私は学生時代に、アルテュール・オネゲル(1892-1955)という作曲家について勉強・研究をした。スイス人を両親にフランスに生まれ、その生涯の大部分をフランスで過ごした彼は晩年、音楽創作の行く末に非常に悲観的な考えを持っており、自分の教え子たちに、「たとえ音楽を書いても演奏はされないだろうし、生活の道はたたないだろう」と語っている。
日本でも、黛敏郎(1929-1997)が、東京芸大で教鞭を執っていた際、同僚の松村禎三(1929-2007)と、「私たちの仕事は、学生たちにいかにして作曲家になるのを思いとどまらせるか…」というようなことを話したらしい。
このように、クラシック音楽の世界は、新しい作品に対する「需要」がまだまだいいとは言えない状況なのかもしれない。
オネゲルは著書の中でこう言い切っている。「作曲は職業ではない」と。
実は、音楽史上に名前を残している数々の作曲家の中で、作曲(音楽)以外に本業を持っていた人は結構いる。また、法学や数学を専門的に勉強し、後に音楽に転身という人たちも大勢いる。日本にもこのような方々はいらっしゃいますよね。
例えば、ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフ(1844-1908)。彼は、もともと海軍の軍人で、後に音楽の道に進み、「管弦楽法の大家」と言われるまでになった。
ユニークな経歴を持つひとりが、アメリカのチャールズ・エドワード・アイヴズ(1874-1954)。
彼は、名門イェール大学で作曲を学んだが、卒業後は何と保険会社に就職。後に、友人と自らの保険会社Ives & Myrickを設立し、引退するまで副社長を勤めた。会社は全米規模のネットワークを有するまでになり、また、彼の作ったは新人教育の為のプログラムは瞬く間に全米の保険会社の知るところとなり各社が新人研修用に採用するに至ったそうだ。
彼は、「自分の理想の音楽を追究しては生計が立たない」との見込みから、音楽以外の経歴を志し、余暇の合間に「趣味」で作曲を続けたわけだ。当然ながら、当時その作品は広く知れわたるということはなく、作品が一般に知られるようになったのは、ようやく、彼の死の数年前くらいから…。
現在では、アメリカの現代音楽のパイオニアとして世界的にも重要な作曲家として位置づけられている。
その(彼の経歴のように)ユニークな作風は、実験精神旺盛で、ヨーロッパで用いられていた手法を先取りしていたり、アメリカの様々な民族音楽が織り込まれるなど、アメリカ的な価値観であふれている。
まぁ本業を持っていても才能ある人は歴史に名を残すのですね。しかもアイヴズのように、その才能を本業と音楽の両方に発揮するとは、恐れ入ります。
「二兎を追う者は一兎も得ず」とはいうが、二兎を得るだけの探究心をアイヴズは持っていたのだろう。天が二物を与えた、というわけではないのだ。 歴史に名を残したり、二兎を得るまではいかないにしても、常に探究心だけは持ち続けていたいものだ。
(2011年)