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カテゴリー: colmn / essay

ロッシーニ『スターバト・マーテル』

当時『ウィリアム・テル』序曲くらいしか縁のなかった私にとって、大学の合唱でやった『スターバト・マーテル』はロッシーニのイメージが変わるくらいインパクトは大きかった。

その演奏会では、仲のいい友達がソリストをつとめたこともあり楽しかった(宗教曲だから本当は楽しむものではないのだろうが…)。

そのロッシーニが、今の私と同じくらいの年齢の頃は、すでに一線から退いて悠々自適、美食の日々だったそうな…。

料理の名前に自分の名前が使われているくらいだから、相当なものだったのだろう。

そんな人生と『スターバト・マーテル』のような曲とのギャップがまた面白かったりする。

(2013年8月27日)

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ルトスワフスキ生誕100周年

ヴェルディやワーグナーの生誕200周年の影に隠れてしまっているが、今年は、ポーランドのルトスワフスキの生誕100周年。私の場合、どうしても同時代の作曲家の方に興味が向いてしまう。

特に、厳しい時代を生き抜いてきた人の音楽には、全てが共感出来るとは言えないものの、何か深いものを、そして厳しさというようなものを感じてしまう。これは作曲に限ったことではない。演奏だってそうだと思う。音楽の深さ、それは人生、人間の深さということだろう。

(2013年8月21日)

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戒め

周りを見ないと(聴かないと)暴走する。周りを見すぎると(聴きすぎると)停滞する。人生も音楽も一緒だな。

(2013年6月10日)

「やらされている」という感覚で演奏に臨むことなんてあり得ない。

聴衆、ましてや音楽に対して失礼過ぎる。

「仕方なく…」「取り敢えず…」なんて気持ちがあるなら、やらない方がマシ。

聴衆にとってはただの騒音にしかならないから。

誰に対して、というものではない。自分への戒めとして…。

(2013年6月11日)

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素材を活かす

遅めの食事をとった昨夜、最後に出していただいた焼物を味わいながら、「素材を活かす」とは何ぞや…と思う。

見た目には少々雑な感じにも思えるが、これも「演出」!

見た目と味のギャップが楽しい。そして、それぞれの素材が主張しつつも他の邪魔をしていない…。

見習いたいものだ、と思うとともに、「きれいに」整えるだけでは音楽にならない、とも…。

(2013年6月8日)

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「技術などいらないんですよ…」/ケンプ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ選集

ソナタ 第8番 「悲愴」
ソナタ 第14番 「月光」
ソナタ 第21番 「ヴァルトシュタイン」 
ソナタ 第23番 「熱情」

ヴィルヘルム・ケンプ (ピアノ)

ヴィルヘルム・ケンプ (1895-1991) といえば、20世紀を代表する名演奏家のひとり。バッハからベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに至るドイツ音楽を得意とし高い評価を受けた。

現代では完璧な技巧による庇護のない演奏が求められる傾向にあるように思うが、ケンプは技巧よりも即興的なファンタジー、精神性を重んじる演奏スタイル。深い精神性にえ、あふれる高揚感、視野の広い楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作…。そんな彼のスタイルは、フルトヴェングラーと少なからず共通する所があるようで、実際フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中も、特にケンプに深い関心と理解とを示したと伝えられている。

ただ、その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だったが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあったようだ。

彼は自身を「作曲家」として捉えていたようで、若い頃は技巧的な練習に熱心に励むことはなかったという。

第2次大戦後、一時演奏禁止になったことで、逆に技巧的な弱さをある程度克服することができたと言われている。

彼は、きっと己の技巧的な弱さを知っていたのだ。己の弱さに真摯に向かう姿勢を持ち続けた(と思われる)彼の演奏に時々耳を傾けたくなる。

そのケンプ、こんな言葉を残している。

「技術などいらないんですよ。肝心なのは、ちょうどその時に、ちょうどの鍵盤を押す、ということなんですから。」

それが技術なんだと…。
己の弱さを克服したからこそ口にできる言葉だろう。

(2011年)

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『ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション』

ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション

プレリュード、フーガ&リフス(バーンスタイン
クラリネット協奏曲(コープランド)
エボニー協奏曲(ストラヴィンスキー)
デリヴェイションズ(モートン・グールド)
コントラスツ(バルトーク)

ベニー・グッドマン(1909-1986)、言わずと知れた「スウィングの王様」だが、彼はクラシック音楽のジャンルへも大変興味深い録音を残している。

このアルバムは、各曲の作曲者との共演という、とても面白ものになっている。

バルトーク作品以外はそれぞれ作曲者が指揮者として、バルトークはピアニストとして共演している。(別の角度から見れば、前に書いた「自作自演」

ジャズを中心に活動している方がクラシックも、という例はもちろん現代にもある。

チック・コリア(1941-)やキース・ジャレット(1945-)がバッハやモーツァルトを取り上げた例もあるし、ウィントン・マルサリス(1961-)の活動もある。

クラシック音楽とジャズの関係はおそらく、ガーシュウィン(1898-1937)から始まるのだが、その後、この関係はとても幸せなものとなったのではないかと思う。

互いに影響し合いながら、ある意味新しい音楽の形を生み出したといってもいい。

「特定の宗教を超えた・・・」(「信仰と音楽/ブルックナー」参照)ではないけれども、ジャンルを超えた邂逅は作曲面でも演奏面でも次代へのメッセージを残してくれていると言ってもいいだろう。

「即興性」という観点から、チック・コリアとバッハの関係も面白いと思うのだが、楽器は違えどベニー・グッドマンならバッハとどう向き合ったであろうか?

(まぁ、時代的にもバッハにクラリネットのための作品がない、ということはあるのだが…)

上記のアルバム以外にも、モーツァルトやウェーバーの協奏曲なども残している彼のバッハを聴いてみたかった。

(2011年)

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フーガ/風雅

バーラミ・プレイズ・バッハ(6枚組)
ラミン・バーラミ(ピアノ)
【CD 2】
フーガの技法 BWV 1080

大「バッハ」の残した傑作のひとつ、『フーガの技法』
文字通り、バッハが「フーガの技法」をとことん突き詰めた作品集だ。

その中の未完の一曲(『フーガの技法』とは関係なく作曲されていたのではないか、という研究もある)に、バッハは自らの名前を堂々音符で書き込んでいる(ただし、それを意図していたのかどうかは…)

この曲の第3主題として登場する。

(変ロ)-A()-C()-H()

と、いうわけだ(カッコ内は日本音名)。
この主題が登場した後、フーガは終止線が引かれぬまま…。

現在では、こうして人の名前などを音名に当てはめてテーマを創る技法は普通に行われているが当時からそのようなことが行われていたとは…、さすが大「バッハ」だ。

未完というのが何ともミステリアスだったりもするが、まさに音楽に、楽譜に命を吹き込んだ、というわけだ…。なんとも「風雅」だ。

大「バッハ」に魅せられ、
B(変ロ)-A(イ)-C(ハ)-H(ロ)という主題を独自の技法で展開させた作曲家が数多く出た(そうした作品を集めたCDのあるようだ)ことからも彼の偉大さがわかる気がする。

もっとも、この音型、音高は全音分低いAs(変イ)-G(ト)-B(変ロ)-A(イ)だがバッハの別の作品で見ることができる。『組曲へ短調 BVW823』の第2曲目、かなり耳に残る使われ方だ(音型の前に一音加わっているし、主題的な要素ではないのだが)。

件の箇所、おわかりいただけるだろうか?

そう、耳に残る、といえばショスタコーヴィチが『交響曲第10番』や『弦楽四重奏曲第8番』に織り込んだD(ニ)-S(=Es/変ホ)-C(ハ)-H(ロ)という音型、これも自らの名前から導き出したものだが、比較的狭い音域での半音階的な進行は、どこかバッハと共通するものを感じる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』に倣った、『24の前奏曲とフーガ』という作品があるようにショスタコーヴィチがバッハから受けた影響は小さくない。こうした音型を作品に用いることも必然だったのか…?

(2011年)

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好き嫌いだけでは選曲も演奏もできない

好き嫌いだけでは選曲も演奏もできない。自分の仕事はそういうものだと思っている。

もちろん、個人的な好き嫌いはあるけど、仕事の場ではそれを公然と言うべきではないと思っている。

要は、音楽に、楽譜に向き合う姿勢だと思う。どんなに演奏しても何も感じないものもあるのは確か。それでも、常に新しく取り組む気持ちだけは持っていたい。そのうち、「あぁ、そうだったんだ」と思うものが出てくるものだ

「前に言われたことと違います」とプレーヤーが言うこともあるが、考えは変わるもの、自分の考えやイメージを伝えることが大事。もちろん、最低限守るべきものはあるけど。

何度もやったものでも常に新しい気持ちで取り組むこと、その気持ちだけは忘れないようにしたい。

そう思うようなってから、楽譜の書き方も変わってきたような気がしている。

(2013年6月7日)

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自作自演

バーンスタイン・コンダクツ・バーンスタイン

ディヴェルティメント
ハリル
「ミサ曲」より3つの瞑想
オン・ザ・タウン:3つのダンス・エピソード

レナード・バーンスタイン指揮

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、他

バッハやベートーヴェンが自作をどう演奏していたのか、ということはいつも考える。

「自作自演」だ。

技術の進歩もあり、現代は様々な「自作自演」を聴くことができる。

作品や作曲家によっては、「自作自演」はつまらないと思うこともあるが、作曲者の作品に対する想いを伺うヒントにはなっているように思う。

しかし何よりも、指揮をする作曲家が演奏者に対しどう向き合っているのかが気になる。

私の場合、正直言って、自分の書いた楽譜を指揮することほど嫌なことはない。

嫌というか、難しい…。

他の楽譜と向き合っている方がどれほど楽か…。

奏者に注文つけるときも、つい低姿勢になってしまう。

確かに、人が書いた音符よりも、自分が書いた音符の方がかわいいし大切。

他の曲では、極端な場合、不必要だと思った音はバッサリとやってしまうこともあるのに、自分の書いた音は…。

しかし、演奏者はシビア。その曲(楽譜)のことを一番知っている(はず)の人が目の前に立っているのだから、その目はより厳しい。

演奏者からの疑問にちゃんと答えられなければ、あるいは簡単に楽譜に手を加えようものなら、

「こいつ、ちゃんと考えて書いているのか…?」

ということになる。

だから、自分の楽譜を演奏する時は、出来る限り、演奏者の目で望むようには心がけている。時々、「誰だ、こんなこと書いたのは!?」と、声を発してしまうことも…

作・編曲者の目と演奏者の目、ある意味、二重人格になりつつある…。

(2006年)

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「謎」はナゾのままでいい

エルガー 管弦楽作品集(5枚組)
ジョン・バルビローリ指揮
フィルハーモニア管弦楽団、他
【CD 4】
創作主題による変奏曲「謎」
行進曲「威風堂々」 第1~5番
セレナード

イギリスの作曲家エドワード・エルガー卿(Sir Edward Elgar 1857-1934)の名前は知らなくても、「威風堂々」 (Pomp and Sircumstance) と題された行進曲は耳にしたことがある方も多いはず(この行進曲の第1番はイギリス第2の国歌とも称されるほどの名旋律)。

そのエルガーの作品の中に「謎」 (Enigma) という、管弦楽のための変奏曲がある。

エルガーが自ら創作したテーマと14の変奏から成っているのだが、それぞれの変奏にイニシャルが付されている(これが第1の「謎」)。

今日では、それらが何を表しているのかは解き明かされているが、エルガー自身が、「この曲の真のテーマは姿を見せない」と語っていることから、全体を通した大きなテーマがこの曲にはあるようだ(これが第2の「謎」か…?)。

エルガー本人は生前、これら二つの謎を自ら明かすことは無かったという。

第2の「謎」は依然不明のようだが、「謎」はナゾのままでもいいんじゃないか、という気もする。

確かに人間は、「謎」を解くことによって、進化してきた側面があると思う。

文化、芸術、学問、科学技術などなど…、これらの発達も、いわば「謎解き」にある…。

そう思うのだ。

一応音楽に関わる仕事はしているのだが、「謎」がある方が楽しい!!

すべての「謎」が解明されてしまっては、多分人生も楽しくないような気がしている。

まぁ、生命に関わる「謎」以外は、ほどほどに解明されることを願ってはいるが…。

(2006年)

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