結局、「効率化」って何処かにしわ寄せが及ぶってことだ。
誰かが楽になる分、誰かが忙しくなる…そして、忙しくなった人が「効率化」を叫び出すと別の誰かが、といった具合に…
「効率化」を叫ぶ人にこそもっと中身のある仕事をしてほしい、とよく思う。
(2016年9月27日)
もともとスポーツ全般観ることは好きな方だ、が、最近はめっきり減ってしまった。プロ野球ももう10年以上スタジアムで観ていない。
理由ははっきりしている。
鳴り物いっぱい、集団での応援合戦(笑)が耳障りなのだ。
選手たちは集中してるだろうから、あまり気にならないだろうとは思うが、もし、そうした音がなくなると、却って調子崩すかもね…。そうした環境に慣れっこだろうから。
ただ、スポーツというのは心理戦。
やっている方だけでなく、観る方も心理戦だと思っているので。
まあ、いろいろな楽しみ方があるので、鳴り物いっぱいの応援合戦を止めてくれ、などとは思わない。
私も一度だけ、頼まれてプロ野球の応援ラッパに加わったことがあるので、実は。
応援を仕切る皆さんの情熱と親切さは素晴らしいと思った。
最近は、相撲でも似たよな傾向にあるのも気になる、流石に鳴り物はないけど。
仕切りの最中に集団でそれも手拍子付きで力士の名前を連呼されると興醒めするのだ。
いろいろな楽しみ方があるとは言ったものの、観方というのはやはりあると思う。
アメリカ大リーグを一度だけ、サンフランシスコで観たことがあるが、いやいやホント楽しかった。
日本でも、時々あのような楽しみ方ができるといいのだけれど…。
しかし、ますますスポーツ観戦からは足が遠のいていく可能性大かな…。
(2016年9月25日)
人間、自信がなかったり危うと感じた時には、饒舌になりがち。そして墓穴を掘ることになる。
ある意味分かりやすい、人間味のある人だ、あの方は…。
周りの人たちが諌めたりしないのだろうか…?
あそこまでいくと、どんな制御役も抑えを効かせることはできないだろう。
というより、制御役を担う方々も、自分の身を案じる方向に走り出し、あの方から離れていくのではないか…。
それを期待している輩だって身内にたくさんいるはずだ。
あの手のリーダーは、「お山の大将」になってしまうのだが、山の頂は、下界は良く見えるけど足元は不安定。実は自分の居場所は狭くて身動きがとりにくいということに気付いていない。動きすぎると足を滑らせて簡単に転げ落ちるよ。
そして、それを期待しながら支えるふりをしている輩がたくさんいるよ。
饒舌→口を滑らす→足を滑らす…
そんな姿が見えてくる。
(2016年9月24日)
「配慮します」と言われれば言われるほど、「何も対策とりません」「しばらくはおとなしくしておきます」と言っているようにしか感じない。
あの方々は、断言することができない。いや、敢えて断言しない。つまり、責任の所在を曖昧にしようとするのだ。「遺憾の意」と同じような使い方だ。
ただ、最近は「配慮」を自ら求めて無理難題言う輩も多い。
「私は高齢者だからもっと配慮しなさい」と元気いっぱい叫ばれると何とも…。
本当に配慮が必要な方ほど実はなかなか声を上げることができない。
こういうところにこそ、本当に社会の配慮が必要なわけで…
「配慮配慮」とやってるいると、そのうち歪みが出てくるはずだ、いや、もう十分歪んでるかな…。
社会の歪み、心の歪み…
そこには、「配慮」というものが少し歪んだ形で潜んではいないだろうか…。
しかし、「遺憾の意」と同じように便利な言葉だ。
よく「遺憾の意」という言葉が使われるけど、あれは「謝罪しません」と言っているようなものだとしか思えない。いつの頃からか使われるようになったなぁ…?
「残念に思います」というのが辞書的な意味だが、どうもひとごとのようにしか思ってないのだろうと思う、お偉い方々が口にすると。
一応謝罪していると思わせるような言葉遣いだけど、何とも意味の「拡大解釈」にしか思えない。
そんな世の中にあることを非常に「遺憾」に存じます。
何か不都合が起こると、「誤解を与えた」と釈明する輩がいるが、おいおい、誰も誤解などしていないよ!あなたが自分の立場や世の中を誤解しているだけだよ!
(2016年9月19日)
「備え」というのは、やはり大切だ。
物資的な備え、精神的な備えはもとより、社会の構造、システムなども。
私自身も十分考えておかなければならないが、ただ考えているだけではどうしようもない。直ぐに行動に移せるかが肝心。
備えるということは、それが直ぐに役立つこと。役に立たなければ「備え」とは言えないということだ。
少し話しは変わるが…
人間は欲しかったものを手にすると、それを直ぐに使いたがる、当たり前だが。または、それを使える状況を作り出そうとするものだ。
実は、最近の議論からは何だか、法律を運用?できる状況を自ら作り出そうとしているのではないか、という危うさを感じるのだ。
故後藤田正晴が、「人間(というか政治家)は次々に危機的な状況を作りたがる」というようなことを言っている。今がまさにそんな感じかな…。
もし、法案が通るようなことがあったら、危機的な状況を作り出して、「ほら、私たちの言った通りでしょ?」「備えていて良かったでしょ?」とやりはしないかと…。そんなことさえ考えてしまう。
「備え」は大切だ。だが、その「備え」を使わなくていいに越したことはない。
ただ、私たちは何やら違った意味の、これまで経験したことのない「備え」をすることになるかもしれない…。
いやいや、危なっかしい時代を作り出してしまったものだ…。
(2015年6月18日)
選挙権の年齢が18歳に引き下げられることが決まった。
個人的にはいいことだと思っている。
若い人たちの政治離れ、選挙離れが言われて久しいのだが、私なりに感じることがある。若い人たちが政治に関心を示さなくなったのは、高齢者に厚い政策や、企業・業界寄りの政策を進めてきたからだ、との見方があるのだが、そうとばかりは言えない気がしている。
完全に社会構造の影響だと思うのだ。
例えば、投票率の推移を見ても分かる通り、20歳代の投票率は、昭和の時代から他の年代に比べて格段に低いのだ。
これは推測なのだが、20歳代は就職や進学でそれまで暮らした街を離れ、また、長期に渡ってその新たな土地で生活する可能性がかなり高い。これから何年過ごすかも分からない土地で、その地の代表たる方を選ばねならない。正直誰に投票したらよいか分からない、ということになるだろうと予想されるし、その気持ちは分からないでもない。
増してや、今は「国内グローバル化」しており、自分が居住している土地にいる時間の方が短いという人だって多くなっているはずだ。だから、そうした世代の投票率がより落ち込み、その土地に長い時間過ごす方々、年代の投票率が勝る結果になっているのではないか、と思うのだ。
そういう意味で、選挙(特に国政選挙)のシステムそのものが社会構造、社会状況と合わなくなってきているのかもしれない。
政治への関心を求めるのはいいが、自然と変化していった社会構造ともっと向き合って、みんなが平等に意見を言えるような体制を作ってほしいものだ。
その際、恣意的なルールの解釈や変更は厳に慎んでいただきたい。
(2015年6月17日)
初めてお酒をご一緒する方々との会話でまず出てくるのが、「どのくらいお飲みになりますか?」とか、「お好きですか?」というもの。
必ずと言っていいほど、「人並みです」と答える。いや、答えていた。私の場合なぜかこのように言われることが多かったからだ。
「お酒強いですね」とか、「かなりいける口ですね」とか…。
だから、最近はこう言っている。「人並みにしか飲めません」。
この歳になると、お酒もその時の雰囲気に合わせて体が勝手に調整してくれるようになる。若い時のように、無理強いされることもなくなり、無理強いすることもなくなった。宴席でも自分のペースで飲めるようになった気がする。まぁ、社会全般がそんな感じになったこともあるだろうが…。
お酒は嫌いではない。が、積極的に飲む方でもない。「人並みに…」と言うもは、謙遜というわけではないが、その場の雰囲気を出来るだけ壊さないように、との思いからだ。
「人並み」ということは、まぁ、「普通です」と言っているようなものだが、いろいろなライフスタイル、価値観があふれている今の世の中、何が「人並み」か「普通」かなどとは簡単には言えないようになったかもしれない…。
少なくとも、人様に迷惑をかけない程度、と思えばいいか…。
ということで、「みなさまのご迷惑にならない程度に飲みます」と言う意味で、これからも「人並み」と言うつもり。
(2015年6月16日)
被災地、特に福島産の食品の輸入を外国がいまだに制限している例がある。
私自身は何も気にせず、いいと思えば買う。
当の皆さんたちにとっては死活問題だし、私がその立場だったら当然、理解を求めようと努力するだろう。
ただ、一連の報道も含め、私たちが考えておかなければならないのは、自分たちが輸入する側だったら、ということだ。
外国の、それも原発事故のあった地域の食品を積極的に輸入しましょう、ということにはならないだろう。
もちろん、生産者の皆さんに責任はない。
「日本は食の安全には厳しい国。なのに、何故理解してくれないのか。」などと言って抗議するのは思い上がりと言っていい。
相手の立場を理解しようとしなければ(それが賛成であろうと反対であろうと)、こちらを理解してもらうことは到底できない。それが政治的にも摩擦がある国ならなおさらだ。
この問題だけでなく、どうも私たちは、自分たちの主張を述べることに一生懸命になりすぎ、反対の立場からものを見ることができなくなっているのだ(どこかの総理ではないが…)。それは相手を下に見ていることにもなる。そのような態度はでは、いつか必ずしっぺ返しを喰らうはずだ。
もし、逆の立場だったら…
そのことはいつも頭に置いておく必要がある。
(2015年6月5日)
仕事をしている中で、「前例の踏襲はしない。するな。」と事あるたびに口にする方々がいる。
その多くは、得てして自分の考えを持っていない。
または、変えなくていいものまで無理矢理にでも変えようとしてしまう。
前例踏襲しないことの意味を履き違えていることが多いのだ。
故桂米朝は、「才能がなくなると形式が生まれる」と言ってる。
そう、才能がないために、「前例踏襲しない」という形式に走っているのだ。
そして、そういう方々に限って、自分の過去の手柄を自慢し、その手法などを半ば強要してくるから手に負えない。
ご自分は完全に「前例の踏襲」なのだ。
いや、『「前例踏襲しない」という前例』を作ることにご執心なのだ…。
過去の成功に酔うことなく、傲ることなく次のステージを切り拓いていくことこそ本当の意味での「前例踏襲しない」であって、成功している方々や企業はそうやってきたのだと思っている。
自分でもそうありたい、と思っている。
私には今のところ自慢できるような成功、手柄はないので、「前例踏襲」のしようがないのだが、 少なくとも、「形式に走る」という誰かさんの前例を踏襲しないよう、日々精進するのみ。
(2015年5月14日)