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三拍子の話 〜第4回〜


私は「拍節リズム」を「強弱」のストレスのみで語ることにずっと違和感を持っていた。

拍節とは、等間隔で打たれる拍を何らかの方法でグルーピングすることで作られたものある一定の法則で秩序づけられたもの、と私は理解している。
ということは、この「拍節リズム」における強調(アクセント)は、「自然」のものではなく、誰かが「規則化」した、ということにもなるわけだ(この点については後述する)。

音響心理学では、「一定の周期的打拍が音刺激として繰り返された場合、人間は「群」にして纏めようとする。」とされており、これは「群化」と呼ばれる感覚的処理、人間としての生理的・本能的な処理なのだそうだ。
自然発生的な群化は2または4個の音集団となり、これは人間的感覚からは最も普遍的ということらしい。
半強制的に群化を行わせることで、3音あるいは5音単位の非生理的・非本能的なリズムも可能になるということだ。

やはり、三拍子は特別なのだ。
が、ここに、三拍子が難しいと言われる(そう思い込んでいる)理由のひとつはあるのかもしれない。


音楽にそれほど関わりのない方々が、三拍子の音楽をずっと二拍子で手拍子してる場面に出会うことは意外にあるし、音楽経験の浅い方に指揮棒を振っていただくと、大抵二拍子だ、それが三拍子の音楽であろうとも。さらに言うなら、人は音楽を聴取する際、余程音楽と関わりを持たない限りは、「この曲は◯拍子!」と思いながら聴き続けることはしない。こどもたちは、童謡「ぞうさん」が三拍子であることを意識しながら歌うことはまずないだろうし、カラオケで気持ちよく歌っている人だって、「これは◯拍子だ!」と思いながら歌ったりはしないものだ…。


グルーピングあるいは群化するということは、「始まり」を示す必要がある。
大抵、始まりの音は強調される。
これも人間の生理的・本能的な処理の一部なのだろう。

もっとも、一定の周期的打拍だけを聴き続けるということは日常まずあり得ない。
まぁ、「ミニマル・ミュージック」に一部それに近いものはあるだろうが…。
だから、「拍節」について、こうしたグルーピングや群化という視点のみで語ること(結局私自身もだが…)には少々抵抗があるのだ。

ただ、この点だけは指摘しておきたい。
誰もが知っている「ハッピーバースデイ」の歌。これは、アウフタクトで始まる4分の3拍子だが、大抵の人は「二拍子×三小節」という周期(フレーズ?)で手拍子を取ってしまう、ということだ。

もしかしたら、これは日本人独特の感覚なのかもしれない(「アウフタクト」の感覚がないという…。「アウフタクト」についてはいずれ考察してみるつもり。)が、「二拍」という周期が分かるくらいのある種の強調(アクセント)が、自然と生まれているのは、人間の生理的・本能的な処理なのだろう、ということは理解できる。私の師のひとりである東川清一先生は、「人々が聴いている音楽自体に、人々の手拍子を秩序づける何ものかがある」(著書『だれも知らなかった楽典のはなし』より)と仰っているが、こうした「秩序」も、国や風土、言語などによって異なるのだろうと思わざるを得ない。

しかし、音楽に携わる者にとって「三小節」という周期は、やはり「何となく収まりがつかないよなぁ…」という気分にはなる。

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Published incolmn / essay三拍子の話