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投稿者: kmasa1006

クロード.T.スミス

今年はC.T.スミスの没後30年、ということを思い出した。

大学時代、秋山紀夫先生の講義の際「昨日亡くなったそうだよ…」と聞かされた。

実は、私の父(3年前に他界)と同じ歳ということもあり、当時は少々ショックを受けた。

ただ、この年の夏に亡くなったパーシケッティの死を、やはり秋山先生の講義の際に聞かされた時の方がショックは大きかった…。

秋山先生の講義を受講していた時代の思い出のひとつは、バリオホールでのJBAの総会の際に開催されたエール大学のコンサートを聴かせていただいたこと。カレル・フサが客演で「プラハ1968年のための音楽」と「アルト・サクソフォーン協奏曲」を自作自演。

その日、フサご本人とソリストだったユージン・ルソーからいただいたサイン(パンフレットにだけど…)は今も大切にしている…いや、あのダンボール箱の中に保管…。

C.T.スミスに話は戻るが…

私見だけど、彼は決して器用な作曲家ではない。器用でない分人間味溢れている。超絶技巧とは言われるものの、人気の理由は彼の人間味にあるのではないかと…。それは昨年、広島ウインドオーケストラ(秋山和慶指揮)で『ルイ・ブルジョワの賛歌による変奏曲』を聴いた際、強烈に感じた。

(2017年9月12日)

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広島交響楽団のCD ベートーヴェン『交響曲第5番』

5月に広島交響楽団を聴いた際、会場で購入したCDをようやく、じっくりと聴いてみる。

指揮者なしのベートーヴェン、いいね。

精神性が強調され、説教臭くなりがちなベートーヴェンに少々辟易している私には、この演奏、とても優しい言葉で語ってくれているように感じる。

ベートーヴェンの『第五』、最初の小節は八分休符から始まる。かつ、その小節自体が「アウフタクト拍」だと理解している。その様に聴かせる演奏にこれまで出会った記憶がほとんどない(聴く側の能力の問題も多分にあったとは思うが…)が、広島交響楽団のこのCDは、思い通りの出だし。「運命」という俗称に変に影響されていないようにも感じる。

そう言えば、そのベートーヴェンの『第五』の冒頭のモティーフ、佐伯茂樹氏の著書によると、「キアオジ」という鳥の鳴き声をヒントに思いついた(弟子のツェルニーの証言)という。自称秘書のシントラーが語った「運命が扉を叩く音」の信憑性はないとも…。

(2017年8月12日)

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「音楽のことよく分からないのですが…」

「音楽のことよく分からないのですが…」とおっしゃる方の評価ほど重いものはない、と思いながら仕事をしてきた。

「良かった」や「悪かった」、「好き」や「嫌い」がストレートに伝わってくるから。

それは、言葉だけではなく、場の空気となって伝わってくることもある。

そうした評価は時に、自らが信頼する人や師匠の下す評価以上に意味を持つこともあるのだ。

そして、それらに耳を傾けるだけの度量を持てるかどうか…、それがかなり重要だ。

「音楽を知らない人があれこれ言うな」という気持ちは持つべきでない。それは、自分が他者や他の事象を評価できる権利を放棄することに等しいのだ。

(2017年8月4日)

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 「室内楽伴奏によるシューベルトの夕べ」    /ナタリー・シュトゥッツマン

ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)の、室内楽伴奏によるシューベルト歌曲の夕べを聴く。

大袈裟なようだが、まるでシューベルトが彼女のために作曲したかのような…。

最大でもピアノ五重奏という編曲も、シューベルトがそれを望んでいたのでは、と思わせる…。

指揮者としても活動しているシュトゥッツマンだが、今夜の彼女は弾き振りならぬ、「歌い振り」。

客席を向いているので(当然)、聴衆もその指揮に引き込まれてしまう。

何という幸せな時間…。

(2017年5月9日)

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中田延亮指揮・九州管楽合奏団演奏会

中田延亮指揮・九州管楽合奏団の演奏会、期待以上だった

中田氏は吹奏楽の指揮が初めてとのこと、それだけに期待も大きかった

最近は実力者が吹奏楽を指揮することが多くなり、本当の意味で「音楽」に浸ることができる機会が増えたことは嬉しい。

(もっとも、昭和の時代から、朝比奈隆、山田一雄、秋山和慶と吹奏楽と深く関わってきた指揮者は結構いたのだけれど。)

今回の中田氏の起用は大成功なのでは。

音楽に向き合う、という意味で中田氏は特別なことは何らしていないと思う(もちろん相当な準備はされたはずだが)。

まず感じたのは、「頭のいい指揮者だなぁ」「バランス感覚に優れ造形術?に長けた人だなぁ」

だからといって、生まれてくる音楽は決して分析的ではないし、理屈っぽくもない。

相当緻密に計算されてはいるし、情報量の多い演奏だったことは確かなのだが、それを「自然に」聴かせるところが中田氏の力量なのだろう。

今日の曲目、下手すると前半で「もう勘弁してください」となること必至。しかし、「膨満感」を感じることはなかった。

(2017年5月14日)

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「楽譜」の話

近頃は、IMSLPのような、パブリックドメインになった楽譜を掲載?するサイトで、なかなか手にすることのできない楽譜をダウンロードできる。

初版本もあれば、自筆譜のファクシミリまで、という作品もあり、なかなか面白い。

しかし、それはそれで嬉しいことではあるのだが、できる限りちゃんと印刷された物を持っていたい、と思っている。作曲家だけではなく、その楽譜の製作に携わった人たちの想いまでも感じることができるかな、と思うからだ。

そう言えば、N響に客演したジャナンドレア・ノセダが、曲を指揮し終わり、スコアにキスする姿を見ることがあった(いずれもポケットスコアだったのが微笑ましかった)。

そのスコアがコピー譜だったら様にならなかっただろうな、と思う。もっとも、あの場でコピー譜を使うことなどあり得ないのだが。

簡単に手に入れることができる、ということは、先に書いたCD(「静かに時を待ってるCDたち」参照)と同じだが、簡単に手放してしまうことになる。扱いも正直雑になることだろう。

それは、やはり作曲家や作品に対して失礼なことだ。

何度か書いているのだが、私はモーツァルトと(一方的ではあるが)仲が良くない。

が、最近、中古ではあるが10数曲まとめて楽譜を手にする機会があった。それを機に、仕事の合間を見て読んでいる。作曲の様式という側面からではなく、「演奏様式」という観点で。楽譜を読むだけではなく、幾つかの研究書も合わせて。

自分でもどうしたことだろう、と思ってしまうが、共感する点を見つけ出そうしているのではない。なぜ仲良くできないのか、その理由を探ろうとしているようだ(まるで他人ごとのような言い方だが…)。

彼と対峙したところで、全く相手にされないのは分かっているが、それでもいい。

仲良くならなくても、何か役に立つことは出てくるさ…。

そう自分に言い聞かせている。

(2015年7月7日)

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時間というものは、均等ではない

「時間というのは、均等ではない」と思うことがよくある。

同じ1分間、同じ1時間でもその時々によって長く感じたり短く感じたり…。

同じことをやっているはずなのに、早く終わったり、そうでなかったり、ということもある。

きっと誰でも同じことを感じでいるのではないかな…。

時間といえば、音楽の「テンポ」。

もともとは時間を意味する言葉だ。

その時々の気分や体調、場所などに影響されやすい。

CD等で同じ演奏を聴いても、早いと感じたり遅いと感じたり…。

自作にテンポを設定することほど難しいことはない(私の場合、タイトルをつけることと同じくらい大変な作業だ)、

少し時間が経過すると、あるいはテンポマークを付けた時間帯とは全く異なる時間帯に確認してみると、大抵違うものに感じるからだ。

バルトークなどは、楽譜に演奏「時間」を記している。それも、曲全体のおおよその時間ではなく、「チャプター」単位で。

彼くらいの人なら、身体や頭脳に何か特殊なメトロノームでもあるのだろう。

ただ、音楽のテンポは、最終的には作曲家が作るものではなく、演奏者やその時々の環境、そして聴衆の心が感じ、作るものだ。

「作曲家のつけるテンポを信用してはいけない」と言う作曲家もいるくらいだ。

だから、というわけではないが、同じ曲でもいろいろとCDを買いたくなるのだ。

(2015年6月19日)

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ベートーヴェン

ベートーヴェンはやはり偉大過ぎる作曲家。

ただ、好きか嫌いかを尋ねられたら、「どちらでもない」と答えそうな私(マスコミがよくやる世論調査の回答に、「どちらでもない」というのを見ると腹を立てる私だが…)。

人物としての評価は正直分からない。

好きな作品もあれば肌に合わない作品もある。

そのベートーヴェン、本当に苦悩の人だったのだろうか、と疑ってしまうことがある。

その生き様が、伝えられているほどのものだったのか…。

これについては、以前、「自称秘書が云々」(「生かすも殺すも曲名(タイトル)次第…?」参照)と書いたことがあるので改めて書くことはしないが、作品リストを眺めていると、意外に「短調」を主調とする作品が少ないことに気付く。

交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、ヴァイオリンソナタ…。

どのジャンルを見ても「長調」を主調とする作品が圧倒的に多い(恐らく気付いている方が多いとは思うが…)

もちろん、短調だから苦悩、長調だから陽気などいうものではないことは分かっている。

やはり、「運命(あまりそうは呼びたくないが)」や「第九」、「悲愴」、「熱情」などの印象が強いからなぁ…。

何時ぞやのテレビでも、ベートーヴェンの音楽は苦悩に始まり云々、と決めつけたような紹介がされていたし…(全てがそうです、とは言い切れないと思うのだが)

それでも、やはりベートーヴェンは偉大過ぎると言いたい。

まあ、「音楽に自己の精神を注入したとんでもない奴」と言う人もいるが(確かに…)。

その時代、ベートーヴェンが最良、最高の作曲家というわけではなかったかようだし、バッハだってそうだった。

それが死後200年近く経ってこのように聴かれ、論じられ、そして、誰かの心と懐を潤して…。

当のご本人、今の状況をどのようように見るだろう?

苦悩してしまうかも…

(2015年6月9日)

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静かに時を待っているCDたち

音楽に関わる仕事をしていながら、普段、ゆっくりと音楽を「鑑賞」することがほとんどない。時間は作ろうと思えば作れるのだろうが…。

仕事上必要だ、とか、資料という名目でCDは増え続けるし、iTunesでダウンロードすることも少なくない。

私なり考えてみるのだが、音楽があまりにも「手軽」になってしまったのだろう。

若い頃は、レコード1枚買うのにも苦労(というほどでもないか…)したが、今はそのレコード1枚分の値段で何枚ものCDを手にすることができる。

苦労して手に入れレコード(あるいはCD)は大切に、しかも繰り返し聴いたものだ。

今はどうだろう…(大いに反省)。

音楽に限らず、人は、簡単に手に入るものは簡単に手放してしまうものだ。もちろん、値段が云々ではない。

となると、実は私自身が実は簡単に音楽を手放してしまうのではないか、と思えてくる。

だから、というわけではないが、最近はCDショップに行って、そそられるCDと出会っても、なかなかそれに手が伸びないのだ。

自宅のCDたちにまだまだ愛情が残っているらしい私、まずは、静かに時を待っているCDと向き合う機会を作ることから…。

(2015年5月28日)

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温故知新

クラシック音楽の分野では、いわゆるピリオド楽器による演奏や、その時代の演奏様式を取り入れた演奏が珍しいものではなくなっている。
私も時折楽しんでいる。
「フォルテピアノ」のことに触れた時(「「フォルテピアノ」の響き」参照)にも書いたが、刺激が強すぎる音楽、演奏が多過ぎて…(あくまでも、個人的なものだが)

古い音源を、最新ともいえる技術で復刻させることも多くなった。意外とこの分野は激戦模様のように感じる。しかも、驚くほど安い。ありがたい。しかし、懐は痛い。

音楽書も、「名著復刻」などを謳い文句にいろいろと出版されている。
これもありがたい。ただし、CDほど安くはない(笑)

こうして古いものに興味を持つ、惹かれるのはどうしてだろうか。

結局、「古いものだって新しい」ということだ。
そして、知れば知るほど、何か新しいことに出会うことができるのだ。

そう、「温故知新」。

今の私たちは大いに過去から学ばなくてはならない。
そこから、今の、そしてこれからの自分たちのあるべき姿を見出さないといけない。

何を学ぶのか…?
結局、人間は、紀元前から何も変わっていないということをだ。

(2015年6月19日)

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