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カテゴリー: in Just

曲目解説

組織に属していた頃、演奏会のパンフレットの「曲目解説」を(半ば強引に…笑)自分で書いていたことがあった、2〜3回ほど。

もちろん、考えあってのことだが、やはり組織が組織だけに、個人的な思いを発信することの難しさを実感した(決して批判しているのではない)。

お客様の多くは、クラシック音楽や吹奏楽に明るい方ではないと言ってもいい。

「警察音楽隊」というジャンル(?)を楽しみにお越しいただいている。

しかし、大きなホールで演奏できる機会はほぼ年一回。

普段の活動では取り組むことの(でき)ない作品も当然ながらプログラムしたくなる…。

だからこそ、なのだが、通り一遍な「曲目解説」にはしたくないという気持ちが強かった

それがいいのか悪いのかは、未だ自分には分からない。

ただ、どのような思いで選曲したのか、演奏するのかを伝える方が通り一遍な「曲目解説」よりもはるかに大切だとその時は思っていたので。

選曲を全て自分でやっていたわけではない。奏者の思い、考えを確認した上でプログラミングした曲目も当然ある。

そして、その曲目をどう意味付けするか…。

実はそれを考えるのは結構楽しかった。

「知っている曲」を望まれるお客様が多くいらっしゃる中で、普段はまず耳にすることの曲を聴いていただく…、.私は何かしらのガイドが必要だと思うし、これは、クラシック音楽の世界でも最近見られる「プレトーク」なども同じではないかと思う。

意味付けして「曲目解説」を書く…。

今思えば多分に自己満足的なところはあるし、その意味付けを奏者たちと共有できたとは必ずしもいえない、正直言って。

ちなみに、

「音楽は分からない」と謙遜気味に言う幹部の方々に承認してもらわないことには表に出すことはできないのだが(組織の名前で一般の方にお配りする「文書」のようなものだから当然だ!ひとつ間違うと、政治的、思想的な考えを警察が発信していると受け取られかねない。この点については特に敏感だ)、修正を求められたことはなかった(ありがたかった)。

もちろん、今は立ち位置が違うので、こうしたものを書くことは当分ないだろうと思うが、自分が聴衆として演奏会に足を運ぶ際、そこで提供していただく曲目を、自分なりに意味付けて聴くことができるようになったことは収穫だったのかもしれない(これだって十分に自己満足の域だが…)。

(2019年12月7日)

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行進曲「べっぷ」

行進曲「べっぷ」。

團伊玖磨作曲のこの作品、どれほどの方がご存知だろうか?

毎年恒例の「別府大分毎日マラソン」の開催25回目の年(1976年)に作曲されたものだ。(下の写真、「第50回別府国際マラソン」となっているが…)

おそらく、大分県内でもこの曲の存在を知る人はほとんどいないだろう(余程吹奏楽に関わりを持たない限り)。

名曲『祝典行進曲』の作曲者らしい、気品ある4拍子のグランド・マーチだ。

(註:以下、「楽譜」とは「出版譜」のこと)

私は2006年に大分県警察音楽隊で仕事をさせていただくようになってからこの曲の存在を知った(隊所有の楽譜で)。

好き嫌いは別として、やはり地元にゆかりのある曲は大切にしていかねば、との思いもあったので、こちらも毎年恒例の「定期演奏会」でいつか取り上げようと思った。

2016年2月、その機会は訪れた(というより、楽長の権限でプログラムに入れた)。

準備に一苦労した。

まず、スコア(総譜またはコンデンスド)が行方不明。自分で作成するしかなかった。

ただ、各パート譜を細かにチェックできたのは良かった(正誤表をもとにパート譜への書き込みをしつつ)。

実はこの過程で、楽譜の不備が原因で音楽作品が埋もれてしまうことがあるのかもしれないと、思ったのだ。それは、作者自身によるものと、楽譜を制作した側に問題がある場合とがある。「べっぷ」の場合は後者かな…。

「べっぷ」のパート譜は五線紙に手書きされた(かなり乱雑に)ものがそのまま印刷されているのだが、おそらく作曲者本人の筆跡ではないと思われる(以前拝見した他の曲の筆跡とはあまりにも違う)し、もちろん浄書家さんの手によるものでもない。

しかも、正誤表にはない、考えられないような間違いが…。

例えば、フルートのパート譜。

旋律が何故か一音高く書いてある箇所があるのだ。しかし途中から正しい音に…(B♭クラリネットとユニゾンなので、写す途中でそちらのパートを見てしまったか…?)。

バス・クラリネットのパート譜。

ト音譜表で書かれるのが慣習となっているが、一ヶ所5度上の位置に音符が書かれている(そこだけ、in E♭のバリトン・サックスを写してしまったのだろう…)。

正直、こんな楽譜では再演の機会はなかなか訪れないだろう、と思った。

もし、本当に作曲者自身(あるいは浄書家さん)が書いた楽譜でないとすれば、こんな不備だらけの楽譜を世に出すことは、作曲者や作品にとっても不幸なことだ。

それとともに、作品の質とは無関係に楽譜の質が作品の先行きを左右することもあるのだ、と感じたり…。

例えば、海外の古い行進曲の楽譜には、スコア(ほぼほぼコンデンスドスコア)とパート譜との間に音の間違いやアーティキュレーションの違いなど結構見られるのだが(それをどのように解決するかが一つの面白さでもあった)、さすがにこの「べっぷ」のようなことは経験したことはない。

今ではコンピュータ浄書も一般的になり、スコアとパート譜が食い違う、ということは確かに少なくなった(ほとんどの場合、スコアが間違っていればパート譜も同じ様に間違っているから)。ただ、その方がかえって厄介かもしれない。

演奏者に余計な苦労を強いるような楽譜はいただけないが、まずは作品の質(と、自分に言い聞かす)。

(歴史的な評価を確立している作品を除けば)質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。

(2019年10月9日)

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広島

広島ウインドオーケストラや広島交響楽団の演奏会に足を運ぶようになって6年になる。

最近は、「広島の地に吸い寄せられているいるのかな?」とさえ感じることもある。

多くの友人もでき感謝感謝だ!

実は、私のルーツは広島にある(そう思い込んでいるだけかもしれないが…)。

祖父は戦前、現在の府中市に住んでいた。満州に渡り、そこで父は生まれた(8人きょうだいの末っ子)。戦後、引き上げてきた祖父や祖母、父たち(きょうだいは3人しか生き残らなかった)は福岡で新たな生活を始めたのだ。

物心ついた頃から戦時中の(満州での)話はよく聞かされていた。一つ間違えると「シベリア抑留」あるいは「生き別れ」、「残留孤児」…そんな状況だったそうだ。

今こうして生きていることの反対側では多くの犠牲があったのだ、と改めて思う。

5年前の夏、広島ウインドオーケストラの演奏会を聴いた翌日に、思い切って府中市まで行ってみた。実家の母から預かっていた古い戸籍抄本を頼りに、祖父が住んでいたであろう場所を訪ねた。側に同じ姓のお宅があったので、大胆にも呼び鈴を押した。

気持ちよく迎えていただき、お話を聞かせていただいた。

「もう20〜30年前のことだけど、あなたと同じように九州から訪ねて来た人がいると聞いています。」とも。

この年の春他界した私の父のことだ、と直感(それらしい話を父から聞いた記憶があった。しかし母や弟は、「多分違う」と言っている…)。

当然、祖父が暮らしていた時代とは風景も人も変わっているのだろうが、父も私も直接そこに行くことで何か(それは、今生きていることの意味かもしれない)を感じようとしたのかもしれない

今のところ一度きりの訪問だが、その時の風景はしっかり焼き付いている。

広島では、演奏会場に向かう前必ず平和公園に寄ることにしている。

現在に生きる者として、過去から学び未来を考えることは私たちの大きな義務だと思うから。それを確かめるために…。

そして、その日演奏される曲目(あるいは作曲家のこと)などを自分なりにリンクさせて臨んでいるのだ。

(今の広島の2つのオーケストラからは、「広島だからこそ、広島のオケだからこそ」という強い想いを特に感じる。)

私が広島に足を運ぶこと、広島で音楽を聴くことの意味はこんなところにもあるのだ。

人生の折り返し地点はとっくに過ぎている。

少々説教染みたことを言うことも増えてきた。

説教臭い、と嫌な顔をする人もいるかもしれない。

しかし、繰り返し言わねばならないだろう、今こうして生きていることの反対側では多くの犠牲があったのだ、ということを

さて、次の世代にどう伝えていく…?

またひとつ歳を重ねた今日を、皆さんに、そして今生きていることに感謝しつつ、何をどのように伝えていくかを考えてみる日にしよう。

そう、自作『新しい日の出のための挽歌』(原爆直後の広島をテーマにしたイギリスの詩からインスピレーションを得た作品)を聴きながら…。

(2019年10月6日)

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広島ウインドオーケストラ第47回定期演奏会

今回も示唆に富んだプログラミングだ。

『ダンス!ダンス!ダンス!』とただ楽しむだけではない深い意味が込められているように感じる。その辺りは後述する。

つい通り過ごしてしまいそうなところにある爆心地。未来を語る、考える上で通り過ごすことのできない真実。

実は、今日の広島ウインドオーケストラを聴く意義はこんなところにもある、と思っている。

ということで、今回も演奏会前にここに立ち寄ってみる。

「未来への責任」を自覚するために。

「過ちは 繰返しませぬから」という言葉が重く響く

今こそ、被爆し、多くを失った方々から発せられたこの言葉の意味を考えなければならないのでは…

(2017年5月27日)

さて、今回の広島ウインドオーケストラを聴く意義。

全作品、作曲者が自分の生活基盤を置く国以外に素材を求めている(作曲の動機は別にして)点がとても興味深い(プログラミング・アドバイザーの国塩哲紀さんは、「そこまでは考えなかった。同じ様な感じの曲が続かないよう考えた結果」と仰っていたけど…)。

今回の演奏会の裏テーマ(私が勝手に思っただけだが)、曲目を見ても分かる通り、異文化へのリスペクト(『コリアン・ダンス』のみは作曲者のルーツに迫るもの、かな…)。

音楽に限らず異文化から刺激を受けて、あるいは刺激しあって文化というものはさらに向上し、私たちは人間性を高めているのだ

国同士の争いが絶えない現在、その争いが人間にとってどれだけ無意味なことであるかを今回の演奏から感じることができるか…、それが私なりのテーマだったのだ。

こうしたことを考えることができるのは、広島ウインドオーケストラの演奏会であるからこそ、なのだ。

(2017年5月28日)

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広島交響楽団 第370回定期演奏会

今日の広島ウインドオーケストラの演奏会を聴くため、昨日広島入りしたが、広島交響楽団の演奏会があることを知り当日券で鑑賞。広響を生で聴くのは初めてだ。

ミリシェーによるトマジの『トロンボーン協奏曲』を聴けたのはよかった。

オケはいろんな意味で大変だったような気がする。

広響の演奏会、今回の指揮者は、やりたいことが棒で現れない感じがして…。

指揮に合わせようとすればするほど、それこそ「悲愴」な結果が訪れかねない、などと思ってしまう。指揮者の意図を感じとるにはリハの時間が足らなかったのかな…?

広響、本番では何が起こるか分からない、というスリルをあまり良くない意味で感じてしまったのは事実。奏者の、曲や指揮者への共感というものはステージを見ていれば嫌でも分かるものだが、昨夜は最後まで指揮者への共感は感じられなかったかな、尊敬の念は感じたけど…。

広響、しかしながら、ある種の人間味を感じることができたのは良かった。

ともすれば、正確さや緻密さ、表面上の美しさを追い求めてしまいがちな中、多少の乱れはあってもやはり音楽は人間が生み出すもの、その場でしか聴けない音楽があるのだ、ということを改めて感じたのは収穫。

(2017年5月27日)

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自信

自分がやってきたこと、やっていることに自信が持てた瞬間というのが何度かある。そのひとつが、3年前ジェイガーの『シンフォニア・ノビリッシマ』を指揮したとき。

低音群から始まる第二主題(フーガのところ)、この5小節の主題を私は思い切りレガートで吹くよう指示した。

この曲、アメリカ人が作曲した純粋なオリジナルだがタイトルはイタリア語。「何か隠されているな」と思っていたのだが、件の第二主題、私はグレゴリオ聖歌のような雰囲気を感じたのだ。直感。もちろん、そこまでの曲の流れから変化をつける必要があるとも判断した上で。

入りの5小節を思い切りレガートで、次の声部が入ってきたらノンレガートで、と指示。奏者(特にこの曲に親しんでいた世代の)は大変だったと思う。

しかし、ある客演奏者の方からいただいた言葉が自信となった。

その方は大学時代に故フェネル氏の指揮でこの曲を演奏したことがあるそうで、「フェネルさんも、ここはレガートで吹かなくてはならない、と同じことを言ってましたよ」と練習後に話して下さった。フェネル氏がどのような意図でそう演奏したのかまでは分からなかったが、自信になったのは確かだ。

つまりこういうことだ。「みんながそうやっているから」(もちろん、様式上そうあるべきというものは除く)や.「ちょいと違うことやってみよう」ということではなく、楽譜をいかに読んで演奏に反映させるか、ということに少し自信が持てたということ。まぁ、その演奏が上手くいったかは別にして…。

(2018年5月6日)

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日本ウインドアンサンブル『桃太郎バンド』    アニュアルコンサート2016

オネゲルとゴトコフスキーに会うため防府へ足を運んだ。

いいコンサートだった。来て良かった!と言える内容だった。

今回は、「第3部」が目的。だって、今後実演に触れる機会はそうないと思われるから。

オネゲルは期待以上の演奏。

ゴトコフスキーは、事故もあったがフランスの響きがしっかりと。

小林恵子さんの手腕は見事だ!!

「この楽団だから、奏者だから」という想いでコンサートに足を運ぶこともあれば、「この曲が聴きたいから」と足を運ぶこともある。今回は後者の想いの方が強かったが、「きっとこの楽団にしかできない」というものを目指すと一段と質の高い演奏を聴かせてくれるのではないか、と思う。

設立3年目の、若い奏者たちで構成されているこの楽団、たくさんの可能性を秘めている。もしかしたら、今はまだ試行錯誤の時期かもしれないが、今後を期待したい。

プログラミングには、その楽団、奏者の考え方が反映されるものだが、今回はそれが明確に表れていたと思うし、それがこの楽団の強味だと思う。

「自分たちがやりたいもの」「ニーズ」「掘り起こし」がバランス良く並べられている。

これら3つに加え、「開発」というか「新しいもの」を配することもできる。

これらの要素をただ並べただけでは却って雑多な感じがするだろう。

どれかひとつの要素に焦点をあてたプログラミングもできるだろうし、ひとつの曲に複数の要素を持たせ取り上げることもできるだろう。

プロの楽団としての姿勢が端的に表れるのはプログラミングだと改めて感じた。

広島ウインドオーケストラの時にも感じたが、プログラミングや演奏を通してある種の「問いかけ」ができる楽団はそうあるものではない。そうした「問いかけ」と言えるものを常に発信できる楽団に成長して欲しいと思っている。

(2016年3月5日)

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広島ウインドオーケストラ第44回定期演奏会

広島ウィンドオーケストラの定期演奏会、期待を裏切らない素晴らしいものだった。

演奏もさることながら、聴衆の質が高いことにはいつも感心させられる。

隣りに座っていらした年配の女性、おひとりで来られていたのだが、「このオーケストラは注目しているんですよ」と。吹奏楽関係者ばかりが集う演奏会とは明らかに違う。このような聴衆が増えることで、このオーケストラはますますレベルアップしていくように思う。

もちろん、質の高い活動を地道に続けてきたからこそ、質の高い聴衆が集ってきているのは確か。昨夜も、指揮者、プレーヤー、そして聴衆がいい緊張感と集中力で演奏会に臨んだ感が…。

昨夜の白眉は何と言ってもプレヴィン作品!!

オーケストラの管楽器セクションにサックス、ユーフォニアム、コントラバスを加えた編成。通常の吹奏楽では耳にすることがないサウンドが心地よい。

演奏前、マエストロが笑いも交えながらも的確な解説をしてくれたことも、聴衆がこの作品にいい感じで集中できた要因のひとつ。

お隣の女性も、この作品を一番の楽しみにしていらしたようで、「素晴らしかった。楽しかった。」と。

プレヴィン作品に限らず、昨夜はマエストロが全て解説を述べながらの演奏。昨夜のような定期演奏会では行われることがないのだが、この試みは成功だったと思う。8月の広島市文化賞記念演奏会でのマエストロのトークが(もちろん演奏も)かなり好評だったとのことで、今回試みたとのこと。

演奏前に話しはいらない、という方もいるだろうが、パンフレットに書かれた解説だけでは伝わりにくい指揮者やプレーヤーの曲に対する想いなどを、その人の言葉で知ることができるのはありがたいと感じる。ましてや、普段耳にすることの多い有名なクラシック作品ではないだけになおさら。

もちろん、マエストロの人柄あってのものだ。聴かせてやるぞ、というような態度はいっさいない。聴衆の脳と心を程よく刺激し、作品に向き合う空気を作ってくれる手腕(話術)はお見事。音楽作りは言うまでもない。

昨夜の演奏会、プログラミングから進行、演奏まで全てが聴衆や、大袈裟に言えば世の中へのある種「問いかけ」に溢れていたように思う。こうした問いかけができる楽団、演奏会はなかなかない。私がこのオーケストラの演奏会へ足を運ぶ理由はこんなところにあるんだ、と気づいた。

「問いかけ」とは、確固としたものではない。私自身が感じた問いかけと、他の聴衆の方々が感じた問いかけは同じものである必要はない。

各々が感じた問いかけに対して、各々が自分の中で解答(あまりいい言い方ではないけど…)を出す。それでいいと思う。

マエストロは、フォルテで書かれた甘い(感動的な)メロディを、決して押し付けがましく歌わせようとしない(そう感じる)。

ダイナミクスや色は最終的には聴衆の心が生み出すもの、と考えていらっしゃるのだろうか…?私にはそう思えてならない。

つまりこういうことだ。

しっかりと解釈し、しっかりと主張すれば、物理的な音量に頼らずとも聴衆はフォルテとして感じることができるかもしれない、ということ。楽譜上の記号が物理的な音量のみを求めているわけではないということを再確認。

(2015年12月13日)

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恩師

柴田南雄氏の著作集(と言っても作曲作品ではない)を手に入れる。

分厚い本なので、普段から持ち歩いて、というわけにはいかない。

また、一気に読破するようなものでもない。気になった時に気になったページをめくるのだ。

私にとっては、作曲家というより音楽学者としての印象が強い。

学生の時、音楽史のテキストに柴田南雄氏の本を使った私の恩師・武田明倫先生は、氏の教え子だ。

私は「孫弟子」らしきことをひとつもできていない。

この著作集を読んでいると、「もっと早く、若い時に欲しかったなぁ」などと思ってしまう。ただ、若い時には欲しいと思ったかどうかは正直分からない。

まだ全てに目を通したわけではないのだが、私の音楽に対する考え方、見方などに少なからず影響を与えてくれそうな気がしている。

やっぱり、まだまだ欲があるのだ、私にも。

私のような少々ひねくれ者にも、恩師や恩人と言える方はいる。

上述の武田明倫先生だってそうだし、私を今の立ち位置にまで導いて下さった多くの方々。

ただ、本当の意味で音楽的な影響を与えて下さった方はおひとり。作曲家でもない、演奏家でもない。理論家の方だ。

学生時代に初めてこの先生の講義を受けた時から、心酔とまではいかないが、初めて尊敬できる方と出会った、と感じた。

それまでに、その先生のお名前も知っていたし、著書も読んだことがあった。

今でも、何か分からないことがあったりすると、先生の著書や訳書にまず手が伸びるのだ。

それほど私にとっては影響力が大きい。

非常勤でお見えになっていたこの先生(他大学の教授だった)の講義、もっとたくさんの仲間に受けて欲しいと思ったものだ。

何度目かの講義の後、私を含め僅か数名だった受講生を大学近くの居酒屋でもてなして下さったのだが、音楽の話もそこそこに、店内で流れていたテレビの相撲放送に夢中だった先生の姿がなつかしい。

卒業後しばらくは、時々手紙のやり取りをしたり、著書を贈っていただいたりというお付き合いだった。その後お会いしたのは12、3年前、武田明倫先生の葬儀。

あれからどうされているだろうか…。

東川清一先生の本は今も本棚の一番いい場所並んでいる。

(2015年)

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「秩序」としての音楽

結局、私たちは音楽に何を求めているのだろう…?

世の中、社会の有り様でその存在価値は大きく歪められることさえある。前に書いたショスタコーヴィチの『レニングラード』(『ちちんぷいぷい/ショスタコーヴィチ』参照)ではないが、置かれた状況によっては全く違う姿になることもある。

作品を創る側、演奏する側、聴取する側、そのいずれもが音楽にある種の「秩序」を求めているのではないか、見出そうとしているのではないか、というのが今の私の考え方。

「秩序」とは、調和が保たれている状態と言っていいだろう。

例えば、心の。

例えば、社会の、世界の…。

今向き合っている音楽(作品)のどこに「秩序」を見出そうとするかは人それぞれ。

いろいろな「秩序」を見出すことができると思う。

実は、私たちはほとんど無意識のうちに見出しているのではないか…?

そして私たちは、それを楽しんでいるのだ。

ただ、音楽を利用して誤った「秩序」を作り出そうとすることだけはゴメンだ。

創る側は、音のひとつひとつに意味、いや存在価値を与え「秩序」ある世界を生み出そうとする。

しかし、調和を保つにはある種の「緊張」が必要だ。その「緊張」は、演奏する側、聴取するに側にも必要。

「秩序」あるいは「調和」は「平和、平穏」と繋がっているかもしれないし、「平和、平穏」は「祈り」にも繋がるだろう。

先に書いた、「作曲家が感じる「何か」」(『「祈りの音楽」考』参照)とは、つまるところ、作曲家が想い描く「秩序」と言ってもいいのかもしれない。

(2015年)

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