Skip to content

三拍子の話 〜第6回〜


キルンベルガーの「拍節」に関する記述には、「韻律」という言葉が頻繁に使われているし、「リズム」に関する記述にも、

楽曲のリズムは抒情詩の韻文化とよく似ている。(中略)抒情詩ではよい韻文化が極めて重要であるのとまったく同じように、旋律でも、リズムはきわめて重要な要素である。

とあるように、音楽が本質的に言葉と対応していること示しているように思う(アーノンクールもそのようなことを言っている)。


「拍節」の強弱を詩の韻律に結びつけるという考え方は、(時代は少し進むが)「コールユーブンゲン」にも見ることができる。

著者のフランツ・ヴュルナーは、小節の二等分(つまり二拍子)および三等分(三拍子に相当)を、それぞれ詩の韻律の「トロへウス」(強弱格)、「ダクティルス」(強弱弱格)と同様であるとし、こうしたアクセントがなければ、等しい長さの音が連続する場合に、それが二等分なのか三等分なのかが聴者には区別ができないであろう、説く。

ひとつの考え方としては理解できるものの、「拍節リズム」における強弱と詩の韻律を結びつけて論じるのはやや無理があると思わざるを得ないのだ。
言葉(単語)に内在する強弱あるいはアクセントは、音(おん)の長短および高低と密接な関係があるはずだ。しかし、ヴェルナーはその点に全く触れていない。

「(音楽)表現としてのアクセント」を詩の韻律と結び付けて論じているのなら話は分かるのだけれど…。


もう少し、歴史上の音楽家の記述を…。
アマデウスの父、レオポルド・モーツァルトも著書『ヴァイオリン奏法』の中で、「表現のためのアクセント」について述べている。そこで示された「強弱」関係は、現代の「拍節論」におけるアクセントと一致している(「作曲家が特別の指示をしていない限りにおいて」、との但し書きがある)。

ベートーヴェンの弟子で、ピアノの教則本でも知られるカール・ツェルニーの著書『ピアノ演奏の基礎』には、そもそも「拍節リズム」に関する言及がない。
「アクセント(強調)」に関しては、「すべての言葉は長い音節と短い音節からできている(※これは日本語にはない特徴か…/日本語のアクセントは「高低」との関係が強い)」ことを確認した上で、「それが音楽の楽想にも当てはまる」と、あくまでも「表現のためのアクセント」を言葉と結びつけて論じている。

こうして見てくると、「表現のためのアクセント」と「拍節リズム」が、いつの頃からか混同して考えられるようになってしまったのだ、と思わずにはいられなくなる。

コールユーブンゲン 全曲版(No.1~87) フランツ・ヴュルナー著 原田茂生訳編

新品価格
¥990から
(2024/3/12 09:26時点)

レオポルトモーツァルト ヴァイオリン奏法 [新訳版]

新品価格
¥4,180から
(2024/3/12 09:27時点)

ツェルニー ピアノ演奏の基礎

中古価格
¥29,979から
(2024/3/12 09:29時点)


「第7回」につづく

「第5回」にもどる



← back

Published incolmn / essay