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投稿者: kmasa1006

「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

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広島交響楽団「Hosokawa × Beethoven」2

広島交響楽団のディスカバリーシリーズを聴く。

細川作品に会場は引き込まれる。

(演奏前の作曲者とマエストロ下野の対話が有り難かった。)

しかし、驚いたのは最初の「レオノーレ第2番」。

率直に言って、前回(5月)とはオケの音を含め演奏のクオリティが数段上がっている。迷いがない演奏と言ってもいい。

これは、後半の交響曲にも言えること。

「きっと、細川作品に取り組むことがベートーヴェンの演奏にもいい方向に作用しているのだろう」と感じた。

終演後の楽屋にて、マエストロ下野にそう伝えると、

「現代の、そして無調の作品に取り組むことで奏者の耳が開くと思う。調性に対する感覚が敏感になるはず(そうでもない奏者もいるかも…)。それはお客様も同じではないかな?」と。

情報過多とも言える現代、私たちはむしろ耳を閉ざしがちだ…。

耳を開くことは心を開くことに通ずると思う

心を開けば互いを理解し合えるだろう(賛成とか反対とかではなく)。

互いを理解し合えれば無用な争いはなくなるはず…。

広島という地で改めてそう感じることができたことは、素晴らしい演奏を聴くことができたことと併せて収穫だ。

(2019年10月5日)

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コピー問題に絡んで…

楽譜の「コピー問題」とは少し性質が違うかもしれないが、20年前のちょうど今頃、課題曲に採用された拙作の楽譜を「演奏してあげるから下さい」と悪びれことなく言ってきた方が数名いた(中には全国大会に出場するようなバンドの指導者も)。当然お断りした。 ※当時、課題曲は3月から発売されていた。

まぁ、「コピー問題」と根っこは同じなのかもしれない… 楽譜にお金をかけたくない、ということか…? それとも、課題曲に関しては、お金払って買うほどのものではないと思われている…?

年2月12日)

実際に経験した話。

「おたくの団に〇〇の楽譜があったら貸して」

「〇社のレンタル譜だから持っていない。手続きしてレンタルして下さい。」

「それはは知っているけど、急いでるし高いし手続きが…。」

「ちゃんとやりましょうよ。」

「他を当たってみる。」

「…」

電話の主は指導者、かつ校長先生だ…。

創作する者としては、「少々高価であっても楽譜を買いたい」と思っていただける、質の高い、良いものを提供できる努力だけは続けないと、と思う次第。

(2019年2月13日)

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広島交響楽団「黄昏の維納」8

広島駅に降り立った途端、寒さが身にしみた。

身をもって感じることで「暖かさ」の有難みを知る。

身をもって苦難の時を経験したからこそ「平和」ということの有難さを知る。

ここに来ると、苦難を経験をされた方々が語ってこそ「平和」という言葉が意味を持つのだ、と思わずにはいられない。

シェーンベルクの作品を聴いてこれほどの心揺さぶられたことはなかった。

「12音音楽」がどうだこうだ、など関係ない。きっとシェーンベルクはその時この作品をこう書くしかなかったのだ、との思いを強くする。

これはシェーンベルクに限ったことではないかもしれないけど…。

これは、「一体感」などというものではないなぁ…。

作品と奏者、そして聴衆それぞれの「緊張感」が絶妙なバランスを保っていた、と言ったらいいのかな…

それにしても、川久保賜紀さんのソロといったら…。

言葉を失う。

奏者にも聴衆にも相当の集中力が要求されるが、マエストロ下野のプレトークに助けられた人は多かったと思う。厳しい音楽だが、終演後不思議と「疲れ」はない。

これまで聴いた広響の演奏会では恐らく感じたことのない空気…最高。

(2019年1月25日)

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広島ウインドオーケストラ第49回定期演奏会

昨夜から広島入り。

今日は広島ウインドオーケストラの定期演奏会。毎回気合いが入る。

今回も魅力的なプログラムだ。

今回も、まずこちらに寄って様々に思いを巡らせることから始める。前日入りするのは、ここに行く時間を作るためだ。

ところで…、

「いいかげんにしろ!」発言の主は、地元選出で同世代。しかもファミレスチェーンの御曹司だ。「あなたの会社はお客様の声に「いいかげんにしろ!」と言える会社なのですか?」と問うてみたい。取り繕った時点(いや、それでなくてもか…)で国会議員としても会社経営者としても失格だ。

あのようなヤジが「つい」口を突いて出てしまうのは、確たる信念もないくせに自己アピールしようという衝動だろう。「なぜ国会議員になったの?」とも問うてみたい。

自分でも、自らの思いを十分な言葉で伝えられないもどかしさを感じることが多々ある。言葉を選ぼうとすればするほどドツボにハマることも…

それは、音楽でも同じだと思ったりする。

「時代」特有の言葉や言い回しというものはあると思う。今の時代の特に若い世代の皆さんの感性に響く作品は、やはり今の時代の言葉で語られているからだろう。それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし…。

それなりに歳を重ねてくると、今の言葉や言い回しも、歴史の積み重ねによって変化していったのだ、ということが、自分なりに何となく理解できるようになってきたかな、と思うのだ。

だから…

音楽の興味も、むしろ古いものの方へ向かっていく。古いものを知ることで、「今」を「未来」をもっといいものにできるかもしれない。

(広島に来た時、必ず平和公園に立ち寄るのは、自分のそうしたら気持ちを確認するためでもある)。

「今」の言葉で彩られた音楽をより自分のものにしようと思うのであれば、作品の背景やストーリーを知ることももちろん大切だが、「古い」言葉や言い回しの音楽に触れてみることだ。もしかしたら、それらを「新しい」と感じることもあるかもしれない。

だから、今日の広島ウインドオーケストラの定期演奏会は、「今」の言葉で埋め尽くされた音楽にしか触れたことがない人にこそ聴いてみてほしいと…(当日に言っても仕方ないか…)

きっと、それぞれに「新しい」発見があるはずだから。

(2018年6月23日)

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「意味づけ」

アクセントやスタッカート、テヌートの「意味づけ」に一生懸命になる指導者はいるが、何も付されていない音こそどう「意味づけ」るか…の方がはるかに重要だと思う。そこに気づいていない指導者は意外に多い気がする…。

「記号の付された音はこうだろうから、周辺の(記号が付されていない)音はこうだろうか…?」「付されていない音はこうだから、アクセントやスタッカートはこのようにできるのでは…?」というように、2方向からのアプローチが必要なのかもしれない。

ただひとつ言えるのは、何も記号が付されていない音を「意味づけ」する方が、はるかに「想像力」「創造力」を要する、ということだ。

(記号で覆われているような「現代曲」にはまた違ったアプローチも必要だろうが…)

(2018年6月7日)

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シモン・ゴールドベルク/保科洋/カレル・フサ

最近、シモン・ゴールドベルクの録音を集め始めた。これは晩年1991年(82歳)の録音。何という奥の深さ。

人格が音楽に現れるとはこういうことなのか…(もちろんお会いしたことはないけど…)私はまだまだ音楽のことを何ひとつ分かっていない…、とさえ思わされるのだった。

シモン・ゴールドベルクという人に関心を抱くきっかけとなったのがこの本⬇️

特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、私が音楽をやっていく上での指標のひとつになりつつある

(2018年5月9日)

饒舌多弁ではない。本質を突いたかのような真摯な語り口だ。

最晩年のライブという情報が先にあるからだろうが、音の擦れ具合いや微妙な音程の不安定さまでが「味」として感じられるのが不思議…

シモン・ゴールドベルクという人の生き様を見せつけられる思い。

(2018年5月11日)

保科洋氏の「読み聞かせの語り口」には、ゴールドベルクと相通じるものを感じる。

それにしても、「交響曲第2番」の崇高さといったら…。このような作品はもう生まれてはこないのではないか、と思ってしまう。

話は2月に遡るが、保科氏の『交響曲第2番』とカレル・フサの『プラハ1968年のための音楽』が並べられた『桃太郎バンド』の演奏会を大阪で聴いた際強く思ったのが、「こうした作品は今後生まれてくることはないだろうなぁ…いや、生まれてくるような世の中にしてはならないのだ」ということ。そして、作曲家お二人が歩まれた苦難の時代を(当然ながら)体験していない世代(演奏者も聴衆も)が作品や演奏を通じて語り継いでいかねばならないのだ、ということ。そういう意味でも2月の『桃太郎バンド』の演奏会は意義深いものだった。

(2018年5月11日)

「フォルテやピアノは物理的な音量だけではない。その曲その場面に相応しいであろう色・質感こそ大切」という実は当然のこと(しかし、なかなか実現できない…)を思い知らせてくれる下野氏&広島ウインドと保科氏&フィル浜の演奏。

「強弱」の感覚は作曲家によって当然異なるし、演奏者によっても異なるのだから、色合いや質感、性格といったものをまず考える…と一緒にやってきた仲間たちにも言ってきたっけ…。

曲が違えば同じフォルテの記号でも同じ音にはならない…当たり前なのだけど。

(2018年5月14日)

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「古典」を学ぶ

確かに「古典」を学ぶことで、演奏に活かせるアイディアが増えるような気がする、今更だけど…

「古典」の言葉遣い、言い回しなどは吹奏楽の世界でもっと活かすことができるのでは…

(2018年5月4日)

「古典」を自分なりに学んで感じたこと、それは、今まで「こうしなければならない。」という先入観(なんとなく身に付いていたもの)にいかに縛り付けられていたのか、ということ。

「古典」って厳格な面は多々あるが、自由度が高いのも確か。上手く応用できないものかと試行錯誤の1年だった…

(2018年5月5日)

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広島ウインドオーケストラ/ミッドウエスト

5年前浜松で初めて広島ウインドを生で聴いた。その時のメインはジェイガーの「交響曲第1番」だった。今日(そしてシカゴ)のメインも同じ曲。

どれほどの進化を見せていただけるか、期待は大きかった。

今日の広島ウインドを聴けた方々は本当に幸せな時間を過ごせたのでは、と率直に思う。

鳥肌が立つような感動ではない。しかし、心と記憶に残るであろう演奏会であったのは確か。言葉にすることは難しいが、心の深いところに強烈なメッセージを送られた感が。

こんな経験今までなかったかもしれない。

音というものは時に言葉以上に人々の心に刻み込まれる。良い記憶も悪い記憶も音や音楽によって呼び起こされるものだ。良くも悪くも音に溢れた今、下野氏と広島ウインドから生まれる音楽に触れた方々が、「轟音や銃声、悲鳴などまっぴらごめんだ」、となればいいな…そう感じた。

シカゴでは多くの方々がそう感じて下さることを願わずにはいられない。

やはり、下野氏と広島ウインドにしかできないことなのだ、と思っている。

(2017年12月16日)

シカゴ交響楽団の演奏会、これはエンターテインメントの領域でなんとなく日本の吹奏楽の現状と同じような匂いに感じた。オケは確かに素晴らしいが…

この日、ミッドウェストクリニックでの広島ウインドオーケストラの演奏に触れているだけになおさらだ…

シカゴ交響楽団の演奏会にはミッドウェストクリニックに参加していた日本の吹奏楽関係者もいらしたようだが、あの演奏を手放しで喜んでいるようでは…なんて思わざるを得ない。繰り返すが、オケ自体は確かに素晴らしい。が、肝心の「音楽」が…(色々な事情はあるのだろうが…)。

実は、今回の広島ウインドオーケストラのミッドウェストクリニック出演に同行させていただいた(そこで感じたこと、収穫などは追い追い呟くとしよう)。シカゴ交響楽団の演奏会と併せ改めて「音楽」にどう向き合うか、ということを考えるきっかけをいただいたように思っている。ひとつの収穫だ。

「エンターテインメント」を私は否定しているわけではない。全てが「芸術的」である必要もないと思っているが、個人的にはそれに相応しい場や曲というものもあるのでは、と…。

そして、聴衆への問いかけ…。以前にも呟いたが、私が広島ウインドに魅力を感じるのは、様々な問いかけをしてくれるから。

その問いかけに自分なりの解答を出すという楽しみが広島ウインドを聴く醍醐味なのだ。

そのために、私たちはもっともっと耳を開かねばならない。耳を開くことは、自分の心に問いかけることにもなるはずだ。そうすることでより「音楽」を深く感じることができると信じている。

シカゴ、ミッドウェストクリニックで広島ウインドを聴いた方々は耳を開かざるを得なかったと思う。それほどの問いかけに溢れるプログラムと演奏!

そして、聴いた方々が自らに問いかけをしたことと思う。それほど深い「音楽」だった。

またとない経験だった。

(2017年12月26日)

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「感情」と「理性・知性」

音楽には「感情」と「理性・知性」いう2つの面からのアプローチが必要だなぁ、と最近よく思う。そのバランスの取り方が「個性」だ、とも。

これは、「演奏」という行為だけではなく、「作曲」という行為にも当てはまる。

ということは、選曲という過程においても、「感情」と「理性・知性」が問われることになるわけだ。

演奏する者としては、聴いていただく方の「感情」を揺さぶり、「理性」に何かしらを訴えることが大切であり、自らの「感情」「理性」をただ吐き出すだけ、ということはしたくないのだ。受け手がいてこそ音楽なのだ

「カッコイイ」や「綺麗」も大切な要素ではある。直感も大切。しかし、それらをどう掘り下げるか、つまり、なぜカッコイイのか、綺麗なのかを探っていくことが演奏をより深いものにしていくのではないかと思う。

(2017年9月17日)

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