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三拍子の話 〜第5回〜


先(第4回)に触れた「日本人独特の感覚」という点でひとつ付け加えておく。

幼い頃から触れる音楽の幅が、私のような世代からすると本当に多様になってきた。
しかし、新たに生み出される作品には、やはり、「日本人独特の感覚」が色濃く現れているものだ。
近年の(ポップス系の)ヒット曲、例えば星野源の曲や今こどもたちの間でもヒットしている米津玄師の『パプリカ』などは、その旋律の構造を見れば、ほぼ「ヨナ抜き」なのだ。
う〜ん、日本的…? ただ、それを「日本的」と感じながら聴く人、歌う人はどれほどいるだろうか、という疑問は残るのだ。
ご本人たちは作曲する上で、「日本人」であることを強く意識したわけではないと思う(もちろん、「日本人」だからこそ書けるメロディ、という面はある)。
しかし、意識はしていなくとも、それぞれの音楽経験や持って生まれた感覚、風土や言語、環境(これには「教育」も当然含まれる)から多分に影響を受けているのだ、と思わずにはいられないのだ。


さて、「拍節リズム」の話に戻ろう。

ここまで書いてきた中で、私なりにクリアにしておきたいのは次の点だ。
つまり、「拍節」における(規則化された)強弱の関係は人間の持つ感覚とは相容れないものなのではないか、ということ。そして、私たちは何の疑問もなく拍節の「強弱関係」を取り入れようとして、却って窮屈な思いをしているのではないか、ということ。

これをクリアしないことには「三拍子」の話に戻れそうもない…。

ニコラウス・アーノンクールが著書『古楽とは何か − 言語としての音楽』の中で興味深い指摘をしている。

①バロック音楽においては、当時の生活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。それは、フランス革命以降ほとんど存在しない。
②音符にも「高貴なもの(良い音符)」と「卑しい(悪い音符)」があった。
③尊卑の観念はもちろん強調と関係する。
④この図式は拡大され、小節群や全曲にも当てはめられた。また縮小もされた。

アーノンクールは、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」、「単調ほど完全に反バロック的な概念はない」と言っている。

ここでアーノンクールが示した「強弱」の関係は、現代の「拍節論」におけるアクセントと一致するものの、あくまでも「表現」としての「強弱」関係と言っていいだろう。

大バッハの弟子で、その作曲技法の集大成とも言える『純正作曲の技法』を著した理論家ヨハン・フィリップ・キルンベルガーは、既述の(音楽心理学上の)グルーピング(群化)にも言及しつつ、「アクセントの正確な周期的回帰」により旋律が韻律なり拍節を獲得する、と説いているが、このグルーピングについて見逃せない記述がひとつあるのだ。

各グループの第1鼓動にアクセントをつけたり、第1鼓動は他の鼓動より強く聞こえるように思ったりするのである。

「強く聞こえるように思う」…

どうも、これが「拍節リズム」(あるいは拍節におけるアクセント)、の正体なのでは、と思えなくもない…。

「三拍子」の話が、「拍節リズム」の話にまで広がってしまったが、もう少しお付き合いのほどを。

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Published in三拍子の話