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タグ: ピアノ

「技術などいらないんですよ…」/ケンプ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ選集

ソナタ 第8番 「悲愴」
ソナタ 第14番 「月光」
ソナタ 第21番 「ヴァルトシュタイン」 
ソナタ 第23番 「熱情」

ヴィルヘルム・ケンプ (ピアノ)

ヴィルヘルム・ケンプ (1895-1991) といえば、20世紀を代表する名演奏家のひとり。バッハからベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに至るドイツ音楽を得意とし高い評価を受けた。

現代では完璧な技巧による庇護のない演奏が求められる傾向にあるように思うが、ケンプは技巧よりも即興的なファンタジー、精神性を重んじる演奏スタイル。深い精神性にえ、あふれる高揚感、視野の広い楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作…。そんな彼のスタイルは、フルトヴェングラーと少なからず共通する所があるようで、実際フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中も、特にケンプに深い関心と理解とを示したと伝えられている。

ただ、その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だったが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあったようだ。

彼は自身を「作曲家」として捉えていたようで、若い頃は技巧的な練習に熱心に励むことはなかったという。

第2次大戦後、一時演奏禁止になったことで、逆に技巧的な弱さをある程度克服することができたと言われている。

彼は、きっと己の技巧的な弱さを知っていたのだ。己の弱さに真摯に向かう姿勢を持ち続けた(と思われる)彼の演奏に時々耳を傾けたくなる。

そのケンプ、こんな言葉を残している。

「技術などいらないんですよ。肝心なのは、ちょうどその時に、ちょうどの鍵盤を押す、ということなんですから。」

それが技術なんだと…。
己の弱さを克服したからこそ口にできる言葉だろう。

(2011年)

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フーガ/風雅

バーラミ・プレイズ・バッハ(6枚組)
ラミン・バーラミ(ピアノ)
【CD 2】
フーガの技法 BWV 1080

大「バッハ」の残した傑作のひとつ、『フーガの技法』
文字通り、バッハが「フーガの技法」をとことん突き詰めた作品集だ。

その中の未完の一曲(『フーガの技法』とは関係なく作曲されていたのではないか、という研究もある)に、バッハは自らの名前を堂々音符で書き込んでいる(ただし、それを意図していたのかどうかは…)

この曲の第3主題として登場する。

(変ロ)-A()-C()-H()

と、いうわけだ(カッコ内は日本音名)。
この主題が登場した後、フーガは終止線が引かれぬまま…。

現在では、こうして人の名前などを音名に当てはめてテーマを創る技法は普通に行われているが当時からそのようなことが行われていたとは…、さすが大「バッハ」だ。

未完というのが何ともミステリアスだったりもするが、まさに音楽に、楽譜に命を吹き込んだ、というわけだ…。なんとも「風雅」だ。

大「バッハ」に魅せられ、
B(変ロ)-A(イ)-C(ハ)-H(ロ)という主題を独自の技法で展開させた作曲家が数多く出た(そうした作品を集めたCDのあるようだ)ことからも彼の偉大さがわかる気がする。

もっとも、この音型、音高は全音分低いAs(変イ)-G(ト)-B(変ロ)-A(イ)だがバッハの別の作品で見ることができる。『組曲へ短調 BVW823』の第2曲目、かなり耳に残る使われ方だ(音型の前に一音加わっているし、主題的な要素ではないのだが)。

件の箇所、おわかりいただけるだろうか?

そう、耳に残る、といえばショスタコーヴィチが『交響曲第10番』や『弦楽四重奏曲第8番』に織り込んだD(ニ)-S(=Es/変ホ)-C(ハ)-H(ロ)という音型、これも自らの名前から導き出したものだが、比較的狭い音域での半音階的な進行は、どこかバッハと共通するものを感じる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』に倣った、『24の前奏曲とフーガ』という作品があるようにショスタコーヴィチがバッハから受けた影響は小さくない。こうした音型を作品に用いることも必然だったのか…?

(2011年)

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楽譜の「表情」

相田みつをの書いた文字のひとつひとつは、見事な「表情」を持っている。

勿論、書かれている言葉にも味があるけど。

しかし、もしこれが、活字で印刷されただけの言葉だったら…。

私も普段は、きちんと印刷された楽譜を使っているし、作品も最終的にはパソコンで浄書している。

楽譜というものは便利だが、実に厄介で、かつ不完全なもの。

作曲や編曲で五線紙(あるいはPC)に向かっている時、私は(私だけじゃないと思う)当然のことながら、「このような演奏をしてもらいたい」という理想像を浮かべている。

それは、響であったり、強弱であったり、抑揚であったり…(時には、演奏していただく演奏者の顔が浮かんで、「こんな難しいこと書いて…!!」と言われてるような気分も味わうが…笑)。

しかし、楽譜に用いる一般的な記号だけではそれらを表しきれないのが現実。

例えば「フォルテ」とか「ピアノ」という、所謂強弱を表す記号。

どの位強くするのか、どの位弱めるのかは最終的に演奏者に委ねるしかない。

記号に対する強弱の感覚って、やはり人によって様々だと思う。

それから「スタッカート」や「フェルマータ」。

どの位短く?どの位延ばしたら?

やはり、これも演奏者に委ねるしかない。

(余談ながら、「スタッカート」や「フェルマータ」は、「奏法」のための記号と思われているようだが、「表情」記号だと私は思っている。)

この不完全極まりない「楽譜」という代物、奏法や表現が多様化したこともあり、現在ではいろいろな記譜法も考えられているが、現実。一般化しきれていないように思う。

私自身は、楽譜の持つある種の曖昧さが演奏者のイマジネーションを広げるものだと考えている。

作曲家の中には、自分の理想通りに再現されることを求める方もいらっしゃるようだが、私は、自分が思ってもみなかった演奏に出会う方が好きである(「適当(いいかげん)」な演奏でなければ)。

じゃあ、演奏する立場から見ると…

「楽譜」の持つ曖昧さに苦労することは確かにある!!

ただ、私も楽譜を作る身、作る人の苦労もわかっている(つもり)だから、それ以上のコメントは控えておきます…。

先日、片付けものをしている際、以前書いた(箸にも棒にもかからない…)作品の手稿(手書きの楽譜)を久しぶりに眺めた。

当時を思い出したりして何だか懐かしいやら、面白いやら。

印刷されたものや、PCで制作したものとは違う表情があって、それはそれでいいものだなぁと。

有名作曲家の古い手稿というのも結構残っていて、私はそこに、既述の相田みつを「書」を見るような思いを以前したものだ。

楽譜にだって「表情」があってもいいんじゃないのかな…?

「たまには手書きに戻ってみるか」と思いつつも、PCでの楽譜制作にに慣れてしまった私。いっそのこと、(楽譜に表情をつける)新しい方法でも考えてみますか…。

そんなことより、音楽の中身ですよね、問題は…。

(2006年)

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