最初に顔合わせをした日、あの時のみんなの顔は笑顔だったけど、どこか思い詰めたような雰囲気だった。多分に不安もあっただろう。ただ、真剣に音楽に向き合おうとしている気持ちが本当に伝わってきた。みんなと一緒にやろうと思ったのは、決してお情けではない、ということは分かってほしい。
高校生であるとか、もっと大人であるとかは関係ない(練習の時にも言ったかな…)。みんなとならいい音楽が作れる、そう思わせる「何か」を感じたのは確か。
パート・リーダーさんたちに一度お話したように、3月いっぱいで前の仕事を辞めてからは、違う方向から音楽に関わろうとしていた私。しかし、思い返してみれば、一度も「やりきった感」を味わったことがなかったかもしれない…。そんな私をみんなの眼差しが奮い立たせくれたのも確かだ!
ウィーンで活躍する大学の同級生(ソプラノ歌手)はこう言っている。
「多くの困難、苦難を経験し乗り越えた人の音楽は深い。」
みんなが経験した苦難や葛藤は音楽に深みを与えてくれたと思う。それは正直私が与えられるものではない。みんなが自ら掴んだもの。そうした深さは時として技術を超える。
さて、肝心の演奏のこと…
「作曲家は無駄な音を書いたつもりはない」と何度も言ってきたけど、みんなは一音足りとも無駄にしなかったし、私も書かれている音を無駄にしないよう実践してきたつもり(自由曲のカットについては正直心が痛かった…申し訳ないです)。
大きな音量が求められている部分でも、できる限り全ての楽器の音がお客様の耳に届くよう考え実践してきたつもり。これは、自分が作曲をしているからというわけではなく、指揮者の使命と思っているから。結果として、他の団体より鳴っていないという印象を与えたきらいもあるようだが…。
音楽の構造や仕組み、仕掛けを覆い隠してしまうような音量は必要ない、というのが私の信念。単純に音量の差を「表現の幅」というのであれば、考えものだ(それも大切な要素であることは否定しないけど)。
もちろん、各楽器がいい響き(単に音量ではない)を作るという大前提はあるけど、やがてサウンド中心でなく、本当の意味での音楽表現(構造や仕組みを的確に捉えた)を主眼にした評価に変わっていくはずだと思っているし、そうでなければならないと思っている。大きな音量になるほど、表現の幅を作るのが却って難しくなる、と話したことを思い出してほしい。
それぞれの楽器がいい響きを求めてこれからさらに磨きをかけていくこと、これは当然今後の課題として大切なことだけど、冷静に振り返ってみれば、もう一つ課題があるように感じている(楽器の響きということにも関連しているけど)。
そのヒントは、前日の練習に…。
但し、これについては、個々の能力、私の能力だけでは何ともしようのない要素も含まれると思われるので、ここでは詳しく触れません。
私は、みんなと出会って音楽の喜びを改めて感じることができました。この歳になって、音楽の奥深さを思い知らされることになりました。ありがとう!
みんなと音楽をやれて幸せです!
(2017年7月29日)