今年はシベリウスとニールセンの生誕150年ということで、さまざまな企画があるようだが、シベリウスを生んだフィンランド、実は優れた作曲家の宝庫。サッリネンなどは現代音楽とはいえ聴きやすいし、どちらかと言うと簡素な作風。やっぱりシベリウスの国の作曲家、と思わずにはいられない。
同じ北欧の作曲家なら、シベリウスよりもニールセンの方が好き、というか肌に合う感じ。まぁ、聴くのはほとんど4番・5番の交響曲ばかりだから、何とも言いようがないのだが…。
シベリウスやサッリネンなどを聴くと、「簡素」に思えるものほど、実は奥が深く、そして強い表出力を持っているのかもしれない、と感じる。もちろん、環境に寄るところは大きいだろうし、作曲家の人間性や力量によるものであることは言うまでもない。
そういう意味では、エストニアのペルトも同じかな…。
もちろん、シベリウスやサッリネンなどとは違った個性を持っているけど、「簡素」な中の「強い表出力」は現代屈指と思う。
「簡素」でありながら「強い表出力」、これは自分でも心に留め置いていたい創作姿勢。ということは、もっと人間磨きをしないといけないな…。
彼らのように厳しい時代を、社会を生き抜いてきた人の音楽には、全てが共感出来るとは言えないものの、何か深いものを、そして厳しさというようなものを感じてしまう。
これは作曲に限ったことではない。演奏だってそうだと思う。音楽の深さ、それは人生、人間の深さということだろう。
まぁ、わたしたちは、作曲家の、あるいは作品の背景や、当時の世界状勢を知ったことで、そのような聴き方をしているのだが、それが決して間違いだとは思わない。
ただ、音楽に共感することはできても、その人生に共感することは、同じ状況に身を置かない限り難しいことだ、苦悩を分かち合うことはできないのだ、ということだけは自覚しておきたい。
だからと言って、同じ社会状況を生み出すわけにはいかない、生み出してはならないのだ。それもまた人生の深さ、人間の深さというものだ。
結局、人生、人間の深さというものは、実は音楽を享受する側にも求められているのだろう…。
(2015年)