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投稿者: kmasa1006

三拍子の話 〜第12回〜


ある「拍」が次の「拍」に向かう(小節線をまたぐ、つまり次の「一拍目」に向かう時に限らない)ための「準備」…この「準備」のために意識すること、これは、「拍」が「点」ではないということだ。

「拍」には(時間的な)幅があることを私たちは忘れがちだ。

拍:『音楽で、個々の音の持続(時間的な長さ)を規定する基本単位。多くの場合は等間隔の脈動で、手などを規則的に打ち鳴らして数えることができ、その長短がテンポ(速度)の遅速につながる。』(大辞林)

この「幅」を意識しない限り、実際の音で表現しようとしても音楽的なつながりは希薄になる。手拍子の「パンッ!」なり、指揮の「打点」は、「拍」そのものを示しているのではなく、単に拍の初め(拍頭)を示しているに過ぎないのだ。

齋藤秀雄が『指揮法教程』を作る際助手として関わった紙谷一衛氏は、「叩き」(斎藤が指揮の運動を体系づけた中のひとつで、最も基本的なもの)や「打法」という言葉が誤解を生んでいると言う(紙谷一衛著『人を魅了する演奏』より)。

となると、やはり「いちっ、にっ、さんっ」という言葉の影響は大きいかもしれない。

「拍」が、音の持続(時間的な長さ)を前提としているなら、そこに言葉を当てはめた時、その言葉は必然的に「長さ」を持つことになる。

したがって、一番最初(「第1回」)で紹介した、ピアニストの方の提案、「いち、に、さ〜」と数えてみるということは、実に道理に叶うのだ。それをさらに押し進めて、私が「ひ〜、ふ〜、み〜」と数えたらどうか、と提案した理由は、まさにここにあるのだ。


少し振り返ってみよう。

いくつか取り上げたバロック期や古典派の時代の音楽家・理論家の著書、「拍節」に関する言及は、「個々の音の持続(時間的な長さ)」を前提としていないと一見受け取れる。

果たしてそうだろうか…。

「第3回」で触れたように、
①バロック期の拍子には、私たちが普段使う「拍子」とは異なる概念があった。
②テンポの基準となったのは、音符ではなく「小節」であった。
③このテンポシステムはバロック以前からウィーン古典派まで続いた。

あえて「拍節」と「小節」とを同義として述べるが、バロック期や古典派の時代の音楽家・理論家も「持続(時間的な長さ)」を十分に意識していたはずである。

彼らはあくまでも(私たちが普段使う意味での)「小節」を基準に、それを(二つないし三つに)「分割」することが前提であったのだ。

「小節」の持続なくして「分割」はできない。

私たちは(というか、現代の「拍節論」は)、その「分割」された「拍」を基準に、それをグルーピングすることで「拍節(小節)」を作ることを前提としている。

そもそも、考え方、捉え方が違うのだ、「分割」か「グルーピング」か、という点で。

バロック期のテンポのひとつの基準は人間の「脈動」、「鼓動」だったと言われている。「脈動」、「鼓動」1に対して1「小節」1、それを2ないし3に分割している。

「分割」、そこには周期的なものは生まれるが、回帰を示すような「準備」の意識は希薄だと言っていいかもしれない。
そして、血管のそれこそ「伸縮」のリズムを「強弱」で表現した、というのは少々考えすぎだろうか…。
まぁ、「縮」の時点で「伸」のためのエネルギーを溜めている、と考えれば、「次への準備」をしている、と言えなくもないが…。

話がまたまた逸れてしまったが、何れにしても、「拍」には「持続(時間的な長さ)」が必要だということは強調しておきたい。

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三拍子の話 〜第11回〜


仮に、一拍目に「音量的なアクセント」をつけて打拍するとしよう。

三拍目を打った後、両手の開きは一拍目や二拍目を打った時より大きいはずだ。次の一拍目に入るための準備をしているのだから。

この準備なしに一拍目に音量的なアクセントをつけることは、実はかなり難しいはずだ。

無理に続けようとすると、何だか「押しつぶされたような」アクセントになるように思う。

体にも余計な力が入ってしまう、弱拍とされる二拍目三拍目がもっとハッキリしなくなる(一拍目に力が入りすぎる分、「抜けて」しまうように感じられる)。
そのため一拍目にますます力が入る…、という具合だ。

「第10回」で書いた、「一拍目を合わせること、ズレないことに意識が向きすぎて」というのと同じ状況にも思える、これは何も「三拍子」に限ったことではないが。

「意識」する、「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは、(僅かなものではあるが)音量的なアクセントだったり、長さであったり…。つまり、私(たち)が教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」の関係とは異なるものだ。


簡潔に整理すると…

「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」とは同じではない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば一拍目の)音に何らかの「重さ」を加えることではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、一拍目が強調されることは当然起こる)。

私は、そう考える。


余談かもしれないが…、水前寺清子の『365歩のマーチ』(おそらく二拍子系だろう)で、「ワン、ツー、ワン、ツー …」と繰り返される部分がある。

意識せずとも「ツー」の方が強調されると感じる人は多いと思う。
「ツー」が強調されることで「回帰性」が生まれているように思うのだ。

これは、「ツー」という言葉が長音であることも関係していると思うが、試しに、「ワン」の方を強調してみると…。
一拍目に強調(アクセント)を置くと変なところに力が入りませんか、という一例だ。

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ベートーヴェン(2)

(メモ)ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調作品125」 〜その「ジャンル史的立ち位置」

※本メモは、2013年に友人の依頼で作成したものです(加筆、修正の上掲載)。

「第九」を取り上げる意味

 この時代(すでに「ロマン派の時代」になったといってもいい)、交響曲はその規模や内容の豊かさから、器楽曲の最高の形態であった。作曲家にとっても独自の語法を作り出し自我を表明するのに最高の表現手段になっていた。確かに、ベートーヴェンにより交響曲は器楽曲の首座を占めることとなったが、もしかすると、ベートーヴェンは同時に、「第九」によって、古典的な交響曲を崩壊の道に向かわせたのではないかと思える。

 「第九」交響曲は、ベートーヴェンのあらゆる作品の中で最も広い影響力をもっており、今日に至るまで最も広範な解釈を受けてきたが、その多くは、作品全体よりも「歓喜に寄せて」だけに焦点を当て、ジャンル史的視点(後世にどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのか、などを含め)で述べられることは多くなかった。しかも、この、反体制的内容の頌歌を用いた交響曲の構造的側面に言及した著述を目にすることは意外なことに少ない。むしろ、「歓喜頌歌」に結びつけてこの作品の要素を意味づけようとする記述が多い。

 構造的側面に焦点を当てることで、ジャンル史的な意義や立ち位置がわかるのではないか。

特徴

●独唱、合唱の導入(第4楽章) → シラー「歓喜頌歌」への付曲

●ニ短調 → 意外なことに、それまで交響曲で用いた調性はほとんど長調(5番のみハ短調)→ 彼が範のひとりとしていたモーツァルトにとって、この調性は絶望や不穏な情緒を示すに効果的な調性だった。そのためか、ベートーヴェンがこの調性で書いた作品は驚くほど少ない

●楽章構成等

それまでの交響曲(ベートーヴェンのみならず)の基本的な楽章構成からの変更 → スケルツォ楽章が第三楽章ではなく第二楽章に置かれた(但し、彼は第4番から「スケルツォ」の語は用いていない) → 第一楽章のアレグロが、それまでの「アレグロ」楽章のような性格を有しないため、音楽的均衡を図る意図があったか、または第四楽章の劇的な導入のためには緩徐楽章が必要だったのか・・・

・第一楽章におけるソナタ形式 → 提示部の繰り返しを持たない

・第二楽章におけるフーガ風テクスチュア

・第四楽章 → 古典音楽を支配していた規範的な図式(ソナタ形式あるいはロンド形式)からの大きな逸脱 → シラー「歓喜頌歌」への付曲が前提であったため、ある意味当然のこと → 変奏曲の手法(二重フーガまで用いている)

・第四楽章において、それまでの三楽章の主題を再現

・第四楽章における変奏に、「トルコ軍楽」の様式を用いている → 楽器編成の面にも影響 → ピッコロ、トライアングル、シンバル、バスドラムの導入 → 「トルコ軍楽」は当時のドイツ・オーストリーの音楽家に何かしらの影響を与えており、ベートーヴェン自身もそれまでに「トルコ軍楽」のスタイルで作品を書いている → このスタイルで変奏を書く必然性とはなにだったのだろうか?

●作品の規模

・それまで一番長かった第三番(50分前後)よりもさらに20分ほど長い

 フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1952年)/第三番 → 約55分

     〃      フィルハーモニア管(1954年)/第九番 → 約75分

 バーンスタイン指揮ウィーン・フィル/第三番 → 約53分 第九番 → 約71分

 グッドマン指揮ハノーヴァー・バンド/第三番 → 約47分 第九番 → 約66分

独唱、合唱を用いた第四楽章は当然のことではあるが、スケルツォ楽章の長さも彼の他の作品に比べ際立っている → 新しい交響曲(第九)を以前の交響曲と比肩する価値をもつものとして書きたいという願望と、シラーの「頌歌」によるカンタータ風の作品を創作したいというかねてからの願望を実現させるためには、これほどの規模が必要であったのかもしれない

第四楽章は、それまでに彼が作曲した交響曲のうち、第一番、第八番の一曲分の長さに相当する

次世代、後世への影響

●神格化されたベートーヴェン

・音楽技法的にみるかぎり、ロマン派の音楽はウィーン古典派のアンチテーゼではない

・ロマン派の音楽家たちは、古典派が完成した様式や形式を引き継ぎ、それらを発展あるいは磨き上げることに力を注いだ

・特に、ベートーヴェンの音楽にしばしば自己の創作のインスピレーションを求める、ということがおこった

●では、交響曲は…?

・シューベルト → ベートーヴェンと同じ時代を生き、古典派の交響曲の豊かな実りを受け継ぎ、それを後世に伝えようとした → しかし、特にソナタ楽章で重要視されていた論理性、主題の展開の独創性などは失われ、表情豊かで親しみやすく美しい旋律が優先される(外形はとどめつつも、ソナタの性格は消極的になった) → 見方によっては、ベートーヴェンほどの展開の独創性を出すことができなかったともいえる(明らかにベートーヴェンとは異なる音楽理念を持っていたとはいえ)

・メンデルスゾーン → 慎重で控えめな表現 → 音楽的発展に乏しい → 流麗で均整がとれているものの、聴き手の精神を高揚させ、あるいは圧倒するような根源的な力強さに不足 

しかし、ベートーヴェンの影響をみる要素もある

交響曲第2番「讃歌」:ベートーヴェンの「第九」とほぼ同じ構成(「シンフォニア」と題された前半三楽章と、後半のカンタータ。カンタータでは、「シンフォニア」の要素が登場)

交響曲第4番「イタリア」:第四楽章で、サンタレロ舞曲のリズムを使用

・シューマン → シューベルト、メンデルスゾーン同様、古典派の枠組みは守られてはいるが論理性よりも叙情性が重視されている

・つまり、ベートーヴェンに次ぐ世代のドイツ、オーストリーの作曲家は交響曲というジャンルに新しい生命を付与することは出来なかったといえる → 彼らの理念によるところも大きいだろうが、ベートーヴェンが大きく立ちはだかっていたのは確か(つまり、古典的形式の枠内で創作するには、「第九」まででやり尽くされていたと、彼らが考えていたとも思える) 

●交響曲の新たな展開はフランスでおこる

・ベルリオーズ → 評論「ベートーヴェンの交響曲に関する分析的研究」 → ベートーヴェンの全交響曲に関して論評した最初の書物 → 「幻想交響曲」の下地のひとつ → 「固定楽想」 → 明らかに、ベートーヴェンの展開技法の影響 → また、「第九」の第四楽章に見られる、それまでの三主題の再現という技法からの影響もある → オーケストラに新たな楽器を導入(これも、「第九」がなくてはできなかったこと。) → 主題の創作力に乏しかったことの裏返し → 実はベートーヴェンも主題あるいは旋律を書くという点においては創作力に乏しかったのではないかと思える

いずれにしろ、「第九」の影響が大きいといえる「幻想交響曲」は標題交響曲という新しい展開をもたらすことになるが、それは、古典的交響曲の崩壊へとつながっていくといっていい → リストの「ファウスト」や「ダンテ」などの標題交響曲や、「交響詩」へとつながっていく → 音楽的な論理性は保持しつつも、ソナタのような形式にこだわらない自由な形式

●ワーグナー以降

・「第九」に魅せられることでその経歴が形成されていった作曲家にワーグナーがいる。しかし、ワーグナーは、いくつかの交響曲を作曲しているとはいえ、オペラを楽劇に変えること、つまり、ベートーヴェンが交響曲のあり方を変質させ、器楽に言葉を結合させることによって世界に語りかけようとしたように、民族的神話に基づく楽劇という手段によってドイツの文化をつくりかえようとした。 → 「ベートーヴェンの第九交響曲の神秘的な感化によって、音楽の最深層部を探求しようとの欲求にかられた」 → 交響曲以外のジャンルへ影響を与えたことは興味深い

・前述のメンデルスゾーン、シューマンだけでなく、ブラームス、ブルックナー、マーラーに至るまで、「第九」交響曲は後世の交響曲作曲家としての自らの道を切り拓くために直面すべき、音楽的経験の巨大な中心的防壁になっていると理解していた。

例えば、「第九」以後のニ短調の交響曲は、シューマンの第四、ブルックナーの第三、フランクの交響曲いずれもが、「第九」なしには考えられないし、マーラーの巨大な交響曲、独唱や合唱の導入も、「第九」という先例があればこそ。

しかし、そのいずれもが「第九」ほど神話的な地位を獲得しているわけではない。

・ベートーヴェンが「第九」を作曲した時代、音楽はすでに貴族階級から市民階級の手に完全に移っていた。

「教養としての音楽」から「大衆の音楽」に変わっていたといっていい → 音楽家は、それまでよりも、はるかに広範囲にわたる不確定な聴衆を相手にしなければならない → 表現の形式や手段の拡大

音楽は、市民階級の多彩な要求に応えながら変貌していった。

特に、ドイツ、オーストリーでは、多分に閉鎖的な社会感情を反映した内向的で情緒的な音楽が生まれるという結果になった。

つまり、時代が「古典的な交響曲」を必要としなくなったともいえる。

もちろん、ブラームスやブルックナー、マーラーのように、交響曲の作曲を自己の創作の一里塚にする者もいたが、特にブルックナーやマーラーの場合は、交響曲を作曲することの意味がベートーヴェンとは大きく変わっている。

●20世紀以降

・ドビュッシーはこう指摘している。

「ベートーヴェン以来、交響曲の無用性は証明されているように思われる。交響曲は、シューマンにおいても、メンデルスゾーンにおいても、すでに力の衰えている同じ形式の恭しい繰り返しにすぎない。(中略)さまざまな変容が試みられたにもかかわらず、交響曲は、その直線的な優雅さや様式ばった配列やうわべだけの哲学的な聴衆などのすべてからいって、過去にぞくするものだと結論づけなければならないだろう。」

ドビュッシーのこの指摘は、1901年に発表された文章であるが、この頃はブルックナーの九曲は完成されており、マーラーも四番までは初演されている。ロシアやチェコでも、民族の伝統に基づいた新しい交響曲の世界が開拓されつつあった。

しかし、それは「交響曲」の「成熟」といえるのであろうか…

ドビュッシーは「死の影」を読み取っていたと推測できる。

その証拠に、二十世紀にもなると、「交響曲」はますます崩壊の道をたどることになる。

「交響曲」というタイトルは付いているものの、概念そのものが変質している場合が多い。

では、「第九」のジャンル史的立ち位置とは﷒… 

・確かに「第九」は、後世に大きな影響を与えてきたが、その影響は「交響曲」というジャンルというよりは音楽史そのものに与えた影響である(だからこそ、今日に至るまで様々に解釈、評論され続け、また意味づけされようとしている)

・当時から構造上の欠陥を指摘する者がいたのは確かだし、現代でも、チェリビダッケのように「第四楽章は全く無駄」と考えた者もいる。

・「交響曲」を器楽曲の最高の形態にまで成熟させたベートーヴェンは、早い時期から独唱・合唱の導入を考えていたのではあるが、もしかすると、器楽のみで表現することへの限界を感じていたのかもしれない。

・音楽表現の新たな可能性を示した意味では「偉大な」作品であることは疑いようもないが、こと「交響曲」の成熟、発展のという意味では意外なまでに大きな影響を残さなかったといえる(もちろん、時代背景、社会状況が多分に影響しているのではあるが)。それは、「第九」が「交響曲」の崩壊への入り口だったことを意味しているように思う。

ベートーヴェン(1)

「ウィーン古典派」の時代 ~30歳期のベートーヴェンと同年齢期のハイドンの交響曲を通して見る時代様式

※本小論は、2012年に友人の依頼で執筆したものです(加筆、修正の上掲載)。

1.はじめに

ベートーヴェンは、30歳前後の時期に大きな転換期を迎えた。

本小論では、30歳前後のベートーヴェンの作品を、「ウィーン古典派」と称される他の作曲家の30歳期の作品と比較・分析することで、個人様式と時代様式の違いを明らかにすることを試みる。

2.比較対象

比較対象としては、まず作曲家を、続いて作品ジャンルを選んだ。

当然のことではあるが、音楽は人間が生み出すものであり、取り巻く環境や社会の変化から影響を受けるのは、まず人間である。

(1)作曲家

本小論では、ベートーヴェンの比較対象としてハイドンを扱うことにした。

ハイドンはベートーヴェンより38歳年上である。よって、時代様式の違いが同じ「ウィーン古典派」と称されるモーツァルト(ベートーヴェンより14歳年上)よりも明確に見ることができるのではないかということ、また、ハイドンも30歳前後に人生の転換期といえる時期を迎えていることなどによる。

(2)作品ジャンル

比較対象とする作品ジャンルは、交響曲とした。

古典派の主要な形式は、「ソナタ」と交響曲、また弦楽四重奏といえる。ベートーヴェン、ハイドン共にこれらの形式で重要な作品を数多く生み出しているのであるが、特にベートーヴェンにおいては、30歳期前後の交響曲に自己の様式を確立したと思わせるものがあること、初期のハイドンのソナタや弦楽四重奏曲には、作曲年代が不確かなものが多いこと、特に鍵盤楽器のためのソナタでは、ベートーヴェンとハイドンとでは想定している楽器の違いが大きすぎることなどによる(楽器の違いも、ある意味時代様式の違いと言えるのだろうが)。

3.作品比較

(1)比較方法

ベートーヴェンとハイドンを語る上では、「ソナタ形式」の確立あるいは発展ということに論点が傾きがちであるのだが、個人様式や時代様式の一要素にすぎず、様式を比較する上での全てではない。作曲技法というものは、動機あるいは主題がどのように構成され、どのように展開されているのか、という視点だけでは語れない。特に本論では交響曲を比較対象としているので、管弦楽法なども当然作曲技法の一部として比較の対象となる。また、ベートーヴェンとハイドンを取り巻く環境の違いが、それぞれの作品にどう反映しているのかも比較の対象になるだろう。

比較は、双方から一作品ずつを選んで行うのではなく、複数の作品を通して以下の項目を中心に行う。

①作曲背景 ②構成 ③書法(表現・表出方法及び管弦楽法)④その他特徴ある項目

(2)作曲背景

音楽作品(に限らず芸術)が生み出されるには必ず、作者の置かれた環境が何らかの作用を起こしているものである。まず、双方の交響曲の作曲背景を比較することが有効であろう。

ベートーヴェンは、最初の交響曲を1800年、つまり30歳の年に完成させている。18世紀の作曲家としては比較的遅い「交響曲デビュー」であるのだが、彼はすでに自立した作曲家として名を成していた。最初の交響曲のみならず、生前残した9曲全てが、自らの意思、創作意欲に基づいて書かれており、義務付けられた、あるいは注文されて書いたものはない。またこの時代は、音楽の享受が広く市民一般に広がっていたことも見逃せない事実である。

さらに、この時期はすでに聴覚障害の徴候が現われており、肉体的・心理的苦痛を感じていたことや、フランス革命の勃発と収束、それに伴う大きな社会変動の波が、その後の創作活動に大きく作用していることはよく知られている。

遡って、ハイドンである。彼は、27歳の年(1759年)に最初の交響曲を書いており、やはり交響曲作曲家としては遅いスタートである。その2年後、彼はエステルハージ侯爵家の宮廷副楽長に就任(1766年に楽長)、長きにわたって雇い主の要望を満たすための作品を書いたのである。もちろん、ハイドンは書きたいと思うものを書いたのではあるが、演奏される場所(それによって楽器編成がほぼ決まっている)や聴衆の趣味や質などの条件に合わせる必要があった

自由な職業音楽家として世に出たベートーヴェンと、貴族のお雇い音楽家であったハイドン。それぞれ30歳前後の時代は、交響曲を作曲することの意味自体が違っていたのかもしれない。

ただし、ハイドンにおいては1780年代以降エステルハージ侯爵家以外のために書く機会が増えていることは見逃せない。

(3)構成

ハイドンが交響曲を書き始めた時代は、まだ交響曲というジャンルが確立するにいたってなったと考えることができる。もちろん、ハイドン自身もその書法を確立していたわけではない。当時の交響曲のありようを正確に反映しているかのように、さまざまな楽章構成を示していることに目をひかれる。もともと独学・独習の人であったハイドンが、大バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルの交響曲から多くを学んだことからも分かるように、当時の彼の交響曲には、三楽章で構成されているものが多い。しかし、ウィーン音楽界の先任者であるモンや、マンハイムのシュターミッツが交響曲に導入したメヌエットを取り入れ、四楽章構成の交響曲(例えば、『交響曲第3番』や『第5~8番』など)を試みるなど模索していたと思われる。

ベートーヴェンの場合、交響曲の基本的な設計はハイドンやモーツァルトが確立していたので、新しい形式を生み出したというわけではない。最初の交響曲をメヌエット付きの四楽章構成で作曲するなど先任者の影響がはっきりと見てとれる。その後、『交響曲第2番』、『第3番(英雄)』では、メヌエットがスケルツォへと変化していくことになるが、当時のベートーヴェンはハイドンが1770年代に入って確立した骨組みの中で交響曲を書き始め、独自の発展を見せるにいたったことが分かる。

(4)書法(表現・表出方法及び管弦楽法)

歴史に名を残すどのような作曲家でも、先任者の影響を何かしら受けているものであるし、先任者を模倣することから学習を始めることが多い。

ベートーヴェンが、ハイドンの教えのもとで「モーツァルトの精神」を学ぼうとしたことはよく知られている。彼らの関係は決して幸せなものとは言えなかったようであるが(それはベートーヴェンの人間性によるところが大きいようであるが、社会的、知的政治的な見解の違い、つまるところ、埋めがたい世代の断絶といえる)、交響曲を作曲するようになるまでの過程でベートーヴェンが、「モーツァルトの精神」のみならず、ハイドン自身からも多くを学んだことは紛れもない事実だ(たとえ、後の作品に与えた影響の大きさは別にしても)。

ベートーヴェンが、ハイドンの骨組みの中で交響曲を書き始めたことは先に述べたとおりであるが、当時の多くの意見にも見られるように、最初の交響曲は聴衆を挑発するほどの印象を残してはいない。しかし彼特有の特徴もいくらか見て取れる。特にリズムの推進力と活力は、その後の彼の作品に特有のものであるが、それを顕著に示しているのがダイナミクス・レンジの拡大である。ハイドンがエステルハージ侯爵家に仕え始めた時期に書いたと思われる『交響曲第6番(朝)』と比較してみよう。

ハイドンの場合、ppを用いているのは、第1楽章と第3楽章でわずかであり、ffにいたっては、第1楽章の序奏部で一度用いてるだけであり、pとfの対比に終始している。この強弱の対比は、ハイドンの音楽的本質とされる「自然さ」や「歓喜」といったもの(それは、彼が影響をうけたマンハイム楽派の特徴や己の置かれた環境によるものであるが)と、なおも時代に影響を残していたバロック的・協奏的要素とを混合することに成功している例と考えられるが、ベートーヴェンのそれは、ハイドンの場合と全く違う。ベートーヴェンにおける強弱の対比は、個人感情の直接的な表現である。ハイドンに比して多用されるクレッシェンドや、アクセント(sf)も同様であろう(すでにベートーヴェンは、交響曲に限らず、ppから ffに及ぶダイナミクス・レンジで作品を書いていた)。こうした点だけをとってみても、ベートーヴェンとハイドンそれぞれが30歳期を過ごした時代様式の違いは明らかである。

ベートーヴェンの交響曲でダイナミクス・レンジが拡大した要因のひとつに、オーケストラの規模の拡大(30数名)がある。オーケストラの規模の拡大は、ダイナミクス・レンジの拡大のみならず、音域の拡大をも意味しているといっていいだろう。ただし、この拡大は、ハイドンやモーツァルトに比して、ということであり、ベートーヴェンが確立し発展させたものとは言い難い。また、彼が、自らの意思によって使用する楽器を決定できたのに対して、同年齢期のハイドンは、仕えていたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団の編成(25名程度)に合わせて作曲する必要があった。このことは、個人様式、時代様式を比較する上でも重要だろう。

主な違いは、クラリネット、トランペット、ティンパニーをベートーヴェンは常に用いていることである。またフルートとファゴットについては、ハイドンも使用していないわけではないが、ごく限られている(『交響曲第6番~9番』など)し、トランペットやティンパニーにいたっては使われる機会が更に少ない。ハイドンがクラリネットを初めて使ったのは、『ロンドン交響曲』集(1791〜95年)である。

オーケストラ規模、編成という外面的な違い以上に、その扱い方の違いが非常に重要である。

ハイドンの場合、先に述べた『交響曲第6番(朝)』に顕著なように、種々の楽器が容易に聞き分けられるような、明瞭、透明なオーケストラのテクスチュアを用いている。特にフルートは、バロック期のコンチェルトの如くオーケストラと対話する。

対してベートーヴェン。彼の興味は種々の楽器を組み合わせて大きな音色の混合物を形成することにあったように推測できる。管楽器の種類が増えているにも関わらず、ハイドンのようにそれぞれがソロでオーケストラと対話することはほとんどない(それだけに、『交響曲第3番(英雄)』の第2楽章に聴くオーボエのソロがより深く印象づけられる、とも言える)。

ベートーヴェンの管楽器の扱い方は、しばしば批判の的となったようであり、『交響曲第1番』や『第2番』においてさえ、そうした対象となった。しかし、自らの意思、創作意欲に基づいて交響曲を書くベートーヴェンにとっては、批判を受け入れるよりも、その時に好きなやり方で自由に創作し、言いたいことを表現することの方が当然であっただけなのだ。

オーケストラの扱いでもうひとつ特徴的なのは、通奏低音(チェンバロ)である。ある記録では、ベートーヴェンの『交響曲第1番』や『第2番』の初演時にもチェンバロが使用されたとのことであるが、すでに必要ないものとなっていた。ハイドンの時代は、まだチェンバロで和声を補うことが一般的であったと言われている(初期からチェンバロは使われていなかったとする研究もある)。

ちなみに、ハイドンが初めて40名を超えるオーケストラを使ったのが後期の交響曲、『ロンドン交響曲』集(1791〜95年)であることも頭に入れておきたい。

さて、ベートーヴェンとハイドンを比較する際、「ソナタ形式」ということに触れないわけにはいかない。もちろん、先に述べたように比較する要素としてはそれが全てではない。30歳前後のハイドンはまだ、変化と緊張を生み出す「完成されたソナタ形式」にはいたっていないし、同年齢期のベートーヴェンが「完成されたソナタ形式」を更に高めていったという事実を述べるだけで十分であろう。ただ、様式上の違いではなく、共通点が見えるのは興味深い。

例えば、ベートーヴェンの『交響曲第3番(英雄)』の第1楽章は、主和音を上下するだけの単純な旋律に基づいている。主題というよりは、むしろ動機といった方がふさわしいかもしれない。単に美しい主題ではなく、彼は展開しやすく簡潔な、かつ音楽的発展に耐えうる性質の主題を書くことに力を注ぐようになったのであるが(『交響曲第1番』の第1楽章ですでにそうした傾向は見え始めている)、先に述べたハイドンの『交響曲第6番(朝)』の第1楽章においても、フルートにより提示される第1主題は主和音を上下する単純な動きから始まっている。同時期の彼の他の交響曲にも見られる傾向ではあるが、緊密に結合された規則的な楽句や短い旋律様式という古典主義音楽特有の様式には到達しているとは言えず、当然その主題を展開するまでにはいたっていない。「ソナタ形式」が比較要素の全てではないとは述べたものの、両者において交響曲を作曲する意味自体が違っていることは、こうした「ソナタ形式」における主題(あるいは動機)の扱いや考え方からも見てとれるのである。

(5)その他特徴ある項目

それまでの時代にも、表題が付けられた交響曲がなかったわけでもないのだろうが、これまでに述べた『交響曲第6番(朝)』だけでなく『交響曲第7番』や『第8番』にも、それぞれ「昼」、「夜」という表題がフランス語でつけられており、ハイドンフランスのロココ様式に強い関心を持っていたことが示されている。また、主題の展開が見られない代わりに、ロココ風の反復が優勢である。恐らく、こうした反復では何らかの変化をつけて演奏していたのではないかと思われる。

片やベートーヴェン。彼の交響曲、特に第1楽章の「ソナタ形式」における反復は、提示部にのみでありハイドンの交響曲における反復とは意味合いが全く違うものとなっている。今日ではその反復を省いて演奏されることが多いが、当時にあっては、提示部を反復し主題を聴衆に印象付けることで、その後の展開、再現でより劇的な効果を挙げる意味合いもあったのではないかと思われるし、楽章の均衡を保つ意味合いもあったのかもしれない。

ハイドンのロココへの関心が、作品に大きく反映しているのと同等ではないが、ベートーヴェンが違う世界の音楽に関心がなかったわけではない。その当時人気のあった「トルコ軍楽」(彼は30歳前後の時期に、トルコ音楽のスタイルで管楽合奏曲を多く書いている)を『交響曲第3番(英雄)』の第4楽章で用いている(その後、『アテネの廃墟』や『交響曲第9番』の第4楽章でも使用していることはあまりにも有名)。ただし、ハイドンも「トルコ軍楽」のスタイルを『交響曲第100番(軍隊)』(1793〜94)の第2楽章で取り入れている。有名なモーツァルトの『トルコ行進曲』という先例もあるように、「トルコ軍楽」を取り入れること自体はベートーヴェンのオリジナルというわけではないのだ。しかし、ベートーヴェンにあっては、単なる異国趣味に終わっておらず、自家薬籠中のものとなって昇華されている。

和声に関しては、ハイドンにおいては「節度」という観点から、当時の厳格な規則に従うかのように不協和音の使用が抑制されているのに対し、ベートーヴェンには、時に聴衆の不意を突くような不協和音の使用や、調性を保持しながらも遠隔調を導入するなど、独自の和声を確立している。最も分かりやすい例をあげるなら、『交響曲第1番』の冒頭で、下属調の属七の和音を響かせ、「ひとつの作品は主和音で始めなければならない」という規則を打ち破ったことである。

4.まとめ

30歳前後のベートーヴェンの交響曲を、同年齢期のハイドンのそれと比較してきたのであるが、ひとつ面白いことに気づくことになった。ハイドンの様式の変遷を併せて見ることになったのだ。それは、とりもなおさず18世紀の音楽の変遷である。

ハイドンがエステルハージ侯爵家の宮廷副楽長に就任した時代は、「絶対主義」と「啓蒙思想」という、本質的に相容れない二大勢力の間に横たわるギャップを埋めようと様々な試みが行われた時代であった。利害の相反する勢力の激しい激突と、近代的な市民社会を生み出すための過渡期的な性格は、音楽芸術をも転換させたといっていいだろう(特に大バッハの死の年にあたる1750年から1780年にかけてのわずか30年)。

君主や教会の絶対性を象徴していた音楽は、やがて世俗権力(すなわち宮廷)との結びつきを強め、華やかでわかりやすく(ロココ様式/ポリフォニックからホモフォニックへの大転換)、現世的・享楽的な社交芸術としての傾向を強める。ハイドンの30歳期はまさにここにあたる。市民階層の台頭は、不特定多数の市民こそが、来るべき時代の中心的な存在であることを明らかにし、音楽がもはや貴族の専有物ではなくなったことをも意味した。華麗さや上品さが影をひそめ、誠実さや道徳性といったものが、次第に音楽作品の中で強調される傾向が強まっていく(多感様式)。

つまり、音楽芸術の転換に際して見られる急激な表現方法の変化は、音楽を享受し、支える層が、教会から宮廷へ、そして貴族層から市民層へ移っていったことに起因するといっていいだろう。

ハイドンは、こうした変遷に大きく影響を受けながら多種多様な音楽を創造したのだが、そこには、ロココ芸術の衰退から、民衆的な表現の台頭を見ることができるのである。当時の支配的スローガン「自然へ帰れ」を音楽において実証したといえる。

ベートーヴェンは確かにハイドンから音楽的な影響を受けたし、フランス革命に端を発した市民階層の台頭を肌で感じていた。彼は貴族のために作品を書いたのではないが、多くを貴族に献呈している。その点では、音楽はまだ決定的に市民階層を基盤にしていたわけではない。自立した自由な音楽家、芸術家であることを主張し、創作するには、まだ市民階層のみを基盤にするだけでは成り立たなかったのかもしれない。しかし、明らかに彼は、後継者だけでなく社会全般に大きな影響を与えたといっていい。

さまざまな考察をしたが、実はベートーヴェンが何か「新しい」ものを生み出したというわけではない、ということも明らかになった。交響曲を作る「きっかけ」もすでに変容しており、例えば、オーケストラの編成(使用する楽器)の拡大にしても、異国の音楽の使用にしても、ベートーヴェンが初めて交響曲を作曲する30歳前後の時期にはすでに試みられていたのであるから。

それでも、ベートーヴェンが新たな「時代様式」の出発点となったことだけは確かだ。

彼、あるいは彼の作品が後進だけでなく社会全般に与えた影響や、今日まで如何様にも語られ、また研究され続けていることからもそれは分かる。

音楽(に限らず芸術)は、もともと人間生活の中で生まれ、人間生活を取り巻くあらゆる環境(自然環境及び社会環境)の支配や影響を受けて変化していくものであり、その変化した音楽が、新しい人間生活を支配し、影響を与えていくことだけは確かであるし、そうした観点から今後も語られていくに違いない。

提案

難病を理由に職を辞す方がらっしゃいます。

私も(難病ではないが)体調不良を理由に前職を退いたので、何とも言い難い思いはあります。

どうぞ、(完治とはいかないのでしょうが)しっかりご病気と向き合っていただき、体調が良い方向に向かわれんことを祈っております。

さて、この方は、難病により「政治的な判断を誤リかねない」ということを辞任の理由に挙げられたが、申し訳ありませんがが、それなら議員そのものを一旦お辞めいただいた方がいいと思います。

同じような難病に悩まされながらも日々お仕事に励んでいらっしゃる方は多々いらっしゃいます。私の身内にも「クローン病」という、やはり「指定難病」と向き合っている者がおります。

「辞任」報道があった日、同じ「潰瘍性大腸炎」と闘っていらっしゃる20代の方がテレビのニュースで紹介されていましたが、やはり、病気が原因でお仕事を辞め(換え)ざるを得なかったと…。

それでなくても、持病のある人は「仕事に影響をもたらす」と、もっと言えば「仕事ができないやつ」と見られてしまうことが往往にしてあります。

難病を理由に「政治的な判断を誤りかねない」と発言されたことは、難病に悩まされながらも日々お仕事に励んでいらっしゃる方々に、かえって肩身の狭い思いをさせかねないのです。難病に苦しんでいらっしゃる方々を排除することにもなりかねないのです

「こいつは難病だからミスしかねない、ちゃんと仕事できない」と初めからそのような見方しかしない輩は必ず出てきます。

そこで提案なのですが…

上述したように、「政治的判断を誤りかねない」のですから、一旦議員をお辞めいただいて、療養されながら、同じような難病に苦しむ方々とじっくり向き合われたらいかがでしょうか?

こうした方々が社会的に不利益を被らないよう手を差しのべたらいかがでしょうか?

沖縄、北方領土、広島、長崎、拉致被害…、私もそうなのですが、本当の気持ちというのは当事者にしか分からないものです。当事者の想いを理解(賛成や反対ということではなく)するよう努めてこられたとは思いますが、身をもって経験されていない分どこか「冷たさ」のようなものをあなたの言動や行動には感じておりました。

しかし、難病については身をもって経験されているのです。

同じように苦しむ方々の気持ちが分からないはずがない!

ご存知かと思いますが、「難病の患者に対する医療等に関する法律第5条第1項に規定する指定難病」は現在333もあります。

しばらくは国会の動きなども気にされず、これら難病に苦しむ方々の声を丁寧に聞き、「政治的判断を誤らない」との確信を得られたのなら、再度国政の場で「難病対策」に取り組まれてはいかがでしょうか?

今あなたにできることはそれだけだと思います、安倍晋三さま。

(2020年8月31日)

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つける薬を誤ると…

つける薬を誤ると大変なことになる。 私は身をもって体験した。

もう大学を卒業する、と言う時期、私は胃の異変を感じていた。 食べてはもどすの繰り返し… 胃薬を買って服用するも一向に回復しない。 そのうち食事も喉を通らなくなる (すぐに戻してしまうから、食べようという気にならないのだ)。

胃の痛みは続く。 ロクに食事も摂らないのに薬を飲む。 今度は胃液が逆流してくる。 そんなことを繰り返していた。 挙句、重度の貧血状態。目眩、立ちくらみ…

結局、大学卒業後に入院。胃の3分の2を切除することになった。

「よくもここまで放ったらかしていたなぁ…」とは医者の弁。 医者によると、胃の異変、これは胃と十二指腸の間にある「幽門」の狭窄。ストレスによるものだと言う(この時期は、繊細だったのだろう、私は…)。

そして、ものが通らなくなった状態のところに、胃酸の出を活発にする薬を服用し続けていたことで、胃の粘膜が荒れ、出血していたのだ。

恥ずかしながら、胃薬なんてどれも同じくらいにしか当時は思っていなかった。 胃酸を抑える薬を選ぶ必要があったのだ。 誰かに意見を求め適切な処置をしていれば、大事にならなかったかもしれない。

しかし、「つける薬を誤った」ことで今の自分がある…不思議なものだ、人生は。

さて、今この状況を見るに、この国のリーダーは私がやった誤りをそのまま繰り返しているようにしか思えない、決して笑い事ではなく。

皆が弱っているところに、誤った薬を処方してはいまいか…? (もちろん、マスク2枚でも「ありがたい」と感じる方がいるのもわかるが…)

喩えは悪いかもしれないが、この国を「人体」と考えるなら、私たち庶民は人体を構成する細胞の一部だ。

体の器官が様々あるように、私たち庶民の立場も様々。自営業者、文化・芸術に携わる方々、流通に携わる方々、生産者の方々、教育に携わる方々…様々な「器官」が機能してこそだ。

どこかだけをピンポイントで(それが利権絡みなら最悪)処置しようものなら、体そのものが機能不全に陥るのは目に見えている(副作用でますます弱っていくだけだ。確かに、「万能薬」を見つけるのは難しいことであるかもしれないが)。

機能不全に陥ったとき、誰が胃の切除をしてくれる?処置してくれる? 自分の体が今何を求めているのか、分かっているのではないですか?

「○○につける薬はない」とは言うが、薬をつけないことには、この体(この国)はますます弱っていくだけだ。

しかし、もし投薬された薬が誤ったものであったとしても、私たちは理性を失ってはならない(何もせず我慢する、ということではない)、私たちは「○○」ではないのだから。

つける薬は必ずある。

(2020年4月2日)

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ネーミングライツ

今日明日とラグビーW杯の準々決勝が開催される大分。

会場は「大分スポーツ公園総合競技場」だ。

現在は「昭和電工ドーム」という愛称(?)がついている。

今年春、昭和電工がネーミングライツ(命名権)を得たのだ。

昭和電工は、いわゆる「地元企業」ではないものの、大分に巨大なコンビナートを持っており、日本製鐵(旧新日鐵住金)とともに、地元では知らない人はいないと思う。

私が大分に住み始めた2006年、件の競技場は「ビッグアイ」という愛称で呼ばれていた。

2002年、サッカーW杯の試合も開催されたので何となく知っていた。

私が大分に住み始めた直後、ネーミングライツが導入され、

「九州石油ドーム」となる。

その後、2010年からは「大分銀行ドーム」、今年から「昭和電工ドーム」へと変わってきた。

正直言って、こうも名前(愛称)が変わっていくことには些かの…

いや、ちょっと表現しきれない複雑な思いが湧いてくる。

命名権を得た企業は、それこそ「宣伝」など必要ないでしょ?

ただ、そうした企業でないと相当の金額を出せないし…

まぁ、企業名が全面に出たものを「愛称」と言うのはちょっとね…というのが正直な気持ちだ。お金を出している(いた)これら企業に対しては何の恨みも悪意もないのだけれど…。

私の周りで、わざわざ「大分銀行(大銀)ドーム」とか「昭和電工(昭電)ドーム」と正式な愛称(?)で言う人はまずいない、「ドーム」とひとこと言えば誰でもわかるので。

いまだ「ビッグアイ」と(つい)言ってしまう人も結構いるのだ。

私にたくさんのお金があって、命名権を得たら多分「ビッグアイ」にする(当初の愛称に戻す)んだけどなぁ…と、何度思ったことか。

それだけに、鳩サブレーの会社の決断には、何だかスカッとしたものを感じた。

ちなみに、ラグビー(サッカーもだけど)の国際試合では「クリーンスタジアム」規定なるものが適用されるとのこと、正式名称を使用しなければならないそうだ。

余談だが…

私の作品には一曲だけ、委嘱元の学校の生徒さんたちがタイトルを付けてくれたものがある。

作品に命名権、商売になるかな…?

いや、無理だな…。

(2019年10月19日)

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「電車もバスも止まったし、仕事にならんから帰っていいぞ!」

一ヶ月前の台風15号で大きな被害を受けた方が大勢いらっしゃる(友人の中にも…)。その傷も癒えぬ中…。

どうか傷が広がらないことを祈るばかりだ。

台風が直撃するたびに思い出すことがある。

福岡で会社員をしていた頃のことだ。

その日は朝から台風直撃のニュースが途切れることなく流れていた。

JRや西鉄(私鉄)の電車は正午を目処に運転を休止する、西鉄バスも本数を大幅に減らして運転することが発表されていた。

勤務していたのは、福岡市の中心部にある広告会社。

新聞広告が主力。毎日何らかの締め切りがあるのだ。

通常通り出勤はしたものの、ハッキリ言って仕事にならない。

しかし、こんな状況でも進めなくてはならない事はある。

クライアントに電話をするも、「申し訳ない、それどころじゃないです。」と。当然だ。

アポイント取っていたクライアントの所に出かけ、「こんな時に何考えているの?」と言われた同僚も。

社内では、幹部がテレビのニュースに釘付け。

大勢の人が電車に駆け込む様子をどこか楽しそうに見ている…(怒)

一向に指示が出る様子もない。

つまり、「普通に仕事していろ!やることはあるだろ?」ということなのか…。

仕方のない面はある。

上述した通り、新聞広告は毎日が締め切り。広告の種類によって若干の違いはあるが、○日掲載分は〇〇日までに入稿と決まっているので、間に合わせなくてはならない(デザインや制作の会社とも連携して)。台風で休刊ということはまずないので(印刷や宅配などの時間が少々遅れることはあっても)、とにかく、どうにかして入稿するしかないのだ。

そして、もうひとつ。

台風の状況、影響や被害を詳細に伝えるため、広告が入るはずだったスペースを記事のスペースに割り当てざるを得ないケース。この場合、(入稿していても)実際に広告が掲載されない。この日は、それが丁度夕刊の記事が締め切られる時間に重なっていた。つまり、その日の夕方に掲載予定の広告が飛んでしまうかもしれない、という状況だったのだ(基本、新聞社から事前に連絡が入るが、状況が状況だけに…)。

そうなれば、当然クライアント対応が必要になる。

「備えておけ!」ということだ、と無理矢理自分を納得させるしかなかった…。

さて、正午を過ぎ電車はストップ。雨風も確かに激しい。

ここで幹部から出た一言に唖然…

「電車もバスも止まったし、仕事にならんから帰っていいぞ!」

「???」

誰も言葉が出ない…。

そして私は、西鉄電車で一駅違いのところに住む女性社員を家まで送るよう指示された。

「どうやって…?」

幸い地下鉄は動いていた。

博多駅まで行けば、そこから彼女が利用する西鉄の駅の近くまで行くバスが出ている。そのバスが動いていることを祈りつつ博多駅に向かう。

待つこと數十分、バスに乗る。

電車なら10数分の距離だが、当然時間はかかる(優に1時間以上…)。

そこからが問題だ。タクシーもない。

困りに果てていたところに、心配した彼女のお父さんから電話が入る。

結局、彼女のお父さんが駅まで来てくださり、私が家まで送ってもらうことになったのだ。

そして、帰宅した時間、暴風域をほぼ抜ける…。

今、自分が組織を預かる幹部だったら、どのような指示を出せるだろうか…?

そして、「備える」とは…?

台風のニュースを見る度に自分に問い掛けるのだ。

とにかく、大きな被害が出ないことを祈るばかり。

(2019年10月10日)

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借金

元国税調査官の方が書かれた本を読んで、「世の中に回っているお金は、元を辿れば全て誰かの借金である。」という記述に出会った。

妙に納得してしまった。

中央銀行がお金を発行→銀行が借りる→銀行は貸し出す→貸し出されたお金が市場に広まる(私たちの経済活動)

借りたものは返さなければならない。

(当然、経済活動により返すことができる人、できない人が出る。)

返すに当たって金利が付く。

しかし市場には中央銀行が発行した分のお金しかない。

どうする…?

つまり、大きな目で見れば、借金を返すためには新たな借金をしなくてはならない(中央銀行が新たにお金を市場に流す)構造になっている、ということだ。

もっと言うなら、「経済成長」「豊かな生活」と叫べば叫ぶほど、そうなればなるほど世の中の借金が増えていく、ということ…。

こうした構造自体にメスを入れない限り、現在の金融不安は解消に向かわないと著者は言う。

少し視点を変えて…

確かに、人が「成長」するということは、誰かからあるいは何かから「借金」していることなのかもしれない

しかし、人は限りなく永遠に成長することはありえない。

では、借りたものをどうやって返す?

それは、次の世代へ引き継いでいくこと、伝えていくことだろう。

「継承」、「伝承」、「教育」…

それらは、もしかすると「借金の返済」なのかもしれない、私くらいの世代になると。

しかし、ただ引き継げばいいということではない(言うまでもないことだろうが…)。

「金利」を付けて返さねばならない

次世代へ引き継ぐ役目を負っていればいるほど、世の流れに敏感でなくてはならないし、常に「新しい」ものにも向き合うことだって必要だろう。

そういう意味では、「借金返済のための新たな借金」が必要だ。

ただ、この種の「借金」で苦しむ人はいないだろう、と言いたいところだが、そう上手くはいかないようだ…。

世の中には、「永遠に自分の時代が続くと思っているのではないか」と思わせるような権力者もいる。

「責任、責任」と言いながら、何も結果を示さない者もいる。

「権力」というものだって人様の力をお借りして得ているもののはずだ。 どうか、次の世代のため真面目に「借金返済」してもらいたいものだ。

(2019年10月5日)

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オールブラックスだけじゃないよ

確かに街中はいつにない熱気。

国内外からたくさんのお客様を迎えるわけだから、開催地としても力が入る。

私が通った高校(福岡の県立校)がラグビーの強豪校だったこともあり(同級生には高校ジャパンに選ばれたり、早稲田大で日本一を経験した者もいた)、サッカーよりはラグビーの方に関心があった、もともと。

かと言って、会場まで是非とも足を運ぼうという気にはならなかった(多分後悔するかもしれない…)。

ひとつ気になるのが、(これは全国的な傾向なのかどうかは分からないが)ニュージーランド(オールブラックス)に関する報道ばかりが目につくこと…。

実質世界一のチームが大分にやって来る、ということでラグビーに関心のなかった層にまで訴えようとの意図はあるかもしれないが、地元では他のチームのお世話を一生懸命にやってる方もいらっしゃるし、何より、ニュージーランドだけでは試合できないでしょ?

地元のNHKがワールドカップの特番やるというので観てみると、オールブラックスのことだらけ…。

それはそれで興味深いものはあったけど、それだけでいいのかな…?

前日の報道も、ニュージーランドには多く時間を割いて、対戦相手のカナダについては、「試合会場で最後の調整をしました。」のみ…

う〜ん…

昨日はニュージーランドと入れ替わりで、オーストラリアが明日(10月5日)の試合のため大分入りしたようだ。

対戦相手のウルグアイの情報は…?

今日明日はオーストラリア中心の報道になるのだろうか?

(2019年10月4日)

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