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カテゴリー: colmn / essay

著作権

数年前、生演奏を売りにしていた東京のスナック経営者が、使用料の不払いを理由に逮捕されたというニュースがあった。

おそらく、「何がいけないの?」と思う方も多かったのではないかと思う。

簡単に言えば、「他人」が作ったもの(音楽)で商売をしていたということ、しかも「無断」で…、ということだ。オリジナルの曲を演奏して商売をするのであれば何ら問題なかったわけだが…

「音楽は誰のものでもない、みんなのものだ!!」と反論される方もいるようだが、よくよく考えてみよう。

もし、自分が作ったものが無断で複製されて商売に使われたら…(これは音楽に限ったことではなく…)

「著作権法」という法律がある。

これは、「もの」を作った人の権利を一定期間守るための法律。それ(作品)が出来上がった時点で「著作権」は発生するのだ。

作品を複製したり、録音したり、販売したりと、それらを決定する権利があるのは「著作権者」(「作った人」、あるいは「作った人」と契約した業者等)なのだ。

しかし、著作権を管理するということは大変なことだ。だから、音楽の場合はJASRACのような管理団体に著作物の管理を委託するわけ…。

もちろん、これは日本国内だけのことではない。著作権に関する国際条約もありJASRACは諸外国の管理団体とも提携しているので、「分からなけりゃ大丈夫」は通用しない。

そもそもお金を出してCDなり楽譜を買ったからといって、音楽そのものが自分のものになったというわけではないのだ(そこを曲解して、「音楽はみんなのものだから…」という人が多い…)。

CDや楽譜の「所有権」と、音楽を利用する権利を同じに考えてはならないのだ。(もちろん、個人的に楽しむ分には何の問題もない。)

どこかの自治体のように、所有する絵画を全部捨ててしまったという問題も、結局、作者に「著作権」があるという意識が全くないことから起こってしまったと思えてならない。

公表されている音楽を利用して商売をするなら、まずは、作った人に対する敬意と感謝を!!
(2006年)

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「伝統」というものは案外簡単に崩せるもの…?

「伝統」というものは案外簡単に崩せるものだ…」と書かれた文章に出会ったことがる。

なるほど、と思いつつも…「伝統 」って何なのだろう…?

「伝統というものなど無意味」というようなことを言った指揮者もいた。

クラシック音楽の世界では、このところ「ピリオド楽器」という、作品が作られた時代の楽器を使用して、また、当時の奏法を研究して…という動きが活発。

「伝統」を守るというのは、単に、当時の「形」を継承していくことなのだろうか?

確かに、当時の「形」を探り、伝えていくことは大切だが、

本当の「伝統」とは、「精神的な継承」ではないかと考える。

そして、「先達への敬意」…これが大切じゃないかと…。

人間が生み育ててきた文化・芸術は、時代の変化とともにこの先どのように変わっていくのだろうか…?

もしかしたら、変わらない(精神的)ために 変わる・変える(形)ということも、現代社会には必要なのかもしれない。

正直、自分で何書いているのか分からなくなった…。

(2006年)

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楽譜の「表情」

相田みつをの書いた文字のひとつひとつは、見事な「表情」を持っている。

勿論、書かれている言葉にも味があるけど。

しかし、もしこれが、活字で印刷されただけの言葉だったら…。

私も普段は、きちんと印刷された楽譜を使っているし、作品も最終的にはパソコンで浄書している。

楽譜というものは便利だが、実に厄介で、かつ不完全なもの。

作曲や編曲で五線紙(あるいはPC)に向かっている時、私は(私だけじゃないと思う)当然のことながら、「このような演奏をしてもらいたい」という理想像を浮かべている。

それは、響であったり、強弱であったり、抑揚であったり…(時には、演奏していただく演奏者の顔が浮かんで、「こんな難しいこと書いて…!!」と言われてるような気分も味わうが…笑)。

しかし、楽譜に用いる一般的な記号だけではそれらを表しきれないのが現実。

例えば「フォルテ」とか「ピアノ」という、所謂強弱を表す記号。

どの位強くするのか、どの位弱めるのかは最終的に演奏者に委ねるしかない。

記号に対する強弱の感覚って、やはり人によって様々だと思う。

それから「スタッカート」や「フェルマータ」。

どの位短く?どの位延ばしたら?

やはり、これも演奏者に委ねるしかない。

(余談ながら、「スタッカート」や「フェルマータ」は、「奏法」のための記号と思われているようだが、「表情」記号だと私は思っている。)

この不完全極まりない「楽譜」という代物、奏法や表現が多様化したこともあり、現在ではいろいろな記譜法も考えられているが、現実。一般化しきれていないように思う。

私自身は、楽譜の持つある種の曖昧さが演奏者のイマジネーションを広げるものだと考えている。

作曲家の中には、自分の理想通りに再現されることを求める方もいらっしゃるようだが、私は、自分が思ってもみなかった演奏に出会う方が好きである(「適当(いいかげん)」な演奏でなければ)。

じゃあ、演奏する立場から見ると…

「楽譜」の持つ曖昧さに苦労することは確かにある!!

ただ、私も楽譜を作る身、作る人の苦労もわかっている(つもり)だから、それ以上のコメントは控えておきます…。

先日、片付けものをしている際、以前書いた(箸にも棒にもかからない…)作品の手稿(手書きの楽譜)を久しぶりに眺めた。

当時を思い出したりして何だか懐かしいやら、面白いやら。

印刷されたものや、PCで制作したものとは違う表情があって、それはそれでいいものだなぁと。

有名作曲家の古い手稿というのも結構残っていて、私はそこに、既述の相田みつを「書」を見るような思いを以前したものだ。

楽譜にだって「表情」があってもいいんじゃないのかな…?

「たまには手書きに戻ってみるか」と思いつつも、PCでの楽譜制作にに慣れてしまった私。いっそのこと、(楽譜に表情をつける)新しい方法でも考えてみますか…。

そんなことより、音楽の中身ですよね、問題は…。

(2006年)

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「楽」の話

大学生の頃手にしたある本に、

音楽の「楽」という字には、仏教の言葉で「願う」という意味がある

と書いてああった。

当時は「あぁ、そうなんだ…」程度にしか思っていなかったのだが、実際、音楽を仕事としてやっていくうちに、また音楽を創っていく中で、そのことの意味を自分なりに感じていくようになっている。

 もともと「楽」には「かなでる」という意味がありるのは存知の通り。

 日本でも古くから「雅楽」や「神楽」など、音を伴った文化がある。

しかし、そこにある「楽」はただ「かなでる」だけのものではない。

 仏や神への祈りが込められているわけである。

 西洋の音楽も遡れば、やはり「かなでる」だけではなく、そこには祈りが込められている。

 「祈る」と「願う」は必ずしも一致するとは思わないが(辞書では同じような意味)、少なくとも、己の気持ちを込めるという点では一致するように思う。

 「願う」→「かなでる」→そして、それが受け手の心に伝わる。

 作曲者、演奏者、聴衆がそこで何かを共有できた時、音楽が本当に「楽」しいと思えるような気がしている。

(2006年)

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国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由…

正直言って、個々の分野の素晴らしさを(語弊はあるかもしれないが)半ば感情的に訴えたとしても、どうも今の権力者や国の中枢機関には通じないように思っている。

しかし私は、声をあげていかねばならないと思うし、できる限りのことはしたいと思っている。

国が文化、芸術分野に携わる方々を支えなくてはならない理由を、私は少し違う視点から見ている。

端的に言おう。

国は、音楽や美術(図工)などを学校教育に(「教科」として)取り入れているではないか。

●音や音楽は,「自己のイメージや感情」,「生活や文化」などとの関わりにおいて,意味あるものとして存在している。

●「音楽的な見方・考え方を働かせて学習をすることによって,児童の発達の段階に応じた,「知識及び技能」の習得,「思考力,判断力,表現力等」の育成、「学びに向かう力,人間性等」の涵養が実現していく。このことによって,生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力は育成される。

●音楽的な見方・考え方は,音楽的な見方・考え方を働かせた音楽科の学 習を積み重ることによって広がったり深まったりするなどし,その後の人生に おいても生きて働くものとなる。

●児童の生活や,児童が生活を営む社会の中には,様々な音や音楽が存在し,人々の生活に影響を与えている。したがって,生活や社会の中の音や音楽と豊か に関わる資質・能力を育成することによって,児童がそれらの音や音楽との関わりを自ら築き,生活を豊かにしていくことは,音楽科の大切な役割の一つである。

●生活や社会の中の音や音楽と 豊かに関わることのできる人を育てること,そのことによって心豊かな生活を営むことのできる人を育てること,ひいては,心豊かな生活を営むことのできる社会の実現に寄与することを目指している。

●思いや意図をもって表現したり,音楽を味わって聴いたりする過程において,理解したり考えたりしたこと,音楽を豊かに表現したこと,友達と音や音楽及び言葉によるコミュニケーションを図って交流し共有したり共感したりしたことなどが,自分の生活や自分たちを取り巻く社会とどのように関わり,また,どのような意味があるのかについて意識できるようにすることが大切である。

 いずれも、小学校の「学習指導要領(音楽)」にある記述だ。

人間形成に必要と認めているではないか。音楽教育の必要性を説いているではないか。

 実社会で、あるいは普段の生活の中で活かされてこそ、学校での教育は意味を持つ。これは何も音楽に限ったことではない。「国語」だって「算数」だって。

学校でいろいろと音楽について習ったけど、それを実際に体験できる場、実践できる場がない、というのはどこか矛盾していないだろうか? 

人間形成に必要だとしているのなら、実際に体験できる場、実践できる場、そうした環境を整えること、そうしたフィールドで仕事をする方々を支えることは、国の「義務」だと言ってもいいくらいだ。

 文化、芸術、あるいはエンターテインメントに携わる方々(いわゆる「裏方さん」も含め)を積極的に支援しないということは、自らが定めた学校教育のあり方、考え方を自ら否定することにもなるのだ。

 その理屈で言うなら、ほぼ全ての人が等しく(仕事の種別など関係なく)支援を受けて当然だろう。

※断っておくが、今の状況で文化、芸術の分野にだけ何か特別のことを、と訴えているのではない。あくまでも「等しく」ということだ。

(2020年5月14日)

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著作権

新型コロナウィルスの拡がりがまだまだ続きそうで(クラスター感染の疑いがある病院は我が家の生活圏内にある…)、心穏やかではない日々を過ごしているが、最近自分の身に起こったことから考えさせられることがあったので忘れないうちに書き留めておこうと思う。

それは、「著作権」に関すること。

あることをきっかけに、作品を出版していただいている側との契約内容に疑義が生じたのだ。経緯等を含め先方に質問状を送付したところ、必要な調査をしてくださり、大分まで説明に来られた。全てを納得したわけではないが、先方の考え方を理解することはできた。

原因は2つ。

① 私自身が契約当時、著作権についてあまりに知らなさすぎたこと。

② 先方の説明不足

私は先方が送ってきた契約書を、(もちろん読んだけれども)理解不十分のまま署名捺印し返送している。先方はただ契約書を郵送してくるだけ…。

今回説明を受けて分かったことだが、この契約上の重要点が契約書には書かれておらず、口頭説明(それだって、なされていたという確証はないのだ。一部は記憶していたが)。この件に関する調査を進める際、助言を求めた弁護士にも契約書自体の不備を指摘されたそうだ。

先方は、契約時点での説明不足を謝罪され、今後に活かすことを約束された。

正直言って、新たな疑問も湧いてきたのだが、こちらの疑問にしっかりと向き合っていただき、これまでの経緯を包み隠さず説明していただいたので、今のところ、これ以上の追求(?)はしないつもりでいる。今後改善され、私と同じような疑義を生じる方が出ないことを祈るばかりだ。

教訓など

① 契約する際は、余程の信頼関係が築けていない限り、可能な限り先方と顔を合わせて。

② クリエイティブな仕事をしている以上(そうでなくても、だけれど)、著作権に関する知識は必須。

どちらも当たり前のことなのだけれど。

さて、警察音楽隊勤務時(着任した年)にこんなことがあった。

大分県庁内(大分県警本部は大分県庁内にある)で職員や来訪者を対象とした「昼休みコンサート」を実施した時のこと。

その日の夜、上司(広報課長兼音楽隊長)から電話があった。

「(着任したばかりの)警務部長から「ジブリ系は著作権が厳しいと聞いているが、勝手に演奏していいのか?」と尋ねられた。明日説明するから準備しておくように」という内容。

警務部長というのは地方の警察本部ではNo.2にあたり、国(警察庁)からの出向者。

正直驚いたが、同時に「さすがだ!」とも。目の付け所が違う!

私たちは出版された楽譜を使用しているので、もちろん「問題なし」ということは理解している。が、それがなぜ「問題なし」なのか、まで突き詰めて考えることなんてなかった。

つまり「法的根拠」だ。

改めて「著作権法」を読み直し、根拠となる条文をピックアップし取りまとめる…。

十分に理解していただいた。

自分たちの演奏に「法的根拠」を求められたのは、後にも先にもこの時だけ。

しかし、こうした経験が後々に活かされる、ということが今になってようやく分かった。

人生、何が「きっかけ」なるかは分からない。

「きっかけ」を与えることが(ある意味)最大の教育だと私は思っている。

私、著作権に関して相当な教育をしていただいた(考える「きっかけ」をいただいた)ことだけは確かだ。

(2020年3月23日)

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曲目解説

組織に属していた頃、演奏会のパンフレットの「曲目解説」を(半ば強引に…笑)自分で書いていたことがあった、2〜3回ほど。

もちろん、考えあってのことだが、やはり組織が組織だけに、個人的な思いを発信することの難しさを実感した(決して批判しているのではない)。

お客様の多くは、クラシック音楽や吹奏楽に明るい方ではないと言ってもいい。

「警察音楽隊」というジャンル(?)を楽しみにお越しいただいている。

しかし、大きなホールで演奏できる機会はほぼ年一回。

普段の活動では取り組むことの(でき)ない作品も当然ながらプログラムしたくなる…。

だからこそ、なのだが、通り一遍な「曲目解説」にはしたくないという気持ちが強かった

それがいいのか悪いのかは、未だ自分には分からない。

ただ、どのような思いで選曲したのか、演奏するのかを伝える方が通り一遍な「曲目解説」よりもはるかに大切だとその時は思っていたので。

選曲を全て自分でやっていたわけではない。奏者の思い、考えを確認した上でプログラミングした曲目も当然ある。

そして、その曲目をどう意味付けするか…。

実はそれを考えるのは結構楽しかった。

「知っている曲」を望まれるお客様が多くいらっしゃる中で、普段はまず耳にすることの曲を聴いていただく…、.私は何かしらのガイドが必要だと思うし、これは、クラシック音楽の世界でも最近見られる「プレトーク」なども同じではないかと思う。

意味付けして「曲目解説」を書く…。

今思えば多分に自己満足的なところはあるし、その意味付けを奏者たちと共有できたとは必ずしもいえない、正直言って。

ちなみに、

「音楽は分からない」と謙遜気味に言う幹部の方々に承認してもらわないことには表に出すことはできないのだが(組織の名前で一般の方にお配りする「文書」のようなものだから当然だ!ひとつ間違うと、政治的、思想的な考えを警察が発信していると受け取られかねない。この点については特に敏感だ)、修正を求められたことはなかった(ありがたかった)。

もちろん、今は立ち位置が違うので、こうしたものを書くことは当分ないだろうと思うが、自分が聴衆として演奏会に足を運ぶ際、そこで提供していただく曲目を、自分なりに意味付けて聴くことができるようになったことは収穫だったのかもしれない(これだって十分に自己満足の域だが…)。

(2019年12月7日)

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行進曲「べっぷ」

行進曲「べっぷ」。

團伊玖磨作曲のこの作品、どれほどの方がご存知だろうか?

毎年恒例の「別府大分毎日マラソン」の開催25回目の年(1976年)に作曲されたものだ。(下の写真、「第50回別府国際マラソン」となっているが…)

おそらく、大分県内でもこの曲の存在を知る人はほとんどいないだろう(余程吹奏楽に関わりを持たない限り)。

名曲『祝典行進曲』の作曲者らしい、気品ある4拍子のグランド・マーチだ。

(註:以下、「楽譜」とは「出版譜」のこと)

私は2006年に大分県警察音楽隊で仕事をさせていただくようになってからこの曲の存在を知った(隊所有の楽譜で)。

好き嫌いは別として、やはり地元にゆかりのある曲は大切にしていかねば、との思いもあったので、こちらも毎年恒例の「定期演奏会」でいつか取り上げようと思った。

2016年2月、その機会は訪れた(というより、楽長の権限でプログラムに入れた)。

準備に一苦労した。

まず、スコア(総譜またはコンデンスド)が行方不明。自分で作成するしかなかった。

ただ、各パート譜を細かにチェックできたのは良かった(正誤表をもとにパート譜への書き込みをしつつ)。

実はこの過程で、楽譜の不備が原因で音楽作品が埋もれてしまうことがあるのかもしれないと、思ったのだ。それは、作者自身によるものと、楽譜を制作した側に問題がある場合とがある。「べっぷ」の場合は後者かな…。

「べっぷ」のパート譜は五線紙に手書きされた(かなり乱雑に)ものがそのまま印刷されているのだが、おそらく作曲者本人の筆跡ではないと思われる(以前拝見した他の曲の筆跡とはあまりにも違う)し、もちろん浄書家さんの手によるものでもない。

しかも、正誤表にはない、考えられないような間違いが…。

例えば、フルートのパート譜。

旋律が何故か一音高く書いてある箇所があるのだ。しかし途中から正しい音に…(B♭クラリネットとユニゾンなので、写す途中でそちらのパートを見てしまったか…?)。

バス・クラリネットのパート譜。

ト音譜表で書かれるのが慣習となっているが、一ヶ所5度上の位置に音符が書かれている(そこだけ、in E♭のバリトン・サックスを写してしまったのだろう…)。

正直、こんな楽譜では再演の機会はなかなか訪れないだろう、と思った。

もし、本当に作曲者自身(あるいは浄書家さん)が書いた楽譜でないとすれば、こんな不備だらけの楽譜を世に出すことは、作曲者や作品にとっても不幸なことだ。

それとともに、作品の質とは無関係に楽譜の質が作品の先行きを左右することもあるのだ、と感じたり…。

例えば、海外の古い行進曲の楽譜には、スコア(ほぼほぼコンデンスドスコア)とパート譜との間に音の間違いやアーティキュレーションの違いなど結構見られるのだが(それをどのように解決するかが一つの面白さでもあった)、さすがにこの「べっぷ」のようなことは経験したことはない。

今ではコンピュータ浄書も一般的になり、スコアとパート譜が食い違う、ということは確かに少なくなった(ほとんどの場合、スコアが間違っていればパート譜も同じ様に間違っているから)。ただ、その方がかえって厄介かもしれない。

演奏者に余計な苦労を強いるような楽譜はいただけないが、まずは作品の質(と、自分に言い聞かす)。

(歴史的な評価を確立している作品を除けば)質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。

(2019年10月9日)

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広島

広島ウインドオーケストラや広島交響楽団の演奏会に足を運ぶようになって6年になる。

最近は、「広島の地に吸い寄せられているいるのかな?」とさえ感じることもある。

多くの友人もでき感謝感謝だ!

実は、私のルーツは広島にある(そう思い込んでいるだけかもしれないが…)。

祖父は戦前、現在の府中市に住んでいた。満州に渡り、そこで父は生まれた(8人きょうだいの末っ子)。戦後、引き上げてきた祖父や祖母、父たち(きょうだいは3人しか生き残らなかった)は福岡で新たな生活を始めたのだ。

物心ついた頃から戦時中の(満州での)話はよく聞かされていた。一つ間違えると「シベリア抑留」あるいは「生き別れ」、「残留孤児」…そんな状況だったそうだ。

今こうして生きていることの反対側では多くの犠牲があったのだ、と改めて思う。

5年前の夏、広島ウインドオーケストラの演奏会を聴いた翌日に、思い切って府中市まで行ってみた。実家の母から預かっていた古い戸籍抄本を頼りに、祖父が住んでいたであろう場所を訪ねた。側に同じ姓のお宅があったので、大胆にも呼び鈴を押した。

気持ちよく迎えていただき、お話を聞かせていただいた。

「もう20〜30年前のことだけど、あなたと同じように九州から訪ねて来た人がいると聞いています。」とも。

この年の春他界した私の父のことだ、と直感(それらしい話を父から聞いた記憶があった。しかし母や弟は、「多分違う」と言っている…)。

当然、祖父が暮らしていた時代とは風景も人も変わっているのだろうが、父も私も直接そこに行くことで何か(それは、今生きていることの意味かもしれない)を感じようとしたのかもしれない

今のところ一度きりの訪問だが、その時の風景はしっかり焼き付いている。

広島では、演奏会場に向かう前必ず平和公園に寄ることにしている。

現在に生きる者として、過去から学び未来を考えることは私たちの大きな義務だと思うから。それを確かめるために…。

そして、その日演奏される曲目(あるいは作曲家のこと)などを自分なりにリンクさせて臨んでいるのだ。

(今の広島の2つのオーケストラからは、「広島だからこそ、広島のオケだからこそ」という強い想いを特に感じる。)

私が広島に足を運ぶこと、広島で音楽を聴くことの意味はこんなところにもあるのだ。

人生の折り返し地点はとっくに過ぎている。

少々説教染みたことを言うことも増えてきた。

説教臭い、と嫌な顔をする人もいるかもしれない。

しかし、繰り返し言わねばならないだろう、今こうして生きていることの反対側では多くの犠牲があったのだ、ということを

さて、次の世代にどう伝えていく…?

またひとつ歳を重ねた今日を、皆さんに、そして今生きていることに感謝しつつ、何をどのように伝えていくかを考えてみる日にしよう。

そう、自作『新しい日の出のための挽歌』(原爆直後の広島をテーマにしたイギリスの詩からインスピレーションを得た作品)を聴きながら…。

(2019年10月6日)

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広島ウインドオーケストラ第47回定期演奏会

今回も示唆に富んだプログラミングだ。

『ダンス!ダンス!ダンス!』とただ楽しむだけではない深い意味が込められているように感じる。その辺りは後述する。

つい通り過ごしてしまいそうなところにある爆心地。未来を語る、考える上で通り過ごすことのできない真実。

実は、今日の広島ウインドオーケストラを聴く意義はこんなところにもある、と思っている。

ということで、今回も演奏会前にここに立ち寄ってみる。

「未来への責任」を自覚するために。

「過ちは 繰返しませぬから」という言葉が重く響く

今こそ、被爆し、多くを失った方々から発せられたこの言葉の意味を考えなければならないのでは…

(2017年5月27日)

さて、今回の広島ウインドオーケストラを聴く意義。

全作品、作曲者が自分の生活基盤を置く国以外に素材を求めている(作曲の動機は別にして)点がとても興味深い(プログラミング・アドバイザーの国塩哲紀さんは、「そこまでは考えなかった。同じ様な感じの曲が続かないよう考えた結果」と仰っていたけど…)。

今回の演奏会の裏テーマ(私が勝手に思っただけだが)、曲目を見ても分かる通り、異文化へのリスペクト(『コリアン・ダンス』のみは作曲者のルーツに迫るもの、かな…)。

音楽に限らず異文化から刺激を受けて、あるいは刺激しあって文化というものはさらに向上し、私たちは人間性を高めているのだ

国同士の争いが絶えない現在、その争いが人間にとってどれだけ無意味なことであるかを今回の演奏から感じることができるか…、それが私なりのテーマだったのだ。

こうしたことを考えることができるのは、広島ウインドオーケストラの演奏会であるからこそ、なのだ。

(2017年5月28日)

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