっても不思議ではありません。そこがまた、音楽の不思議、魅力でもあるのです。私は、決してこのピアニストを否定しているのではなく、むしろ、若い頃からその演奏に繰り返し触れてきました)。


●さて、「シンコペーション」の演奏法、表現方法ですが、その音の立ち上がりに何らかの強勢を置くということは、本当に「そう決まっている」からなのでしょうか?であれば、「なぜ」?違う方法、他の可能性はないのでしょうか?

 アントニー・バートンが編集した『古典派の音楽 歴史的背景と演奏習慣』の「弦楽器」の章でダンカン・ドルースが「シンコペーション」について次のような記述をしています。

当時は、また19世紀に入ってからも、これと(各音の最初にアクセントをつけてシンコペーションを強調するやり方)は違った方法が使われたという証拠がある。バイヨは1834年の『ヴァイオリンの技法』でもっとも完璧な説明を行なっている。すなわち、移動したアクセントがシンコペーションの最初にスフォルツァンドを要求したり、曲の静かな性格がアクセントのない演奏を暗示するのでないかぎり、演奏者は「音をだんだんふくらませて、音の最後まで弓を、ただし穏やかに、加速させなければならない」―したがって、次の音を静かに始めるよう注意しなければならない―というのである。古典派のレパートリーには、このような抑揚を付けたシンコペーションによって効果を高めるパッセージが無数にある。

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 レパートリーの一例としてドルースは、ベートーヴェンの『ソナタ第7番』の第一楽章を挙げています。

 果たして、バイヨが述べるような演奏法は実際に受け継がれているのでしょうか?

 譜例に挙がったベートーヴェンの『ソナタ』、20世紀の大演奏家たち、現在活躍する演奏家たちがどのように演奏しているかを確かめてみました。

 シゲティ、ハイフェッツ、シェリング、グリュミオー、メニューイン、スターン、オイストラフ、ヘンデル、パールマン、ズッカーマン、クレーメル、ムター、カヴァコス、ファウスト、樫本大進、庄司紗矢香…、誰一人としてドルースが取り上げたバイヨの演奏法は採っていません(もっとも、譜例に挙げられたこのフレーズ、ヴァイオリンが演奏する前にピアノに登場します。ピアノがこの譜例のような強弱を表出できるでしょうか(フレーズ自体がクレッシェンドしているのならまだしも)?つまり、例として挙げること自体に少々無理があるような気がするのですが…。そもそも、ベートーヴェン自身がそれを意図していたとも考えにくいです)。

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 ただし、受け継がれてはいないものの、現在「慣習」となっている演奏法とは違う考え方があったという事実は知っておいたほうがよいでしょう。こうした演奏法が顧みられ、数十年後には一般化する可能性がないとは言えないのです。そして、バイヨの論が、「シンコペーション」を「拍節」の「強弱」の移動とは考えていないという点は見逃せません(ただし、読み方によっては、バイヨが「拍節」内の各拍頭にある種の強勢を置かねばならないと考えていたのではないか、とも思えます。前節で見たテュルクの考えとは全く逆です)。

 しかしながら、「その音の立ち上がりに何らかの強勢を置く」という演奏法にある意味淘汰されてきたということは、そこに人間の「感覚」が大きく関わっているということだけは言えるでしょう(いつも思うことですが、「理論」というものはいくら科学の目が入ろうとも、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされ、それを繰り返して今日に至っているはずなのです)。

 では、その感覚とは?

 今一度、前節で参照した藤原義章氏の説や、テュルクの論述に関する考察から。

・今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくる

・先行する音をシンコペートしたことを示す

・先行する音をシンコペートしたことにより「長さ」を持った

 こうした条件下、人間の感覚としては何らかの強勢を置きはしないでしょうか?それが例え、上記譜例のベートーヴェンの『ソナタ』のように p のフレーズになったとしても(件のフレーズの直前までは f )。もちろん、「シンコペーション」のよる「中断」が音量の変化を伴って行われることは、上記ベートーヴェンの『ソナタ』の例を見るまでもなく普通にあることです。そして、音量的な変化と音(あるいはフレーズ)の立ち上がりに置かれる強勢とを混同してはならないことは今さら言うまでもありません(バイヨやドルースの論述に違和感を持つのはこうした点に起因します)。

●バイヨやドルースの論述に接したことから、多くの演奏に触れることができたのはある意味収穫です。

 どれひとつとっても同じ表現はありません。件の「シンコペーション」を取り上げてみても、強勢の置き方、音の「抜き方」、音の保持のしかた、と演奏者それぞれの色があります、味があります。つまり「アーティキュレーション」が明瞭である、ということです。

 「アーティキュレーション」、ここに「シンコペーション」の演奏、表現を豊かにするヒントがあるのではないでしょうか?

 これまでの考察から、「拍節」における「強弱」の移動ということ以上に「アーティキュレーション」という視点から「シンコペーション」演奏法を考える方がはるかに音楽表現を豊かにするはずだ、というのが私の結論です(私がベートーヴェンで接した多くの演奏家だって、「拍節」の「強弱」の移動ということよりも、その音にどう表情づけするかに神経を使っているはずですから)。

 「ここは拍の強弱が入れ換わっているから強く弾いて」と指導するよりもはるかに音楽的と言えるでしょう。


●今一度、前節(テュルクの論述に関する考察の項)の譜例を挙げてみましょう。

 「シンコペーション」の音(テュルクの言う「頭の中で切り分けなければならない音符」)は拍頭を跨ぎ「タイ」でつながれています。この「タイ」をどのように考えるかがポイントでしょう。

 ここからは、古典の音楽理論、演奏法を活用、応用してみましょう。

 「タイ」は、音をつなぐという意味では「スラー」と同じです(ここで言う「スラー」はあくまでも、「アーティキュレーション」を示す短い「スラー」だ)。「タイ」も「スラー」も弧線で示されます。「スラー」」はイタリア語で『ligatura』、「タイ」は『ligatura di volare』、つまり「音価のスラー」と呼ばれます。

 フルート奏者の有田正広氏(1949~)は、「古典では、スラーはディミヌエンドを作るもの」(佐伯茂樹著『木管楽器 演奏の新理論』より)と言います。また、ヴァイオリン奏者のシモン・ゴールドベルク(1906~1993)の「スラー」に関する言及には次のようなものがあります。

スラーの最初の音は特別な音。特にそのことを示したり印づける必要はなくとも、その音の長さを縮めない。

スラーの音を毎回強調する必要はない。ただし、最初の音であることをなおざりにしないこと。

スラーのかかった二つの音は二つとも聞こえなければならない。しかし二つ目の音へのディミヌエンドの度合いは緻密な意識のもとに造り出すこと。

ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 – シモン・ゴールドベルク』より)

 ゴールドベルクにも有田氏同様、基本的には「スラーはディミヌエンドを作るもの」という認識があるのは確かなようです。

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●例えば、次のような楽譜を生徒に与えてみましょう。

 「スラーはディミヌエンドを作るもの」という意識がなくても、生徒は最初の音に何らかの形で目立たせようとする(表情をつけようとする)はずです。後ろの音を強調することはまずありません(前述したように、それが人間の「自然な感覚」なのでしょう)。  

 では、同じ高さで隣り合う音をつないでみましょう。

 多くの生徒は、「リズム」を正確にとること(音が立ち上がる位置を間違えないようにすること)に意識が向き、表情をつけることができない…。「シンコペーションは拍節内の強弱の移動」などという以前の問題です。

 ここで、手を打ってカウントを取らせながら最初の2小節を歌ってみます(テンポやデュナーミクは任意で)。

 「シンコペーション」が「拍節の強弱の入れ換え」、という意識の強い生徒ほど、2拍目のカウントを強くとるでしょう。気をつけておきたいのは、2拍目に強くカウントをとっているのは、旋律の持つリズムと「拍節」リズムとを混同してしまっている、ということです。このとき、旋律の二分音符にはすでに過剰とも言えるアクセントがつけられていると言っていいでしょう(曲想や作品の性格にもよりますが)。

 既述の通り、「シンコペーション」は「拍節リズム」あってこそのもの、「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(そう考えると、手を打ってカウントしながら歌うことは意外に難しいですよね)。

 優先されるべきは、単にそこに「アクセントを置く」ということではなく、「表情」を作ることです。

(別の場所でさらに考察する予定ですが、「リズム」は1音だけでは成り立ちません。「アクセントを置く」にしても、前の音がどのような表情なのか、次の音がどのような表情なのかを十分に検討することが大切なのです。


●では、テュルクが言うように「頭の中で切り分け」て考えてみましょう。

 「タイ」が音価の「スラー」であるなら、そこには、単に「長さ」を作る以上の役割があると言えないでしょうか?

 既に言及したように、「長さ」にはある種の「強さ」が伴いますから、「タイ」の架かりはじめの音には何らかの強勢が置かれると考えていいでしょう。繰り返しますが、それは「拍節」アクセントの移動ではありません。曲想や曲の性格を見極めた上で(加えて前後の音との関係を踏まえた上で)導き出されたものでなくてはならないのです。

 「スラーはディミヌエンドを作る」という「法則」に従うなら、「タイ」が架けられた最後の音に向かってディミヌエンドすることになります。当然そのディミヌエンドも次の音との関係(次の音にどのような表情を求めるか)を踏まえた上で作らねばなりません。

 「スラー」や「タイ」が架けられた最後の音はやや短めにするのが「慣習」となっていますが、この点に関しゴールドベルクは次のように述べています。

スラーの後、次の音に性急に飛び込みたくなるのは誰もがしがちな間違い。スラーまたはタイの最後の音の長さを短縮しないこと。そしてスラーの最後にくる次の音に早く入りすぎないこと。

 これも曲想や曲の性格(あるいは様式)に応じ検討されなければならないことは、既述のベートーヴェンの『ソナタ』の多くの演奏からもわかります。

 「タイ」が架けられた最後の音の次に来る音に早く入りすぎるのであれば、それは跨いだ「拍頭」を十分に意識していないからでしょう。「タイ」が架けられた最後の音はアタックしないのですから、なおさら意識する必要があります。(これも繰り返しますが、)「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(「拍節リズム」は「音楽リズム」に秩序を与えるものですから)。音の「強さ」や「長さ」に意識が向いたとしても、「着地点」が見えなければそれらは曖昧に処理されかねません。「音を頭の中で切り分け」、「スラー」でつなぐ、ととらえることで、「着地点」は明確になるでしょうし、それにより「最初の音の強勢」の度合いや「ディミヌエンド」の度合い、「スラー(タイ)が架かった最後の音の保持」の度合いなどをより広い視野で検討できるのではないか、と思うのです。

 「シンコペーション」における音の「強勢」を、「拍節リズムの強弱の入れ替え」ではなく、「アーティキュレーション」の視点でぜひとらえてみていただきたいです。


[3]おわりに

●私たちの生活には一定の「リズム」があります。人それぞれに違いはありますが、朝起きてから夜寝るまでの間、「生活のリズム」、「行動のパターン」を持っています(寝ることもひとつの行動ですよね)。そこに「秩序」をもたらすのが「時間」です。「時間」を「拍節」、「生活のリズム」を「音楽のリズム」に置き換えてみるとどうでしょうか?

 「時間(拍節)」に「強弱」は基本的に存在しません。もし、個々の体の内、脳内で強く意識されている「時刻(拍)」があるということであれば、それは「生活のリズム(音楽のリズム)」が持つ「アクセント」なのです。いつも決まった「時刻(拍)」にすることを、意識的にずらして変化を与えてみる…。どこか「シンコペーション」を思わせますよね。

 「時間」を基準に生活の全て組み立てると、どこかで窮屈な思いをします。しかし、「時間」があることで私たちの「生活リズム」は活性化します。音楽も同じでしょう。


●音楽には、一定の理論や法則があり、私たちはそれらを吸収しながら演奏や創作といった活動に活かしています。しかし、本論でも述べたように「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。そして、理論そのものも変容してきたという事実…。

 情報が容易に手に入る時代になり、理論書や入門書なども様々な工夫がなされたものが多く出回っていますが、それらをどう演奏に役立てるか、という視点で書かれた書籍等はそう多くはありません。「既存の著述の言い回しを少し変えてみた」、単に「わかりやすくした」程度のものもあり、多くは「そのように決まっているから」という視点で書かれたものです(それらを決して批判するわけではありません)。楽器の教則本や合奏用のメソッドなどでも、楽譜をどう読んで演奏に活かすか、という観点が欠けていることが多いです。いわゆる「表現」というものは、技術の習得以上に「経験」や「学習」の違いが現われるものです。さまざまな考え方、可能性があると言えます。そうしたもの全てを教則本などに取り入れようとすれば、本も分厚くなり、かえって学習意欲も失せてしまうだろうな、と思っていました。

 私自身も既存の理論等に窮屈な思いをすることはあります。そして、それは時代の変化、音楽をめぐる環境の変化によるところもあるでしょうが、理論そのものが変容してきた過程で何か見落とされたことがあるのではないか、と私は強く思うようになりました。それが、こうした文章を書くようになったきっかです(その第一弾が拙稿『三拍子の話』です)。

 (これも本論で述べましたが)理論の変容には「人間の感覚」が大きく関わっています。もし、「そのように決まっている」と思われるものに対し「なぜ?」と感じることがあったとしても、それは決しておかしなことではなく、むしろ、その成り立ちや変容の過程を探ることで、表現のための「選択肢」が増える可能性があるということです(私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と言うのは、そうした意味です)。「なぜ?」という問いかけこそが、いわゆる「表現の幅」を広げることになるのです。

 理論面からのアプローチ、そして「問いかけ」が、演奏技術の向上にもつながることを私は期待しています。

 本論では私自身の結論のようなものを提示しましたが、今後の実践によっては、その考え方が変化することがあるかもしれません(その時は改めて考察していきます)。お読みいただいた皆さまなりの結論をお出しいただき、実践に役立てていただきたいと思います。

 拙文が少しでも学校現場等で指導にあたる皆さまのお役に立てれば嬉しく思います。

(完)


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ベートーヴェン(2)

(メモ)ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調作品125」 〜その「ジャンル史的立ち位置」

※本メモは、2013年に友人の依頼で作成したものです(加筆、修正の上掲載)。

「第九」を取り上げる意味

 この時代(すでに「ロマン派の時代」になったといってもいい)、交響曲はその規模や内容の豊かさから、器楽曲の最高の形態であった。作曲家にとっても独自の語法を作り出し自我を表明するのに最高の表現手段になっていた。確かに、ベートーヴェンにより交響曲は器楽曲の首座を占めることとなったが、もしかすると、ベートーヴェンは同時に、「第九」によって、古典的な交響曲を崩壊の道に向かわせたのではないかと思える。

 「第九」交響曲は、ベートーヴェンのあらゆる作品の中で最も広い影響力をもっており、今日に至るまで最も広範な解釈を受けてきたが、その多くは、作品全体よりも「歓喜に寄せて」だけに焦点を当て、ジャンル史的視点(後世にどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのか、などを含め)で述べられることは多くなかった。しかも、この、反体制的内容の頌歌を用いた交響曲の構造的側面に言及した著述を目にすることは意外なことに少ない。むしろ、「歓喜頌歌」に結びつけてこの作品の要素を意味づけようとする記述が多い。

 構造的側面に焦点を当てることで、ジャンル史的な意義や立ち位置がわかるのではないか。

特徴

●独唱、合唱の導入(第4楽章) → シラー「歓喜頌歌」への付曲

●ニ短調 → 意外なことに、それまで交響曲で用いた調性はほとんど長調(5番のみハ短調)→ 彼が範のひとりとしていたモーツァルトにとって、この調性は絶望や不穏な情緒を示すに効果的な調性だった。そのためか、ベートーヴェンがこの調性で書いた作品は驚くほど少ない

●楽章構成等

それまでの交響曲(ベートーヴェンのみならず)の基本的な楽章構成からの変更 → スケルツォ楽章が第三楽章ではなく第二楽章に置かれた(但し、彼は第4番から「スケルツォ」の語は用いていない) → 第一楽章のアレグロが、それまでの「アレグロ」楽章のような性格を有しないため、音楽的均衡を図る意図があったか、または第四楽章の劇的な導入のためには緩徐楽章が必要だったのか・・・

・第一楽章におけるソナタ形式 → 提示部の繰り返しを持たない

・第二楽章におけるフーガ風テクスチュア

・第四楽章 → 古典音楽を支配していた規範的な図式(ソナタ形式あるいはロンド形式)からの大きな逸脱 → シラー「歓喜頌歌」への付曲が前提であったため、ある意味当然のこと → 変奏曲の手法(二重フーガまで用いている)

・第四楽章において、それまでの三楽章の主題を再現

・第四楽章における変奏に、「トルコ軍楽」の様式を用いている → 楽器編成の面にも影響 → ピッコロ、トライアングル、シンバル、バスドラムの導入 → 「トルコ軍楽」は当時のドイツ・オーストリーの音楽家に何かしらの影響を与えており、ベートーヴェン自身もそれまでに「トルコ軍楽」のスタイルで作品を書いている → このスタイルで変奏を書く必然性とはなにだったのだろうか?

●作品の規模

・それまで一番長かった第三番(50分前後)よりもさらに20分ほど長い

 フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1952年)/第三番 → 約55分

     〃      フィルハーモニア管(1954年)/第九番 → 約75分

 バーンスタイン指揮ウィーン・フィル/第三番 → 約53分 第九番 → 約71分

 グッドマン指揮ハノーヴァー・バンド/第三番 → 約47分 第九番 → 約66分

独唱、合唱を用いた第四楽章は当然のことではあるが、スケルツォ楽章の長さも彼の他の作品に比べ際立っている → 新しい交響曲(第九)を以前の交響曲と比肩する価値をもつものとして書きたいという願望と、シラーの「頌歌」によるカンタータ風の作品を創作したいというかねてからの願望を実現させるためには、これほどの規模が必要であったのかもしれない

第四楽章は、それまでに彼が作曲した交響曲のうち、第一番、第八番の一曲分の長さに相当する

次世代、後世への影響

●神格化されたベートーヴェン

・音楽技法的にみるかぎり、ロマン派の音楽はウィーン古典派のアンチテーゼではない

・ロマン派の音楽家たちは、古典派が完成した様式や形式を引き継ぎ、それらを発展あるいは磨き上げることに力を注いだ

・特に、ベートーヴェンの音楽にしばしば自己の創作のインスピレーションを求める、ということがおこった

●では、交響曲は…?

・シューベルト → ベートーヴェンと同じ時代を生き、古典派の交響曲の豊かな実りを受け継ぎ、それを後世に伝えようとした → しかし、特にソナタ楽章で重要視されていた論理性、主題の展開の独創性などは失われ、表情豊かで親しみやすく美しい旋律が優先される(外形はとどめつつも、ソナタの性格は消極的になった) → 見方によっては、ベートーヴェンほどの展開の独創性を出すことができなかったともいえる(明らかにベートーヴェンとは異なる音楽理念を持っていたとはいえ)

・メンデルスゾーン → 慎重で控えめな表現 → 音楽的発展に乏しい → 流麗で均整がとれているものの、聴き手の精神を高揚させ、あるいは圧倒するような根源的な力強さに不足 

しかし、ベートーヴェンの影響をみる要素もある

交響曲第2番「讃歌」:ベートーヴェンの「第九」とほぼ同じ構成(「シンフォニア」と題された前半三楽章と、後半のカンタータ。カンタータでは、「シンフォニア」の要素が登場)

交響曲第4番「イタリア」:第四楽章で、サンタレロ舞曲のリズムを使用

・シューマン → シューベルト、メンデルスゾーン同様、古典派の枠組みは守られてはいるが論理性よりも叙情性が重視されている

・つまり、ベートーヴェンに次ぐ世代のドイツ、オーストリーの作曲家は交響曲というジャンルに新しい生命を付与することは出来なかったといえる → 彼らの理念によるところも大きいだろうが、ベートーヴェンが大きく立ちはだかっていたのは確か(つまり、古典的形式の枠内で創作するには、「第九」まででやり尽くされていたと、彼らが考えていたとも思える) 

●交響曲の新たな展開はフランスでおこる

・ベルリオーズ → 評論「ベートーヴェンの交響曲に関する分析的研究」 → ベートーヴェンの全交響曲に関して論評した最初の書物 → 「幻想交響曲」の下地のひとつ → 「固定楽想」 → 明らかに、ベートーヴェンの展開技法の影響 → また、「第九」の第四楽章に見られる、それまでの三主題の再現という技法からの影響もある → オーケストラに新たな楽器を導入(これも、「第九」がなくてはできなかったこと。) → 主題の創作力に乏しかったことの裏返し → 実はベートーヴェンも主題あるいは旋律を書くという点においては創作力に乏しかったのではないかと思える

いずれにしろ、「第九」の影響が大きいといえる「幻想交響曲」は標題交響曲という新しい展開をもたらすことになるが、それは、古典的交響曲の崩壊へとつながっていくといっていい → リストの「ファウスト」や「ダンテ」などの標題交響曲や、「交響詩」へとつながっていく → 音楽的な論理性は保持しつつも、ソナタのような形式にこだわらない自由な形式

●ワーグナー以降

・「第九」に魅せられることでその経歴が形成されていった作曲家にワーグナーがいる。しかし、ワーグナーは、いくつかの交響曲を作曲しているとはいえ、オペラを楽劇に変えること、つまり、ベートーヴェンが交響曲のあり方を変質させ、器楽に言葉を結合させることによって世界に語りかけようとしたように、民族的神話に基づく楽劇という手段によってドイツの文化をつくりかえようとした。 → 「ベートーヴェンの第九交響曲の神秘的な感化によって、音楽の最深層部を探求しようとの欲求にかられた」 → 交響曲以外のジャンルへ影響を与えたことは興味深い

・前述のメンデルスゾーン、シューマンだけでなく、ブラームス、ブルックナー、マーラーに至るまで、「第九」交響曲は後世の交響曲作曲家としての自らの道を切り拓くために直面すべき、音楽的経験の巨大な中心的防壁になっていると理解していた。

例えば、「第九」以後のニ短調の交響曲は、シューマンの第四、ブルックナーの第三、フランクの交響曲いずれもが、「第九」なしには考えられないし、マーラーの巨大な交響曲、独唱や合唱の導入も、「第九」という先例があればこそ。

しかし、そのいずれもが「第九」ほど神話的な地位を獲得しているわけではない。

・ベートーヴェンが「第九」を作曲した時代、音楽はすでに貴族階級から市民階級の手に完全に移っていた。

「教養としての音楽」から「大衆の音楽」に変わっていたといっていい → 音楽家は、それまでよりも、はるかに広範囲にわたる不確定な聴衆を相手にしなければならない → 表現の形式や手段の拡大

音楽は、市民階級の多彩な要求に応えながら変貌していった。

特に、ドイツ、オーストリーでは、多分に閉鎖的な社会感情を反映した内向的で情緒的な音楽が生まれるという結果になった。

つまり、時代が「古典的な交響曲」を必要としなくなったともいえる。

もちろん、ブラームスやブルックナー、マーラーのように、交響曲の作曲を自己の創作の一里塚にする者もいたが、特にブルックナーやマーラーの場合は、交響曲を作曲することの意味がベートーヴェンとは大きく変わっている。

●20世紀以降

・ドビュッシーはこう指摘している。

「ベートーヴェン以来、交響曲の無用性は証明されているように思われる。交響曲は、シューマンにおいても、メンデルスゾーンにおいても、すでに力の衰えている同じ形式の恭しい繰り返しにすぎない。(中略)さまざまな変容が試みられたにもかかわらず、交響曲は、その直線的な優雅さや様式ばった配列やうわべだけの哲学的な聴衆などのすべてからいって、過去にぞくするものだと結論づけなければならないだろう。」

ドビュッシーのこの指摘は、1901年に発表された文章であるが、この頃はブルックナーの九曲は完成されており、マーラーも四番までは初演されている。ロシアやチェコでも、民族の伝統に基づいた新しい交響曲の世界が開拓されつつあった。

しかし、それは「交響曲」の「成熟」といえるのであろうか…

ドビュッシーは「死の影」を読み取っていたと推測できる。

その証拠に、二十世紀にもなると、「交響曲」はますます崩壊の道をたどることになる。

「交響曲」というタイトルは付いているものの、概念そのものが変質している場合が多い。

では、「第九」のジャンル史的立ち位置とは﷒… 

・確かに「第九」は、後世に大きな影響を与えてきたが、その影響は「交響曲」というジャンルというよりは音楽史そのものに与えた影響である(だからこそ、今日に至るまで様々に解釈、評論され続け、また意味づけされようとしている)

・当時から構造上の欠陥を指摘する者がいたのは確かだし、現代でも、チェリビダッケのように「第四楽章は全く無駄」と考えた者もいる。

・「交響曲」を器楽曲の最高の形態にまで成熟させたベートーヴェンは、早い時期から独唱・合唱の導入を考えていたのではあるが、もしかすると、器楽のみで表現することへの限界を感じていたのかもしれない。

・音楽表現の新たな可能性を示した意味では「偉大な」作品であることは疑いようもないが、こと「交響曲」の成熟、発展のという意味では意外なまでに大きな影響を残さなかったといえる(もちろん、時代背景、社会状況が多分に影響しているのではあるが)。それは、「第九」が「交響曲」の崩壊への入り口だったことを意味しているように思う。

ベートーヴェン(1)

「ウィーン古典派」の時代 ~30歳期のベートーヴェンと同年齢期のハイドンの交響曲を通して見る時代様式

※本小論は、2012年に友人の依頼で執筆したものです(加筆、修正の上掲載)。

1.はじめに

ベートーヴェンは、30歳前後の時期に大きな転換期を迎えた。

本小論では、30歳前後のベートーヴェンの作品を、「ウィーン古典派」と称される他の作曲家の30歳期の作品と比較・分析することで、個人様式と時代様式の違いを明らかにすることを試みる。

2.比較対象

比較対象としては、まず作曲家を、続いて作品ジャンルを選んだ。

当然のことではあるが、音楽は人間が生み出すものであり、取り巻く環境や社会の変化から影響を受けるのは、まず人間である。

(1)作曲家

本小論では、ベートーヴェンの比較対象としてハイドンを扱うことにした。

ハイドンはベートーヴェンより38歳年上である。よって、時代様式の違いが同じ「ウィーン古典派」と称されるモーツァルト(ベートーヴェンより14歳年上)よりも明確に見ることができるのではないかということ、また、ハイドンも30歳前後に人生の転換期といえる時期を迎えていることなどによる。

(2)作品ジャンル

比較対象とする作品ジャンルは、交響曲とした。

古典派の主要な形式は、「ソナタ」と交響曲、また弦楽四重奏といえる。ベートーヴェン、ハイドン共にこれらの形式で重要な作品を数多く生み出しているのであるが、特にベートーヴェンにおいては、30歳期前後の交響曲に自己の様式を確立したと思わせるものがあること、初期のハイドンのソナタや弦楽四重奏曲には、作曲年代が不確かなものが多いこと、特に鍵盤楽器のためのソナタでは、ベートーヴェンとハイドンとでは想定している楽器の違いが大きすぎることなどによる(楽器の違いも、ある意味時代様式の違いと言えるのだろうが)。

3.作品比較

(1)比較方法

ベートーヴェンとハイドンを語る上では、「ソナタ形式」の確立あるいは発展ということに論点が傾きがちであるのだが、個人様式や時代様式の一要素にすぎず、様式を比較する上での全てではない。作曲技法というものは、動機あるいは主題がどのように構成され、どのように展開されているのか、という視点だけでは語れない。特に本論では交響曲を比較対象としているので、管弦楽法なども当然作曲技法の一部として比較の対象となる。また、ベートーヴェンとハイドンを取り巻く環境の違いが、それぞれの作品にどう反映しているのかも比較の対象になるだろう。

比較は、双方から一作品ずつを選んで行うのではなく、複数の作品を通して以下の項目を中心に行う。

①作曲背景 ②構成 ③書法(表現・表出方法及び管弦楽法)④その他特徴ある項目

(2)作曲背景

音楽作品(に限らず芸術)が生み出されるには必ず、作者の置かれた環境が何らかの作用を起こしているものである。まず、双方の交響曲の作曲背景を比較することが有効であろう。

ベートーヴェンは、最初の交響曲を1800年、つまり30歳の年に完成させている。18世紀の作曲家としては比較的遅い「交響曲デビュー」であるのだが、彼はすでに自立した作曲家として名を成していた。最初の交響曲のみならず、生前残した9曲全てが、自らの意思、創作意欲に基づいて書かれており、義務付けられた、あるいは注文されて書いたものはない。またこの時代は、音楽の享受が広く市民一般に広がっていたことも見逃せない事実である。

さらに、この時期はすでに聴覚障害の徴候が現われており、肉体的・心理的苦痛を感じていたことや、フランス革命の勃発と収束、それに伴う大きな社会変動の波が、その後の創作活動に大きく作用していることはよく知られている。

遡って、ハイドンである。彼は、27歳の年(1759年)に最初の交響曲を書いており、やはり交響曲作曲家としては遅いスタートである。その2年後、彼はエステルハージ侯爵家の宮廷副楽長に就任(1766年に楽長)、長きにわたって雇い主の要望を満たすための作品を書いたのである。もちろん、ハイドンは書きたいと思うものを書いたのではあるが、演奏される場所(それによって楽器編成がほぼ決まっている)や聴衆の趣味や質などの条件に合わせる必要があった

自由な職業音楽家として世に出たベートーヴェンと、貴族のお雇い音楽家であったハイドン。それぞれ30歳前後の時代は、交響曲を作曲することの意味自体が違っていたのかもしれない。

ただし、ハイドンにおいては1780年代以降エステルハージ侯爵家以外のために書く機会が増えていることは見逃せない。

(3)構成

ハイドンが交響曲を書き始めた時代は、まだ交響曲というジャンルが確立するにいたってなったと考えることができる。もちろん、ハイドン自身もその書法を確立していたわけではない。当時の交響曲のありようを正確に反映しているかのように、さまざまな楽章構成を示していることに目をひかれる。もともと独学・独習の人であったハイドンが、大バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルの交響曲から多くを学んだことからも分かるように、当時の彼の交響曲には、三楽章で構成されているものが多い。しかし、ウィーン音楽界の先任者であるモンや、マンハイムのシュターミッツが交響曲に導入したメヌエットを取り入れ、四楽章構成の交響曲(例えば、『交響曲第3番』や『第5~8番』など)を試みるなど模索していたと思われる。

ベートーヴェンの場合、交響曲の基本的な設計はハイドンやモーツァルトが確立していたので、新しい形式を生み出したというわけではない。最初の交響曲をメヌエット付きの四楽章構成で作曲するなど先任者の影響がはっきりと見てとれる。その後、『交響曲第2番』、『第3番(英雄)』では、メヌエットがスケルツォへと変化していくことになるが、当時のベートーヴェンはハイドンが1770年代に入って確立した骨組みの中で交響曲を書き始め、独自の発展を見せるにいたったことが分かる。

(4)書法(表現・表出方法及び管弦楽法)

歴史に名を残すどのような作曲家でも、先任者の影響を何かしら受けているものであるし、先任者を模倣することから学習を始めることが多い。

ベートーヴェンが、ハイドンの教えのもとで「モーツァルトの精神」を学ぼうとしたことはよく知られている。彼らの関係は決して幸せなものとは言えなかったようであるが(それはベートーヴェンの人間性によるところが大きいようであるが、社会的、知的政治的な見解の違い、つまるところ、埋めがたい世代の断絶といえる)、交響曲を作曲するようになるまでの過程でベートーヴェンが、「モーツァルトの精神」のみならず、ハイドン自身からも多くを学んだことは紛れもない事実だ(たとえ、後の作品に与えた影響の大きさは別にしても)。

ベートーヴェンが、ハイドンの骨組みの中で交響曲を書き始めたことは先に述べたとおりであるが、当時の多くの意見にも見られるように、最初の交響曲は聴衆を挑発するほどの印象を残してはいない。しかし彼特有の特徴もいくらか見て取れる。特にリズムの推進力と活力は、その後の彼の作品に特有のものであるが、それを顕著に示しているのがダイナミクス・レンジの拡大である。ハイドンがエステルハージ侯爵家に仕え始めた時期に書いたと思われる『交響曲第6番(朝)』と比較してみよう。

ハイドンの場合、ppを用いているのは、第1楽章と第3楽章でわずかであり、ffにいたっては、第1楽章の序奏部で一度用いてるだけであり、pとfの対比に終始している。この強弱の対比は、ハイドンの音楽的本質とされる「自然さ」や「歓喜」といったもの(それは、彼が影響をうけたマンハイム楽派の特徴や己の置かれた環境によるものであるが)と、なおも時代に影響を残していたバロック的・協奏的要素とを混合することに成功している例と考えられるが、ベートーヴェンのそれは、ハイドンの場合と全く違う。ベートーヴェンにおける強弱の対比は、個人感情の直接的な表現である。ハイドンに比して多用されるクレッシェンドや、アクセント(sf)も同様であろう(すでにベートーヴェンは、交響曲に限らず、ppから ffに及ぶダイナミクス・レンジで作品を書いていた)。こうした点だけをとってみても、ベートーヴェンとハイドンそれぞれが30歳期を過ごした時代様式の違いは明らかである。

ベートーヴェンの交響曲でダイナミクス・レンジが拡大した要因のひとつに、オーケストラの規模の拡大(30数名)がある。オーケストラの規模の拡大は、ダイナミクス・レンジの拡大のみならず、音域の拡大をも意味しているといっていいだろう。ただし、この拡大は、ハイドンやモーツァルトに比して、ということであり、ベートーヴェンが確立し発展させたものとは言い難い。また、彼が、自らの意思によって使用する楽器を決定できたのに対して、同年齢期のハイドンは、仕えていたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団の編成(25名程度)に合わせて作曲する必要があった。このことは、個人様式、時代様式を比較する上でも重要だろう。

主な違いは、クラリネット、トランペット、ティンパニーをベートーヴェンは常に用いていることである。またフルートとファゴットについては、ハイドンも使用していないわけではないが、ごく限られている(『交響曲第6番~9番』など)し、トランペットやティンパニーにいたっては使われる機会が更に少ない。ハイドンがクラリネットを初めて使ったのは、『ロンドン交響曲』集(1791〜95年)である。

オーケストラ規模、編成という外面的な違い以上に、その扱い方の違いが非常に重要である。

ハイドンの場合、先に述べた『交響曲第6番(朝)』に顕著なように、種々の楽器が容易に聞き分けられるような、明瞭、透明なオーケストラのテクスチュアを用いている。特にフルートは、バロック期のコンチェルトの如くオーケストラと対話する。

対してベートーヴェン。彼の興味は種々の楽器を組み合わせて大きな音色の混合物を形成することにあったように推測できる。管楽器の種類が増えているにも関わらず、ハイドンのようにそれぞれがソロでオーケストラと対話することはほとんどない(それだけに、『交響曲第3番(英雄)』の第2楽章に聴くオーボエのソロがより深く印象づけられる、とも言える)。

ベートーヴェンの管楽器の扱い方は、しばしば批判の的となったようであり、『交響曲第1番』や『第2番』においてさえ、そうした対象となった。しかし、自らの意思、創作意欲に基づいて交響曲を書くベートーヴェンにとっては、批判を受け入れるよりも、その時に好きなやり方で自由に創作し、言いたいことを表現することの方が当然であっただけなのだ。

オーケストラの扱いでもうひとつ特徴的なのは、通奏低音(チェンバロ)である。ある記録では、ベートーヴェンの『交響曲第1番』や『第2番』の初演時にもチェンバロが使用されたとのことであるが、すでに必要ないものとなっていた。ハイドンの時代は、まだチェンバロで和声を補うことが一般的であったと言われている(初期からチェンバロは使われていなかったとする研究もある)。

ちなみに、ハイドンが初めて40名を超えるオーケストラを使ったのが後期の交響曲、『ロンドン交響曲』集(1791〜95年)であることも頭に入れておきたい。

さて、ベートーヴェンとハイドンを比較する際、「ソナタ形式」ということに触れないわけにはいかない。もちろん、先に述べたように比較する要素としてはそれが全てではない。30歳前後のハイドンはまだ、変化と緊張を生み出す「完成されたソナタ形式」にはいたっていないし、同年齢期のベートーヴェンが「完成されたソナタ形式」を更に高めていったという事実を述べるだけで十分であろう。ただ、様式上の違いではなく、共通点が見えるのは興味深い。

例えば、ベートーヴェンの『交響曲第3番(英雄)』の第1楽章は、主和音を上下するだけの単純な旋律に基づいている。主題というよりは、むしろ動機といった方がふさわしいかもしれない。単に美しい主題ではなく、彼は展開しやすく簡潔な、かつ音楽的発展に耐えうる性質の主題を書くことに力を注ぐようになったのであるが(『交響曲第1番』の第1楽章ですでにそうした傾向は見え始めている)、先に述べたハイドンの『交響曲第6番(朝)』の第1楽章においても、フルートにより提示される第1主題は主和音を上下する単純な動きから始まっている。同時期の彼の他の交響曲にも見られる傾向ではあるが、緊密に結合された規則的な楽句や短い旋律様式という古典主義音楽特有の様式には到達しているとは言えず、当然その主題を展開するまでにはいたっていない。「ソナタ形式」が比較要素の全てではないとは述べたものの、両者において交響曲を作曲する意味自体が違っていることは、こうした「ソナタ形式」における主題(あるいは動機)の扱いや考え方からも見てとれるのである。

(5)その他特徴ある項目

それまでの時代にも、表題が付けられた交響曲がなかったわけでもないのだろうが、これまでに述べた『交響曲第6番(朝)』だけでなく『交響曲第7番』や『第8番』にも、それぞれ「昼」、「夜」という表題がフランス語でつけられており、ハイドンフランスのロココ様式に強い関心を持っていたことが示されている。また、主題の展開が見られない代わりに、ロココ風の反復が優勢である。恐らく、こうした反復では何らかの変化をつけて演奏していたのではないかと思われる。

片やベートーヴェン。彼の交響曲、特に第1楽章の「ソナタ形式」における反復は、提示部にのみでありハイドンの交響曲における反復とは意味合いが全く違うものとなっている。今日ではその反復を省いて演奏されることが多いが、当時にあっては、提示部を反復し主題を聴衆に印象付けることで、その後の展開、再現でより劇的な効果を挙げる意味合いもあったのではないかと思われるし、楽章の均衡を保つ意味合いもあったのかもしれない。

ハイドンのロココへの関心が、作品に大きく反映しているのと同等ではないが、ベートーヴェンが違う世界の音楽に関心がなかったわけではない。その当時人気のあった「トルコ軍楽」(彼は30歳前後の時期に、トルコ音楽のスタイルで管楽合奏曲を多く書いている)を『交響曲第3番(英雄)』の第4楽章で用いている(その後、『アテネの廃墟』や『交響曲第9番』の第4楽章でも使用していることはあまりにも有名)。ただし、ハイドンも「トルコ軍楽」のスタイルを『交響曲第100番(軍隊)』(1793〜94)の第2楽章で取り入れている。有名なモーツァルトの『トルコ行進曲』という先例もあるように、「トルコ軍楽」を取り入れること自体はベートーヴェンのオリジナルというわけではないのだ。しかし、ベートーヴェンにあっては、単なる異国趣味に終わっておらず、自家薬籠中のものとなって昇華されている。

和声に関しては、ハイドンにおいては「節度」という観点から、当時の厳格な規則に従うかのように不協和音の使用が抑制されているのに対し、ベートーヴェンには、時に聴衆の不意を突くような不協和音の使用や、調性を保持しながらも遠隔調を導入するなど、独自の和声を確立している。最も分かりやすい例をあげるなら、『交響曲第1番』の冒頭で、下属調の属七の和音を響かせ、「ひとつの作品は主和音で始めなければならない」という規則を打ち破ったことである。

4.まとめ

30歳前後のベートーヴェンの交響曲を、同年齢期のハイドンのそれと比較してきたのであるが、ひとつ面白いことに気づくことになった。ハイドンの様式の変遷を併せて見ることになったのだ。それは、とりもなおさず18世紀の音楽の変遷である。

ハイドンがエステルハージ侯爵家の宮廷副楽長に就任した時代は、「絶対主義」と「啓蒙思想」という、本質的に相容れない二大勢力の間に横たわるギャップを埋めようと様々な試みが行われた時代であった。利害の相反する勢力の激しい激突と、近代的な市民社会を生み出すための過渡期的な性格は、音楽芸術をも転換させたといっていいだろう(特に大バッハの死の年にあたる1750年から1780年にかけてのわずか30年)。

君主や教会の絶対性を象徴していた音楽は、やがて世俗権力(すなわち宮廷)との結びつきを強め、華やかでわかりやすく(ロココ様式/ポリフォニックからホモフォニックへの大転換)、現世的・享楽的な社交芸術としての傾向を強める。ハイドンの30歳期はまさにここにあたる。市民階層の台頭は、不特定多数の市民こそが、来るべき時代の中心的な存在であることを明らかにし、音楽がもはや貴族の専有物ではなくなったことをも意味した。華麗さや上品さが影をひそめ、誠実さや道徳性といったものが、次第に音楽作品の中で強調される傾向が強まっていく(多感様式)。

つまり、音楽芸術の転換に際して見られる急激な表現方法の変化は、音楽を享受し、支える層が、教会から宮廷へ、そして貴族層から市民層へ移っていったことに起因するといっていいだろう。

ハイドンは、こうした変遷に大きく影響を受けながら多種多様な音楽を創造したのだが、そこには、ロココ芸術の衰退から、民衆的な表現の台頭を見ることができるのである。当時の支配的スローガン「自然へ帰れ」を音楽において実証したといえる。

ベートーヴェンは確かにハイドンから音楽的な影響を受けたし、フランス革命に端を発した市民階層の台頭を肌で感じていた。彼は貴族のために作品を書いたのではないが、多くを貴族に献呈している。その点では、音楽はまだ決定的に市民階層を基盤にしていたわけではない。自立した自由な音楽家、芸術家であることを主張し、創作するには、まだ市民階層のみを基盤にするだけでは成り立たなかったのかもしれない。しかし、明らかに彼は、後継者だけでなく社会全般に大きな影響を与えたといっていい。

さまざまな考察をしたが、実はベートーヴェンが何か「新しい」ものを生み出したというわけではない、ということも明らかになった。交響曲を作る「きっかけ」もすでに変容しており、例えば、オーケストラの編成(使用する楽器)の拡大にしても、異国の音楽の使用にしても、ベートーヴェンが初めて交響曲を作曲する30歳前後の時期にはすでに試みられていたのであるから。

それでも、ベートーヴェンが新たな「時代様式」の出発点となったことだけは確かだ。

彼、あるいは彼の作品が後進だけでなく社会全般に与えた影響や、今日まで如何様にも語られ、また研究され続けていることからもそれは分かる。

音楽(に限らず芸術)は、もともと人間生活の中で生まれ、人間生活を取り巻くあらゆる環境(自然環境及び社会環境)の支配や影響を受けて変化していくものであり、その変化した音楽が、新しい人間生活を支配し、影響を与えていくことだけは確かであるし、そうした観点から今後も語られていくに違いない。