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投稿者: kmasa1006

選挙権

選挙権の年齢が18歳に引き下げられることが決まった。

個人的にはいいことだと思っている。

若い人たちの政治離れ、選挙離れが言われて久しいのだが、私なりに感じることがある。若い人たちが政治に関心を示さなくなったのは、高齢者に厚い政策や、企業・業界寄りの政策を進めてきたからだ、との見方があるのだが、そうとばかりは言えない気がしている。

完全に社会構造の影響だと思うのだ。

例えば、投票率の推移を見ても分かる通り、20歳代の投票率は、昭和の時代から他の年代に比べて格段に低いのだ。

これは推測なのだが、20歳代は就職や進学でそれまで暮らした街を離れ、また、長期に渡ってその新たな土地で生活する可能性がかなり高い。これから何年過ごすかも分からない土地で、その地の代表たる方を選ばねならない。正直誰に投票したらよいか分からない、ということになるだろうと予想されるし、その気持ちは分からないでもない。

増してや、今は「国内グローバル化」しており、自分が居住している土地にいる時間の方が短いという人だって多くなっているはずだ。だから、そうした世代の投票率がより落ち込み、その土地に長い時間過ごす方々、年代の投票率が勝る結果になっているのではないか、と思うのだ。

そういう意味で、選挙(特に国政選挙)のシステムそのものが社会構造、社会状況と合わなくなってきているのかもしれない

政治への関心を求めるのはいいが、自然と変化していった社会構造ともっと向き合って、みんなが平等に意見を言えるような体制を作ってほしいものだ。
その際、恣意的なルールの解釈や変更は厳に慎んでいただきたい。

(2015年6月17日)

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人並み

初めてお酒をご一緒する方々との会話でまず出てくるのが、「どのくらいお飲みになりますか?」とか、「お好きですか?」というもの。

必ずと言っていいほど、「人並みです」と答える。いや、答えていた。私の場合なぜかこのように言われることが多かったからだ。

「お酒強いですね」とか、「かなりいける口ですね」とか…。

だから、最近はこう言っている。「人並みにしか飲めません」。

この歳になると、お酒もその時の雰囲気に合わせて体が勝手に調整してくれるようになる。若い時のように、無理強いされることもなくなり、無理強いすることもなくなった。宴席でも自分のペースで飲めるようになった気がする。まぁ、社会全般がそんな感じになったこともあるだろうが…。

お酒は嫌いではない。が、積極的に飲む方でもない。「人並みに…」と言うもは、謙遜というわけではないが、その場の雰囲気を出来るだけ壊さないように、との思いからだ。

「人並み」ということは、まぁ、「普通です」と言っているようなものだが、いろいろなライフスタイル、価値観があふれている今の世の中、何が「人並み」か「普通」かなどとは簡単には言えないようになったかもしれない…。

少なくとも、人様に迷惑をかけない程度、と思えばいいか…。

ということで、「みなさまのご迷惑にならない程度に飲みます」と言う意味で、これからも「人並み」と言うつもり。

(2015年6月16日)

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もし、逆の立場だったら…

被災地、特に福島産の食品の輸入を外国がいまだに制限している例がある。

私自身は何も気にせず、いいと思えば買う。

当の皆さんたちにとっては死活問題だし、私がその立場だったら当然、理解を求めようと努力するだろう。

ただ、一連の報道も含め、私たちが考えておかなければならないのは、自分たちが輸入する側だったら、ということだ。

外国の、それも原発事故のあった地域の食品を積極的に輸入しましょう、ということにはならないだろう。

もちろん、生産者の皆さんに責任はない。

「日本は食の安全には厳しい国。なのに、何故理解してくれないのか。」などと言って抗議するのは思い上がりと言っていい。

相手の立場を理解しようとしなければ(それが賛成であろうと反対であろうと)、こちらを理解してもらうことは到底できない。それが政治的にも摩擦がある国ならなおさらだ。

この問題だけでなく、どうも私たちは、自分たちの主張を述べることに一生懸命になりすぎ、反対の立場からものを見ることができなくなっているのだ(どこかの総理ではないが…)。それは相手を下に見ていることにもなる。そのような態度はでは、いつか必ずしっぺ返しを喰らうはずだ。

もし、逆の立場だったら…

そのことはいつも頭に置いておく必要がある。

(2015年6月5日)

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「前例の踏襲はしない」という前例

仕事をしている中で、「前例の踏襲はしない。するな。」と事あるたびに口にする方々がいる。

その多くは、得てして自分の考えを持っていない。

または、変えなくていいものまで無理矢理にでも変えようとしてしまう。

前例踏襲しないことの意味を履き違えていることが多いのだ。

桂米朝は、「才能がなくなると形式が生まれる」と言ってる。

そう、才能がないために、「前例踏襲しない」という形式に走っているのだ。

そして、そういう方々に限って、自分の過去の手柄を自慢し、その手法などを半ば強要してくるから手に負えない。

ご自分は完全に「前例の踏襲」なのだ。

いや、『「前例踏襲しない」という前例』を作ることにご執心なのだ…。

過去の成功に酔うことなく、傲ることなく次のステージを切り拓いていくことこそ本当の意味での「前例踏襲しない」であって、成功している方々や企業はそうやってきたのだと思っている。

自分でもそうありたい、と思っている。

私には今のところ自慢できるような成功、手柄はないので、「前例踏襲」のしようがないのだが、 少なくとも、「形式に走る」という誰かさんの前例を踏襲しないよう、日々精進するのみ。

(2015年5月14日)

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綺麗ごと

人間誰しも「無駄」なことはしたくないし、自分にとって有益ではないものは「無駄」と感じるものだ。

しかし、自分にとって無駄なものも、それなりの背景、理由があって存在しているということは忘れたくないものだ。

もちろん、全てとは言わない。

何時ぞやの「事業仕分け」ではないが、物事の価値や有益性が、ほとんど数字のみで判断されていたように感じる。

確かに裏付けとなる数字、データは正直だし、最終的にはそこで判断するしかないのだろうとも思う。

しかし、物事の成り立ちの背景や理由ということについては、数字、データで表せないことも多い。

当時はそれが最善だと判断されたからこそ、それこそ「無駄」のないように、ということで成り立ったものもあるはずだ。

そうした想いを述べようものなら、「綺麗ごと」と切り捨てられるのがオチだ。

ただ、例の「2番じゃダメなんですか?」は、その「綺麗ごと」を切り捨てるというよりは、むしろ引き出そうとしていたように思える。

時代の変化(「変質」の方が相応しいかな…)は、当然物事の変化を要求してくる。人間の価値観も変わってくる。

世の中は、人の想いの積み重ねで成り立っている。その時代時代の人の想いが支えとなって今があるのだ。

その支えを切り捨てては、足元が揺らいで、どうにも不安定になるだろう。 今の時代、数字やデータでは表せない「綺麗ごと」こそ実は必要なのかもしれない、と思っている。

(2015年5月13日)

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丁寧な説明・丁寧な議論

最近やたらと聞く言葉が、

「丁寧に説明し…」や「丁寧な議論を…」など。

これは明らかに、「今まで丁寧にやっていませんでした」と表明しているようなものだ。

おまけに、いつ、どこで丁寧にやったかなどは全く伝わってこない。

一時のモードのように軽々しく口にして欲しくないものだ。

実は当たり前のことなのだから。

広島で、丁寧な説明を求めた被爆者の皆さんに対し、「「見解の相違」と切り捨てた人がいた。

どうもあの方は、自分の言葉に酔っているようだ。

天皇陛下が仰る「国民に寄り添う」というお言葉も、あの方の口から時々聞かれる。

あのように軽々しく口にされると、少々バカにされているように感じる。

何様だと思っているのだろう。

選んでいただいた、という謙虚が微塵も感じられないのだ。

「丁寧な説明」、「丁寧な議論」という言葉は決して丁寧なものではない。

却って分かりづらいものだ。

そして、丁寧ということは、平易な、分かりやすいということではない。

平易な言葉、分かりやすい言葉は、むしろ誤解を招きかねない、ということを知るべきだ。

以前「言語明瞭、意味不明瞭」と言われた方と、そう言う意味では同じだ。

私たちは一体何を学んできたのだろうか…?

大震災の時、「絆」という言葉が連呼された。

決して否定的な思いはないのだが、

あれほど、モードのように叫ばなくても、との思いもあった。

私たちは、そう叫ばなくてもそうした心を持っているはずだから。

それでも、あの時の「絆」という言葉には、心があった。

そう、やはり言葉は心なのだ。

「心が入っていない言葉はゴミでしかない」とは、以前いた職場の先輩。

本当の意味での「丁寧な説明」、「丁寧な議論」というものは、

心と心でやるものだ。

決して、表面的な、分かりやすい言葉を使うことではないのだ。

(2015年5月12日)

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シャーロット

大分市の高崎山、サルの命名で騒ぎになっている。

イギリスのBBCまでが報道しているというからちょっと驚きだ。

大分市としては、一般公募していたわけだから、多くの声を反映させようとしたのだろう。

決して軽い気持ちで決定したのではないと思う。

せっかく命名するのだから、ベビー猿が生まれた時代を反映させようとの思いもあったと想像する。

私はペットを飼ったことはないが、きっと悩むかな…。

イギリスのプリンセスが誕生した途端、その名前での投票が増えたそうだが、その多くは、やはり、このベビー猿に時代を映そうとしたのでは、と思いたい。

抗議の声にもそう異論があるわけではない。

「失礼だ」という気持ちも分からないわけではない。

ただ、そのウラに、「たかがサルごときに…」というような考えがあるとしたら、それは違うのではないか、と言いたい。

なんとなく、そんな空気を感じる。

子どもでもペットでも名前が付けられるということは、誰かの愛情が込められているということだ。

プリンセスの名前で投票した人も、大分市の方も、きっと、プリンセスのようにみんなから愛されるように、と願っているのだ、と信じたい。

何かにあやかろうとするのは、日本人だけではなく、人間のひとつの欲求だと思う。

愛子さまが誕生された頃、それにあやかって自分の子どもに命名した人も多いはずだ。

誰も気分を害さなかったはずだ。

「たかがサルごとき…」ではない。

軽々しい命名(または抗議)は人や件のベビー猿を不幸にする。

この騒動、命名ということに限らず、いろいろと考えさせられる。

物事を掘り下げて考えることをしなくなっている今の時代。

開かれた王室を目指すイギリス王室の声を聞いてみたいものだ。

要は、「抗議が殺到」「抗議数十件」などの報道でことを知り、「そうだ!そうだ!」と簡単にその流れに乗ってしまう人が多すぎはしないか、ということ。

人の意見を簡単に自分の意見として表明するような人たちが今の時代多すぎる

実は、そういう人たちの方が、「たかがサルごとき…」と考える人よりタチが悪いと思う。

活躍している錦織圭選手にあやかった名前も候補だったようだが、正直、何が違うというのだろうと思う。

もしかしたら、そちらの方に不快な思いをする人がいるかもしれない。

抗議の声を上げた方、どう思いますか?

どういう点でイギリス王室に失礼と感じるのか…、もう少し聞いてみたい気がする。

誰でも賛成や反対の声を上げる権利を持っている。

しかし、その時の空気や雰囲気のみで声を上げることは考えものだ

それには、人の心を煽り過ぎない報道が大切だ、とも思う

論点がややずれたかもしれないが、この命名騒動ひとつとっても、今の時代がいかに表面的な流れに左右されているか、事の本質を見抜く力に欠けているかが分かる。

敬う気持ちがあるからこそあやかりたい、という立場と、敬う気持ちがあるからこそその名前を使うべきでない、という立場。

結局はこの2つだろう。

どちらも間違いではないのだ、と思う。

人間は、その時の状況により、どちらの立場にも自らを置き得る

互いに反論しあっても、「そのような考えの人もいるのだ」とさえ思えば、無用の論争は起きないはずだ。

で、

私なら…

私が命名する立場だったら、問題となった名前は付けない。

敬う気持ちがあるからこそその名前を使うべきでない、という立場をとるのではなく、日本的な名前がいい、と単純に思うからだ。

ただ、先にも書いたように、一般公募した上、多くの意見を尊重しようとすれば…。

全投票数は1000に満たないものだったらしい。

正直、市民の関心度はそう高くなかったのだろう、と思う。

ただ、最多数のものを選ばなければ、別の抗議が起きた可能性もある、「公正ではない」と。

その昔、国鉄が民営化された際、「国電」の愛称がふさわしくなくなることから、新しい愛称を募集し、審査の結果、

(確か)票数もあまりなかった「E電」というものが選ばれたものの、定着しなかったことを思い出す。

ある意味公的なものに、公募で名前を付けることの難しさを、改めて知らされたような気がする。

(2015年5月7日・8日)

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スピード

スピードが上がれば視野が狭くなる。

これは、車の運転だけではなく、社会の変化にも当てはまることだと思う。

要は、先を急ぎ過ぎると周りが見えなくなり、様々な歪みを生んでしまうということだ。

スピードに乗れないことがまるで悪かのような風潮も気になるところ。

スピードをあげるということは、危険に晒されるリスクも同時に高まる。

今の時代、それに気づいていない人があまりにも多いような気がしてならない。

もちろん、スピードをより求めなければならないことも今の社会にはたくさんある。

しかし、全てではない。

全てが変化、改革とスピードばかりが上がれば、それこそ、世の中のバランスが崩れでしまうと思う。

スピードは少しゆっくりでも、周りに眼を向けられる余裕を持ちたいものだ。

(2015年5月1日)

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制御(ブレーキ)役

スピードを出す、上げる者がいるとすれば、必ず、それを制御する者が必要だ。

もちろん、運転手も自ら制御する能力を持っていなければならないのだが、基本的に前しか見ていないから、前方の危険に対してのみ、と思っていい。

誰かが言っていたのだが、人間は、ひとつの危険が去り、問題が解決したと思うと、次の危険を作りたがるのだそうだ。

必要以上にスピードを上げることは、もちろんいいこともあるのだが、その分危険も多い。

ある危険に向き合って、制御してくれる誰かのお陰で危険回避、そうすれば、またスピードを上げて、自ら次の危険を作ろうとする…

どうにも、今の世の中はそんな状況にあると思わざるを得ない。

と言うより、制御役が力を出せる状況にないような…。

視野の広い制御役こそ、今の社会には必要。

世の中を引っ張っていると自負する方々は、往往にして前が見えていない。

引っ張る、ということは当然後ろしか見えない。そんな方々がスピードを上げようとするから、それは危険極まりないだろう。制御役は大変だ。

引っ張る人たちは何を見ているのだろう?

きっと今だに、バブルの時代の浮かれっぷりを見ているのだろう、と思えて仕方がない。

成長成長というが、彼らの基準は、あのバブルの時代の物質的な豊かさだ。

本当に豊かだったのかは、その後の動きを見れば分かる。

ある程度物質的な豊かさがなければ、心も豊かにならないとは思うが、あの時代を境に、心の豊かさは失われていく一方だったと思う。


スピードを上げれば上げるほど、変化は表面的なものでしかなくなる。しかも、後ろを向いて.引っ張る人たち…。

過去からは当然学ぶべきことは多い。しかし、それは視野の広さとは違う。

表面的な変化に浮かれることなく、物事の本質をしっかり見極められるような人たちが今の時代には必要なのかもしれない。

(2015年5月1日)

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ドーピング

急速な変化を求めれば、それ以上の痛みを受けるし、たくさんの歪みを生む…。

バブル以降、少なくとも私は教訓にしている。

人間でもそうだが、成長し続けることはありえない。成長すれば、少しづつ衰えていく…。

経済だってそうだと思う。

もちろん、私だって欲はあるし、いつまでも豊かでありたいと思っている。

ただ、欲が勝って急速に、性急に変化を求めようとすれば、必ず、アッと言う間に失速するのは、ある意味歴史が証明していると思う。

確かに、日々の生活に困窮している方々は、昨今の状況が早くいい方向に向いて欲しいとの気持ちが強いだろうし、私もそう思う。

まるでドーピングのような成長戦略では、身体を壊すのも早いだろう。

時間は少しかかるかもしれないが、数字だけを追いかけてあれこれ投薬するようなことだけは、避けて欲しいものだ。

成長したものはいつか衰える。成長したものからまた新しいものを生み出し、それが成長していく…。

社会も経済も、人間のように循環してこそ繋がっていくのではないだろうか…。

(2015年4月30日)

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