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カテゴリー: colmn / essay

三拍子の話 〜第3回〜


話が少し逸れてしまったので、軌道に戻そう。

洋の東西を問わず、三拍子は「特別」のものなのだ。
私たちが日頃から触れている西洋音楽、歴史を辿れば、それはキリスト教の信仰に深く関わってきたことは改めて語るまでもない。
キリスト教では、「」は聖なる数字三位一体、天・地・地獄、昨日・今日・明日という意味がある。
2で割れる数字)は世俗の数字

現在私たちが使う「拍子記号」に、ルネサンス期の定量記譜法の名残があることも改めて説明する必要はないだろうが、現在の拍子記号に当たる「メンスーラ」が、現代譜における「アクセントの周期的な反復」を意味していない、という点は押さえておきたい。「音の分割」の方法を示しているに過ぎない、ということだ。
そして、この「音の分割」、三分割は「完全分割」、二分割は「不完全分割」とされている。
「3」は宗教的にも「完全」を意味したという。
やはり、「3」は特別なのだ。


小節線」が広く使われるようになったのは、17世紀中盤以降のことと言われている。小節線が使われるようになった(必要とされるようになった)のは、ポリフォニー、器楽および舞踏の発展が深く関わっていると考えてもいいだろう。ただ、当初は、単に音符を揃えるためのもので、強拍(あるいはアクセント)を意味するものではなかった、とうことは知っておく必要がある。
ひとつ付け加えると…、
バロック期の拍子には、私たちが普段使う「拍子」とは異なる概念があったということ。テンポの基準となったのは、音符ではなく「小節」であったということ。
このテンポシステムはバロック以前からウィーン古典派まで続いた。
ベートーヴェンはこの方法から離れていった作曲家ではあるが、作品にはその影響が見て取れる。かの「英雄」交響曲(第一楽章は三拍子だ!)や第五交響曲、後に彼が付したメトロノーム記号からも、「小節」を基本拍として作られたことが分かる。さらには第九交響曲の第二楽章、4分の3拍子から2分の2拍子に変わる場面で小節の時価は変わらない、という点も見逃せないし、そうした作曲法は実は今日に至るまで受け継がれているのだ。

次の回では、小節内で分割された音符(あるいは「拍」)に「強弱」の区別をつけること、つまり「拍節」について考えてみることにしよう。


「第4回」につづく

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三拍子の話 〜第2回〜


さて、話は少し変わるが…
音楽において日本人は「三拍子」が苦手ということ(らしいの)だが、人物(あるいは事象)を評価する際に「三拍子」を用いるのが得意だ。

例えば、野球においては、「『走・攻・守』三拍子揃った〜」との表現はよく目にするし、かつては、「早い・旨い・安い」の三拍子を売りにしたどんぶり屋チェーンもあった。

日本人が好んで使う「三拍子揃う」の起源(?)となったのは、日本の伝統音楽で、小鼓(こづつみ)、大鼓(おおかわ)、太鼓(たいこ)の三種の打楽器の調子が揃ってよい演奏が奏でられることを言ったもの、と言われている。

さらに遡ってみよう。
雅楽には、「序・破・急」というテンポに関する概念がある(テンポを三段階にわけて把握する考え方はおそらくインドから発していると考える事が妥当(故小泉文夫氏)とのことだ)。雅楽においては、この「序・破・急」三つが備わっている楽曲は整った形式の楽曲とされているのだが、実際はその完備した楽曲はそれほど多くはなかったそうだ。

三つを備えること、それは理想の形を表すことになる、ということか…。

そう考えると、「三拍子揃う」ということが、「大切(必要)な条件(要素)がととのっている(備えている)のこと」、「理想形」ということの意味で使われることに異論はない。
まあ、「飲む・打つ・買う」や「キツい・汚い・危険」(いわゆる「3K」)といった、「マイナス」な意味での使われ方も現代にはあるけど…。

ここで考えておきたいのは、3つに分けることの意味、3つ(の要素)を備えることが何を意味しているのか、ということ。


直感でしかないのだが、それは人間の日常の生活サイクル(あるいはリズム)に直結している、深く関わっているのではないか、というのが私の考えだ。
つまり、活動(仕事や勉学など)の時間・くつろぎの時間(プライベートな時間)・睡眠の時間、ということだ。
この3つのバランスがどうとれているかが、人格の形成(あるいは精神面)に多少なりとも影響を与えていると考えられないだろうか? そこから生まれる文化にも当然影響を与えるはずだ…。
これら3つは、人間の営みの(歴史の)中でほとんど変わることのなかった大切な要素ではないか…?(どこかに偏りがあろうと)。
全ての文化は、人間の営みを反映している。これは日本の文化に限ったことではないだろう。

私だって、仕事もプラーベートも充実、睡眠もしっかり…、「三拍子揃った」と言ってみたいものだ。


「第3回」につづく

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三拍子の話 〜第1回〜


音楽において、日本人は三拍子が苦手だとよく言われる。

その根拠は…?

実は、「なるほど!」と思えるような答えに出会ったことはない。
リズムの感じ方・捉え方については、「農耕民族」と「騎馬民族」では違いがあり、「農耕民族」である日本人は二拍子、と何となく理解させられてはいるのだが…。

ただ、少し違った視点から、こんな考察に出会ったことがあり、「それはあるかもしれない」と感じたことはある。

あるピアニストの方の考えだ。

①1、2、3を音にすると「いち、に、さん」となる。
 (この読み方、言い方が三拍子に上手くはまらないのではないか)

②さらにローマ字表記にすると「ichi – ni – san」となる。
③繰り返すにしたがって、「3」の語尾「n」が、なんとも「1」に戻ろうとする力に「ブレーキ」をかけてしまって、いまいちスムーズに「1」に戻れない…

のではないか、ということらしい。

そこで、この方は、「さん」を「さ〜」と言ってみるアイデアを示している。

個人的には、「ひ〜、ふ〜、み〜」とやった方が…と思ったのだが…。

「解決法」は様々考えらると思うし、こうした(ある種の)試行錯誤は続いていくことだろう。
どのような方法が「正解」か、などということを追求することはないと思う。
人それぞれの「解決法」を見つけ出すことが大切だ。

しかし、何より大切なのは、この方が指摘しているように、
それぞれの言語の持つ特徴が、もしかすると、密接にその言語を使う人種の音楽性にも深く関与しているのかも」しれないということを、私たちは頭の隅にでもおいておく必要がある、とうこと。


「拍子」の話とは少し違うが…、
例えば、若かりしころ、四分音符が連なった曲を演奏していて、「音が短い」と指摘されたことが度々あったが、後に「いち、にっ、さん、しっ」という語感をそのまま音符に反映させていたのだ、と気付いたものだ。
(今の教科書にはどのように書いてあるかは知らないが、四分音符は「タン」、八分音符は「タ」と書かれ、そう教えられてきたことも影響していたのだろうと思う。)


「第2回」につづく



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