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月: 2021年3月

パヌフニク『Symphonic Works Vol.4』:ウカシュ・ボロヴィチ 指揮 /ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

2021年3月23日 記

こちらから購入できます {TOWER RECORDS}

『アンジェイ・パヌフニク:Symphonic Works Vol.4』
【曲目】
1. 交響曲 第2番「悲歌の交響曲」
2. 交響曲 第3番「神聖な交響曲」
3. 交響曲 第10番
【演奏】
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
ウカシュ・ボロヴィチ(指揮)

この5月、アンジェイ・パヌフニク(1914~1991)の『交響曲第3番』がNHK交響楽団の公演で取り上げられるようです(尾高忠明指揮)。

この作曲家については、日本ではあまり知られているとは思えないのですが(同じポーランドの、同世代のルトスワフスキと比しても)、この不安の時代に彼の作品がどう受け止められるかは注目です。

彼の生涯については、こちらのサイトに簡潔にまとめてありますので、ぜひ!

私の「パヌフニク体験」は学生時代に買った一枚のレコードから始まります。

ボストン交響楽団創立100周年記念委嘱作品2曲を収録したレコード(小澤征爾指揮)です。私は、セッションズの作品が目的で購入したのですが、カップリングされていたパヌフニクの『シンフォニア・ヴォティーヴァ(交響曲第8番)』の方にすっかり魅了されてしまいました。それから、パヌフニク作品が収録されたCDを買い求めていくことになるのですが、特に彼自身が指揮したものは繰り返し聴いてきました。

こちらから購入できます {TOWER RECORDS}

独自の語法(確か、自らの音楽語法について書いた著書もあると思います)は、盟友でもあったルトスワフスキとは一味も二味も違ったものですが(”不確定”要素や実験的要素は皆無で、決して難解な音楽ではありません)、やはり、暗い時代を生き抜いた人の魂の叫びというものを感じざるを得ません。しかし、世の中を冷静に見つめる目、精神性というものも同時に感じます。そして、時折見える優しげな語り口の中には、ある種「冷徹さ」のようなものさえ見え隠れしているようにも思え、少々気持ちが重たくなることも…

ここに挙げた録音は、パヌフニクの没後に収録されたものですが、彼自身の指揮による録音ばかりで『交響曲第3番』を聴いてきた私にとっては、作品の持つ精神性がより際立った演奏になっているように思います。『第2番』、『第10番』も同様に高い精神性と冷徹さを感じます。

今年は没後30周年。時間を作って、しばらく聴いていなかった彼の作品群に耳を傾けてみようと思っています。

ベートーヴェン『ソナタ集』(1969年ベルリン・ライヴ): ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

2021年3月26日 記

こちらから購入できます {TOWER RECORDS}

ベートーヴェン                                  ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調 Op.28「田園」
ピアノ・ソナタ 第18番 変ホ長調 Op.31-3
ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 Op.53「ワルトシュタイン」
              ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109
【演奏】
ヴィルヘルム・バックハウス(P;ベヒシュタインE)
               1969年4月18日 ベルリン・フィルハーモニー(ライヴ)

バックハウスといえば、「鍵盤の獅子王」などと形容されているようですが、私にはどうもそう思えないのです。私が愛聴している多くのバックハウスの録音が晩年のものであることも影響しているのかもしれませんが、「剛毅なダイナミズム」といったものを彼の演奏から感じることはそう多くはないのです。

小手先でコロコロと表情を変えるようなことはなく、感情に溺れることもない。かと言って理知的ともいえない、理屈っぽいわけでもない…。しかし、何か確信に満ちたものを感じます。

ここに挙げたのは、亡くなる3ヶ月ほど前にベルリンで行なったコンサートのライヴ。これほど生気ある、そして確信に満ちあふれたベートーヴェンを聴かされると、思わず背筋が伸びてしまいそうです。

(そうそう、今日はバックハウウスの誕生日です。)

ちなみに、私のそのほかの愛聴盤は以下の通りです。

1966年ザルツブルク・リサイタル(廃盤)

1968年ザルツブルク(モーツァルト27番・ブラームス2番)

1968年ザルツブルク・リサイタル(廃盤)

ブルックナー『交響曲第4番』:下野竜也 指揮/広島交響楽団

2021年3月29日 記

購入はこちらから {TOWER RECORDS}

下野竜也と広島交響楽団によるブルックナーの交響曲シリーズ第2弾。

ひと言で言い表すのは難しいのですが、とても「人間味あふれる」ブルックナーでしょうか…? 第1弾の『交響曲第5番』(これは会場でも聴きました)の時も同じように感じました。

「自然や神を賛美した」と言われるブルックナー。聴く側はそこ(演奏)に崇高なものを求めて、そこに神を見ようとするかもしれませんが、この下野&広響の演奏に接すると、「人間ブルックナー」が現れてくるように思えるのです。ブルックナー自身が朴訥と、少しばかり不器用に(言うまでもないことですが、演奏は決して不器用ではありません、念のため)何かを語っている(自然に、神に…?)かのような…。

これまで接してきたいくつかの演奏とは全く違います。かと言って、決して奇をてらったものでもありません。あくまでも真摯に、正直に、純粋に作品に向き合った演奏だと思っています。

そう言えば、以前、朝比奈隆やチェリビダッケを例に『信仰と音楽』について書いたことがあります。その最後に記した朝比奈の言葉を、下野&広響の演奏は思い出させてくれます。

record review


「レビュー」と銘打ってはいますが、作曲家や作品、演奏家についての思い出話などが主になることもありますのでご了承ください。

また、ここでご紹介しました「音盤」のうち、廃盤になるなど現在入手困難なものもありますこともご承知おきください(2021年3月29日現在)



ゴールドベルク・ラスト・リサイタル(モーツァルト・ブラームス):シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)/ 山根美代子(ピアノ)


シモン・ゴールドベルクの遺産(指揮者編)(シューベルト・シューマン):シモン・ゴールドベルク 指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団


シモン・ゴールドベルク・ラスト・コンサート:シモン・ゴールドベルク 指揮/水戸室内管弦楽団(2021年4月12日)


サン=サーンス『動物の謝肉祭』他:根本英子(ピアノ)他(2021年4月3日)


ブルックナー『交響曲第4番』:下野竜也 指揮/広島交響楽団 (2021年3月29日)


ベートーヴェン『ソナタ集』(1969年ベルリン・ライヴ):ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(2021年3月26日)


パヌフニク『Symphonic Works Vol.4』:ウカシュ・ボロヴィチ 指揮 /ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(2021年3月23日)


プロコフィエフ『ピアノ・ソナタ集 2』:アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)


ショスタコーヴィチ『交響曲全集』:ドミトリー・キタエンコ 指揮/ ケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団


K. A. ハルトマン『葬送協奏曲』他:イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)/クリストフ・ポッペン 指揮/ ミュンヘン室内管弦楽団  他


Fur uns Ehrensache – Marsche(行進曲集):ロリン・マゼール、ズービン・メータ 指揮/ミュンヘン・フィルハーモニー管楽アンサンブル


マーラー『 交響曲第2番:復活』:ロリン・マゼール 指揮/読売日本交響楽団 他(2019年5月)


ライヴ イン 東京 1973:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)


「ピュタゴラスと鍛冶屋」の話

2021年3月2日 公開

⬛️はじめに

 昨年の5月から『Wind Band Press』というサイトで『スコアの活用と向き合い方』という連載を持っています。不定期ではありますが、これまで5回書いてきました。

https://windbandpress.net/category/column/column-column/masakado-score

 今後さらに数回書き進める予定です。

 この連載を通じて、ひとりの高校生と知り合いました。この方は学校の吹奏楽部で指揮も担当されているとのこと(普段は外部の方が指揮されているそうです)。日常の練習でどのようなことに気をつけたら良いか、などの質問をしてこられたのですが、メールをやり取りするうち、いわゆる「楽典」や音楽理論というものをどう演奏(あるいは練習)に役立てることができるか、という話になり、私もいずれそうしたことをまとめてみたいという思いを持っておりましたので、一緒に勉強することにしました。

「音階」や「音程」、「音律」など、さまざまな「楽典」本でも最初の方に書かれている内容から始めたのですが、この方の探究心には本当に圧倒されます。

 例えばこのような質問が…

・「ピタゴラス音律は、上行する旋律に有効」とありますが、これはピタゴラス音律の半音の狭さが導音という概念に繋がったということなのでしょうか。それとも、後に生まれた導音という概念が「結果的に」ピタゴラス音律と近くなったということなのでしょうか?

・前者であれば、長調の下行形というもの自体が自然界では「異質なもの」なのではないかと感じてしまいますが、そういう訳でもないのでしょうか…?

・後者なのであれば、「導音」という概念はどのようにして生まれたのか…?

 私自身普段考えているようで、実は深く考えていなかったかもしれません(笑)。

 (ちなみに、この方は「音楽の道に進もう」と思っているわけではないようです。)

 決して簡単に答えられるような内容ではありません(笑)。しかし、できる限りのことはしたいものです。昨年『バンドジャーナル 』誌に「アップデート」という文章を掲載していただきました(11月号)が、「これは自分自身をアップデートする、勉強し直すいい機会だな」と思い、さまざまな書籍を読み返すなどし始めたところです。

(「このような本を読んでみたらどうですか」的な回答をすることは簡単ですが、それではこの方の思いに応えることができない、とも思ったわけです。)

 早速、いろんな疑問が湧いてきました。

 そのひとつが、これから書きます「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の話です。

 私はここで決して「理論的」に解明することを目的とはしていません。

⬛️違和感

 下の写真は、勉強し直す際に参考にしている書籍の一部です。嫌味なように思われるかもしれませんが(笑)、決して全てを熟読していたわけではないことを告白しておきます。「辞書的」にめくってきたものがほとんどです(理系人間ではない私にとって、古い音楽理論を読み解くのはなかなか骨の折れることなのです。確かに「つまみ食い」、「いいとこ取り」というのも後々問題が発生する可能性が十分にあるのですが…)。

 さて、「ピュタゴラスの音律」は音楽理論を語る上では必ず言及されるもの、基礎となっているもののひとつであることは疑いようもありません。ここでその理論を改めて説明する必要ないと思います。数多の書籍のみならず、インターネット上でもさまざまな記事が出てていますので、概要は知ることができます。ただし、「ピュタゴラスが「自然倍音列」を発見し音階を作った」というような誤った記事(これを「調律師」さんが書いているので唖然としましたが…)もありますので留意する必要はあります。

 特にインターネット上の記事には、「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」に関することがよく書かれています。

 簡単に言うなら、「鍛冶屋の金槌(ハンマー)が金床にあたる音を聞き、金槌の重さと音程の間に数学的な関係があることに気づいた」ということです。

 この逸話、私にとってはずっと「違和感」でした。

 私たちは「鉄琴(グロッケンシュピールやヴィブラフォーン)」という楽器を知っています。ひとつの鍵をどのようなマレット(撥)で打っても基本的は音高が変わらないことを知っています。「重さの違うマレットで打って違う高さの音が出た」という経験をした方はいらっしゃいますか?

 トライアングルもそうですよね? 演奏する曲によって大中小さまざまな大きさのトライアングルを使い分けることがあります。曲にふさわしい「音色」を探ろうとしてさまざまなビーターを試した経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。しかし基本的な音高はそう変わらないはずです。

(インターネット上には、このトライアングルの大きさの違いを例に、ピュタゴラスの逸話を検証しようとした記事がありましたが、考えてもみてください。トライアングルでビーターを打つ人はまずいないでしょう。)

 少し考えれば分かる話なのですが、この「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の逸話は、いまだまことしやかに「伝承」されているのです。

⬛️「ウソ」か「マコト」か…

 ピュタゴラス自身やピュタゴラス学派に関しては確実な史実が極めて乏しいとされています。「鍛冶屋」の逸話もピュタゴラス自身が述べたものであるかは分からないのです。

 この逸話が伝承されるきっかけとなったのはボエティウス(480〜525?)の『音楽教程』のようですが、それでもピュタゴラスの時代からは1000年近く経過しています。

 中世・ルネッサンスの時代にいたっても、この逸話は信じられていました。

 “ドレミの始祖”として知られるグイド・ダレッツォ(991/2〜1033以降)の理論書『ミクロログス』(上掲写真)はこの逸話を紹介しつつ締めくくられています。

 『西洋音楽理論にみるラモーに軌跡』(上掲写真)の著者・伊藤友計氏によれば、ヴィンチェンツォ・ガリレイ(1520s〜91)が実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、一般にはあまり知られていないようですね。この逸話が16世紀になるまで延々と受け継がれ、伝承され続けた、という事実は興味深い論点である、と伊藤氏は述べています。そして、「近代が到来する中世まで人間の思考形態としては「原理から現実へ」という「演繹的思考形態」が趨勢であったということ」と指摘しています。

 伊藤氏が述べる「演繹的思考形態」に関しては、ピーター・ぺジックがその著書『近代科学の形成と音楽』(上掲写真)でプトレマイオスの言葉を引用し、次のように述べています。少し長いですが引用します。

 アレクサンドリアの偉大な天文学者で音楽理論家でもあるクラウディオス・プトレマイオス(紀元前2世紀)は、こうした物語が眉唾であることに気づいていたのだろう。プトレマイオスは、葦笛や横笛(フルート)、「弦に吊るされた錘」や「重さの異なる球や円盤」による証拠を一蹴し、ハンマーにいたってはいっさい触れていないが、一弦琴(註:いわゆる「モノコルド」のことだろう)を使えば「協和音を生みだす比を正確に、より簡単に確かめられる」と言っている。プトレマイオスの言葉を聞くと、鍛冶屋の物語はあらかじめ弦であきらかになったことをドラマチックに脚色したのではないかと思えてくる。すべてがまことしやかで、ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい。弦や管ですでに確認された比に、ハンマーが従わないことがあるものか?と。

 ここで実験につきもののもうひとつの危険があきらかになる。ある文脈において、ある特定のパターンが観察されると、一見したところ同じような状況でもそのパターンが生じるに「違いない」と決めつけてしまうのだ。こうした問題は、ピタゴラスの神話には影も形もない。ピタゴラスの神話は、「数は鍛冶屋の仕事でさえも勝利をおさめる」奇跡としてこの物語を示している。本当の奇跡は、数の比が他では複雑だとしても、一本の単純な弦については明白であることだ。この根底を貫く糸は、ローマ時代末期にボエティウスが伝えた要約〜これはピタゴラスに関する最初の文献から約1000年後に書かれたものでる〜現存するギリシャ語最古の文献をよく考えると見えてくる。

 半ば「けちょんけちょん」に言っていますよね(笑)

 ぺジックはその前段でも「けちょんけちょん」に言っています。

 (職人たちの腕力ではなく交換したハンマーによって変化した、というのであれば、)ピタゴラスが「神の加護によって」鍛冶屋の前を通りかかったのだとしても、そこで起きたことは、神の力の働きによる超自然的な、奇跡的な出来事ではなくなる。人間がありふれた仕事場を訪れて、そこで繰り広げられている日常の出来事を不思議に思って中止するのだ。ピタゴラスの啓示は、神の崇拝や静かな瞑想へ彼を誘いはしなかった。なぜかわからないが調和している音の原因を探るという人間らしい行動へ駆り立てた。これを神の啓示の場面だと言うのなら、その後の出来事は、神の啓示にふさわしくない、いや神への冒瀆と言ってもおかしくないだろう。ピタゴラスは、世にも不思議と感じたまさにその物事を止めよう、もしくは変えようとしたのだから。

 もし、こうした逸話が本当であれば、ぺジックが言うように「いくつかの伝承に出てくるスフロン(sphuron ハンマー)という言葉は、スファイラ(sphaira 球sphere)や円盤(disk)の読み間違いか書き間違いかもしれない。ピタゴラスが耳にしたのは大小さまざな金属の円盤の音だったのかもしれない」のですが…。

 こうしてみると、ピュタゴラスの逸話はどうもインチキ臭い(笑)ようにも思えてくるのですが、では、本当に「インチキか、さもなくば万にひとつの偶然の一致だった」(F.V.ハント『音の科学文化史』1978)とか、「事実に反する」(キティ・ファーガスン『ピュタゴラスの音楽』2008)と切り捨ててもいいのでしょうか?

 実は、ピュタゴラスの逸話に否定的な立場をとる人が見落としている点があるのです。

⬛️鍵は「重さ」

 金床の上の鉄が叩かれる音を実際に聞いたことがある、という方はいらっしゃいますか?

 ピュタゴラスの時代の鍛冶屋さんが実際どのようにお仕事されていたかは正直わからないのですが、動画サイトで、例えば「日本刀」が生み出される行程を見ることができます。「鉄を打つ」ということについてはピュタゴラス時代と変わらないと思われますので、是非ご覧いただきたい、そして「鉄を打つ」音を聞いていただきたいと思います。きっと「こういう音をピュタゴラスは聞いたのかもしれない」という場面に出会えるはずです。

 私もいくつかの動画で確認しました。そのひとつがこちらです。

 『日本刀奉納鍛錬』

 (少々長い動画ですが、)11分40秒を過ぎたところから、それらしい音を聞くことができます。ピュタゴラスもこのような音を聞いたのでしょうか…?

 お聞きの通り、同じ地鉄を打つ2つの槌(ハンマー)の音は違いますよね?いわゆる「振動の比率」(つまり音程差)は違うでしょうが、ピュタゴラスが聞いたと言われる音の違いは、このようなことだったのではないか、と私は思うのです。

 ピュタゴラスの逸話に否定的な立場を取る人たちは、金床の上の「鉄」ではなく、金床を打った音を拠り所にしています。その点がそもそもの誤りです。もし、「鉄」を打った音を拠り所に否定的な立場を訴える人がいるのなら、「実際に鉄が打たれるところを確かめたのですか?」と問いたくなります(笑)

 この逸話を読み解く鍵は、「重さ」です。

 動画で確認できる槌(ハンマー)による音の違い、これは明らかに2つの槌(ハンマー)の「重さ」の違いからきていると思えます。そして、これら2つの槌(ハンマー)が、打たれている地鉄よりも(はるかに)「重い」ということをも表していると思っています。

 ピュタゴラス(学派)への反論は、明らかにこの点も見落としている(無視している)ように思えます。

 上述の「鉄琴」や「トライアングル」も、基本的に「打たれる側」が重い。金床も槌(ハンマー)よりは重いのではないでしょうか? ですから、私が上で、幾分否定的な含みを込めて書いたトライアングルを使った検証は、あながち誤りではないのです。

 私自身が科学的に証明したわけではないのですが、二つの物体がぶつかり合った時は重量のある方(密度も関係するのでしょうか…?)の音が大きい。であるなら、ピュタゴラス(学派)の説を「インチキ」と決めつけることはできないように思うのです。

 ヴィンチェンツォ・ガリレイが実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、私はまだその詳細を読んでいませんので、いずれ、ここまでの考察を再検討する時がくるかもしれません。

⬛️おわりに

 拙稿は、私自身が抱いた「違和感」を解消しようと勉強し直したことに端を発します。

 一度はその「違和感」も解消されたように思えた(本音を言えば、伊藤氏やぺジックの記述に沿うような方向に結論付けようとしていた)のですが、文中にも取り上げたぺジックの言葉「ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい」がそっくりそのまま自分にも当てはまる、と気づきます(笑)。おかげで、少しだけ「アップデート」できたのではないかと思っています。

 結論めいたものは何ら出していませんし、今後再検討する余地が多分にある、ということだけはご理解ください。

 冒頭に書きました通り、現在はひとりの高校生の方と「楽典」や「音楽理論」を実際の演奏(あるいは練習)に活かそうという視点で一緒に勉強しています。まだまだ始めたばかりですが、この過程で、演奏には直接結びつかない領域に踏み込んでいく機会もあるかもしれません。その際はこのような形で公開していこうと考えております。

 長文乱文にお付き合いいただきありがとうございました。

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