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投稿者: kmasa1006

マーラー『 交響曲第2番:復活』:ロリン・マゼール 指揮/読売日本交響楽団 他

2019年5月 記

こちらから購入できます {TOWER RECORDS}

マーラー: 交響曲第2番「復活」

指揮:ロリン・マゼール 

演奏: 読売日本交響楽団  片岡啓子(ソプラノ)  伊原直子(アルト)  武蔵野音楽大学合唱団

遂に出たか!という気持ちでいっぱいです。

1987年5月のライブ録音、二日に亘って開催された読売日本交響楽団創立25周年記念演奏会(&定期演奏会)の2日目の記録です。

マゼールが初めて日本のオーケストラを指揮するということで、当時随分話題になりました。

実は、私は「合唱団」の一員として参加しております。私は大学では「音楽学」を専攻していたのですが、合唱の授業は声楽のクラスと一緒でした(「男声」が少ないため、ピアノ専攻の男子学生などもこのクラスでした)。私は、合唱が「選択授業」だったのですが、前年度の終わりに「マゼールと“復活”!」と聞いていたので迷わず選択したのです(笑)ちなみに合唱団はこの年12月に読響(フリューベック・デ・ブルゴス指揮)でオルフの『カルミナ・ブラーナ』の演奏にも参加しています(全編暗譜だったのは辛かった…笑)。

合唱は第5楽章のみですが、最初からステージに。私はほぼ真正面に位置していました。マゼールの指揮を終始見つめておりました(正面から彼の指揮を見る機会なんてそうそうないですから)。

さて、このCDは一聴すれば分かる通り、本来はCD販売を目的にしていなかった録音です。音質は、マスター・テープの経年劣化のためでしょうか、あまり良いとは言えません。

マイクはおそらく、ステージ前方(指揮者の上?)に一本だけでしょう。しかも、ホール内の残響までは拾いきれていないので、演奏の「キズ」も結構ムキ出しだったりします。が、さすがマゼール、それを補って余りあるほどの「熱量」、ポテンシャルがこの演奏からは感じられます。やはり、マゼールはどのようなオケを指揮してもマゼールでしかないのです。

指揮者近くのマイクのみ、とうことで、「マゼールにはこんな風に聴こえていたのでは?」という気持ちにもなりますし、時々聴こえる息づかいは、マゼール自身のそれではないかとも思え、それだけでも面白い、というか貴重な記録です。

実は、公演初日で合唱は終盤に乱れてしまいました。このCDに記録してある2日目、マゼールは前日乱れた部分の指揮を大きく変えてまで私たちを導いてくれました。

後日、マゼールの通訳をなさった方が、このCDに記録してある2日目の演奏後にマゼールが「今日は本当に合唱が素晴らしかった」と言っていた、と大学宛にお手紙をくださったとのこと。光栄なことです。が、これは「マゼール・マジック」なのですよ(それはすでにリハーサルの時から現れていました。学習院のホールで行われた「オケ合わせ」は、ドイツ語の発音を若干修正した程度で、確か一回通した程度で終わったはずです)。

「マゼールはマゼールでしかない!」そんな記録です。

パヌフニク『Symphonic Works Vol.4』:ウカシュ・ボロヴィチ 指揮 /ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

2021年3月23日 記

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『アンジェイ・パヌフニク:Symphonic Works Vol.4』
【曲目】
1. 交響曲 第2番「悲歌の交響曲」
2. 交響曲 第3番「神聖な交響曲」
3. 交響曲 第10番
【演奏】
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
ウカシュ・ボロヴィチ(指揮)

この5月、アンジェイ・パヌフニク(1914~1991)の『交響曲第3番』がNHK交響楽団の公演で取り上げられるようです(尾高忠明指揮)。

この作曲家については、日本ではあまり知られているとは思えないのですが(同じポーランドの、同世代のルトスワフスキと比しても)、この不安の時代に彼の作品がどう受け止められるかは注目です。

彼の生涯については、こちらのサイトに簡潔にまとめてありますので、ぜひ!

私の「パヌフニク体験」は学生時代に買った一枚のレコードから始まります。

ボストン交響楽団創立100周年記念委嘱作品2曲を収録したレコード(小澤征爾指揮)です。私は、セッションズの作品が目的で購入したのですが、カップリングされていたパヌフニクの『シンフォニア・ヴォティーヴァ(交響曲第8番)』の方にすっかり魅了されてしまいました。それから、パヌフニク作品が収録されたCDを買い求めていくことになるのですが、特に彼自身が指揮したものは繰り返し聴いてきました。

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独自の語法(確か、自らの音楽語法について書いた著書もあると思います)は、盟友でもあったルトスワフスキとは一味も二味も違ったものですが(”不確定”要素や実験的要素は皆無で、決して難解な音楽ではありません)、やはり、暗い時代を生き抜いた人の魂の叫びというものを感じざるを得ません。しかし、世の中を冷静に見つめる目、精神性というものも同時に感じます。そして、時折見える優しげな語り口の中には、ある種「冷徹さ」のようなものさえ見え隠れしているようにも思え、少々気持ちが重たくなることも…

ここに挙げた録音は、パヌフニクの没後に収録されたものですが、彼自身の指揮による録音ばかりで『交響曲第3番』を聴いてきた私にとっては、作品の持つ精神性がより際立った演奏になっているように思います。『第2番』、『第10番』も同様に高い精神性と冷徹さを感じます。

今年は没後30周年。時間を作って、しばらく聴いていなかった彼の作品群に耳を傾けてみようと思っています。

ベートーヴェン『ソナタ集』(1969年ベルリン・ライヴ): ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

2021年3月26日 記

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ベートーヴェン                                  ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調 Op.28「田園」
ピアノ・ソナタ 第18番 変ホ長調 Op.31-3
ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 Op.53「ワルトシュタイン」
              ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109
【演奏】
ヴィルヘルム・バックハウス(P;ベヒシュタインE)
               1969年4月18日 ベルリン・フィルハーモニー(ライヴ)

バックハウスといえば、「鍵盤の獅子王」などと形容されているようですが、私にはどうもそう思えないのです。私が愛聴している多くのバックハウスの録音が晩年のものであることも影響しているのかもしれませんが、「剛毅なダイナミズム」といったものを彼の演奏から感じることはそう多くはないのです。

小手先でコロコロと表情を変えるようなことはなく、感情に溺れることもない。かと言って理知的ともいえない、理屈っぽいわけでもない…。しかし、何か確信に満ちたものを感じます。

ここに挙げたのは、亡くなる3ヶ月ほど前にベルリンで行なったコンサートのライヴ。これほど生気ある、そして確信に満ちあふれたベートーヴェンを聴かされると、思わず背筋が伸びてしまいそうです。

(そうそう、今日はバックハウウスの誕生日です。)

ちなみに、私のそのほかの愛聴盤は以下の通りです。

1966年ザルツブルク・リサイタル(廃盤)

1968年ザルツブルク(モーツァルト27番・ブラームス2番)

1968年ザルツブルク・リサイタル(廃盤)

ブルックナー『交響曲第4番』:下野竜也 指揮/広島交響楽団

2021年3月29日 記

購入はこちらから {TOWER RECORDS}

下野竜也と広島交響楽団によるブルックナーの交響曲シリーズ第2弾。

ひと言で言い表すのは難しいのですが、とても「人間味あふれる」ブルックナーでしょうか…? 第1弾の『交響曲第5番』(これは会場でも聴きました)の時も同じように感じました。

「自然や神を賛美した」と言われるブルックナー。聴く側はそこ(演奏)に崇高なものを求めて、そこに神を見ようとするかもしれませんが、この下野&広響の演奏に接すると、「人間ブルックナー」が現れてくるように思えるのです。ブルックナー自身が朴訥と、少しばかり不器用に(言うまでもないことですが、演奏は決して不器用ではありません、念のため)何かを語っている(自然に、神に…?)かのような…。

これまで接してきたいくつかの演奏とは全く違います。かと言って、決して奇をてらったものでもありません。あくまでも真摯に、正直に、純粋に作品に向き合った演奏だと思っています。

そう言えば、以前、朝比奈隆やチェリビダッケを例に『信仰と音楽』について書いたことがあります。その最後に記した朝比奈の言葉を、下野&広響の演奏は思い出させてくれます。

record review


「レビュー」と銘打ってはいますが、作曲家や作品、演奏家についての思い出話などが主になることもありますのでご了承ください。

また、ここでご紹介しました「音盤」のうち、廃盤になるなど現在入手困難なものもありますこともご承知おきください(2021年3月29日現在)



ゴールドベルク・ラスト・リサイタル(モーツァルト・ブラームス):シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)/ 山根美代子(ピアノ)


シモン・ゴールドベルクの遺産(指揮者編)(シューベルト・シューマン):シモン・ゴールドベルク 指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団


シモン・ゴールドベルク・ラスト・コンサート:シモン・ゴールドベルク 指揮/水戸室内管弦楽団(2021年4月12日)


サン=サーンス『動物の謝肉祭』他:根本英子(ピアノ)他(2021年4月3日)


ブルックナー『交響曲第4番』:下野竜也 指揮/広島交響楽団 (2021年3月29日)


ベートーヴェン『ソナタ集』(1969年ベルリン・ライヴ):ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(2021年3月26日)


パヌフニク『Symphonic Works Vol.4』:ウカシュ・ボロヴィチ 指揮 /ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(2021年3月23日)


プロコフィエフ『ピアノ・ソナタ集 2』:アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)


ショスタコーヴィチ『交響曲全集』:ドミトリー・キタエンコ 指揮/ ケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団


K. A. ハルトマン『葬送協奏曲』他:イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)/クリストフ・ポッペン 指揮/ ミュンヘン室内管弦楽団  他


Fur uns Ehrensache – Marsche(行進曲集):ロリン・マゼール、ズービン・メータ 指揮/ミュンヘン・フィルハーモニー管楽アンサンブル


マーラー『 交響曲第2番:復活』:ロリン・マゼール 指揮/読売日本交響楽団 他(2019年5月)


ライヴ イン 東京 1973:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)


「ピュタゴラスと鍛冶屋」の話

2021年3月2日 公開

⬛️はじめに

 昨年の5月から『Wind Band Press』というサイトで『スコアの活用と向き合い方』という連載を持っています。不定期ではありますが、これまで5回書いてきました。

https://windbandpress.net/category/column/column-column/masakado-score

 今後さらに数回書き進める予定です。

 この連載を通じて、ひとりの高校生と知り合いました。この方は学校の吹奏楽部で指揮も担当されているとのこと(普段は外部の方が指揮されているそうです)。日常の練習でどのようなことに気をつけたら良いか、などの質問をしてこられたのですが、メールをやり取りするうち、いわゆる「楽典」や音楽理論というものをどう演奏(あるいは練習)に役立てることができるか、という話になり、私もいずれそうしたことをまとめてみたいという思いを持っておりましたので、一緒に勉強することにしました。

「音階」や「音程」、「音律」など、さまざまな「楽典」本でも最初の方に書かれている内容から始めたのですが、この方の探究心には本当に圧倒されます。

 例えばこのような質問が…

・「ピタゴラス音律は、上行する旋律に有効」とありますが、これはピタゴラス音律の半音の狭さが導音という概念に繋がったということなのでしょうか。それとも、後に生まれた導音という概念が「結果的に」ピタゴラス音律と近くなったということなのでしょうか?

・前者であれば、長調の下行形というもの自体が自然界では「異質なもの」なのではないかと感じてしまいますが、そういう訳でもないのでしょうか…?

・後者なのであれば、「導音」という概念はどのようにして生まれたのか…?

 私自身普段考えているようで、実は深く考えていなかったかもしれません(笑)。

 (ちなみに、この方は「音楽の道に進もう」と思っているわけではないようです。)

 決して簡単に答えられるような内容ではありません(笑)。しかし、できる限りのことはしたいものです。昨年『バンドジャーナル 』誌に「アップデート」という文章を掲載していただきました(11月号)が、「これは自分自身をアップデートする、勉強し直すいい機会だな」と思い、さまざまな書籍を読み返すなどし始めたところです。

(「このような本を読んでみたらどうですか」的な回答をすることは簡単ですが、それではこの方の思いに応えることができない、とも思ったわけです。)

 早速、いろんな疑問が湧いてきました。

 そのひとつが、これから書きます「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の話です。

 私はここで決して「理論的」に解明することを目的とはしていません。

⬛️違和感

 下の写真は、勉強し直す際に参考にしている書籍の一部です。嫌味なように思われるかもしれませんが(笑)、決して全てを熟読していたわけではないことを告白しておきます。「辞書的」にめくってきたものがほとんどです(理系人間ではない私にとって、古い音楽理論を読み解くのはなかなか骨の折れることなのです。確かに「つまみ食い」、「いいとこ取り」というのも後々問題が発生する可能性が十分にあるのですが…)。

 さて、「ピュタゴラスの音律」は音楽理論を語る上では必ず言及されるもの、基礎となっているもののひとつであることは疑いようもありません。ここでその理論を改めて説明する必要ないと思います。数多の書籍のみならず、インターネット上でもさまざまな記事が出てていますので、概要は知ることができます。ただし、「ピュタゴラスが「自然倍音列」を発見し音階を作った」というような誤った記事(これを「調律師」さんが書いているので唖然としましたが…)もありますので留意する必要はあります。

 特にインターネット上の記事には、「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」に関することがよく書かれています。

 簡単に言うなら、「鍛冶屋の金槌(ハンマー)が金床にあたる音を聞き、金槌の重さと音程の間に数学的な関係があることに気づいた」ということです。

 この逸話、私にとってはずっと「違和感」でした。

 私たちは「鉄琴(グロッケンシュピールやヴィブラフォーン)」という楽器を知っています。ひとつの鍵をどのようなマレット(撥)で打っても基本的は音高が変わらないことを知っています。「重さの違うマレットで打って違う高さの音が出た」という経験をした方はいらっしゃいますか?

 トライアングルもそうですよね? 演奏する曲によって大中小さまざまな大きさのトライアングルを使い分けることがあります。曲にふさわしい「音色」を探ろうとしてさまざまなビーターを試した経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。しかし基本的な音高はそう変わらないはずです。

(インターネット上には、このトライアングルの大きさの違いを例に、ピュタゴラスの逸話を検証しようとした記事がありましたが、考えてもみてください。トライアングルでビーターを打つ人はまずいないでしょう。)

 少し考えれば分かる話なのですが、この「ピュタゴラスの音律と鍛冶屋の金槌(ハンマー)」の逸話は、いまだまことしやかに「伝承」されているのです。

⬛️「ウソ」か「マコト」か…

 ピュタゴラス自身やピュタゴラス学派に関しては確実な史実が極めて乏しいとされています。「鍛冶屋」の逸話もピュタゴラス自身が述べたものであるかは分からないのです。

 この逸話が伝承されるきっかけとなったのはボエティウス(480〜525?)の『音楽教程』のようですが、それでもピュタゴラスの時代からは1000年近く経過しています。

 中世・ルネッサンスの時代にいたっても、この逸話は信じられていました。

 “ドレミの始祖”として知られるグイド・ダレッツォ(991/2〜1033以降)の理論書『ミクロログス』(上掲写真)はこの逸話を紹介しつつ締めくくられています。

 『西洋音楽理論にみるラモーに軌跡』(上掲写真)の著者・伊藤友計氏によれば、ヴィンチェンツォ・ガリレイ(1520s〜91)が実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、一般にはあまり知られていないようですね。この逸話が16世紀になるまで延々と受け継がれ、伝承され続けた、という事実は興味深い論点である、と伊藤氏は述べています。そして、「近代が到来する中世まで人間の思考形態としては「原理から現実へ」という「演繹的思考形態」が趨勢であったということ」と指摘しています。

 伊藤氏が述べる「演繹的思考形態」に関しては、ピーター・ぺジックがその著書『近代科学の形成と音楽』(上掲写真)でプトレマイオスの言葉を引用し、次のように述べています。少し長いですが引用します。

 アレクサンドリアの偉大な天文学者で音楽理論家でもあるクラウディオス・プトレマイオス(紀元前2世紀)は、こうした物語が眉唾であることに気づいていたのだろう。プトレマイオスは、葦笛や横笛(フルート)、「弦に吊るされた錘」や「重さの異なる球や円盤」による証拠を一蹴し、ハンマーにいたってはいっさい触れていないが、一弦琴(註:いわゆる「モノコルド」のことだろう)を使えば「協和音を生みだす比を正確に、より簡単に確かめられる」と言っている。プトレマイオスの言葉を聞くと、鍛冶屋の物語はあらかじめ弦であきらかになったことをドラマチックに脚色したのではないかと思えてくる。すべてがまことしやかで、ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい。弦や管ですでに確認された比に、ハンマーが従わないことがあるものか?と。

 ここで実験につきもののもうひとつの危険があきらかになる。ある文脈において、ある特定のパターンが観察されると、一見したところ同じような状況でもそのパターンが生じるに「違いない」と決めつけてしまうのだ。こうした問題は、ピタゴラスの神話には影も形もない。ピタゴラスの神話は、「数は鍛冶屋の仕事でさえも勝利をおさめる」奇跡としてこの物語を示している。本当の奇跡は、数の比が他では複雑だとしても、一本の単純な弦については明白であることだ。この根底を貫く糸は、ローマ時代末期にボエティウスが伝えた要約〜これはピタゴラスに関する最初の文献から約1000年後に書かれたものでる〜現存するギリシャ語最古の文献をよく考えると見えてくる。

 半ば「けちょんけちょん」に言っていますよね(笑)

 ぺジックはその前段でも「けちょんけちょん」に言っています。

 (職人たちの腕力ではなく交換したハンマーによって変化した、というのであれば、)ピタゴラスが「神の加護によって」鍛冶屋の前を通りかかったのだとしても、そこで起きたことは、神の力の働きによる超自然的な、奇跡的な出来事ではなくなる。人間がありふれた仕事場を訪れて、そこで繰り広げられている日常の出来事を不思議に思って中止するのだ。ピタゴラスの啓示は、神の崇拝や静かな瞑想へ彼を誘いはしなかった。なぜかわからないが調和している音の原因を探るという人間らしい行動へ駆り立てた。これを神の啓示の場面だと言うのなら、その後の出来事は、神の啓示にふさわしくない、いや神への冒瀆と言ってもおかしくないだろう。ピタゴラスは、世にも不思議と感じたまさにその物事を止めよう、もしくは変えようとしたのだから。

 もし、こうした逸話が本当であれば、ぺジックが言うように「いくつかの伝承に出てくるスフロン(sphuron ハンマー)という言葉は、スファイラ(sphaira 球sphere)や円盤(disk)の読み間違いか書き間違いかもしれない。ピタゴラスが耳にしたのは大小さまざな金属の円盤の音だったのかもしれない」のですが…。

 こうしてみると、ピュタゴラスの逸話はどうもインチキ臭い(笑)ようにも思えてくるのですが、では、本当に「インチキか、さもなくば万にひとつの偶然の一致だった」(F.V.ハント『音の科学文化史』1978)とか、「事実に反する」(キティ・ファーガスン『ピュタゴラスの音楽』2008)と切り捨ててもいいのでしょうか?

 実は、ピュタゴラスの逸話に否定的な立場をとる人が見落としている点があるのです。

⬛️鍵は「重さ」

 金床の上の鉄が叩かれる音を実際に聞いたことがある、という方はいらっしゃいますか?

 ピュタゴラスの時代の鍛冶屋さんが実際どのようにお仕事されていたかは正直わからないのですが、動画サイトで、例えば「日本刀」が生み出される行程を見ることができます。「鉄を打つ」ということについてはピュタゴラス時代と変わらないと思われますので、是非ご覧いただきたい、そして「鉄を打つ」音を聞いていただきたいと思います。きっと「こういう音をピュタゴラスは聞いたのかもしれない」という場面に出会えるはずです。

 私もいくつかの動画で確認しました。そのひとつがこちらです。

 『日本刀奉納鍛錬』

 (少々長い動画ですが、)11分40秒を過ぎたところから、それらしい音を聞くことができます。ピュタゴラスもこのような音を聞いたのでしょうか…?

 お聞きの通り、同じ地鉄を打つ2つの槌(ハンマー)の音は違いますよね?いわゆる「振動の比率」(つまり音程差)は違うでしょうが、ピュタゴラスが聞いたと言われる音の違いは、このようなことだったのではないか、と私は思うのです。

 ピュタゴラスの逸話に否定的な立場を取る人たちは、金床の上の「鉄」ではなく、金床を打った音を拠り所にしています。その点がそもそもの誤りです。もし、「鉄」を打った音を拠り所に否定的な立場を訴える人がいるのなら、「実際に鉄が打たれるところを確かめたのですか?」と問いたくなります(笑)

 この逸話を読み解く鍵は、「重さ」です。

 動画で確認できる槌(ハンマー)による音の違い、これは明らかに2つの槌(ハンマー)の「重さ」の違いからきていると思えます。そして、これら2つの槌(ハンマー)が、打たれている地鉄よりも(はるかに)「重い」ということをも表していると思っています。

 ピュタゴラス(学派)への反論は、明らかにこの点も見落としている(無視している)ように思えます。

 上述の「鉄琴」や「トライアングル」も、基本的に「打たれる側」が重い。金床も槌(ハンマー)よりは重いのではないでしょうか? ですから、私が上で、幾分否定的な含みを込めて書いたトライアングルを使った検証は、あながち誤りではないのです。

 私自身が科学的に証明したわけではないのですが、二つの物体がぶつかり合った時は重量のある方(密度も関係するのでしょうか…?)の音が大きい。であるなら、ピュタゴラス(学派)の説を「インチキ」と決めつけることはできないように思うのです。

 ヴィンチェンツォ・ガリレイが実験と検証によってこの逸話を打ち破ったとのことですが、私はまだその詳細を読んでいませんので、いずれ、ここまでの考察を再検討する時がくるかもしれません。

⬛️おわりに

 拙稿は、私自身が抱いた「違和感」を解消しようと勉強し直したことに端を発します。

 一度はその「違和感」も解消されたように思えた(本音を言えば、伊藤氏やぺジックの記述に沿うような方向に結論付けようとしていた)のですが、文中にも取り上げたぺジックの言葉「ハンマーが本当にそういう音を出すか誰も確かめようと思わなかったらしい」がそっくりそのまま自分にも当てはまる、と気づきます(笑)。おかげで、少しだけ「アップデート」できたのではないかと思っています。

 結論めいたものは何ら出していませんし、今後再検討する余地が多分にある、ということだけはご理解ください。

 冒頭に書きました通り、現在はひとりの高校生の方と「楽典」や「音楽理論」を実際の演奏(あるいは練習)に活かそうという視点で一緒に勉強しています。まだまだ始めたばかりですが、この過程で、演奏には直接結びつかない領域に踏み込んでいく機会もあるかもしれません。その際はこのような形で公開していこうと考えております。

 長文乱文にお付き合いいただきありがとうございました。

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「シンコペーション」論

2020年10月21日


[0]はじめに

 本論は「シンコペーション」について、その「正体」を考察するとともに、その「演奏法」、あるいは「表現方法」の新たな可能性を探ることを目的としており、特に学校現場等で指導にあたる皆さまの参考になれば、と考えています。

 前半では、古今の作曲家や演奏家、理論家などの著述を参照しつつ、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直します。

 後半は、前半の考察と私の実践を踏まえた「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を提案します。

 なお、本論で参照する海外の書籍等については、原文ではなく日本語訳のものを基にしていることを了承ください。


[1]シンコペーションの正体

●「シンコペーション」について音楽理論書等ではおおよそ以下のように解説されています。

「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらす」

「強拍と弱拍の位置を本来の場所からずらしてリズムに変化を与えること」

「「切分音」ともいい,拍子,アクセント,リズムの正常な流れを故意に変えること」

「1小節内の弱拍あるいは弱部を強調するリズムの取り方」

「軸となる拍の位置を意図的にずらし、リズムを変化させることで、楽曲に表情や緊張感をあたえる手法」

「アクセントの位置を変えることで、楽曲に緊張感や表情をつける手法」

「本来強調されない拍を強調したり,逆に強調されるべき拍を強調しないことによって、 規則的な拍子の強弱パターンを一時的に変化させること」

 多くの理論書では、「拍節」に絡めてシンコペーションを解説していますが、そもそも、「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」とが混同して述べられているのではないかという疑問が私にはあります。上の記述にある「アクセント」という言葉も、拍節内の「強弱によるストレス関係」(つまり、強拍、弱拍の存在)を前提に書かれてものであると推測できます。

 問題は、「拍節リズム」における「強弱ストレス」が音自体に存在する(実際の音で示される)かのように述べられているところにある、と私は考えています。


●例えば、17 世紀の⾳楽理論では「⼩節の定義にはアクセントや強弱ストレスへの⾔及を含んでいない」とされており、フランスでは古典詩学の詩脚を⾳楽に持ち込むいわゆる「リュトモポエイア」が発展したと⾔われています。

 「拍節」がアクセントと結びつけられて考えられるようになるのは18世紀、つまりバロックの時代ですが(そこには、器楽の発展という側面があると考えていいでしょう)、パウル・ヒンデミット(1895~1963)が言うように、もともと「「拍節リズム」における「強弱のストレス」は「われわれの感覚によって⽣じるものであって、⾳⾃体に存在するものではない」(『新訂 音楽家の基礎練習』より)のです。

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 ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が著書『古楽とは何か ―言語としての音楽』で次のように指摘しています。

・バロック⾳楽においては、当時の⽣活のあらゆる領域においてそうであったようにヒエラルキー(階級制)が存在していた。

・⾳符にも「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」があった。

・尊卑の観念はもちろん強調と関係する。

・この図式は拡⼤され、⼩節群や全曲にも当てはめられた。また縮⼩もされた。

 アーノンクールの言う「ヒエラルキー」が「拍節」にも当てはめられたと考えることは十分可能でしょう。

 こうした指摘は、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「拍節」における「強弱」関係が、ある意味「人工的」に作られたということを示唆しているように思えるのです。

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 また、アマデウスの⽗、レオポルド・モーツァルト(1719~1787)は著書『ヴァイオリン奏法』(1756)の中で、「表現のためのアクセント」について述べているのですが、そこで⽰された「強調」は、現代の「拍節」論におけるアクセントと⼀致しています(「作曲家が特別の指⽰をしていない限りにおいて」、との但し書きがあります。そして、レオポルドの記述は、アーノンクールが言及した「⾼貴なもの(良い⾳符)」と「卑しい(悪い⾳符)」という考え方がこの時代にも残っていたことを示しています)。

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 ヒンデミットはさらに、こうも言っています。

(「拍節」のアクセントは)音量的アクセント(=「表現のためのアクセント」と解釈していいだろう)とは本質的に違うものであり、この2種類のアクセントの位置が(とくに単純な構造の楽曲において)しばしば⼀致し、拍⼦のアクセントが強調されるのだ。

 「拍節リズム」と「音楽(あるいは作品に内在する)リズム」との混同は、こうしたところに理由があるのかもしれません。 (ヒンデミットは、「⾳楽作品は、拍⼦の本来のアクセントの位置がはっきりわかるように作曲されるのがふつうである。」とまで言っています。そこには「和声」も大きく関わってくると言っていいでしょう。)


●ところで、「拍節」が「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは疑いようもありません。古くから音楽の理論書等では「最初の音」に強勢を置くことでその構造を説明してきたのですが、果たしてそれが周期性や回帰性を示すことになるのでしょうか?

 拙稿『三拍子の話』でも考察しているのですが、私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性や回帰性をもたらすのではないか、と考えています。

 その「準備」は当然小節内の最後の拍で行われることになります。「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは(僅かなものではあるが)、音量的なアクセントだったり、長さであったりするかもしれなません(強さには長さが、長さには強さが伴うということも知っておきたいです)。つまり、私たちが教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」関係とは異なるものです。

(そう考えると、例えば練習でメトロノームを使用する際、拍節の変わり目を意識づけるという意味では、「チーン、カチッ、カチッ、カチッ」というパターンを、「カチッ、カチッ、カチッ、チーン」というパターンに変えてやってみることを検討してもよいのではないか、という気もします。)

 以下、簡単にまとめてみます。

・もともと「拍節」における「強弱」は⾳⾃体に存在するものではない。

・「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」(ここには作曲と演奏の両領域が含まれる)の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」と同じとはいえない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば1拍目の)音に何らかの「重さ(あるいは強勢)」を置くことで起こるのではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、1拍目が何らかの形で強調されることは当然起こり得る)。


●いくつかの作品で確かめてみましょう。

 まずは、日本人なら誰でも知っているこの歌、

 旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型です。

 この旋律を上記譜例のような強弱を実際に付けて歌う人はまずいないでしょう。歌詞(言葉)に内在するアクセントが優先されるはずです(この曲であれば、奇数小節の最初の音にわずかながら強勢が置かれるでしょう)。

 この曲はどうでしょう?

 これも旋律のリズムが「拍節リズム」と一致する単純な構造の典型ですが、言葉(シラブル)の持つ強弱ストレスも「拍節リズム」の強弱ストレスと一致しています。つまり、上述のヒンデミットの言及「2種類のアクセントの位置が一致する」典型でもあると言っていいと思います。

 だからと言って、各小節の最初の音符にさらに強いアクセントを付けて歌うことは考えられませんよね。

(ヨーロッパの著名なピアニスト(故人)が、ベートーヴェンの強弱法に関する講演の中で、この部分を例に「拍節リズム」における強弱の重要性を説いています。次節で詳述します)。

 上記2つの例は歌詞(言葉)を伴うものですが、では、歌詞(言葉)を伴わない場合 はどうでしょうか?

 拙作で恐縮ですが、『メモリアル・マーチ「ニケの微笑み」』を例に挙げてみます。

 行進曲は特に「拍節感」が大切だとされていますが、譜例の上の段の旋律に「拍節リズム」の強弱を当てはめて歌ってみるとどうでしょうか?

 下の段のベースライン、これも「拍節リズム」の強弱関係に従って強勢を置いて歌ってみましょう。

 非常に窮屈な思いをするのではないでしょうか?

 歌詞のない作品に取り組むときでもよく、「歌いましょう」と言われることは多いのですが(「拍節感」が大切だとされる行進曲であっても)、常に「拍節」の強弱関係に意識が向いてしまうと(それが優先されてしまうと)「歌」は成り立たないでしょう。

 とはいえ、「拍節リズム」を全く無視するわけにはいきません。

 「拍節リズム」は「音楽リズム」に「秩序」と「刺激」をもたらすからです。

(「拍節アクセント優先」の考え方は、「言葉」によるアクセントがないため何らかの「秩序」を示す必要があったからかもしれない、とも思えてきます。)


●「シンコペーション」自体は「音楽リズム」に「刺激」を与えますが、その刺激は「拍節リズム」によってもたらされます。「拍節リズム」があるからこそ「シンコペーション」という概念が生まれたとも言えるのです。だから、「シンコペーション」を「拍節」の強弱ストレスに基づいて述べることは不可能なことではありません。しかし、「拍節リズム」の本質(「強弱」が⾳⾃体に存在しない、ということ)を理解しておく必要があります。

 「シンコペーション」には「切分音」という訳語が当てられています。「切分拍」ではありません。実際に響く音を切り分けるということです。「拍節リズム」の「強弱」が音自体に存在しないということを前提とすれば、「拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて」や「拍の位置をずらす」という説明は成り立たなくなります。ヴィオラ奏者・藤原義章氏の「今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくるリズムパターン」(『リズムはゆらぐ』より)という説明が最も本質を突いているように思われます。

「シンコペーション」は、「拍節」における「強弱」の位置を入れ替えることではない、「拍」がシンコペートされるわけではないのです。

 (藤原義章氏の著書『リズムはゆらぐ』や『美しい演奏の科学』は、リズムを考察する上で一読に値すると思います。ただし、藤原氏が「強弱リズム論」に徹底して批判的な態度を示しているのに対し、私は「古くからある理論は上手に活用すべし」という考えです。氏は著書で「自然リズム」という言葉を使っており、演奏する上で最重要視しておられます。人間の深層部分に潜在しているものということですが、それは私が本論で用いる「音楽リズム」という言葉と同じです。もともと音楽自体、人間が音をコントロールすることで創造されたものですから、「自然」というものを音楽に求めることは極めて難しいのではないか、と私は考えます。ドイツの哲学者で『リズムの本質』という著書でも知られるルートヴィヒ・クラーゲス(1872~1956)が言うように、人間の深層部分に潜在するリズムが優位に立てば立つほど緊張感は緩む。だから、上述したように「拍節リズム(クラーゲスは「拍子」としています。)」を無視するわけにはいかないのです。私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と考えるのはこうしたところに理由があります。)

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●「ヴィーン古典派」時代の音楽家・理論家・教育者であったダニエル・ゴットロープ・テュルク(1750~1813)の名著『クラヴィーア教本』(1789)には次のような記述があります。

シンコペートされた音とは、拍ないし部分拍を数えるときに、頭のなかで切り分けなければならない音符のこと。換言すれば、その半分が先行する拍に属し、他の半分は後続の拍に属するという音符のことである。(「拍節」の項で述べられています。)

 この点については、私の師のひとりである東川清一先生が著書『だれも知らなかった楽典のはなし』で触れていらっしゃるのですが、先生はシンコペーションの本質的特徴は「アクセントの移動」と仰る…。
 しかし、よく読めば、「拍節リズム」のアクセントの移動ではなく「音楽アクセント」の移動であることがわかります。

  上の楽譜中、*印が付された音が「シンコペートされた音」ですが、テュルクの記述に従い各音を切り分けて記譜すると、以下のようになります。

(譜例は筆者による)

  テュルクの言う「シンコペートされた音」とは、「拍頭を跨いで奏せられる音(拍頭でアタックしなおさずに)」ということが明らかです。

 では、音がシンコペートされる前はどのようなリズムでしょうか?

 上記の譜例から「シンコペーション」を除くと、以下のようになるでしょう。

 「cyncopate」は本来「中略」や「中断」、「短縮」を意味します。であるなら「シンコペートされた音」は、テュルクの言う音とは違うものになるのではないでしょうか?

 どの音が「中断、短縮」されたかは一目瞭然です。

 つまり、テュルクの言う「シンコペートされた音」は、「先行する音をシンコペートした音」ということになるのです。

 「切分音」という訳語もこうした、「された」「した」の関係を理解することで初めて意味を持つのだろう、と思います(一部理論書にはこうした点に言及したものがあります)。

 歴史的な理論書に対し批判的な視点で述べたのですが、それでも、テュルクの記述からは、得るものがあります。「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立ったものだということも示しているからです。

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●テュルクは「強調されるべき音」の項でこうも述べています。

シンコペートされた音(=「先行する音をシンコペートした音」)はその出だしから、したがってそれが弱拍と強拍のいずれにあたるにせよ、強く奏さなければならない(中略)このようなシンコペートされた音が用いられるのはなかでも、しばらくのあいだ過度の単調さを打ち破って、いってみれば拍の位置をずらすためである。シンコペートされた音の前半が弱く奏され、その後半が強調されたのでは、達成されないのである。

 「弱拍」や「強拍」、「拍の位置をずらす」という記述は、ここまでの考察とかけ離れたものですが、この時代の音楽のありようを示していることは確かです。

テュルクが述べているように、「先行する音をシンコペートした音」には何らかの強調が必要となります。

・先行する音をシンコペートしたことを示すため

・先行する音をシンコペートしたことにより、「長さ」を持ったため(一部例外はある/長さには強さが伴う、ということは既述の通り)

という2つの理由からです。つまり、「シンコペーション」の強調は、「拍節」の「強弱ストレス」とは無関係になされるものなのです。結果として「弱拍」とされる拍にあたる音が強調されることになるのですが、テュルクが「「拍節リズム」と「音楽のリズム」が本質的に違うもの」、という前提に立っているからこそ、「いってみれば」という表現をしているようにも思えるのです。

 ちなみに、レオポルド・モーツァルトは『ヴァイオリン奏法』の第12章でこのように言及しています。

 小節をまたぐような音符を分けてしまったり、それを強調したりしてはいけない。むしろ拍の最初にあるかのように始め、静かに保っただけでいい。

 「シンコペーション」を思わせる記述なのですが(そもそもレオポルドの著書に「シンコペーション」という言葉は出てきません)、ここでレオポルドが言う「強調」は「表現のためのアクセント」として(意識的に)付されるアクセントを意味しており、「長さ」を持ったことにより生じる強調までをも否定したわけではない、と読み取れます。「拍の最初」(「拍節の最初」の間違いではないだろうか…?)という記述が、それほどの強調は必要とはされなくとも、他とは区別される音であるということを示していると、考えられるからです。

(もし、「拍節の最初」ということであれば、レオポルドが同著の同じ章で、「強拍にあるその他の音(つまり、「表現のためのアクセント」が付けられていない音符)は、常に少し強くして他の音と区別されるが、あまり強くしすぎてはいけない」と述べていることとの整合性が取れるのではないか、と考えるのですが…。)


●もっとさまざまな(古今の)理論書等を参照する必要があるのかもしれませんが、「シンコペーション」の定義を問い直し、加えて「拍節リズム」との関係、さらには「拍節リズム」そのものも問い直すことがある程度できたのではないかと考えています。

 次節では、ここまでの考察と実践を踏まえ「シンコペーション」の「演奏法」、「表現方法」を探っていきます。


[2] 「アーティキュレーション」の視点から演奏法を考える

●楽譜に記された「シンコペーション」を実際の音としてどのように示すか…

 その音の立ち上がりに何らかの強勢を与えることが現代では一般的でしょう。ここまでの考察からも、あるいは歴史的な理論書にある記述からも疑いようはありません。そして、それが「強拍」と「弱拍」のパターンを変えるという類のものではない、ということは再度確認しておきたいと思います。

 ただし、強勢を与えることが単に「慣習」だからということであれば少々問題でしょう。

 拙稿『三拍子の話』や雑誌への寄稿文にも書いているのですが、「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。 既存の、誰もが理解していると思われる(「慣習化」している)理論であろうとも、一度は「なぜそうなったのか」「なぜそうでなければならないのか」と考えてみることは有益であると私は思います。


●以前、ヨーロッパのある著名ピアニスト(故人)がベートーヴェンの強弱法について講演したものを目にする機会がありました。ベートーヴェンの時代の音楽様式、演奏様式に沿った、深い内容でした。このピアニストは、楽譜に書き表すことのできないデュナーミク(インネレ・デュナーミク)の大切さを説いた上で、実際の音にもそうした強弱が反映されることの重要性を強調していたのですが、このインネレ・デュナーミクの中心に置かれたのが「拍節リズム」の強弱でした。

 「音楽の自然な表現力」を求めるこのピアニストが「拍節リズム」を「音楽の自然な抑揚」として述べている(前節で取り上げた「第九」も例に挙げているのですが、明らかに、言葉の持つ自然なアクセントと「拍節における強弱」を混同して述べています)ことに若干の違和感を持ったのですが、いくつかの作品を例に何度となく「通常の法則(リズムの強弱に準拠したデュナーミクのイントネーション)に固執することなく」と繰り返していたところを見ると、「そのように決まっているから」だけでは音楽にならない、ということを言っているようにも感じました。

 ちなみに、このピアニストが「通常の法則に固執することなく」と言っていたベートーヴェンの初期のソナタのある部分、実際そのように演奏しているかを確かめてみたところ、見事に「通常の法則」で演奏されていました(録音と講演の年代に数十年の開きがあるので、このピアニストの中で何らかの変化があっても不思議ではありません。そこがまた、音楽の不思議、魅力でもあるのです。私は、決してこのピアニストを否定しているのではなく、むしろ、若い頃からその演奏に繰り返し触れてきました)。


●さて、「シンコペーション」の演奏法、表現方法ですが、その音の立ち上がりに何らかの強勢を置くということは、本当に「そう決まっている」からなのでしょうか?であれば、「なぜ」?違う方法、他の可能性はないのでしょうか?

 アントニー・バートンが編集した『古典派の音楽 歴史的背景と演奏習慣』の「弦楽器」の章でダンカン・ドルースが「シンコペーション」について次のような記述をしています。

当時は、また19世紀に入ってからも、これと(各音の最初にアクセントをつけてシンコペーションを強調するやり方)は違った方法が使われたという証拠がある。バイヨは1834年の『ヴァイオリンの技法』でもっとも完璧な説明を行なっている。すなわち、移動したアクセントがシンコペーションの最初にスフォルツァンドを要求したり、曲の静かな性格がアクセントのない演奏を暗示するのでないかぎり、演奏者は「音をだんだんふくらませて、音の最後まで弓を、ただし穏やかに、加速させなければならない」―したがって、次の音を静かに始めるよう注意しなければならない―というのである。古典派のレパートリーには、このような抑揚を付けたシンコペーションによって効果を高めるパッセージが無数にある。

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 レパートリーの一例としてドルースは、ベートーヴェンの『ソナタ第7番』の第一楽章を挙げています。

 果たして、バイヨが述べるような演奏法は実際に受け継がれているのでしょうか?

 譜例に挙がったベートーヴェンの『ソナタ』、20世紀の大演奏家たち、現在活躍する演奏家たちがどのように演奏しているかを確かめてみました。

 シゲティ、ハイフェッツ、シェリング、グリュミオー、メニューイン、スターン、オイストラフ、ヘンデル、パールマン、ズッカーマン、クレーメル、ムター、カヴァコス、ファウスト、樫本大進、庄司紗矢香…、誰一人としてドルースが取り上げたバイヨの演奏法は採っていません(もっとも、譜例に挙げられたこのフレーズ、ヴァイオリンが演奏する前にピアノに登場します。ピアノがこの譜例のような強弱を表出できるでしょうか(フレーズ自体がクレッシェンドしているのならまだしも)?つまり、例として挙げること自体に少々無理があるような気がするのですが…。そもそも、ベートーヴェン自身がそれを意図していたとも考えにくいです)。

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 ただし、受け継がれてはいないものの、現在「慣習」となっている演奏法とは違う考え方があったという事実は知っておいたほうがよいでしょう。こうした演奏法が顧みられ、数十年後には一般化する可能性がないとは言えないのです。そして、バイヨの論が、「シンコペーション」を「拍節」の「強弱」の移動とは考えていないという点は見逃せません(ただし、読み方によっては、バイヨが「拍節」内の各拍頭にある種の強勢を置かねばならないと考えていたのではないか、とも思えます。前節で見たテュルクの考えとは全く逆です)。

 しかしながら、「その音の立ち上がりに何らかの強勢を置く」という演奏法にある意味淘汰されてきたということは、そこに人間の「感覚」が大きく関わっているということだけは言えるでしょう(いつも思うことですが、「理論」というものはいくら科学の目が入ろうとも、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされ、それを繰り返して今日に至っているはずなのです)。

 では、その感覚とは?

 今一度、前節で参照した藤原義章氏の説や、テュルクの論述に関する考察から。

・今カウントしている拍子の拍頭パルスからずれたところに音のアタックがくる

・先行する音をシンコペートしたことを示す

・先行する音をシンコペートしたことにより「長さ」を持った

 こうした条件下、人間の感覚としては何らかの強勢を置きはしないでしょうか?それが例え、上記譜例のベートーヴェンの『ソナタ』のように p のフレーズになったとしても(件のフレーズの直前までは f )。もちろん、「シンコペーション」のよる「中断」が音量の変化を伴って行われることは、上記ベートーヴェンの『ソナタ』の例を見るまでもなく普通にあることです。そして、音量的な変化と音(あるいはフレーズ)の立ち上がりに置かれる強勢とを混同してはならないことは今さら言うまでもありません(バイヨやドルースの論述に違和感を持つのはこうした点に起因します)。

●バイヨやドルースの論述に接したことから、多くの演奏に触れることができたのはある意味収穫です。

 どれひとつとっても同じ表現はありません。件の「シンコペーション」を取り上げてみても、強勢の置き方、音の「抜き方」、音の保持のしかた、と演奏者それぞれの色があります、味があります。つまり「アーティキュレーション」が明瞭である、ということです。

 「アーティキュレーション」、ここに「シンコペーション」の演奏、表現を豊かにするヒントがあるのではないでしょうか?

 これまでの考察から、「拍節」における「強弱」の移動ということ以上に「アーティキュレーション」という視点から「シンコペーション」演奏法を考える方がはるかに音楽表現を豊かにするはずだ、というのが私の結論です(私がベートーヴェンで接した多くの演奏家だって、「拍節」の「強弱」の移動ということよりも、その音にどう表情づけするかに神経を使っているはずですから)。

 「ここは拍の強弱が入れ換わっているから強く弾いて」と指導するよりもはるかに音楽的と言えるでしょう。


●今一度、前節(テュルクの論述に関する考察の項)の譜例を挙げてみましょう。

 「シンコペーション」の音(テュルクの言う「頭の中で切り分けなければならない音符」)は拍頭を跨ぎ「タイ」でつながれています。この「タイ」をどのように考えるかがポイントでしょう。

 ここからは、古典の音楽理論、演奏法を活用、応用してみましょう。

 「タイ」は、音をつなぐという意味では「スラー」と同じです(ここで言う「スラー」はあくまでも、「アーティキュレーション」を示す短い「スラー」だ)。「タイ」も「スラー」も弧線で示されます。「スラー」」はイタリア語で『ligatura』、「タイ」は『ligatura di volare』、つまり「音価のスラー」と呼ばれます。

 フルート奏者の有田正広氏(1949~)は、「古典では、スラーはディミヌエンドを作るもの」(佐伯茂樹著『木管楽器 演奏の新理論』より)と言います。また、ヴァイオリン奏者のシモン・ゴールドベルク(1906~1993)の「スラー」に関する言及には次のようなものがあります。

スラーの最初の音は特別な音。特にそのことを示したり印づける必要はなくとも、その音の長さを縮めない。

スラーの音を毎回強調する必要はない。ただし、最初の音であることをなおざりにしないこと。

スラーのかかった二つの音は二つとも聞こえなければならない。しかし二つ目の音へのディミヌエンドの度合いは緻密な意識のもとに造り出すこと。

ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 – シモン・ゴールドベルク』より)

 ゴールドベルクにも有田氏同様、基本的には「スラーはディミヌエンドを作るもの」という認識があるのは確かなようです。

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●例えば、次のような楽譜を生徒に与えてみましょう。

 「スラーはディミヌエンドを作るもの」という意識がなくても、生徒は最初の音に何らかの形で目立たせようとする(表情をつけようとする)はずです。後ろの音を強調することはまずありません(前述したように、それが人間の「自然な感覚」なのでしょう)。  

 では、同じ高さで隣り合う音をつないでみましょう。

 多くの生徒は、「リズム」を正確にとること(音が立ち上がる位置を間違えないようにすること)に意識が向き、表情をつけることができない…。「シンコペーションは拍節内の強弱の移動」などという以前の問題です。

 ここで、手を打ってカウントを取らせながら最初の2小節を歌ってみます(テンポやデュナーミクは任意で)。

 「シンコペーション」が「拍節の強弱の入れ換え」、という意識の強い生徒ほど、2拍目のカウントを強くとるでしょう。気をつけておきたいのは、2拍目に強くカウントをとっているのは、旋律の持つリズムと「拍節」リズムとを混同してしまっている、ということです。このとき、旋律の二分音符にはすでに過剰とも言えるアクセントがつけられていると言っていいでしょう(曲想や作品の性格にもよりますが)。

 既述の通り、「シンコペーション」は「拍節リズム」あってこそのもの、「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(そう考えると、手を打ってカウントしながら歌うことは意外に難しいですよね)。

 優先されるべきは、単にそこに「アクセントを置く」ということではなく、「表情」を作ることです。

(別の場所でさらに考察する予定ですが、「リズム」は1音だけでは成り立ちません。「アクセントを置く」にしても、前の音がどのような表情なのか、次の音がどのような表情なのかを十分に検討することが大切なのです。


●では、テュルクが言うように「頭の中で切り分け」て考えてみましょう。

 「タイ」が音価の「スラー」であるなら、そこには、単に「長さ」を作る以上の役割があると言えないでしょうか?

 既に言及したように、「長さ」にはある種の「強さ」が伴いますから、「タイ」の架かりはじめの音には何らかの強勢が置かれると考えていいでしょう。繰り返しますが、それは「拍節」アクセントの移動ではありません。曲想や曲の性格を見極めた上で(加えて前後の音との関係を踏まえた上で)導き出されたものでなくてはならないのです。

 「スラーはディミヌエンドを作る」という「法則」に従うなら、「タイ」が架けられた最後の音に向かってディミヌエンドすることになります。当然そのディミヌエンドも次の音との関係(次の音にどのような表情を求めるか)を踏まえた上で作らねばなりません。

 「スラー」や「タイ」が架けられた最後の音はやや短めにするのが「慣習」となっていますが、この点に関しゴールドベルクは次のように述べています。

スラーの後、次の音に性急に飛び込みたくなるのは誰もがしがちな間違い。スラーまたはタイの最後の音の長さを短縮しないこと。そしてスラーの最後にくる次の音に早く入りすぎないこと。

 これも曲想や曲の性格(あるいは様式)に応じ検討されなければならないことは、既述のベートーヴェンの『ソナタ』の多くの演奏からもわかります。

 「タイ」が架けられた最後の音の次に来る音に早く入りすぎるのであれば、それは跨いだ「拍頭」を十分に意識していないからでしょう。「タイ」が架けられた最後の音はアタックしないのですから、なおさら意識する必要があります。(これも繰り返しますが、)「拍節リズム」が「音楽リズム」にコントロールされすぎることは避けたいものです(「拍節リズム」は「音楽リズム」に秩序を与えるものですから)。音の「強さ」や「長さ」に意識が向いたとしても、「着地点」が見えなければそれらは曖昧に処理されかねません。「音を頭の中で切り分け」、「スラー」でつなぐ、ととらえることで、「着地点」は明確になるでしょうし、それにより「最初の音の強勢」の度合いや「ディミヌエンド」の度合い、「スラー(タイ)が架かった最後の音の保持」の度合いなどをより広い視野で検討できるのではないか、と思うのです。

 「シンコペーション」における音の「強勢」を、「拍節リズムの強弱の入れ替え」ではなく、「アーティキュレーション」の視点でぜひとらえてみていただきたいです。


[3]おわりに

●私たちの生活には一定の「リズム」があります。人それぞれに違いはありますが、朝起きてから夜寝るまでの間、「生活のリズム」、「行動のパターン」を持っています(寝ることもひとつの行動ですよね)。そこに「秩序」をもたらすのが「時間」です。「時間」を「拍節」、「生活のリズム」を「音楽のリズム」に置き換えてみるとどうでしょうか?

 「時間(拍節)」に「強弱」は基本的に存在しません。もし、個々の体の内、脳内で強く意識されている「時刻(拍)」があるということであれば、それは「生活のリズム(音楽のリズム)」が持つ「アクセント」なのです。いつも決まった「時刻(拍)」にすることを、意識的にずらして変化を与えてみる…。どこか「シンコペーション」を思わせますよね。

 「時間」を基準に生活の全て組み立てると、どこかで窮屈な思いをします。しかし、「時間」があることで私たちの「生活リズム」は活性化します。音楽も同じでしょう。


●音楽には、一定の理論や法則があり、私たちはそれらを吸収しながら演奏や創作といった活動に活かしています。しかし、本論でも述べたように「そのように決まっているから」と無批判に既存の理論等を受け入れようとすれば、必ずどこかで窮屈な思いをするものです。そして、理論そのものも変容してきたという事実…。

 情報が容易に手に入る時代になり、理論書や入門書なども様々な工夫がなされたものが多く出回っていますが、それらをどう演奏に役立てるか、という視点で書かれた書籍等はそう多くはありません。「既存の著述の言い回しを少し変えてみた」、単に「わかりやすくした」程度のものもあり、多くは「そのように決まっているから」という視点で書かれたものです(それらを決して批判するわけではありません)。楽器の教則本や合奏用のメソッドなどでも、楽譜をどう読んで演奏に活かすか、という観点が欠けていることが多いです。いわゆる「表現」というものは、技術の習得以上に「経験」や「学習」の違いが現われるものです。さまざまな考え方、可能性があると言えます。そうしたもの全てを教則本などに取り入れようとすれば、本も分厚くなり、かえって学習意欲も失せてしまうだろうな、と思っていました。

 私自身も既存の理論等に窮屈な思いをすることはあります。そして、それは時代の変化、音楽をめぐる環境の変化によるところもあるでしょうが、理論そのものが変容してきた過程で何か見落とされたことがあるのではないか、と私は強く思うようになりました。それが、こうした文章を書くようになったきっかです(その第一弾が拙稿『三拍子の話』です)。

 (これも本論で述べましたが)理論の変容には「人間の感覚」が大きく関わっています。もし、「そのように決まっている」と思われるものに対し「なぜ?」と感じることがあったとしても、それは決しておかしなことではなく、むしろ、その成り立ちや変容の過程を探ることで、表現のための「選択肢」が増える可能性があるということです(私が「古くからある理論は上手に活用すべし」と言うのは、そうした意味です)。「なぜ?」という問いかけこそが、いわゆる「表現の幅」を広げることになるのです。

 理論面からのアプローチ、そして「問いかけ」が、演奏技術の向上にもつながることを私は期待しています。

 本論では私自身の結論のようなものを提示しましたが、今後の実践によっては、その考え方が変化することがあるかもしれません(その時は改めて考察していきます)。お読みいただいた皆さまなりの結論をお出しいただき、実践に役立てていただきたいと思います。

 拙文が少しでも学校現場等で指導にあたる皆さまのお役に立てれば嬉しく思います。

(完)


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三拍子の話 〜第15回/最終回〜


演奏、音楽表現には「理知的」アプローチと「感情」面からアプローチが必要だと思っている。

そのバランスの取り方こそが「個性」となって現れるのではないだろうか。

「理知的」アプローチ、これは言い換えると「構造」をとらえるということ、「様式」や「理論」に基づいたアプローチ、ということだ。

「骨格」となるのが「拍節」だ(もちろん、普段私たちが接している音楽に見られるような「拍節」を持たない音楽もあるが)。

「骨格」というのは、人体に置き換えると分かるのだが、決してそれ自体が表に現れてくるものではない。しかし、全体を見ればどのような骨格かは結構分かるものだ。

「拍子」だってそのようなものだろう。
(そう思うと、「拍<節>」とはよくできた言葉だ。骨同士は「関<節>」でつながっている。)

「感情」面が優位になると、「骨格」に無理がいく。私のような年代になると痛みが和らいでいく速度も遅くなる。
(多少の無理や刺激は必要だ。それにより、自分の骨格がいかに弱くなっているかを知ることができるというものだ…)

一方、「骨格」が強調されすぎると、人を寄せ付けない冷たい奴、面白みのない奴だと思われることもある(そこが面白いのだ、という人もいるだろうが)。

しかし、「骨格」がしっかりしていればこそ、自在に動きがとれるはずだ。それにより「感情」面からのアプローチも多彩になるだろう。

「第14回」で書いた、「私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどがこうした「拍節」や「リズム」の問題が大いに関わってくる」背景にはこのような考えがあるからなのだ。

「拍節」や「拍子」については、考えているようで意外に疎かになっていたなぁ、と自分では思う。目まぐるしく「拍子」が変化するような曲に向き合うときはとても気にするのだが…。

おそらく「拍節」や「リズム」に関する考察は尽きることなく続くことだろう。音楽に限らず、人間の生命の根幹でもあるとも言えるのだから。

(そうした、ある種の「解けない謎」が学問を発展させ、またそれにより人間を成長させたのだろうと思う。「謎」は「謎」のままでもいい、だからこそ面白いのだ、と最近は思うようになった。)

日本人と『三拍子』関係を考察するところから始まった話、何ら結論めいたものを導き出したわけではないが(結論は出ない)、現時点で私なりの方向性はある程度出せたと思っている。
とは言え、ドイツの哲学者で『リズムの本質』などの著書で知られるルートヴィヒ・クラーゲスや、『リズムはゆらぐ』などの著書があるヴィオラ奏者の藤原義章氏などに大きな影響を受けながら、本稿では言及することはなかったし、ジャック=ダルクローズリュシーについても考察できていない。
今後さらに掘り下げていくことができるだろう。その過程で、考えが変わることもあるだろうが、その時はまた綴っていこうと思う。
そして、私が「これから考察しようとしていること」に反映させたい。


最後に、ある尺八奏者の方の言葉を…

「実際に音楽をしようとしたら、3拍子どころか、2拍子だって、4拍子だって簡単にできません。」

「苦手な理由ははっきりしています。練習してないからです。」

「楽器を手に取ってから、4拍子を基礎とした練習しかしてないからです。」

「4拍子に偏る基礎練習をやめましょう。基礎練習の時に、3拍子系の音出し、運指練習をとりいれてください。」

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(終)


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三拍子の話 〜第14回〜


「拍節」や「小節」、「拍子」、あるいは「リズム」という言葉を定義(少々肩苦しいが…)するのはなかな難しいものだ。

私もここまで随分と曖昧なままで使ってきた。
それぞれが、昔からいろいろと研究され語られてきた。
様々な考え方がある。

どれが正しいとか間違っているなどと言うことも困難だ、正直今の私には。
ただ、これだけ語られていると言うことは、それだけ「拍節」や「リズム」などの問題が音楽の、音楽表現の根幹に関わるからだろうと思う。

この『三拍子の話』に限らず、私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどにこうした「拍節」や「リズム」の問題が大きく関わってくる。


例えば、私の活動の中心になっている吹奏楽のフィールドでは、最近「指南書」的なものが多く出版されている。昨今の部活動を取り巻く状況を鑑みるに、こうした「指南書」の類はとてもよくまとめられていると思う(部活動に特化したノウハウや心構えなどに少々偏りすぎかな、と思うものもあるが…)。

また、吹奏楽コンクールの時期になると、課題曲を中心に、「このように演奏すれば効果的」といった「虎の巻」的な出版物、動画なども出てくる。

これらをもとに勉強し、練習し演奏しても「差」は出てくる。
なぜ…?
もちろん、楽器演奏の技術習得の度合いもあるが、圧倒的な違いは、「指南書」等を活用する以前の下地ができているか否かにある、と思っている。

基本的な「理論」に裏付けられた演奏か否か、と言ってもいい。

「理論」に裏付けられた演奏と言うと、何やら堅苦しく感情を抑えたような演奏と考える人もいるかもしれない。表面上整えられただけの演奏と感じる人もいるだろうが…。


私たちは「文法」を学ぶことなく、言葉を身につけコミュニケーションをとることができるようになった。「文法」を知ることでよりコミュニケーションがとれるようになったのでは…?

(「文法」という言葉には、自分でも拒絶反応が出てしまうけど…。ただでさえヘタクソな文章綴っておいてよく言えたものだ…)

「理論」と「文法」はイコールとは言えないのだが、これらを知ること、身につけることでよりコミュニケーションがとれるようになるのではないか、と思う。

もっとも、自分がどれほどのことができているだろうか…。


「第9回」の最後の方でつぶやいたように、「音楽理論というものは、「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない」。

最終的には、「自分なりの理論・文法」を持つことが必要なのだろう。
ちなみに、「自分なりの理論・文法」をしっかり持っている作曲家の方は、大抵文章も素晴らしいものだ(自分で書いていて耳が痛い…)。

(そのためにも、時代を遡ってみること、振り返ることが大切なのだ。いつの時代もそうなのだが、私たちは常に「過去」と向き合っているはずなのだ。「新しい」音楽が現れたところで、音になってしまえばそればそれは「過去」のものとなってしまう。「過去」と向き合わずして「未来」はない。これは音楽に限ったことではない。)


吹奏楽のフィールドにおける「指南書」的なものの多くは「理論」面にまで踏む込んだものとはいえない(「和声法」や「形式論」などに特化したものはあるけど)し、「音楽表現」に関するところまで踏み込んだものはまずお目にかかれない。

著者(多くは演奏家)それぞれの「理論・文法」があるので、簡単に踏み込むことができないのだ。自らが長年の経験で培ってきた「手の内」を簡単に明かすことはできない、とうい人もいるだろう。

様々な考え方を集めて一冊にすることもできるのだろうが、それはそれは分厚い本になるだろうし、読む気も失せるだろうなぁ…
(だからこそ、やってみる価値はあるかもしれないけど…)

そんな中、今年8月に亡くなられた佐伯茂樹氏の『金管楽器 演奏の新理論』と『木管楽器 演奏の新理論』は、このフィールドで、これまでにない視点で書かれた素晴らしい著書だと思う。

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三拍子の話 〜第13回〜


先頃亡くなったピアニストのパウル・バドゥラ=スコダ(私はこの人のモーツァルトやベートーヴェンの録音をきっかけにフォルテピアノの音に惹かれた時期があった)は、「音楽表現には音量の変化や呼吸の感覚が大切」であること、「楽譜には書かれていないにもかかわらず、演奏の際に反映しなければならない必須のデュナーミク − インネレ・デュナーミク innere Dynamik」の重要性について語っている。

「インネレ・デュナーミク」とは「音価、リズム、和声や音程などによって変化する微妙な音量の差違」ということであり、「音楽の自然な表現力は、このデュナーミクによって初めて与えられる」とバドゥラ=スコダは言う。(「ベートーヴェンの強弱法」に関する講演)

アーノンクールが、(バロック期の)拍節の「強弱関係」に「ヒエラルキー(階級制)」の存在を指摘し、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」と著書に書いていることは既に「第5回」で触れたが、ここで彼が、その単調さを回避するために必要なこと、そして「強弱のヒエラルキー」の上に立つものとして述べているのが、第一に「和声法」次いで「リズムと強勢法」だ。

言っていることは二人とも同じであると考えて良いだろう。

バドゥラ=スコダもの話も、拍節における基本的な「強弱」関係の存在が前提となっている。


大演奏家二人の話を通して、心得ておきたい大切なことは、基本的な「(拍節における)強弱関係」を守って演奏するだけでは音楽表現はできない、言い換えると、曲の性格やイメージを演奏者がしっかり読み取り、基本的な「(拍節における)強弱関係」と「インネレ・デュナーミク」とを上手に組み合わせる(作用させ合っていく)ことなのではないか、と私は思う。

これは作曲(には限らないが…)をする上で学ぶ「和声法」や「対位法」にも言えることだ。

私たちが通常学ぶ「和声法」や「対位法」も、ある特定の時代にまとめられたものが基本となっている。そこには「禁則」も盛り沢山だ。

意図的に「禁則」を使うということはありだと思うし、歴史的に見ても、「規則」をはみ出すことで新たな創造を行なってきた大作曲家がいることは述べるまでもない(もっとも、「何も考えていないな」、「本人は気づいてないんだろうな」と思うような曲も最近の吹奏楽にはあるが…)。

私たちが現在お世話になっているいわゆる「楽典」に書かれている内容も、どこかの時代で取りまとめられたものであり、もしかすると(「第7回」で触れたスタッカートのように)何らかの経緯で「標準化」されたにすぎないのかもしれないし、本来の意味から変容しているものもあるかもしれない。

一度、古い時代の「理論」に触れてみることは、(「第9回」の最後でつぶやいた)「そういう決まりになっているから」と、無批判に理論を受け入れがちな私たちを、むしろ「解放」してくれることになるのではないか、と思っている。

「音楽において、日本人は三拍子が苦手だとよく言われる」という、最初の話。これは「理論」ではないが、果たして私たちは無意識に(無批判に)この話を受け入れているだけではないのだろうか…。
(まぁ、それをここまで考えてきたのであるが…)

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