先頃亡くなったピアニストのパウル・バドゥラ=スコダ(私はこの人のモーツァルトやベートーヴェンの録音をきっかけにフォルテピアノの音に惹かれた時期があった)は、「音楽表現には音量の変化や呼吸の感覚が大切」であること、「楽譜には書かれていないにもかかわらず、演奏の際に反映しなければならない必須のデュナーミク − インネレ・デュナーミク innere Dynamik」の重要性について語っている。
「インネレ・デュナーミク」とは「音価、リズム、和声や音程などによって変化する微妙な音量の差違」ということであり、「音楽の自然な表現力は、このデュナーミクによって初めて与えられる」とバドゥラ=スコダは言う。(「ベートーヴェンの強弱法」に関する講演)
アーノンクールが、(バロック期の)拍節の「強弱関係」に「ヒエラルキー(階級制)」の存在を指摘し、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」と著書に書いていることは既に「第5回」で触れたが、ここで彼が、その単調さを回避するために必要なこと、そして「強弱のヒエラルキー」の上に立つものとして述べているのが、第一に「和声法」次いで「リズムと強勢法」だ。
言っていることは二人とも同じであると考えて良いだろう。
バドゥラ=スコダもの話も、拍節における基本的な「強弱」関係の存在が前提となっている。
大演奏家二人の話を通して、心得ておきたい大切なことは、基本的な「(拍節における)強弱関係」を守って演奏するだけでは音楽表現はできない、言い換えると、曲の性格やイメージを演奏者がしっかり読み取り、基本的な「(拍節における)強弱関係」と「インネレ・デュナーミク」とを上手に組み合わせる(作用させ合っていく)ことなのではないか、と私は思う。
これは作曲(には限らないが…)をする上で学ぶ「和声法」や「対位法」にも言えることだ。
私たちが通常学ぶ「和声法」や「対位法」も、ある特定の時代にまとめられたものが基本となっている。そこには「禁則」も盛り沢山だ。
意図的に「禁則」を使うということはありだと思うし、歴史的に見ても、「規則」をはみ出すことで新たな創造を行なってきた大作曲家がいることは述べるまでもない(もっとも、「何も考えていないな」、「本人は気づいてないんだろうな」と思うような曲も最近の吹奏楽にはあるが…)。
私たちが現在お世話になっているいわゆる「楽典」に書かれている内容も、どこかの時代で取りまとめられたものであり、もしかすると(「第7回」で触れたスタッカートのように)何らかの経緯で「標準化」されたにすぎないのかもしれないし、本来の意味から変容しているものもあるかもしれない。
一度、古い時代の「理論」に触れてみることは、(「第9回」の最後でつぶやいた)「そういう決まりになっているから」と、無批判に理論を受け入れがちな私たちを、むしろ「解放」してくれることになるのではないか、と思っている。
「音楽において、日本人は三拍子が苦手だとよく言われる」という、最初の話。これは「理論」ではないが、果たして私たちは無意識に(無批判に)この話を受け入れているだけではないのだろうか…。
(まぁ、それをここまで考えてきたのであるが…)
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