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月: 2020年8月

諸々(1)

トンネルに入ることは何度もある。その時、長いか短いかなんて予測もつかない。でも、トンネルには必ず出口がある!!前を向いていれば必ず出口は見えてくる。

言い換えると…、出口があるからトンネルと言う

(2013年6月10日)

世の流れ、組織の変化にはある程度乗っていかなければならないのだが、それらに流されるだけの生き方だけはしたくない!!

かと言って、逆らうだけの生き方もゴメンだ。

結局、人間は何かを手に入れると、その何かを取り巻く環境まで手に入れたと思い込んいるんだよなぁ…

だからもがき苦しむことも出てくる。

どうにか頭を切りかえないと、っていつも思う。

(2013年6月12日)

アドバイスって、望まれてするものだと思う。よく、こんなアドバイスをした!などと自慢気に言う人もいるが、そういうのって相手の身になっていないことが多い。と言うか、ありがた迷惑なものになっていることがある。アドバイスはでしゃばってやるものではない。

逆に言うと、待っているだけではアドバイスはもらえないということだ。自分が何を望んでいるかということを相手に伝えない限り、適切なアドバイスは貰えない、ということ。

何事でもそうだと思う。自分が望んだものを手に入れることができれば、それが高価なものではなくとも、その人にとっては価値あるものだろうし、逆に望んだものでなければ、それがいかに高価なものであっても、その人にはあまり価値あるものではない。

(2013年6月13日)

人の言動には敏感になるものだ、確かに言語道断といえるものは多々ある。我が身に置き換えて、ということがいつからできなくなったのだろうか…。

ただ、人を不快にさせる言動を、図らずも自分がしてしまっている場合もあるはず。批判のやりっ放しだけはしたくないなぁ…。

(2013年6月14日)

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人間皆ガン細胞…?

身内を数人ガンで亡くしている。

この歳になると、やはりガンという病気は身近なものに感じられるようになる。

一度「肺がん検診」を受診したことがある。その検診の時に感じたこと…

人間って、もしかしたら地球にとってのガン細胞なのかもしれない。

ガン細胞は人の体を蝕んでいく。

蝕んで蝕んで蝕んでしまった後に待ち受けているのは…。

自らの命もおしまい、ということ。 何だか、今の世の中とダブるような気が…。

(2007年)

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どうしても「壁」にぶち当たってしまい、どうにもこうにもいかなくなる時があある。

そんな時、どうやったらその「壁」をぶち破ることができるのか、考えてしまう。

ぶち破ろうとするとするだけ、そこに使うエネルギーは半端じゃない。

「壁」というと、何だか「閉ざされた」とか、「暗い」という感覚になってしまうのだが…、

よくよく考えてみれば、「壁」は、時には雨風から私たちを守ってくれる…。

決して悪いことばかりじゃない!!

だから、

「壁」をぶち破ることばかりにエネルギーを傾けることはないのかなと思うことがある。

むしろ、そこに「窓」を付け、「ドア」を付けることから始めてみよう!!

そうすれば、「壁」は私たちを「閉ざす」ものではなくなり、「明るさ」を与えてくれ、そして、守ってくれるものにさえなるはず。

(2006年)

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俺がルールブックだ

その昔、「ルールブックをよく見ろ」と抗議した監督に「俺がルールブックだ!」と応酬したプロ野球の審判がいた。

それだけ自分の判定に自信を持っていたということだろう。

自分の仕事に自信と誇りを持って臨んだ(であろう)言動はある意味賞賛されると思う。

ところで…、

現代社会では、「個」の尊重が叫ばれるが故(?)、あまりにも「個人のルール」が蔓延しているように思う。

確かに、自分の身は自分で守らなければならないこの時代、私たちは、無意識に「個人のルール」で自分を守ろうとする。

しかし、「ルール」というものは、本来集団の中でこそ機能(?)するものではないだろうか。

街中では、交通安全や防犯の呼びかけが繰り返し行われている。

「そんなこと分かってるよ」という方も多いが、依然なくならない飲酒運転や事故、犯罪…。

「個人のルール」は必ずしも「社会のルール」とはいえない。

私たちはもう一度考えてみる必要がある。

もちろん、「俺がルールブックだ!」的な心を完全に否定をするわけではない。

いい意味で「俺がルールブックだ!」と言える人も現代社会は必要としているようにも思うから…。

(2006年)

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ストレス

大学を卒業してすぐの4月、胃の3分の2を切除するほどの手術をうけた。      (十二指腸潰瘍・幽門狭窄というもので…)

いまでこそ、潰瘍などは薬でも治療できるようだが、もう薬ではどうしようもない状態だったそうで…

原因はストレス(だと思う)。

ストレス

 生物学的には何らかの刺激によって生体に生じた歪みの状態を意味している。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

もっと早めに処置していれば、体に手術痕を残さずにすんだのだろうが…。

まぁ、今では普通に生活できているので(笑)。

とはいえ、生体に歪みを生じさせるような刺激があふれている現代、
人間のストレスが社会のストレスを生み、
社会のストレスが地球のストレスを生む

そんな状況にあるように感じる。

人間が生きるためにあれこれ知恵を絞ってきたことで今の暮らしがあるのだが、それが世の中、果ては地球のストレスを生んでしまうとは…。

早めに処置すれば、地球に大きな手術痕を残さずに済むはず。

地球のストレスが新たな社会のストレスを、社会のストレスが新たな人間のストレスを誘発し始めている今、自分は何ができるのだろう…?

少なくとも、ストレスを溜めない生き方を模索することからはじめようか…?     (それでストレス溜めたら元も子もないけど…笑)

何かストレス解消になるような音楽ってないかな…。

(2006年)

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広島ウインドオーケストラ第52回定期演奏会

音楽は聴く人がいて完成する」「聴く人の耳と心が音楽を完成させる」などと思いながら私は音楽活動をしてきた(つもりだ…)。

広島ウインドオーケストラの定期演奏会、生誕100周年のネリベルの作品のみで構成されたこの演奏会は、私の考えを再確認させてくれるものになったと思っている。

私はこの数年、欠かさず定期演奏会には足を運んでいるが、必ず「何か」を問いかけてくれる。「気づき」がある。大好きなオーケストラだ!

今回の演奏会もそうだ。翌日にローマ教皇が広島を訪問されるというタイミングもあり、自分の中でも一層意義深いものを感じた。


当日の演奏の素晴らしさは色々な方が書かれているので、私は別の視点から…。

有難いことに、当日のリハーサルを覗かせていただいたのだが、そこで、冒頭に記したことを再確認できた象徴的な場面があった。詳細を書くのは差障りがあると思われるので、私の経験をベースにどういうことかを記してみたい。

昨年の春先に、高校生たちとバルメイジェス作曲の「インヴィクタス」という曲の練習をしていた。

静かな冒頭部、やや不安定な和音の積み重ね、サクソフォーンの怪しげなソロのを経て全管楽器が突然8分音符二つ(D音→オクターヴ下のD音という推移)を強く打ち鳴らす場面がある。ここに「和声的な背景」を感じて演奏して欲しい。そう思っていた私は、奏者たちにD majorのコードとD minorのコードをそれぞれ添えて件の音型を聴かせて、「みんなはどう感じる?」と…。私自身が「どちらかにしろ」と言ったのではないが、半ば「強制」だ。しかし、確かに響きは一つの方向に向かうようにはなった。「半強制的」とはいえ、奏者たちが一つの方向性を持つことが大切だと思った。

マエストロ下野であればこのような場面、「そこをD major に感じるかD minorに感じるかは聴いていただくお客様によって様々(どう感じるかはお客様に委ねる)」と一言仰るけだろう。それ以上の言葉はない。

奏者への信頼以外のなにものでもない、と思った。そして、そのマエストロの意図をしっかり受け止め、考え、演奏に反映させる奏者たち。全くもって素晴らしい。

加えて、マエストロの「聴衆への信頼」がその一言からも分かる。「聴衆への信頼」、これ即ち、「音楽は聴衆それぞれの中で完成するものだ」ということだろう。私はそう思ったのだ、強烈に。

それが証拠に、この日の会場の「空気」といったら…。会場の皆が耳と心を開いた。「聴衆への信頼」を感じたからこそ、だと思う。そして、「聴衆への信頼」を感じたからこそ、「作品への信頼」、「指揮者、奏者への信頼」がより確かなものとなる。

本当に今回も気づきの多い、得るものが多い演奏会だった。

(2019年11月25日)

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「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

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広島交響楽団「Hosokawa × Beethoven」2

広島交響楽団のディスカバリーシリーズを聴く。

細川作品に会場は引き込まれる。

(演奏前の作曲者とマエストロ下野の対話が有り難かった。)

しかし、驚いたのは最初の「レオノーレ第2番」。

率直に言って、前回(5月)とはオケの音を含め演奏のクオリティが数段上がっている。迷いがない演奏と言ってもいい。

これは、後半の交響曲にも言えること。

「きっと、細川作品に取り組むことがベートーヴェンの演奏にもいい方向に作用しているのだろう」と感じた。

終演後の楽屋にて、マエストロ下野にそう伝えると、

「現代の、そして無調の作品に取り組むことで奏者の耳が開くと思う。調性に対する感覚が敏感になるはず(そうでもない奏者もいるかも…)。それはお客様も同じではないかな?」と。

情報過多とも言える現代、私たちはむしろ耳を閉ざしがちだ…。

耳を開くことは心を開くことに通ずると思う

心を開けば互いを理解し合えるだろう(賛成とか反対とかではなく)。

互いを理解し合えれば無用な争いはなくなるはず…。

広島という地で改めてそう感じることができたことは、素晴らしい演奏を聴くことができたことと併せて収穫だ。

(2019年10月5日)

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コピー問題に絡んで…

楽譜の「コピー問題」とは少し性質が違うかもしれないが、20年前のちょうど今頃、課題曲に採用された拙作の楽譜を「演奏してあげるから下さい」と悪びれことなく言ってきた方が数名いた(中には全国大会に出場するようなバンドの指導者も)。当然お断りした。 ※当時、課題曲は3月から発売されていた。

まぁ、「コピー問題」と根っこは同じなのかもしれない… 楽譜にお金をかけたくない、ということか…? それとも、課題曲に関しては、お金払って買うほどのものではないと思われている…?

年2月12日)

実際に経験した話。

「おたくの団に〇〇の楽譜があったら貸して」

「〇社のレンタル譜だから持っていない。手続きしてレンタルして下さい。」

「それはは知っているけど、急いでるし高いし手続きが…。」

「ちゃんとやりましょうよ。」

「他を当たってみる。」

「…」

電話の主は指導者、かつ校長先生だ…。

創作する者としては、「少々高価であっても楽譜を買いたい」と思っていただける、質の高い、良いものを提供できる努力だけは続けないと、と思う次第。

(2019年2月13日)

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広島交響楽団「黄昏の維納」8

広島駅に降り立った途端、寒さが身にしみた。

身をもって感じることで「暖かさ」の有難みを知る。

身をもって苦難の時を経験したからこそ「平和」ということの有難さを知る。

ここに来ると、苦難を経験をされた方々が語ってこそ「平和」という言葉が意味を持つのだ、と思わずにはいられない。

シェーンベルクの作品を聴いてこれほどの心揺さぶられたことはなかった。

「12音音楽」がどうだこうだ、など関係ない。きっとシェーンベルクはその時この作品をこう書くしかなかったのだ、との思いを強くする。

これはシェーンベルクに限ったことではないかもしれないけど…。

これは、「一体感」などというものではないなぁ…。

作品と奏者、そして聴衆それぞれの「緊張感」が絶妙なバランスを保っていた、と言ったらいいのかな…

それにしても、川久保賜紀さんのソロといったら…。

言葉を失う。

奏者にも聴衆にも相当の集中力が要求されるが、マエストロ下野のプレトークに助けられた人は多かったと思う。厳しい音楽だが、終演後不思議と「疲れ」はない。

これまで聴いた広響の演奏会では恐らく感じたことのない空気…最高。

(2019年1月25日)

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