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三拍子の話 〜第8回〜


17世紀フランスでは、古典詩学の詩脚を音楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと言われている。詩と音楽の統合のための理論であるのだが、これは音楽を(詩の)テクストに従属させたものであり、18世紀に音楽的な拍節がもっぱらアクセントと結びつけられて考えられるようになると、急速に顧みられなくなったという。
ここには、器楽の発展という側面があると考えていい。先に参照した理論書は改めるまでもなくクラヴィーア、ヴァイオリン、フルートと器楽のためのものだ。

器楽の発展が、「拍節アクセント」優位とも取れる音楽理論(演奏理論)へと変容させた、と言えなくもない。17世紀の音楽理論では「小節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの言及を含んでいない」とされている。


「拍節アクセント」優位の音楽理論(演奏理論)に否定的な考えを示した音楽家や理論家はロマン派の時代に多く存在したようだ(リストもそのひとり!)。
彼らの発言の中には、「機械的」という言葉が出てくる。
そう、「メトロノーム」の影響もそのひとつと考えていいだろう。
もともと「拍節リズム」自体は決して「機械的」ではないはずだ。
「メトロノーム」という当時のいわば最先端のテクノロジーが、「拍節アクセント」優位に拍車をかけたということだろう。

(テクノロジーの発達は生活を豊かにしてくれる反面、どこかに歪みを生み出すものだ。それは、今も昔も変わらない、ということか…)


そして、20世紀に入り、パウル・ヒンデミットがこう述べている。
少し長くなるが引用させてもらう。

等しい時間的間隔をおいて現れ、あらゆる点において同一条件のもとにある一連の音を、われわれの耳は、規則的にくり返される一群の音としてとらえようとする。言いかえれば、ある音を他の音より重要なものとして聞き取っているわけである、そして、この耳の機能が、アクセントのある音とない音との間に、起伏する線が引かれているように思わせるのである。

「第4回」で述べた「グルーピング」や、「第5回」で述べたキルンベルガーの「他の鼓動より強く聞こえるように思ったりするのである。」に通じる見解だ。)

ここでいうアクセント(=拍子のアクセント)は、われわれの感覚によって生じるものであって、音自体に存在する客観性によるものではない。これは他の種類のアクセント(音量的アクセント)とは本質的に違うのである。それは、単に人工的につくりだされたものにすぎない。この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば一致し、拍子のアクセントが強調されるのである。

(「音量的アクセント」とは、ここまで私が記した「表現のためのアクセント」と解釈していいと思う。)

音楽作品は、拍子の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。

このヒンデミットの見解、賛否はあるだろうが、私の中にあるモヤモヤを随分解消してくれる。ようやくスッキリ!

ちなみに、このヒンデミットの見解、私の世代の武蔵野音大生なら皆お世話になった『新訂 音楽家の基礎練習』の中に書いてある。
今さらこれが役に立つとは、学生時代いかに不真面目だったか、ということだ…

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Published in三拍子の話