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投稿者: kmasa1006

自分らしさ

「自分らしさ」は、周りの方々、私に関わって下さっている方々にしか分からないものだと思っている。

「自分らしさ」をアピールする(売り物にしている)方々は余程自分を「客観視」できているのだろう、と感心してしまう…。

自らが思う「自分らしさ」と周りの方々が感じる「自分(私)らしさ」は決してイコールではないと思うのだ。

だからと言って、「私らしさってなんですか?」などと尋ねる気持ちはサラサラない。「自分らしさ」という思考が自分を縛ってしまうような気がするので。

もちろん、「自分(私)らしさ」の中にある負の側面は自覚しておく必要があると思いますが…。

(2018年3月2日)

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覚悟

「岩盤規制に穴を開ける」こと自体は悪いことではないし、そうした規制が必要な時代背景があったのだろうとも想像できる。

リーダーというものは前任者・先任者がやってきたことの全てを背負う覚悟が必要だ。ということは、自分は関わっていなくとも批判を受けとめ、反省するという覚悟も必要

そうした覚悟があれば、もっと丁寧に、真摯に向き合ってくれるのだろうが、そこまでの覚悟を持ってやっている人がいるようにはとても思えない現状…(与党だから、とか野党だから、などというのは関係なく)。

こんな状況を生んだのは、結局私たち…、なのかな。

(2017年6月26日)

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演奏会前に…

目的は、いつものように演奏会の鑑賞だが、どうしてもここには立ち寄りたくなる。

現在に生きる者として、過去から学び未来を考えることは私たちの大きな義務だと思う。それを確かめに足を運んでいるのだ、と気づく。

(2016年11月12日)

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みんな「迷惑」を、「面倒」をかけてきたのだ

待機児童が問題になっている中、それの解消になるはずの保育園、幼稚園の新設に、身勝手とも思える理由で反対する方々がいるそうだ。

「うるさい」、「周辺の地価が下がる」などと…。

実は私、電車やバスなどでの赤ちゃんの泣き声を不愉快に感じることが多々あった。

きっと自分には子育ては無理、とも思っていた。

だからと言って、それに抗議の声を上げるほどのバカではなかった。

みんな子どもだったのだ

何かしらの「迷惑」を「面倒」をかけてきたのだ

そのうち彼ら彼女らに面倒を見てもらわなくてならないことになるのだ

そこを忘れてはならない。

もっとも、身勝手とは言えない理由はあるようで…。

預ける側、預かる側のマナーなどを指摘する声もあるそうだ。

互いに互いの立場をを理解しようとする気持ちが失われつつある今、子どもを育てるということは、親の責任だけではなく、社会の責任だ、ということを改めて感じる。

子どもの声を、街や車の騒音と同じに語ってはならないのだ。

(2016年10月5日)

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効率化

結局、「効率化」って何処かにしわ寄せが及ぶってことだ。

誰かが楽になる分、誰かが忙しくなる…そして、忙しくなった人が「効率化」を叫び出すと別の誰かが、といった具合に…

「効率化」を叫ぶ人にこそもっと中身のある仕事をしてほしい、とよく思う。

(2016年9月27日)

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スポーツ観戦

もともとスポーツ全般観ることは好きな方だ、が、最近はめっきり減ってしまった。プロ野球ももう10年以上スタジアムで観ていない。

理由ははっきりしている。

鳴り物いっぱい、集団での応援合戦(笑)が耳障りなのだ。

選手たちは集中してるだろうから、あまり気にならないだろうとは思うが、もし、そうした音がなくなると、却って調子崩すかもね…。そうした環境に慣れっこだろうから。

ただ、スポーツというのは心理戦。

やっている方だけでなく、観る方も心理戦だと思っているので。

まあ、いろいろな楽しみ方があるので、鳴り物いっぱいの応援合戦を止めてくれ、などとは思わない。

私も一度だけ、頼まれてプロ野球の応援ラッパに加わったことがあるので、実は。

応援を仕切る皆さんの情熱と親切さは素晴らしいと思った。

最近は、相撲でも似たよな傾向にあるのも気になる、流石に鳴り物はないけど。

仕切りの最中に集団でそれも手拍子付きで力士の名前を連呼されると興醒めするのだ。

いろいろな楽しみ方があるとは言ったものの、観方というのはやはりあると思う。

アメリカ大リーグを一度だけ、サンフランシスコで観たことがあるが、いやいやホント楽しかった。

日本でも、時々あのような楽しみ方ができるといいのだけれど…。

しかし、ますますスポーツ観戦からは足が遠のいていく可能性大かな…。

(2016年9月25日)

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お山の大将

人間、自信がなかったり危うと感じた時には、饒舌になりがち。そして墓穴を掘ることになる。

ある意味分かりやすい、人間味のある人だ、あの方は…。

周りの人たちが諌めたりしないのだろうか…?

あそこまでいくと、どんな制御役も抑えを効かせることはできないだろう。

というより、制御役を担う方々も、自分の身を案じる方向に走り出し、あの方から離れていくのではないか…。

それを期待している輩だって身内にたくさんいるはずだ。

あの手のリーダーは、「お山の大将」になってしまうのだが、山の頂は、下界は良く見えるけど足元は不安定。実は自分の居場所は狭くて身動きがとりにくいということに気付いていない。動きすぎると足を滑らせて簡単に転げ落ちるよ。

そして、それを期待しながら支えるふりをしている輩がたくさんいるよ。

饒舌→口を滑らす→足を滑らす…

そんな姿が見えてくる。

(2016年9月24日)

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今は昔

「今は昔」とは言うが、「昔」だって「今」だったのだ。

(あえて違う意味合いで使うが…)

音楽にしても美術にしても文学にしても、生み出された時は、まさに「今」、

「今」というのはもちろん、その「時代」ということだ。

そして、その「時代」はいかようにも解釈され、論じられている。いくつもの、その人なりの「正論」が存在する。

「今」はやがて「昔」となる。

私たちの「時代」は、いかに解釈され、論じられることになるのだろうか…。

(2016年9月24日)

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配慮/遺憾の意

「配慮します」と言われれば言われるほど、「何も対策とりません」「しばらくはおとなしくしておきます」と言っているようにしか感じない。

あの方々は、断言することができない。いや、敢えて断言しない。つまり、責任の所在を曖昧にしようとするのだ。「遺憾の意」と同じような使い方だ。

ただ、最近は「配慮」を自ら求めて無理難題言う輩も多い。

「私は高齢者だからもっと配慮しなさい」と元気いっぱい叫ばれると何とも…。

本当に配慮が必要な方ほど実はなかなか声を上げることができない。

こういうところにこそ、本当に社会の配慮が必要なわけで…

「配慮配慮」とやってるいると、そのうち歪みが出てくるはずだ、いや、もう十分歪んでるかな…。

社会の歪み、心の歪み…

そこには、「配慮」というものが少し歪んだ形で潜んではいないだろうか…。

しかし、「遺憾の意」と同じように便利な言葉だ。

よく「遺憾の意」という言葉が使われるけど、あれは「謝罪しません」と言っているようなものだとしか思えない。いつの頃からか使われるようになったなぁ…?

「残念に思います」というのが辞書的な意味だが、どうもひとごとのようにしか思ってないのだろうと思う、お偉い方々が口にすると。

一応謝罪していると思わせるような言葉遣いだけど、何とも意味の「拡大解釈」にしか思えない。

そんな世の中にあることを非常に「遺憾」に存じます。

何か不都合が起こると、「誤解を与えた」と釈明する輩がいるが、おいおい、誰も誤解などしていないよ!あなたが自分の立場や世の中を誤解しているだけだよ!

(2016年9月19日)

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備えあれば…

「備え」というのは、やはり大切だ。

物資的な備え、精神的な備えはもとより、社会の構造、システムなども。

私自身も十分考えておかなければならないが、ただ考えているだけではどうしようもない。直ぐに行動に移せるかが肝心。

備えるということは、それが直ぐに役立つこと。役に立たなければ「備え」とは言えないということだ。

少し話しは変わるが…

人間は欲しかったものを手にすると、それを直ぐに使いたがる、当たり前だが。または、それを使える状況を作り出そうとするものだ。

実は、最近の議論からは何だか、法律を運用?できる状況を自ら作り出そうとしているのではないか、という危うさを感じるのだ。

故後藤田正晴が、「人間(というか政治家)は次々に危機的な状況を作りたがる」というようなことを言っている。今がまさにそんな感じかな…。

もし、法案が通るようなことがあったら、危機的な状況を作り出して、「ほら、私たちの言った通りでしょ?」「備えていて良かったでしょ?」とやりはしないかと…。そんなことさえ考えてしまう。

「備え」は大切だ。だが、その「備え」を使わなくていいに越したことはない。

ただ、私たちは何やら違った意味の、これまで経験したことのない「備え」をすることになるかもしれない…。

いやいや、危なっかしい時代を作り出してしまったものだ…。

(2015年6月18日)

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