「拍節」や「小節」、「拍子」、あるいは「リズム」という言葉を定義(少々肩苦しいが…)するのはなかな難しいものだ。
私もここまで随分と曖昧なままで使ってきた。
それぞれが、昔からいろいろと研究され語られてきた。
様々な考え方がある。
どれが正しいとか間違っているなどと言うことも困難だ、正直今の私には。
ただ、これだけ語られていると言うことは、それだけ「拍節」や「リズム」などの問題が音楽の、音楽表現の根幹に関わるからだろうと思う。
この『三拍子の話』に限らず、私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどにこうした「拍節」や「リズム」の問題が大きく関わってくる。
例えば、私の活動の中心になっている吹奏楽のフィールドでは、最近「指南書」的なものが多く出版されている。昨今の部活動を取り巻く状況を鑑みるに、こうした「指南書」の類はとてもよくまとめられていると思う(部活動に特化したノウハウや心構えなどに少々偏りすぎかな、と思うものもあるが…)。
また、吹奏楽コンクールの時期になると、課題曲を中心に、「このように演奏すれば効果的」といった「虎の巻」的な出版物、動画なども出てくる。
これらをもとに勉強し、練習し演奏しても「差」は出てくる。
なぜ…?
もちろん、楽器演奏の技術習得の度合いもあるが、圧倒的な違いは、「指南書」等を活用する以前の下地ができているか否かにある、と思っている。
基本的な「理論」に裏付けられた演奏か否か、と言ってもいい。
「理論」に裏付けられた演奏と言うと、何やら堅苦しく感情を抑えたような演奏と考える人もいるかもしれない。表面上整えられただけの演奏と感じる人もいるだろうが…。
私たちは「文法」を学ぶことなく、言葉を身につけコミュニケーションをとることができるようになった。「文法」を知ることでよりコミュニケーションがとれるようになったのでは…?
(「文法」という言葉には、自分でも拒絶反応が出てしまうけど…。ただでさえヘタクソな文章綴っておいてよく言えたものだ…)
「理論」と「文法」はイコールとは言えないのだが、これらを知ること、身につけることでよりコミュニケーションがとれるようになるのではないか、と思う。
もっとも、自分がどれほどのことができているだろうか…。
「第9回」の最後の方でつぶやいたように、「音楽理論というものは、「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない」。
最終的には、「自分なりの理論・文法」を持つことが必要なのだろう。
ちなみに、「自分なりの理論・文法」をしっかり持っている作曲家の方は、大抵文章も素晴らしいものだ(自分で書いていて耳が痛い…)。
(そのためにも、時代を遡ってみること、振り返ることが大切なのだ。いつの時代もそうなのだが、私たちは常に「過去」と向き合っているはずなのだ。「新しい」音楽が現れたところで、音になってしまえばそればそれは「過去」のものとなってしまう。「過去」と向き合わずして「未来」はない。これは音楽に限ったことではない。)
吹奏楽のフィールドにおける「指南書」的なものの多くは「理論」面にまで踏む込んだものとはいえない(「和声法」や「形式論」などに特化したものはあるけど)し、「音楽表現」に関するところまで踏み込んだものはまずお目にかかれない。
著者(多くは演奏家)それぞれの「理論・文法」があるので、簡単に踏み込むことができないのだ。自らが長年の経験で培ってきた「手の内」を簡単に明かすことはできない、とうい人もいるだろう。
様々な考え方を集めて一冊にすることもできるのだろうが、それはそれは分厚い本になるだろうし、読む気も失せるだろうなぁ…
(だからこそ、やってみる価値はあるかもしれないけど…)
そんな中、今年8月に亡くなられた佐伯茂樹氏の『金管楽器 演奏の新理論』と『木管楽器 演奏の新理論』は、このフィールドで、これまでにない視点で書かれた素晴らしい著書だと思う。
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