相田みつをの書いた文字のひとつひとつは、見事な「表情」を持っている。
勿論、書かれている言葉にも味があるけど。
しかし、もしこれが、活字で印刷されただけの言葉だったら…。
私も普段は、きちんと印刷された楽譜を使っているし、作品も最終的にはパソコンで浄書している。
楽譜というものは便利だが、実に厄介で、かつ不完全なもの。
作曲や編曲で五線紙(あるいはPC)に向かっている時、私は(私だけじゃないと思う)当然のことながら、「このような演奏をしてもらいたい」という理想像を浮かべている。
それは、響であったり、強弱であったり、抑揚であったり…(時には、演奏していただく演奏者の顔が浮かんで、「こんな難しいこと書いて…!!」と言われてるような気分も味わうが…笑)。
しかし、楽譜に用いる一般的な記号だけではそれらを表しきれないのが現実。
例えば「フォルテ」とか「ピアノ」という、所謂強弱を表す記号。
どの位強くするのか、どの位弱めるのかは最終的に演奏者に委ねるしかない。
記号に対する強弱の感覚って、やはり人によって様々だと思う。
それから「スタッカート」や「フェルマータ」。
どの位短く?どの位延ばしたら?
やはり、これも演奏者に委ねるしかない。
(余談ながら、「スタッカート」や「フェルマータ」は、「奏法」のための記号と思われているようだが、「表情」記号だと私は思っている。)
この不完全極まりない「楽譜」という代物、奏法や表現が多様化したこともあり、現在ではいろいろな記譜法も考えられているが、現実。一般化しきれていないように思う。
私自身は、楽譜の持つある種の曖昧さが演奏者のイマジネーションを広げるものだと考えている。
作曲家の中には、自分の理想通りに再現されることを求める方もいらっしゃるようだが、私は、自分が思ってもみなかった演奏に出会う方が好きである(「適当(いいかげん)」な演奏でなければ)。
じゃあ、演奏する立場から見ると…
「楽譜」の持つ曖昧さに苦労することは確かにある!!
ただ、私も楽譜を作る身、作る人の苦労もわかっている(つもり)だから、それ以上のコメントは控えておきます…。
先日、片付けものをしている際、以前書いた(箸にも棒にもかからない…)作品の手稿(手書きの楽譜)を久しぶりに眺めた。
当時を思い出したりして何だか懐かしいやら、面白いやら。
印刷されたものや、PCで制作したものとは違う表情があって、それはそれでいいものだなぁと。
有名作曲家の古い手稿というのも結構残っていて、私はそこに、既述の相田みつを「書」を見るような思いを以前したものだ。
楽譜にだって「表情」があってもいいんじゃないのかな…?
「たまには手書きに戻ってみるか」と思いつつも、PCでの楽譜制作にに慣れてしまった私。いっそのこと、(楽譜に表情をつける)新しい方法でも考えてみますか…。
そんなことより、音楽の中身ですよね、問題は…。
(2006年)
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