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カテゴリー: colmn / essay

広島交響楽団 第370回定期演奏会

今日の広島ウインドオーケストラの演奏会を聴くため、昨日広島入りしたが、広島交響楽団の演奏会があることを知り当日券で鑑賞。広響を生で聴くのは初めてだ。

ミリシェーによるトマジの『トロンボーン協奏曲』を聴けたのはよかった。

オケはいろんな意味で大変だったような気がする。

広響の演奏会、今回の指揮者は、やりたいことが棒で現れない感じがして…。

指揮に合わせようとすればするほど、それこそ「悲愴」な結果が訪れかねない、などと思ってしまう。指揮者の意図を感じとるにはリハの時間が足らなかったのかな…?

広響、本番では何が起こるか分からない、というスリルをあまり良くない意味で感じてしまったのは事実。奏者の、曲や指揮者への共感というものはステージを見ていれば嫌でも分かるものだが、昨夜は最後まで指揮者への共感は感じられなかったかな、尊敬の念は感じたけど…。

広響、しかしながら、ある種の人間味を感じることができたのは良かった。

ともすれば、正確さや緻密さ、表面上の美しさを追い求めてしまいがちな中、多少の乱れはあってもやはり音楽は人間が生み出すもの、その場でしか聴けない音楽があるのだ、ということを改めて感じたのは収穫。

(2017年5月27日)

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自信

自分がやってきたこと、やっていることに自信が持てた瞬間というのが何度かある。そのひとつが、3年前ジェイガーの『シンフォニア・ノビリッシマ』を指揮したとき。

低音群から始まる第二主題(フーガのところ)、この5小節の主題を私は思い切りレガートで吹くよう指示した。

この曲、アメリカ人が作曲した純粋なオリジナルだがタイトルはイタリア語。「何か隠されているな」と思っていたのだが、件の第二主題、私はグレゴリオ聖歌のような雰囲気を感じたのだ。直感。もちろん、そこまでの曲の流れから変化をつける必要があるとも判断した上で。

入りの5小節を思い切りレガートで、次の声部が入ってきたらノンレガートで、と指示。奏者(特にこの曲に親しんでいた世代の)は大変だったと思う。

しかし、ある客演奏者の方からいただいた言葉が自信となった。

その方は大学時代に故フェネル氏の指揮でこの曲を演奏したことがあるそうで、「フェネルさんも、ここはレガートで吹かなくてはならない、と同じことを言ってましたよ」と練習後に話して下さった。フェネル氏がどのような意図でそう演奏したのかまでは分からなかったが、自信になったのは確かだ。

つまりこういうことだ。「みんながそうやっているから」(もちろん、様式上そうあるべきというものは除く)や.「ちょいと違うことやってみよう」ということではなく、楽譜をいかに読んで演奏に反映させるか、ということに少し自信が持てたということ。まぁ、その演奏が上手くいったかは別にして…。

(2018年5月6日)

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日本ウインドアンサンブル『桃太郎バンド』    アニュアルコンサート2016

オネゲルとゴトコフスキーに会うため防府へ足を運んだ。

いいコンサートだった。来て良かった!と言える内容だった。

今回は、「第3部」が目的。だって、今後実演に触れる機会はそうないと思われるから。

オネゲルは期待以上の演奏。

ゴトコフスキーは、事故もあったがフランスの響きがしっかりと。

小林恵子さんの手腕は見事だ!!

「この楽団だから、奏者だから」という想いでコンサートに足を運ぶこともあれば、「この曲が聴きたいから」と足を運ぶこともある。今回は後者の想いの方が強かったが、「きっとこの楽団にしかできない」というものを目指すと一段と質の高い演奏を聴かせてくれるのではないか、と思う。

設立3年目の、若い奏者たちで構成されているこの楽団、たくさんの可能性を秘めている。もしかしたら、今はまだ試行錯誤の時期かもしれないが、今後を期待したい。

プログラミングには、その楽団、奏者の考え方が反映されるものだが、今回はそれが明確に表れていたと思うし、それがこの楽団の強味だと思う。

「自分たちがやりたいもの」「ニーズ」「掘り起こし」がバランス良く並べられている。

これら3つに加え、「開発」というか「新しいもの」を配することもできる。

これらの要素をただ並べただけでは却って雑多な感じがするだろう。

どれかひとつの要素に焦点をあてたプログラミングもできるだろうし、ひとつの曲に複数の要素を持たせ取り上げることもできるだろう。

プロの楽団としての姿勢が端的に表れるのはプログラミングだと改めて感じた。

広島ウインドオーケストラの時にも感じたが、プログラミングや演奏を通してある種の「問いかけ」ができる楽団はそうあるものではない。そうした「問いかけ」と言えるものを常に発信できる楽団に成長して欲しいと思っている。

(2016年3月5日)

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広島ウインドオーケストラ第44回定期演奏会

広島ウィンドオーケストラの定期演奏会、期待を裏切らない素晴らしいものだった。

演奏もさることながら、聴衆の質が高いことにはいつも感心させられる。

隣りに座っていらした年配の女性、おひとりで来られていたのだが、「このオーケストラは注目しているんですよ」と。吹奏楽関係者ばかりが集う演奏会とは明らかに違う。このような聴衆が増えることで、このオーケストラはますますレベルアップしていくように思う。

もちろん、質の高い活動を地道に続けてきたからこそ、質の高い聴衆が集ってきているのは確か。昨夜も、指揮者、プレーヤー、そして聴衆がいい緊張感と集中力で演奏会に臨んだ感が…。

昨夜の白眉は何と言ってもプレヴィン作品!!

オーケストラの管楽器セクションにサックス、ユーフォニアム、コントラバスを加えた編成。通常の吹奏楽では耳にすることがないサウンドが心地よい。

演奏前、マエストロが笑いも交えながらも的確な解説をしてくれたことも、聴衆がこの作品にいい感じで集中できた要因のひとつ。

お隣の女性も、この作品を一番の楽しみにしていらしたようで、「素晴らしかった。楽しかった。」と。

プレヴィン作品に限らず、昨夜はマエストロが全て解説を述べながらの演奏。昨夜のような定期演奏会では行われることがないのだが、この試みは成功だったと思う。8月の広島市文化賞記念演奏会でのマエストロのトークが(もちろん演奏も)かなり好評だったとのことで、今回試みたとのこと。

演奏前に話しはいらない、という方もいるだろうが、パンフレットに書かれた解説だけでは伝わりにくい指揮者やプレーヤーの曲に対する想いなどを、その人の言葉で知ることができるのはありがたいと感じる。ましてや、普段耳にすることの多い有名なクラシック作品ではないだけになおさら。

もちろん、マエストロの人柄あってのものだ。聴かせてやるぞ、というような態度はいっさいない。聴衆の脳と心を程よく刺激し、作品に向き合う空気を作ってくれる手腕(話術)はお見事。音楽作りは言うまでもない。

昨夜の演奏会、プログラミングから進行、演奏まで全てが聴衆や、大袈裟に言えば世の中へのある種「問いかけ」に溢れていたように思う。こうした問いかけができる楽団、演奏会はなかなかない。私がこのオーケストラの演奏会へ足を運ぶ理由はこんなところにあるんだ、と気づいた。

「問いかけ」とは、確固としたものではない。私自身が感じた問いかけと、他の聴衆の方々が感じた問いかけは同じものである必要はない。

各々が感じた問いかけに対して、各々が自分の中で解答(あまりいい言い方ではないけど…)を出す。それでいいと思う。

マエストロは、フォルテで書かれた甘い(感動的な)メロディを、決して押し付けがましく歌わせようとしない(そう感じる)。

ダイナミクスや色は最終的には聴衆の心が生み出すもの、と考えていらっしゃるのだろうか…?私にはそう思えてならない。

つまりこういうことだ。

しっかりと解釈し、しっかりと主張すれば、物理的な音量に頼らずとも聴衆はフォルテとして感じることができるかもしれない、ということ。楽譜上の記号が物理的な音量のみを求めているわけではないということを再確認。

(2015年12月13日)

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恩師

柴田南雄氏の著作集(と言っても作曲作品ではない)を手に入れる。

分厚い本なので、普段から持ち歩いて、というわけにはいかない。

また、一気に読破するようなものでもない。気になった時に気になったページをめくるのだ。

私にとっては、作曲家というより音楽学者としての印象が強い。

学生の時、音楽史のテキストに柴田南雄氏の本を使った私の恩師・武田明倫先生は、氏の教え子だ。

私は「孫弟子」らしきことをひとつもできていない。

この著作集を読んでいると、「もっと早く、若い時に欲しかったなぁ」などと思ってしまう。ただ、若い時には欲しいと思ったかどうかは正直分からない。

まだ全てに目を通したわけではないのだが、私の音楽に対する考え方、見方などに少なからず影響を与えてくれそうな気がしている。

やっぱり、まだまだ欲があるのだ、私にも。

私のような少々ひねくれ者にも、恩師や恩人と言える方はいる。

上述の武田明倫先生だってそうだし、私を今の立ち位置にまで導いて下さった多くの方々。

ただ、本当の意味で音楽的な影響を与えて下さった方はおひとり。作曲家でもない、演奏家でもない。理論家の方だ。

学生時代に初めてこの先生の講義を受けた時から、心酔とまではいかないが、初めて尊敬できる方と出会った、と感じた。

それまでに、その先生のお名前も知っていたし、著書も読んだことがあった。

今でも、何か分からないことがあったりすると、先生の著書や訳書にまず手が伸びるのだ。

それほど私にとっては影響力が大きい。

非常勤でお見えになっていたこの先生(他大学の教授だった)の講義、もっとたくさんの仲間に受けて欲しいと思ったものだ。

何度目かの講義の後、私を含め僅か数名だった受講生を大学近くの居酒屋でもてなして下さったのだが、音楽の話もそこそこに、店内で流れていたテレビの相撲放送に夢中だった先生の姿がなつかしい。

卒業後しばらくは、時々手紙のやり取りをしたり、著書を贈っていただいたりというお付き合いだった。その後お会いしたのは12、3年前、武田明倫先生の葬儀。

あれからどうされているだろうか…。

東川清一先生の本は今も本棚の一番いい場所並んでいる。

(2015年)

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「秩序」としての音楽

結局、私たちは音楽に何を求めているのだろう…?

世の中、社会の有り様でその存在価値は大きく歪められることさえある。前に書いたショスタコーヴィチの『レニングラード』(『ちちんぷいぷい/ショスタコーヴィチ』参照)ではないが、置かれた状況によっては全く違う姿になることもある。

作品を創る側、演奏する側、聴取する側、そのいずれもが音楽にある種の「秩序」を求めているのではないか、見出そうとしているのではないか、というのが今の私の考え方。

「秩序」とは、調和が保たれている状態と言っていいだろう。

例えば、心の。

例えば、社会の、世界の…。

今向き合っている音楽(作品)のどこに「秩序」を見出そうとするかは人それぞれ。

いろいろな「秩序」を見出すことができると思う。

実は、私たちはほとんど無意識のうちに見出しているのではないか…?

そして私たちは、それを楽しんでいるのだ。

ただ、音楽を利用して誤った「秩序」を作り出そうとすることだけはゴメンだ。

創る側は、音のひとつひとつに意味、いや存在価値を与え「秩序」ある世界を生み出そうとする。

しかし、調和を保つにはある種の「緊張」が必要だ。その「緊張」は、演奏する側、聴取するに側にも必要。

「秩序」あるいは「調和」は「平和、平穏」と繋がっているかもしれないし、「平和、平穏」は「祈り」にも繋がるだろう。

先に書いた、「作曲家が感じる「何か」」(『「祈りの音楽」考』参照)とは、つまるところ、作曲家が想い描く「秩序」と言ってもいいのかもしれない。

(2015年)

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「祈りの音楽」考 

ある作曲家がこう言った。

「作曲家には、例えば音楽で「希望」のようなものを表現することはできない。そんなこと言う作曲家がいれば、それは音楽をまるで解っていない。」

こうも言っている。

「作曲家が感じている「何か」は、その音楽を磨き上げていくことで、その音楽を通して響くものだ。」

例えば、大きな犠牲を伴った災害や事件が起きると、「「人の苦悩」や「祈り」を表現しました」的な音楽が濫造される。全てが悪いとはもちろん言わないが、あまりにも安っぽいものが多い。そして、そうした音楽を「製造」する者のほとんどは、そんな大きな苦難とは無縁だ。

私が身を置いている業界、というかジャンルでもそうしたことがある。

こうした音楽を売ることが、大きな犠牲を強いられた方々への物資的な、あるいは経済的な助けになることは百も承知だ。

しかし、例のインチキ野郎(誰とは言わずともわかるだろう)のように、「人の苦悩」や「祈り」さえも利用しようとする輩も出てくる。

当事者の「苦悩」や「祈り」を、他人が「表現」することはできないと思っている。ましてや音楽で「祈り」を「表現する」ことは不可能だ。

私は、音楽そのものが「祈り」だと思っている。

その「祈り」は、作曲家自身の「苦悩」から生まれるものであって、作曲家は言葉にできない想いを音に込めるものなのだ。

そして、演奏者や聴衆が、「作曲家が感じている「何か」」をどう受けとめるかも実は求められているように思う。冒頭に書いたある人の言葉にある「音楽を磨き上げ」るのは、演奏者であり、聴衆であるということを忘れたくない。

まあ、濫造される音楽の中にも、磨き上げられていくものがあるかもしれないが…。

音楽で「祈り」を「表現する」ことはできないが、「祈り」を音楽として伝えることはできる。私はそう思いたい。

国際政治学者であり音楽評論家としても著名だった故矢野暢氏が、著書の中で、「戦争を題材として、あるいは戦争を契機として生まれた音楽には、名作が少ない」と書いている。上述したこと何か共通するものがあるように感じる。

例えば、ベートーヴェンの『ウェリントンの勝利(戦争交響曲)』やリストの『マゼッパ』などについては、作曲者がいかに戦争とは無縁であったかを述べており、バーバーの『交響曲第2番』などは、「時代錯誤」とまで言っている。

確かにいずれの作品も名作とは言えないなぁ…。

そして、矢野氏は、戦争を題材とした、あるいは戦争を契機に作曲された作品は、単に「音響素材」として表現されているか、または「政治的メッセージ」かのどちらかに陥りやすい旨のことを書いている。

数多の「祈りを表現しました」的音楽も、そうした傾向はあるかもしれない。「政治的メッセージ」が込められたような、ある種の厳しさを持ったものは少ないようにも思うが.…。

音楽が「祈り」であるのは、世の中には、あるいは人生には苦難や障害があるから。

だからこそ音楽の存在価値もあるはずだ。

苦難や障害がなければ、音楽の意味合いも変わってしまうだろう。

戦争を契機に作られた作品の中で、個人的に惹かれるものもある。例えば、ニールセンの『交響曲第4番』など。

こうした音楽は、実は今後生まれてほしくはないのである。こうした音楽が次々に生まれてくる世の中では、正直希望が持てなくなるから。

そういう意味で、「祈りを表現しました」的な音楽が次々と生まれてこないことを「祈って」いる。

(2015年)

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モーツアルト嫌い…ではない

学生時代、音楽史(中世~バロック)の先生が、ラヴェルが大好きだと仰っていた。「自分は学生の時一番興味のなかった分野を専攻したのだ」、と。

当時は「???」だったけど、この歳になって、なんとなく先生の仰っていた意味が分かるような気がしている。

実は、昔から現在に至るまで、モーツァルトとは相性が良くない(と勝手に思い込んでいる)。

しかし最近は、なぜ相性が良くないのか追求してみよう、などと思ったりするのだ。

何でもそうだが、なぜ嫌いなのか、相性が良くないのかなどを追求することはなかなかないものだ。そんなことするより、興味のあるもの、好きなものを追い求める方がいいに決まっている。

ただ、好きなものばかりに目を向けていると、それを嫌いになることもある、距離を置きたくなることもあるのは確かだ。

好きなもの、相性がいいものと、ずっとそのような関係でいたいからこそ、嫌いなもの、相性が良くないと思っているものと接することが必要なのかもしれない。

そう、嫌いな理由を知ることは、好きな理由を知ることになる、ということだ。

わたくし、モーツァルトと相性が良くないと思っているだけで、決して嫌いと言っているわけではない、念のため。

(2015年)

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価値

音楽を仕事にしていることもあり、楽譜というものは必要なアイテム?だ。

楽譜はコピーで持つものではない、当たり前のことだけど。しかし、欲しくてもなかなか手に入らないものもある。手に入れようとしても、時間やお金(当たり前)もかかる。ただ、それだけの価値があるもの、そう思うようにしている。

簡単に手に入るものこそ簡単に手放してしまうものだ

最近は、IMSLPのサイトからパブリックドメインとなった楽曲や楽譜を簡単に手に入れることができる。それはそれで有難いのだが、実は何でもかんでも簡単に手に入ることに抵抗を感じたりもする。

もちろん、物の価値というのは値段ではなく人それぞれの価値観によるものだから、他の方々のことをどうこう言うつもりは当然ないのだが、こと音楽について言えば、その楽曲、楽譜が供給されるまでの間、作者や出版社がどれほどの労力と時間をかけているのかを忘れたくない。

「物」のうらにある労力や時間、まぁ音楽に限ったことではないけれど、明らかに労力や時間がかけられてないと思えるようなものに出会うこともまた多い。 その辺は自分(の仕事)にも言い聞かせたいところだ。

(2015年)

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人生

今年はシベリウスニールセンの生誕150年ということで、さまざまな企画があるようだが、シベリウスを生んだフィンランド、実は優れた作曲家の宝庫。サッリネンなどは現代音楽とはいえ聴きやすいし、どちらかと言うと簡素な作風。やっぱりシベリウスの国の作曲家、と思わずにはいられない。

同じ北欧の作曲家なら、シベリウスよりもニールセンの方が好き、というか肌に合う感じ。まぁ、聴くのはほとんど4番・5番の交響曲ばかりだから、何とも言いようがないのだが…。

シベリウスやサッリネンなどを聴くと、「簡素」に思えるものほど、実は奥が深く、そして強い表出力を持っているのかもしれない、と感じる。もちろん、環境に寄るところは大きいだろうし、作曲家の人間性や力量によるものであることは言うまでもない。

そういう意味では、エストニアのペルトも同じかな…。

もちろん、シベリウスやサッリネンなどとは違った個性を持っているけど、「簡素」な中の「強い表出力」は現代屈指と思う。

「簡素」でありながら「強い表出力」、これは自分でも心に留め置いていたい創作姿勢。ということは、もっと人間磨きをしないといけないな…。

彼らのように厳しい時代を、社会を生き抜いてきた人の音楽には、全てが共感出来るとは言えないものの、何か深いものを、そして厳しさというようなものを感じてしまう。

これは作曲に限ったことではない。演奏だってそうだと思う。音楽の深さ、それは人生、人間の深さということだろう。

まぁ、わたしたちは、作曲家の、あるいは作品の背景や、当時の世界状勢を知ったことで、そのような聴き方をしているのだが、それが決して間違いだとは思わない。

ただ、音楽に共感することはできても、その人生に共感することは、同じ状況に身を置かない限り難しいことだ、苦悩を分かち合うことはできないのだ、ということだけは自覚しておきたい。

だからと言って、同じ社会状況を生み出すわけにはいかない、生み出してはならないのだ。それもまた人生の深さ、人間の深さというものだ。

結局、人生、人間の深さというものは、実は音楽を享受する側にも求められているのだろう…。

(2015年)

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