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月: 2020年8月

綺麗ごと

人間誰しも「無駄」なことはしたくないし、自分にとって有益ではないものは「無駄」と感じるものだ。

しかし、自分にとって無駄なものも、それなりの背景、理由があって存在しているということは忘れたくないものだ。

もちろん、全てとは言わない。

何時ぞやの「事業仕分け」ではないが、物事の価値や有益性が、ほとんど数字のみで判断されていたように感じる。

確かに裏付けとなる数字、データは正直だし、最終的にはそこで判断するしかないのだろうとも思う。

しかし、物事の成り立ちの背景や理由ということについては、数字、データで表せないことも多い。

当時はそれが最善だと判断されたからこそ、それこそ「無駄」のないように、ということで成り立ったものもあるはずだ。

そうした想いを述べようものなら、「綺麗ごと」と切り捨てられるのがオチだ。

ただ、例の「2番じゃダメなんですか?」は、その「綺麗ごと」を切り捨てるというよりは、むしろ引き出そうとしていたように思える。

時代の変化(「変質」の方が相応しいかな…)は、当然物事の変化を要求してくる。人間の価値観も変わってくる。

世の中は、人の想いの積み重ねで成り立っている。その時代時代の人の想いが支えとなって今があるのだ。

その支えを切り捨てては、足元が揺らいで、どうにも不安定になるだろう。 今の時代、数字やデータでは表せない「綺麗ごと」こそ実は必要なのかもしれない、と思っている。

(2015年5月13日)

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丁寧な説明・丁寧な議論

最近やたらと聞く言葉が、

「丁寧に説明し…」や「丁寧な議論を…」など。

これは明らかに、「今まで丁寧にやっていませんでした」と表明しているようなものだ。

おまけに、いつ、どこで丁寧にやったかなどは全く伝わってこない。

一時のモードのように軽々しく口にして欲しくないものだ。

実は当たり前のことなのだから。

広島で、丁寧な説明を求めた被爆者の皆さんに対し、「「見解の相違」と切り捨てた人がいた。

どうもあの方は、自分の言葉に酔っているようだ。

天皇陛下が仰る「国民に寄り添う」というお言葉も、あの方の口から時々聞かれる。

あのように軽々しく口にされると、少々バカにされているように感じる。

何様だと思っているのだろう。

選んでいただいた、という謙虚が微塵も感じられないのだ。

「丁寧な説明」、「丁寧な議論」という言葉は決して丁寧なものではない。

却って分かりづらいものだ。

そして、丁寧ということは、平易な、分かりやすいということではない。

平易な言葉、分かりやすい言葉は、むしろ誤解を招きかねない、ということを知るべきだ。

以前「言語明瞭、意味不明瞭」と言われた方と、そう言う意味では同じだ。

私たちは一体何を学んできたのだろうか…?

大震災の時、「絆」という言葉が連呼された。

決して否定的な思いはないのだが、

あれほど、モードのように叫ばなくても、との思いもあった。

私たちは、そう叫ばなくてもそうした心を持っているはずだから。

それでも、あの時の「絆」という言葉には、心があった。

そう、やはり言葉は心なのだ。

「心が入っていない言葉はゴミでしかない」とは、以前いた職場の先輩。

本当の意味での「丁寧な説明」、「丁寧な議論」というものは、

心と心でやるものだ。

決して、表面的な、分かりやすい言葉を使うことではないのだ。

(2015年5月12日)

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シャーロット

大分市の高崎山、サルの命名で騒ぎになっている。

イギリスのBBCまでが報道しているというからちょっと驚きだ。

大分市としては、一般公募していたわけだから、多くの声を反映させようとしたのだろう。

決して軽い気持ちで決定したのではないと思う。

せっかく命名するのだから、ベビー猿が生まれた時代を反映させようとの思いもあったと想像する。

私はペットを飼ったことはないが、きっと悩むかな…。

イギリスのプリンセスが誕生した途端、その名前での投票が増えたそうだが、その多くは、やはり、このベビー猿に時代を映そうとしたのでは、と思いたい。

抗議の声にもそう異論があるわけではない。

「失礼だ」という気持ちも分からないわけではない。

ただ、そのウラに、「たかがサルごときに…」というような考えがあるとしたら、それは違うのではないか、と言いたい。

なんとなく、そんな空気を感じる。

子どもでもペットでも名前が付けられるということは、誰かの愛情が込められているということだ。

プリンセスの名前で投票した人も、大分市の方も、きっと、プリンセスのようにみんなから愛されるように、と願っているのだ、と信じたい。

何かにあやかろうとするのは、日本人だけではなく、人間のひとつの欲求だと思う。

愛子さまが誕生された頃、それにあやかって自分の子どもに命名した人も多いはずだ。

誰も気分を害さなかったはずだ。

「たかがサルごとき…」ではない。

軽々しい命名(または抗議)は人や件のベビー猿を不幸にする。

この騒動、命名ということに限らず、いろいろと考えさせられる。

物事を掘り下げて考えることをしなくなっている今の時代。

開かれた王室を目指すイギリス王室の声を聞いてみたいものだ。

要は、「抗議が殺到」「抗議数十件」などの報道でことを知り、「そうだ!そうだ!」と簡単にその流れに乗ってしまう人が多すぎはしないか、ということ。

人の意見を簡単に自分の意見として表明するような人たちが今の時代多すぎる

実は、そういう人たちの方が、「たかがサルごとき…」と考える人よりタチが悪いと思う。

活躍している錦織圭選手にあやかった名前も候補だったようだが、正直、何が違うというのだろうと思う。

もしかしたら、そちらの方に不快な思いをする人がいるかもしれない。

抗議の声を上げた方、どう思いますか?

どういう点でイギリス王室に失礼と感じるのか…、もう少し聞いてみたい気がする。

誰でも賛成や反対の声を上げる権利を持っている。

しかし、その時の空気や雰囲気のみで声を上げることは考えものだ

それには、人の心を煽り過ぎない報道が大切だ、とも思う

論点がややずれたかもしれないが、この命名騒動ひとつとっても、今の時代がいかに表面的な流れに左右されているか、事の本質を見抜く力に欠けているかが分かる。

敬う気持ちがあるからこそあやかりたい、という立場と、敬う気持ちがあるからこそその名前を使うべきでない、という立場。

結局はこの2つだろう。

どちらも間違いではないのだ、と思う。

人間は、その時の状況により、どちらの立場にも自らを置き得る

互いに反論しあっても、「そのような考えの人もいるのだ」とさえ思えば、無用の論争は起きないはずだ。

で、

私なら…

私が命名する立場だったら、問題となった名前は付けない。

敬う気持ちがあるからこそその名前を使うべきでない、という立場をとるのではなく、日本的な名前がいい、と単純に思うからだ。

ただ、先にも書いたように、一般公募した上、多くの意見を尊重しようとすれば…。

全投票数は1000に満たないものだったらしい。

正直、市民の関心度はそう高くなかったのだろう、と思う。

ただ、最多数のものを選ばなければ、別の抗議が起きた可能性もある、「公正ではない」と。

その昔、国鉄が民営化された際、「国電」の愛称がふさわしくなくなることから、新しい愛称を募集し、審査の結果、

(確か)票数もあまりなかった「E電」というものが選ばれたものの、定着しなかったことを思い出す。

ある意味公的なものに、公募で名前を付けることの難しさを、改めて知らされたような気がする。

(2015年5月7日・8日)

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スピード

スピードが上がれば視野が狭くなる。

これは、車の運転だけではなく、社会の変化にも当てはまることだと思う。

要は、先を急ぎ過ぎると周りが見えなくなり、様々な歪みを生んでしまうということだ。

スピードに乗れないことがまるで悪かのような風潮も気になるところ。

スピードをあげるということは、危険に晒されるリスクも同時に高まる。

今の時代、それに気づいていない人があまりにも多いような気がしてならない。

もちろん、スピードをより求めなければならないことも今の社会にはたくさんある。

しかし、全てではない。

全てが変化、改革とスピードばかりが上がれば、それこそ、世の中のバランスが崩れでしまうと思う。

スピードは少しゆっくりでも、周りに眼を向けられる余裕を持ちたいものだ。

(2015年5月1日)

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制御(ブレーキ)役

スピードを出す、上げる者がいるとすれば、必ず、それを制御する者が必要だ。

もちろん、運転手も自ら制御する能力を持っていなければならないのだが、基本的に前しか見ていないから、前方の危険に対してのみ、と思っていい。

誰かが言っていたのだが、人間は、ひとつの危険が去り、問題が解決したと思うと、次の危険を作りたがるのだそうだ。

必要以上にスピードを上げることは、もちろんいいこともあるのだが、その分危険も多い。

ある危険に向き合って、制御してくれる誰かのお陰で危険回避、そうすれば、またスピードを上げて、自ら次の危険を作ろうとする…

どうにも、今の世の中はそんな状況にあると思わざるを得ない。

と言うより、制御役が力を出せる状況にないような…。

視野の広い制御役こそ、今の社会には必要。

世の中を引っ張っていると自負する方々は、往往にして前が見えていない。

引っ張る、ということは当然後ろしか見えない。そんな方々がスピードを上げようとするから、それは危険極まりないだろう。制御役は大変だ。

引っ張る人たちは何を見ているのだろう?

きっと今だに、バブルの時代の浮かれっぷりを見ているのだろう、と思えて仕方がない。

成長成長というが、彼らの基準は、あのバブルの時代の物質的な豊かさだ。

本当に豊かだったのかは、その後の動きを見れば分かる。

ある程度物質的な豊かさがなければ、心も豊かにならないとは思うが、あの時代を境に、心の豊かさは失われていく一方だったと思う。


スピードを上げれば上げるほど、変化は表面的なものでしかなくなる。しかも、後ろを向いて.引っ張る人たち…。

過去からは当然学ぶべきことは多い。しかし、それは視野の広さとは違う。

表面的な変化に浮かれることなく、物事の本質をしっかり見極められるような人たちが今の時代には必要なのかもしれない。

(2015年5月1日)

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ドーピング

急速な変化を求めれば、それ以上の痛みを受けるし、たくさんの歪みを生む…。

バブル以降、少なくとも私は教訓にしている。

人間でもそうだが、成長し続けることはありえない。成長すれば、少しづつ衰えていく…。

経済だってそうだと思う。

もちろん、私だって欲はあるし、いつまでも豊かでありたいと思っている。

ただ、欲が勝って急速に、性急に変化を求めようとすれば、必ず、アッと言う間に失速するのは、ある意味歴史が証明していると思う。

確かに、日々の生活に困窮している方々は、昨今の状況が早くいい方向に向いて欲しいとの気持ちが強いだろうし、私もそう思う。

まるでドーピングのような成長戦略では、身体を壊すのも早いだろう。

時間は少しかかるかもしれないが、数字だけを追いかけてあれこれ投薬するようなことだけは、避けて欲しいものだ。

成長したものはいつか衰える。成長したものからまた新しいものを生み出し、それが成長していく…。

社会も経済も、人間のように循環してこそ繋がっていくのではないだろうか…。

(2015年4月30日)

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異常気象

天候の変化が極端すぎる!!

異常気象や地球環境問題を論じるほどの学はないのだが、この極端な天候の変化は、間違いなく人間の心や思考に大きな影響を及ぼすと思っている。

つまり、思考も極端になりかねない、ということ。

「中庸」ということが、ある意味日本の美徳だと思っている。
もちろん、それではグローバル社会に対応できない、という考え方があるのも理解している。

しかし、音楽でもそうなのだが、相反する考え方を「上手に対立」させてこそ
様々なバランスが出来上がるのだ。

極端な思考だけでは、バランスは成り立たない。人の心も世の中もそうだと思う。

「中庸」という範囲は広い。この広さを十分に感じたいものだ。

極端な思考は全てのバランスを崩す

異常気象や地球環境問題を、産業の面から考えるだけではならない理由は、こんなところにあると思っている。

(2015年4月28日)

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諸々(3)

コンビニで買物をし、570円のお釣りをもらうことに。10円玉切らしてるから、と5円玉14枚を渡された。

さすがに、「どうにかならないか」と言ったら、「両替しましょうか?」と尋ねられる。

「自分が5円玉14枚渡されたらどう?」と問いたいけど、まぁ、これも何かの「ご縁」ということで…。

もちろん?全部10円玉に替えてもらった。

別に5円玉が嫌いなわけじゃない。

10円分か20円分くらいなら「まぁ仕方ない」と、こちらも何も言わなかったと思う。5円玉が必要になることもあるからね。

何の感情も感じることができない、ある意味冷静な店員さんの対応に少々戸惑ってしまったのだ。

(2015年1月6日)

「配慮」は求めていいと思うが、されて当然!という風潮が正直気に食わない。そんな歳の取り方だけはしたくない!!

「配慮」が蔓延すれば、歪みが生じ、果ては秩序も何もあったものではなくなる、とは考え過ぎか…?

(2015年1月19日)

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型破り

コーヒーを最初に飲んだ人って、それを科学的に分析したり研究して確かめたりはしなかったはずだ。

世の中、不思議なことや謎はまだまだ多い。だから進歩していくものなのだ。不思議や謎がなかったら、世の中面白くない。

科学・化学だって、きっと偶然から進歩したようなところがあると思う。それを説明しようとすることがいかに大変なものかは、当事者でないときっと分からないだろう。

しきたりや一定の方法論と言うのは大切だが、ちょっと型破りとも言える研究や研究者の足を引っ張るようなことだけはしたくないものだ

ただ、斎藤秀雄も言っているように、型破りとは、破るべき型を持っていなければならない、ということ。

未熟という言葉だけでは片付けられない何かがあるような気がしてならない、その人を取り巻く環境やその他…。

(2014年4月9日)

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諸々(2)

方や「安定」を叫び、もう一方は「変化」や「変革」を叫ぶ。「どっちやねん!」と言いたくなるが、実はどっちも必要なんじゃないのだろうか…。安定させるためには意図的な変化が必要だし、変化を感じさせるには安定したものが必要。音楽だってそうだ!

「卵が先か、鶏が先か」ではないが、「安定」させることも「変化」させることも同時にやる必要があるのではないかな…。その分時間は少々かかるかもしれないが。「どちらが先か」と論争をすることが実は一番時間のムダのように感じる。

(2013年7月28日)

自分の考えも言わずに「どうしましょうか?」と判断を求めることはしたくないものだ。そのような人に限って、出された答えに不満を言いたがる。

(2013年8月8日)

何でもかんでも「経済効果」という言葉で物事を語るのにはもう無理があるのではないか、と思う。瞬間的には潤っても、その反動が大きいということをこの20数年で学んだはずだ。その反動が心の潤いを失わせてしまったことを、もう一度見つめ直す必要があるのではないか…。

(2013年9月28日)

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