Skip to content

タグ: 音楽

音楽は強くもあり弱くもある(2)


(2022年3月10日)

先日(2月25日)自作が出版されたことを投稿した際、「音楽は強くもあり弱くもある」と私は書きました。(参照/https://in-just-music.com/archives/2511)

音楽は置かれた環境によっては全く違う意味を持たされてしまうことがあるのです。

私くらいの世代なら覚えている方もいるでしょうが、随分前にシュワルツェネッガーを起用した栄養剤のコマーシャル、「♪ちー・ちーん・ぷい・ぷい」とコミカルに演出されていました。コマーシャルの意図するところは、「ちちんぷいぷい!とおまじないのように疲れが和らぐ」といったものだと思うのですがが、何せ、使われている音楽そのものが、「ちちんぷいぷい」とおまじないにかかって、全く別の姿に変わってしまったのですから。

そこで使用されていた音楽は、ショスタコーヴィチが1941年に作曲した『交響曲第7番“レニングラード”』、その第1楽章でラヴェルの『ボレロ』よろしく、繰り返し流れるメロディです。ご存知の方も多いでしょうが、この『レニングラード』という曲は、作曲年を見ても分かる通り、第二次世界大戦の最中、独ソ戦争の最大のドラマのひとつとなったレニングラード攻防戦が背景となって作られたものです。あのコマーシャルのようなコミカルさとは無縁です。クラシック音楽とあまり縁のない皆さんはきっと、そのコマーシャルのために作られた音楽としか思わなかったでしょうね…。

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

新品価格
¥2,420から
(2024/3/25 22:56時点)

ショスタコーヴィチ:交響曲第1番、第7番《レニングラード》 (初回限定盤)(UHQCD)(2枚組)

新品価格
¥2,750から
(2024/3/25 23:02時点)

音楽は作られた当時の社会状況や環境などを(時には作曲者が意図せずとも)反映するものだ、と私は考えていたのですが、この時初めて「音楽そのものは、置かれる状況によっては作者が全く意図しない方向に変化してしまうこともあるのだ」ということを実感しました。そういう意味では、「ちちんぷいぷい」と音楽におまじないをかけてしまうマスメディア(マスコミ)の力恐るべし、と言うべきか…。

この数週間、音楽芸術を巡る動きも良くない意味で活発…

「音楽の強さと弱さ」を改めて感じています。

そして、私たち自身も「ちちんぷいぷい」とおまじないにかけられないよう向き合っていきたいものです。


そう、私は最近オネゲルの『交響曲第5番“三つのレ”』(1950年作曲)に耳を傾けることがあります。私はまだ生を受けていない時代に生まれた作品なのですが、米ソ冷戦の時代を反映しているように思われ(オネゲルがそれを意識したかどうかは分かりませんが、自身の体調も優れなかったこともあってか、世界の先行きについて悲観的な見方をしていたのは確かです)、最近の動向と重なるように思えるのです。

ミヨー:劇音楽《コエフォール》/オネゲル:交響曲第5番《3つのレ》/ルーセル:バレエ《バッカスとアリアーヌ》第2組曲 (SHM-CD)

新品価格
¥1,650から
(2024/3/25 23:06時点)

Shadow of Stalin – Ligeti: Concert Romanesc / Husa: Music for Prague / Lutoslawski: Concerto for Orchestra (DG Concerts LA 2006/2007)

新品価格
¥1,900から
(2024/3/25 23:09時点)

音楽は歴史の証言者になり得る」と言ってもいいでしょう。そこにこそ音楽の「強さ」があるのだとも思っています。
(そもそも、芸術は庶民と権力者とのある種「対話」、という側面があると私は思っています。異論はあるかもしれませんが、私たちが意図せずとも「政治的」な一面は持ち合わている。だからと言って「政治的」に利用されるのはごめんです!)

『交響曲第5番“三つのレ”』然り、フサの『プラハ1968年のための音楽』然り、ショスタコーヴィチ然り…こうした作品がもう生まれてこないで済むような世界に…。

だからこそ、こうした作品を通して歴史を振り返ることを忘れてはならないのではないか、とも思ったり…。

ちなみに、今日3月10日はオネゲルの誕生日(1892年)。



←【in Just】TOP

オネゲルとカザルス


(2022年3月2日)

カザルスが同時代の作曲家オネゲルについて「これぞ音楽の理想と言えるものに忠実だ」といった発言をしている。「因習に囚われすぎず、かといって現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」というのがカザルスのオネゲル評だ。
(チェロ奏者でカザルスの弟子でもあったジュリアン・ロイド=ウェッバーが編纂したカザルスの言葉をまとめた文庫本に出ていた。残念なながらその本が今手元にないので、私は記憶で書いている。若干表現が異なるかもしれない。)


カザルスとオネゲルの関係をネット上で探ってみたが、カザルスがチェロ奏者としてオネゲル作品と向き合った記録は見つけることができなかった。

指揮者カザルスは故郷カタロニアでパウ・カザルス管弦楽団を組織し活動していた時期にオネゲル作品を取り上げたことがあるようだ。おそらく1920年代から彼が(スペイン内戦のため)フランスへ亡命するまでの間のことだろう。

ともにパリの「エコール・ノルマル」で教鞭をとったことがあるため、関係は深からずとも決して浅くはなかったに違いない。

パブロ・カザルス:奇跡の旋律 (「知の再発見」双書164)

新品価格
¥1,760から
(2024/3/11 10:33時点)

カザルスとの対話 新装版

新品価格
¥3,520から
(2024/3/11 10:35時点)

具体的にカザルスがオネゲルのどの作品を指揮したのか、どのような作品について「これぞ音楽の理想と言えるもの」と語ったのかまではまだ調べ尽くしていないのだが、上述の期間から考えるに、初期の作品ということになろう。

ニガモンの歌(1917年)
交響詩『夏の牧歌』(1920年)
交響的黙劇『勝利のオラース』(1920年)
喜びの歌(1923年)
『テンペスト』のための前奏曲(1923年)
交響的運動第1番『パシフィック231』(1923年)
ピアノ小協奏曲(1924年)
交響的運動第2番『ラグビー』(1928年)
チェロ協奏曲(1929年)
交響曲第1番(1930年)
交響的運動第3番(1933年)

と、管弦楽作品ならこんなところか…
(チェロ協奏曲を演奏しなかったのだろうか、なんて思ってしまう…)

オネゲル: 管弦楽作品集 (SHM-CD)

新品価格
¥1,650から
(2024/3/11 09:20時点)

Honegger: Symphony No.1 / Dutilleux: No.2

新品価格
¥12,673から
(2024/3/11 09:25時点)

カザルスは同時代の音楽には目も暮れなかったと言われているが、上述のように同時代のオネゲル(カザルスより16歳下)を評価しているし、他にも数人の作曲家の名前を挙げている。しかし、今日ではそのほとんどが見向きもされていない状況にあるのが何とも…


さて、私は学生時代にオネゲルについて調べたり考えたりすることが多かった(研究した、と言い切ることができないのが情けない…)。ひとつ言えることは、オネゲルの音楽に出会ってなければ、創作に対する考え方は違っていたかもしれない、ということ。

だからと言って、私の作品の中に「オネゲルっぽいもの」を探しても無駄だ。
私はオネゲルではないので、「オネゲルっぽいもの」を創ったって意味はない。

加えて言うと、よく「誰々(の○○という作品)に影響を受けて」とか「誰々(の○○という作品)へのオマージュとして」と謳う作品を見聴きするのだが、私にはそれはできない。

とは言え、「オネゲルっぽいもの」を創ろうと試みたことはある。「典礼風交響曲(交響曲第3番)」の第二楽章のようなものを…


構築、主題(動機)の操作といったところが彼の音楽の肝だと思っている。バッハやベートーヴェンからも多くを得ているオネゲルだが、当然、バッハやベートーヴェンの音楽をただなぞるようなことはしていない。

カザルスの言う「因習に囚われすぎていない」と思わせることは、例えば、交響曲第4番「バーゼルの喜び」(カザルスが語ったと思われる初期の作品ではないのだが)にも見ることができる。

第一楽章は序奏付きのソナタ楽章と見る向きは多いが、私は、序奏とされる部分が「提示部」であり、ソナタの開始がすでに大きな「展開部」の開始であると解釈している。そこには、オネゲルの「なぜ、ソナタは主題が二つしかないとされるのですか?」という発言が根底にある。第二楽章はパッサカリアのようでありながら低音主題が分割されたり消えたり、第三楽章におけるポリフォニックな処理…。
オネゲル自身、「要素の点で進歩があり、〜」と述べているほどだ(著書『私は作曲家である』より)。
今日演奏される機会は稀だが、今にして思うと、私は随分影響を受けているかもしれない。

Honegger: Symphonies

新品価格
¥13,323から
(2024/3/11 09:26時点)

カザルスの言った「現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」と思わされる点は、例えば(こちらも初期の作品ではないが)晩年の交響曲第5番「三つのレ」の第二楽章に見ることができる。そこでは冒頭から主題の原形の提示→逆行+反行形→反行形→逆行形と、まるで新ウィーン楽派の「音列」による作曲法のような主題操作。しかしその音列は「十二音」ではない。「旋律性」を重視していたオネゲルにしてみれば、「無調」音楽を否定しないまでも、時代的に(作曲されたのは1950年)この技法を敢えて取り入れることで何らかのメッセージを残そうとしたのではないかと思ってみたり…
(著書(先掲)には、「十二音技法」に対する厳しい意見が述べられている。)

そう思うと、ここからの影響も随分受けているなぁ、と…

しかし、もう一度言う。私の作品の中に「オネゲルっぽいもの」を探しても無駄だ。

わたしは作曲家である(もういちど読みたい9)

中古価格
¥5,890から
(2024/3/11 10:56時点)


シャコンヌ 〜唱歌「砂山」による(クラリネットとピアノのための)

この作品が「Rocky Mountain音楽コンクール」(カナダ/オンライン)で作曲部門(上級/プロフェッショナル)で「第3位」、そして「聴衆賞」を獲得しました。

「聴衆賞」は、作曲部門にエントリーした13名(年齢や、一般、上級/プロフェッショナルなどの区別なく)の作品の中からノルウェーの方、アメリカの方お二人と賞を分け合う結果となりました。

「聴衆賞」というのは意味ある受賞です。

専門家による評価ももちろん大切なのですが、専門家の評価が聴衆の評価とイコールになるとは限りません。私は特定の専門家だけのために創作しているわけではありません。

ですから、一般の聴衆の方々(もちろん、そこには専門家の方や参加者の関係者もいらっしゃるでしょうが)に拙作を受けとめていただいたことは大変光栄です。
投票していただきました皆さま、ありがとうございました。

それこそ私は「因習に囚われすぎず、かといって現代音楽の毒に冒されすぎてもいない」作品だと思っております。

音楽のリパーカッションを求めて: アルチュール・オネゲル〈交響曲第3番典礼風〉創作

新品価格
¥2,420から
(2024/3/11 11:06時点)

鳥の歌~ホワイトハウス・コンサート

新品価格
¥1,443から
(2024/3/11 11:08時点)

(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



←【in Just】TOP

『ディオニソスの祭り』のこと


(2020年11月21日)

 ベートーヴェンの生誕250年の陰に隠れてしまっているが、今年はフローラン・シュミット(Florent Schmitt)の生誕150周年にあたる。吹奏楽に関わる者にとっては避けて通れない作曲家のひとりだ。

 この記念の年を特に意識していたわけではないのだが、私はこの夏から『ディオニソスの祭り(Dionysiaques)』について少し調べていた。

デュラン社版スコアの最初のページ(1925年出版)

 この作品、「ギャルド ・レピュブリケーヌ吹奏楽団のために作曲された」とされている。国内はもとより、海外での認識もほぼそれで通っている。

 この説明(解説)でひとつ引っかかるのが、「ギャルド」がシュミットに委嘱したのか否かがはっきりしないことだ。私はずっと疑問に思っていた。

 シュミットの作品(出版譜)の多くには、タイトルの上か左側に献呈の辞が記されている(これは何もシュミットに限ったことではないだろう)。『ディオニソス』は1913年に作曲されてはいるものの、初演は1925年。その年にデュラン社から出版されているが、特に献呈の辞は記されていない(シュミットの他の管楽作品の出版譜には記されている)。もちろんこれだけで、何か結論が出せるというものではない。

 ちなみに、初演前の1917年にはシュミット自身の手による4手ピアノ版がデュラン社から出版されており、ここには レオン=ポール・ファルグ(Léon-Paul Fargue)という詩人への献呈の辞が記されている。

4手ピアノ(連弾)版(デュラン社版)

 疑問に思う理由がもうひとつあった。

 1973年から1997年まで「ギャルド」の楽長を務めたロジェ・ブートリー(Roger Boutry)のインタービュー記事を読んだ記憶だ。そこにはこう書かれてあった。

「『ディオニソス』はシュミットが全く自発的に書いたもので、演奏が難しいことから「ギャルド」が初演することになった。」(要旨)

 私がこの記事を読んだのはおそらく、高校生から大学生の時期。『バンドジャーナル』誌ではなかったかと思う。『バンドジャーナル』誌はほぼ毎月購読していた。

 「ギャルド」は1984年(私は高校3年生)に2度目の来日を果たした。私の故郷・福岡でも公演があり聴きに行った(会場は、大相撲も開催される「福岡国際センター」)。インタビューが掲載されていたとすれば、この年以降のことだろう(ブートリー在任中に数回来日している)。

 ということで、『バンドジャーナル』誌の赤井淳副編集長に「記事を見ることはできないか?」と、相談してみた。

 赤井副編集長はお忙しい中快く記事を探してくださった。しかし全く見当たらない…。「日本の吹奏楽の生き字引」ともいえる秋山紀夫先生(私も大学時代に随分お世話になった)にまで尋ねてくださったそうだが、秋山先生も、「そのような記事は全く記憶にない」とのこと。
(まさか、違う雑誌だったのか…?それとも私の全くの勘違い…?)
 お手を煩わせてしまったこと、本当に申し訳なく思っている。



 私は思い切って、「ギャルド」に直接尋ねてみることにした。

 フランスでもコロナ感染が続き楽団の活動もままならない中、少し時間はかかったが、丁寧に対応していただいた。

 結論を言うと、「記録が残っていないため解答不能」とのこと(作曲されたのが100年以上前のことだから、それはそれで仕方ない…)。
 ただし、「楽団のために作曲された」との認識ではあるようだ。

 私の疑問は解消されなかったのだが、思わぬ副産物が!

 「ギャルド」が現在使用している『ディオニソス』のパート譜を送ってきてくれたのだ。

 ブートリー体制下で「ギャルド」の編成は大きく変わった(サクソルン族の削減)のだが、それによりどのように楽譜に手が加えられているかを知ることができる。

 それら全てをここで公開することはできないのだが、パートによって、オリジナル(1925年出版)のパート譜を使っていたり、手書きされたものや、コンピューター浄書されたものがあったりと興味深い。スコアはオリジナルのままだという。

 今後時間を作ってじっくり調べてみようと思う。そして、可能な限りホームページの方で紹介できれば、と思っている。

 それにしても、「本家」の「ギャルド」でさえ今やオリジナルの編成で『ディオニソス』を演奏することができない状況にあることには少々寂しさも感じる。しかし、考えてみれば、私たちはバッハやベートーヴェンの作品を現代の楽器で演奏するのが当たり前だ(当時の楽器を使った演奏にも私は魅力を感じるが)。
 吹奏楽がこれからどのような変化を見せるかは正直わからないが、時代の変化に耐えうるだけの内容、価値を『ディオニソス』が持っていることだけは確かだ。大切にしていかねば。

No.410 フローランシュミット ディオニソスの祭り

新品価格
¥1,650から
(2024/3/8 23:38時点)

フローラン・シュミット ユモレスク 作品43 ディオニソスの祭り 作品62 【連弾】

新品価格
¥2,860から
(2024/3/8 23:40時点)

(Facebookへの投稿を一部加筆・修正の上転載しました。)



←【in Just】TOP

「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

←【日々雑感】TOP

ブログランキング・にほんブログ村へ

著作権

数年前、生演奏を売りにしていた東京のスナック経営者が、使用料の不払いを理由に逮捕されたというニュースがあった。

おそらく、「何がいけないの?」と思う方も多かったのではないかと思う。

簡単に言えば、「他人」が作ったもの(音楽)で商売をしていたということ、しかも「無断」で…、ということだ。オリジナルの曲を演奏して商売をするのであれば何ら問題なかったわけだが…

「音楽は誰のものでもない、みんなのものだ!!」と反論される方もいるようだが、よくよく考えてみよう。

もし、自分が作ったものが無断で複製されて商売に使われたら…(これは音楽に限ったことではなく…)

「著作権法」という法律がある。

これは、「もの」を作った人の権利を一定期間守るための法律。それ(作品)が出来上がった時点で「著作権」は発生するのだ。

作品を複製したり、録音したり、販売したりと、それらを決定する権利があるのは「著作権者」(「作った人」、あるいは「作った人」と契約した業者等)なのだ。

しかし、著作権を管理するということは大変なことだ。だから、音楽の場合はJASRACのような管理団体に著作物の管理を委託するわけ…。

もちろん、これは日本国内だけのことではない。著作権に関する国際条約もありJASRACは諸外国の管理団体とも提携しているので、「分からなけりゃ大丈夫」は通用しない。

そもそもお金を出してCDなり楽譜を買ったからといって、音楽そのものが自分のものになったというわけではないのだ(そこを曲解して、「音楽はみんなのものだから…」という人が多い…)。

CDや楽譜の「所有権」と、音楽を利用する権利を同じに考えてはならないのだ。(もちろん、個人的に楽しむ分には何の問題もない。)

どこかの自治体のように、所有する絵画を全部捨ててしまったという問題も、結局、作者に「著作権」があるという意識が全くないことから起こってしまったと思えてならない。

公表されている音楽を利用して商売をするなら、まずは、作った人に対する敬意と感謝を!!
(2006年)

←【日々雑感】TOP

ブログランキング・にほんブログ村へ

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由…

正直言って、個々の分野の素晴らしさを(語弊はあるかもしれないが)半ば感情的に訴えたとしても、どうも今の権力者や国の中枢機関には通じないように思っている。

しかし私は、声をあげていかねばならないと思うし、できる限りのことはしたいと思っている。

国が文化、芸術分野に携わる方々を支えなくてはならない理由を、私は少し違う視点から見ている。

端的に言おう。

国は、音楽や美術(図工)などを学校教育に(「教科」として)取り入れているではないか。

●音や音楽は,「自己のイメージや感情」,「生活や文化」などとの関わりにおいて,意味あるものとして存在している。

●「音楽的な見方・考え方を働かせて学習をすることによって,児童の発達の段階に応じた,「知識及び技能」の習得,「思考力,判断力,表現力等」の育成、「学びに向かう力,人間性等」の涵養が実現していく。このことによって,生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力は育成される。

●音楽的な見方・考え方は,音楽的な見方・考え方を働かせた音楽科の学 習を積み重ることによって広がったり深まったりするなどし,その後の人生に おいても生きて働くものとなる。

●児童の生活や,児童が生活を営む社会の中には,様々な音や音楽が存在し,人々の生活に影響を与えている。したがって,生活や社会の中の音や音楽と豊か に関わる資質・能力を育成することによって,児童がそれらの音や音楽との関わりを自ら築き,生活を豊かにしていくことは,音楽科の大切な役割の一つである。

●生活や社会の中の音や音楽と 豊かに関わることのできる人を育てること,そのことによって心豊かな生活を営むことのできる人を育てること,ひいては,心豊かな生活を営むことのできる社会の実現に寄与することを目指している。

●思いや意図をもって表現したり,音楽を味わって聴いたりする過程において,理解したり考えたりしたこと,音楽を豊かに表現したこと,友達と音や音楽及び言葉によるコミュニケーションを図って交流し共有したり共感したりしたことなどが,自分の生活や自分たちを取り巻く社会とどのように関わり,また,どのような意味があるのかについて意識できるようにすることが大切である。

 いずれも、小学校の「学習指導要領(音楽)」にある記述だ。

人間形成に必要と認めているではないか。音楽教育の必要性を説いているではないか。

 実社会で、あるいは普段の生活の中で活かされてこそ、学校での教育は意味を持つ。これは何も音楽に限ったことではない。「国語」だって「算数」だって。

学校でいろいろと音楽について習ったけど、それを実際に体験できる場、実践できる場がない、というのはどこか矛盾していないだろうか? 

人間形成に必要だとしているのなら、実際に体験できる場、実践できる場、そうした環境を整えること、そうしたフィールドで仕事をする方々を支えることは、国の「義務」だと言ってもいいくらいだ。

 文化、芸術、あるいはエンターテインメントに携わる方々(いわゆる「裏方さん」も含め)を積極的に支援しないということは、自らが定めた学校教育のあり方、考え方を自ら否定することにもなるのだ。

 その理屈で言うなら、ほぼ全ての人が等しく(仕事の種別など関係なく)支援を受けて当然だろう。

※断っておくが、今の状況で文化、芸術の分野にだけ何か特別のことを、と訴えているのではない。あくまでも「等しく」ということだ。

(2020年5月14日)

←【in Just】TOP

ブログランキング・にほんブログ村へ

広島ウインドオーケストラ第47回定期演奏会

今回も示唆に富んだプログラミングだ。

『ダンス!ダンス!ダンス!』とただ楽しむだけではない深い意味が込められているように感じる。その辺りは後述する。

つい通り過ごしてしまいそうなところにある爆心地。未来を語る、考える上で通り過ごすことのできない真実。

実は、今日の広島ウインドオーケストラを聴く意義はこんなところにもある、と思っている。

ということで、今回も演奏会前にここに立ち寄ってみる。

「未来への責任」を自覚するために。

「過ちは 繰返しませぬから」という言葉が重く響く

今こそ、被爆し、多くを失った方々から発せられたこの言葉の意味を考えなければならないのでは…

(2017年5月27日)

さて、今回の広島ウインドオーケストラを聴く意義。

全作品、作曲者が自分の生活基盤を置く国以外に素材を求めている(作曲の動機は別にして)点がとても興味深い(プログラミング・アドバイザーの国塩哲紀さんは、「そこまでは考えなかった。同じ様な感じの曲が続かないよう考えた結果」と仰っていたけど…)。

今回の演奏会の裏テーマ(私が勝手に思っただけだが)、曲目を見ても分かる通り、異文化へのリスペクト(『コリアン・ダンス』のみは作曲者のルーツに迫るもの、かな…)。

音楽に限らず異文化から刺激を受けて、あるいは刺激しあって文化というものはさらに向上し、私たちは人間性を高めているのだ

国同士の争いが絶えない現在、その争いが人間にとってどれだけ無意味なことであるかを今回の演奏から感じることができるか…、それが私なりのテーマだったのだ。

こうしたことを考えることができるのは、広島ウインドオーケストラの演奏会であるからこそ、なのだ。

(2017年5月28日)

←【in Just】TOP

ブログランキング・にほんブログ村へ

ちちんぷいぷい/ショスタコーヴィチ

交響曲第7番「レニングラード」
(D.ショスタコーヴィチ 作曲)
M.ロストロポーヴィチ指揮
ナショナル交響楽団(ワシントン)

かつて、シュワルツェネッガーが、某製薬会社のCMに登場したときに流れてた音楽、覚えている人がどれくらいいるだろうか?

♪ち~ち~ん ぷいっ ぷいっ♪…ってやってた、アレだ。

かなり私には「笑激」的でだったのを覚えている。

きっと、あのCMの意図するところは、「ちちんぷいぷい!とおまじないのように疲れが和らぐ」といったものだと思うのだが、何せ、使われているいる音楽そのものが、「ちちんぷいぷい」とおまじないにかかって、全く別の姿に変わってしまったのだから。

あの曲がもともと純粋なクラシック音楽の作品であることをご存知の方も多いだろう。

ショスターコーヴィッチが1941年に作曲した『交響曲第7番 レニングラード』、その第1楽章でラヴェルの『ボレロ』よろしく、繰り返し流れるメロディだ。

この『レニングラード』という曲は、作曲年を見ても分かる通り、第二次世界大戦の最中、独ソ戦争の最大のドラマのひとつとなったレニングラード攻防戦が背景となって作られたもの。あのCMのようなコミカルさとは無縁だ。

音楽は、作られた当時の社会状況や環境などを(時には作曲者が意図せずとも)反映するものだと考えるのだが、逆に、音楽そのものは、置かれる状況によっては作者が全く意図しない方向に変化してしまうこともあるのだ。

そういう意味では、「ちちんぷいぷい」と音楽におまじないをかけてしまうマスメディアの力恐るべし、と言うべきか…。

ハンガリーの作曲家バルトークが、晩年の作品『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章で、当時話題となっていた『レニングラード』交響曲を嘲笑うかのように件のメロディを引用している。何か予見でもしていたのだろうか…?

(2006年)

スコア ショスタコービッチ 交響曲第7番「レニングラード」ハ長調 作品60 (Zen‐on score)

新品価格
¥1,870から
(2024/3/8 08:27時点)

ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」

新品価格
¥3,054から
(2024/3/10 16:02時点)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

新品価格
¥1,980から
(2024/3/8 08:38時点)

←【in Just】TOP