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投稿者: kmasa1006

異常気象

天候の変化が極端すぎる!!

異常気象や地球環境問題を論じるほどの学はないのだが、この極端な天候の変化は、間違いなく人間の心や思考に大きな影響を及ぼすと思っている。

つまり、思考も極端になりかねない、ということ。

「中庸」ということが、ある意味日本の美徳だと思っている。
もちろん、それではグローバル社会に対応できない、という考え方があるのも理解している。

しかし、音楽でもそうなのだが、相反する考え方を「上手に対立」させてこそ
様々なバランスが出来上がるのだ。

極端な思考だけでは、バランスは成り立たない。人の心も世の中もそうだと思う。

「中庸」という範囲は広い。この広さを十分に感じたいものだ。

極端な思考は全てのバランスを崩す

異常気象や地球環境問題を、産業の面から考えるだけではならない理由は、こんなところにあると思っている。

(2015年4月28日)

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諸々(3)

コンビニで買物をし、570円のお釣りをもらうことに。10円玉切らしてるから、と5円玉14枚を渡された。

さすがに、「どうにかならないか」と言ったら、「両替しましょうか?」と尋ねられる。

「自分が5円玉14枚渡されたらどう?」と問いたいけど、まぁ、これも何かの「ご縁」ということで…。

もちろん?全部10円玉に替えてもらった。

別に5円玉が嫌いなわけじゃない。

10円分か20円分くらいなら「まぁ仕方ない」と、こちらも何も言わなかったと思う。5円玉が必要になることもあるからね。

何の感情も感じることができない、ある意味冷静な店員さんの対応に少々戸惑ってしまったのだ。

(2015年1月6日)

「配慮」は求めていいと思うが、されて当然!という風潮が正直気に食わない。そんな歳の取り方だけはしたくない!!

「配慮」が蔓延すれば、歪みが生じ、果ては秩序も何もあったものではなくなる、とは考え過ぎか…?

(2015年1月19日)

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型破り

コーヒーを最初に飲んだ人って、それを科学的に分析したり研究して確かめたりはしなかったはずだ。

世の中、不思議なことや謎はまだまだ多い。だから進歩していくものなのだ。不思議や謎がなかったら、世の中面白くない。

科学・化学だって、きっと偶然から進歩したようなところがあると思う。それを説明しようとすることがいかに大変なものかは、当事者でないときっと分からないだろう。

しきたりや一定の方法論と言うのは大切だが、ちょっと型破りとも言える研究や研究者の足を引っ張るようなことだけはしたくないものだ

ただ、斎藤秀雄も言っているように、型破りとは、破るべき型を持っていなければならない、ということ。

未熟という言葉だけでは片付けられない何かがあるような気がしてならない、その人を取り巻く環境やその他…。

(2014年4月9日)

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諸々(2)

方や「安定」を叫び、もう一方は「変化」や「変革」を叫ぶ。「どっちやねん!」と言いたくなるが、実はどっちも必要なんじゃないのだろうか…。安定させるためには意図的な変化が必要だし、変化を感じさせるには安定したものが必要。音楽だってそうだ!

「卵が先か、鶏が先か」ではないが、「安定」させることも「変化」させることも同時にやる必要があるのではないかな…。その分時間は少々かかるかもしれないが。「どちらが先か」と論争をすることが実は一番時間のムダのように感じる。

(2013年7月28日)

自分の考えも言わずに「どうしましょうか?」と判断を求めることはしたくないものだ。そのような人に限って、出された答えに不満を言いたがる。

(2013年8月8日)

何でもかんでも「経済効果」という言葉で物事を語るのにはもう無理があるのではないか、と思う。瞬間的には潤っても、その反動が大きいということをこの20数年で学んだはずだ。その反動が心の潤いを失わせてしまったことを、もう一度見つめ直す必要があるのではないか…。

(2013年9月28日)

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諸々(1)

トンネルに入ることは何度もある。その時、長いか短いかなんて予測もつかない。でも、トンネルには必ず出口がある!!前を向いていれば必ず出口は見えてくる。

言い換えると…、出口があるからトンネルと言う

(2013年6月10日)

世の流れ、組織の変化にはある程度乗っていかなければならないのだが、それらに流されるだけの生き方だけはしたくない!!

かと言って、逆らうだけの生き方もゴメンだ。

結局、人間は何かを手に入れると、その何かを取り巻く環境まで手に入れたと思い込んいるんだよなぁ…

だからもがき苦しむことも出てくる。

どうにか頭を切りかえないと、っていつも思う。

(2013年6月12日)

アドバイスって、望まれてするものだと思う。よく、こんなアドバイスをした!などと自慢気に言う人もいるが、そういうのって相手の身になっていないことが多い。と言うか、ありがた迷惑なものになっていることがある。アドバイスはでしゃばってやるものではない。

逆に言うと、待っているだけではアドバイスはもらえないということだ。自分が何を望んでいるかということを相手に伝えない限り、適切なアドバイスは貰えない、ということ。

何事でもそうだと思う。自分が望んだものを手に入れることができれば、それが高価なものではなくとも、その人にとっては価値あるものだろうし、逆に望んだものでなければ、それがいかに高価なものであっても、その人にはあまり価値あるものではない。

(2013年6月13日)

人の言動には敏感になるものだ、確かに言語道断といえるものは多々ある。我が身に置き換えて、ということがいつからできなくなったのだろうか…。

ただ、人を不快にさせる言動を、図らずも自分がしてしまっている場合もあるはず。批判のやりっ放しだけはしたくないなぁ…。

(2013年6月14日)

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人間皆ガン細胞…?

身内を数人ガンで亡くしている。

この歳になると、やはりガンという病気は身近なものに感じられるようになる。

一度「肺がん検診」を受診したことがある。その検診の時に感じたこと…

人間って、もしかしたら地球にとってのガン細胞なのかもしれない。

ガン細胞は人の体を蝕んでいく。

蝕んで蝕んで蝕んでしまった後に待ち受けているのは…。

自らの命もおしまい、ということ。 何だか、今の世の中とダブるような気が…。

(2007年)

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どうしても「壁」にぶち当たってしまい、どうにもこうにもいかなくなる時があある。

そんな時、どうやったらその「壁」をぶち破ることができるのか、考えてしまう。

ぶち破ろうとするとするだけ、そこに使うエネルギーは半端じゃない。

「壁」というと、何だか「閉ざされた」とか、「暗い」という感覚になってしまうのだが…、

よくよく考えてみれば、「壁」は、時には雨風から私たちを守ってくれる…。

決して悪いことばかりじゃない!!

だから、

「壁」をぶち破ることばかりにエネルギーを傾けることはないのかなと思うことがある。

むしろ、そこに「窓」を付け、「ドア」を付けることから始めてみよう!!

そうすれば、「壁」は私たちを「閉ざす」ものではなくなり、「明るさ」を与えてくれ、そして、守ってくれるものにさえなるはず。

(2006年)

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俺がルールブックだ

その昔、「ルールブックをよく見ろ」と抗議した監督に「俺がルールブックだ!」と応酬したプロ野球の審判がいた。

それだけ自分の判定に自信を持っていたということだろう。

自分の仕事に自信と誇りを持って臨んだ(であろう)言動はある意味賞賛されると思う。

ところで…、

現代社会では、「個」の尊重が叫ばれるが故(?)、あまりにも「個人のルール」が蔓延しているように思う。

確かに、自分の身は自分で守らなければならないこの時代、私たちは、無意識に「個人のルール」で自分を守ろうとする。

しかし、「ルール」というものは、本来集団の中でこそ機能(?)するものではないだろうか。

街中では、交通安全や防犯の呼びかけが繰り返し行われている。

「そんなこと分かってるよ」という方も多いが、依然なくならない飲酒運転や事故、犯罪…。

「個人のルール」は必ずしも「社会のルール」とはいえない。

私たちはもう一度考えてみる必要がある。

もちろん、「俺がルールブックだ!」的な心を完全に否定をするわけではない。

いい意味で「俺がルールブックだ!」と言える人も現代社会は必要としているようにも思うから…。

(2006年)

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ストレス

大学を卒業してすぐの4月、胃の3分の2を切除するほどの手術をうけた。      (十二指腸潰瘍・幽門狭窄というもので…)

いまでこそ、潰瘍などは薬でも治療できるようだが、もう薬ではどうしようもない状態だったそうで…

原因はストレス(だと思う)。

ストレス

 生物学的には何らかの刺激によって生体に生じた歪みの状態を意味している。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

もっと早めに処置していれば、体に手術痕を残さずにすんだのだろうが…。

まぁ、今では普通に生活できているので(笑)。

とはいえ、生体に歪みを生じさせるような刺激があふれている現代、
人間のストレスが社会のストレスを生み、
社会のストレスが地球のストレスを生む

そんな状況にあるように感じる。

人間が生きるためにあれこれ知恵を絞ってきたことで今の暮らしがあるのだが、それが世の中、果ては地球のストレスを生んでしまうとは…。

早めに処置すれば、地球に大きな手術痕を残さずに済むはず。

地球のストレスが新たな社会のストレスを、社会のストレスが新たな人間のストレスを誘発し始めている今、自分は何ができるのだろう…?

少なくとも、ストレスを溜めない生き方を模索することからはじめようか…?     (それでストレス溜めたら元も子もないけど…笑)

何かストレス解消になるような音楽ってないかな…。

(2006年)

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広島ウインドオーケストラ第52回定期演奏会

音楽は聴く人がいて完成する」「聴く人の耳と心が音楽を完成させる」などと思いながら私は音楽活動をしてきた(つもりだ…)。

広島ウインドオーケストラの定期演奏会、生誕100周年のネリベルの作品のみで構成されたこの演奏会は、私の考えを再確認させてくれるものになったと思っている。

私はこの数年、欠かさず定期演奏会には足を運んでいるが、必ず「何か」を問いかけてくれる。「気づき」がある。大好きなオーケストラだ!

今回の演奏会もそうだ。翌日にローマ教皇が広島を訪問されるというタイミングもあり、自分の中でも一層意義深いものを感じた。


当日の演奏の素晴らしさは色々な方が書かれているので、私は別の視点から…。

有難いことに、当日のリハーサルを覗かせていただいたのだが、そこで、冒頭に記したことを再確認できた象徴的な場面があった。詳細を書くのは差障りがあると思われるので、私の経験をベースにどういうことかを記してみたい。

昨年の春先に、高校生たちとバルメイジェス作曲の「インヴィクタス」という曲の練習をしていた。

静かな冒頭部、やや不安定な和音の積み重ね、サクソフォーンの怪しげなソロのを経て全管楽器が突然8分音符二つ(D音→オクターヴ下のD音という推移)を強く打ち鳴らす場面がある。ここに「和声的な背景」を感じて演奏して欲しい。そう思っていた私は、奏者たちにD majorのコードとD minorのコードをそれぞれ添えて件の音型を聴かせて、「みんなはどう感じる?」と…。私自身が「どちらかにしろ」と言ったのではないが、半ば「強制」だ。しかし、確かに響きは一つの方向に向かうようにはなった。「半強制的」とはいえ、奏者たちが一つの方向性を持つことが大切だと思った。

マエストロ下野であればこのような場面、「そこをD major に感じるかD minorに感じるかは聴いていただくお客様によって様々(どう感じるかはお客様に委ねる)」と一言仰るけだろう。それ以上の言葉はない。

奏者への信頼以外のなにものでもない、と思った。そして、そのマエストロの意図をしっかり受け止め、考え、演奏に反映させる奏者たち。全くもって素晴らしい。

加えて、マエストロの「聴衆への信頼」がその一言からも分かる。「聴衆への信頼」、これ即ち、「音楽は聴衆それぞれの中で完成するものだ」ということだろう。私はそう思ったのだ、強烈に。

それが証拠に、この日の会場の「空気」といったら…。会場の皆が耳と心を開いた。「聴衆への信頼」を感じたからこそ、だと思う。そして、「聴衆への信頼」を感じたからこそ、「作品への信頼」、「指揮者、奏者への信頼」がより確かなものとなる。

本当に今回も気づきの多い、得るものが多い演奏会だった。

(2019年11月25日)

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