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投稿者: kmasa1006

『ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション』

ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション

プレリュード、フーガ&リフス(バーンスタイン
クラリネット協奏曲(コープランド)
エボニー協奏曲(ストラヴィンスキー)
デリヴェイションズ(モートン・グールド)
コントラスツ(バルトーク)

ベニー・グッドマン(1909-1986)、言わずと知れた「スウィングの王様」だが、彼はクラシック音楽のジャンルへも大変興味深い録音を残している。

このアルバムは、各曲の作曲者との共演という、とても面白ものになっている。

バルトーク作品以外はそれぞれ作曲者が指揮者として、バルトークはピアニストとして共演している。(別の角度から見れば、前に書いた「自作自演」

ジャズを中心に活動している方がクラシックも、という例はもちろん現代にもある。

チック・コリア(1941-)やキース・ジャレット(1945-)がバッハやモーツァルトを取り上げた例もあるし、ウィントン・マルサリス(1961-)の活動もある。

クラシック音楽とジャズの関係はおそらく、ガーシュウィン(1898-1937)から始まるのだが、その後、この関係はとても幸せなものとなったのではないかと思う。

互いに影響し合いながら、ある意味新しい音楽の形を生み出したといってもいい。

「特定の宗教を超えた・・・」(「信仰と音楽/ブルックナー」参照)ではないけれども、ジャンルを超えた邂逅は作曲面でも演奏面でも次代へのメッセージを残してくれていると言ってもいいだろう。

「即興性」という観点から、チック・コリアとバッハの関係も面白いと思うのだが、楽器は違えどベニー・グッドマンならバッハとどう向き合ったであろうか?

(まぁ、時代的にもバッハにクラリネットのための作品がない、ということはあるのだが…)

上記のアルバム以外にも、モーツァルトやウェーバーの協奏曲なども残している彼のバッハを聴いてみたかった。

(2011年)

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フーガ/風雅

バーラミ・プレイズ・バッハ(6枚組)
ラミン・バーラミ(ピアノ)
【CD 2】
フーガの技法 BWV 1080

大「バッハ」の残した傑作のひとつ、『フーガの技法』
文字通り、バッハが「フーガの技法」をとことん突き詰めた作品集だ。

その中の未完の一曲(『フーガの技法』とは関係なく作曲されていたのではないか、という研究もある)に、バッハは自らの名前を堂々音符で書き込んでいる(ただし、それを意図していたのかどうかは…)

この曲の第3主題として登場する。

(変ロ)-A()-C()-H()

と、いうわけだ(カッコ内は日本音名)。
この主題が登場した後、フーガは終止線が引かれぬまま…。

現在では、こうして人の名前などを音名に当てはめてテーマを創る技法は普通に行われているが当時からそのようなことが行われていたとは…、さすが大「バッハ」だ。

未完というのが何ともミステリアスだったりもするが、まさに音楽に、楽譜に命を吹き込んだ、というわけだ…。なんとも「風雅」だ。

大「バッハ」に魅せられ、
B(変ロ)-A(イ)-C(ハ)-H(ロ)という主題を独自の技法で展開させた作曲家が数多く出た(そうした作品を集めたCDのあるようだ)ことからも彼の偉大さがわかる気がする。

もっとも、この音型、音高は全音分低いAs(変イ)-G(ト)-B(変ロ)-A(イ)だがバッハの別の作品で見ることができる。『組曲へ短調 BVW823』の第2曲目、かなり耳に残る使われ方だ(音型の前に一音加わっているし、主題的な要素ではないのだが)。

件の箇所、おわかりいただけるだろうか?

そう、耳に残る、といえばショスタコーヴィチが『交響曲第10番』や『弦楽四重奏曲第8番』に織り込んだD(ニ)-S(=Es/変ホ)-C(ハ)-H(ロ)という音型、これも自らの名前から導き出したものだが、比較的狭い音域での半音階的な進行は、どこかバッハと共通するものを感じる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』に倣った、『24の前奏曲とフーガ』という作品があるようにショスタコーヴィチがバッハから受けた影響は小さくない。こうした音型を作品に用いることも必然だったのか…?

(2011年)

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好き嫌いだけでは選曲も演奏もできない

好き嫌いだけでは選曲も演奏もできない。自分の仕事はそういうものだと思っている。

もちろん、個人的な好き嫌いはあるけど、仕事の場ではそれを公然と言うべきではないと思っている。

要は、音楽に、楽譜に向き合う姿勢だと思う。どんなに演奏しても何も感じないものもあるのは確か。それでも、常に新しく取り組む気持ちだけは持っていたい。そのうち、「あぁ、そうだったんだ」と思うものが出てくるものだ

「前に言われたことと違います」とプレーヤーが言うこともあるが、考えは変わるもの、自分の考えやイメージを伝えることが大事。もちろん、最低限守るべきものはあるけど。

何度もやったものでも常に新しい気持ちで取り組むこと、その気持ちだけは忘れないようにしたい。

そう思うようなってから、楽譜の書き方も変わってきたような気がしている。

(2013年6月7日)

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自作自演

バーンスタイン・コンダクツ・バーンスタイン

ディヴェルティメント
ハリル
「ミサ曲」より3つの瞑想
オン・ザ・タウン:3つのダンス・エピソード

レナード・バーンスタイン指揮

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、他

バッハやベートーヴェンが自作をどう演奏していたのか、ということはいつも考える。

「自作自演」だ。

技術の進歩もあり、現代は様々な「自作自演」を聴くことができる。

作品や作曲家によっては、「自作自演」はつまらないと思うこともあるが、作曲者の作品に対する想いを伺うヒントにはなっているように思う。

しかし何よりも、指揮をする作曲家が演奏者に対しどう向き合っているのかが気になる。

私の場合、正直言って、自分の書いた楽譜を指揮することほど嫌なことはない。

嫌というか、難しい…。

他の楽譜と向き合っている方がどれほど楽か…。

奏者に注文つけるときも、つい低姿勢になってしまう。

確かに、人が書いた音符よりも、自分が書いた音符の方がかわいいし大切。

他の曲では、極端な場合、不必要だと思った音はバッサリとやってしまうこともあるのに、自分の書いた音は…。

しかし、演奏者はシビア。その曲(楽譜)のことを一番知っている(はず)の人が目の前に立っているのだから、その目はより厳しい。

演奏者からの疑問にちゃんと答えられなければ、あるいは簡単に楽譜に手を加えようものなら、

「こいつ、ちゃんと考えて書いているのか…?」

ということになる。

だから、自分の楽譜を演奏する時は、出来る限り、演奏者の目で望むようには心がけている。時々、「誰だ、こんなこと書いたのは!?」と、声を発してしまうことも…

作・編曲者の目と演奏者の目、ある意味、二重人格になりつつある…。

(2006年)

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「謎」はナゾのままでいい

エルガー 管弦楽作品集(5枚組)
ジョン・バルビローリ指揮
フィルハーモニア管弦楽団、他
【CD 4】
創作主題による変奏曲「謎」
行進曲「威風堂々」 第1~5番
セレナード

イギリスの作曲家エドワード・エルガー卿(Sir Edward Elgar 1857-1934)の名前は知らなくても、「威風堂々」 (Pomp and Sircumstance) と題された行進曲は耳にしたことがある方も多いはず(この行進曲の第1番はイギリス第2の国歌とも称されるほどの名旋律)。

そのエルガーの作品の中に「謎」 (Enigma) という、管弦楽のための変奏曲がある。

エルガーが自ら創作したテーマと14の変奏から成っているのだが、それぞれの変奏にイニシャルが付されている(これが第1の「謎」)。

今日では、それらが何を表しているのかは解き明かされているが、エルガー自身が、「この曲の真のテーマは姿を見せない」と語っていることから、全体を通した大きなテーマがこの曲にはあるようだ(これが第2の「謎」か…?)。

エルガー本人は生前、これら二つの謎を自ら明かすことは無かったという。

第2の「謎」は依然不明のようだが、「謎」はナゾのままでもいいんじゃないか、という気もする。

確かに人間は、「謎」を解くことによって、進化してきた側面があると思う。

文化、芸術、学問、科学技術などなど…、これらの発達も、いわば「謎解き」にある…。

そう思うのだ。

一応音楽に関わる仕事はしているのだが、「謎」がある方が楽しい!!

すべての「謎」が解明されてしまっては、多分人生も楽しくないような気がしている。

まぁ、生命に関わる「謎」以外は、ほどほどに解明されることを願ってはいるが…。

(2006年)

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著作権

数年前、生演奏を売りにしていた東京のスナック経営者が、使用料の不払いを理由に逮捕されたというニュースがあった。

おそらく、「何がいけないの?」と思う方も多かったのではないかと思う。

簡単に言えば、「他人」が作ったもの(音楽)で商売をしていたということ、しかも「無断」で…、ということだ。オリジナルの曲を演奏して商売をするのであれば何ら問題なかったわけだが…

「音楽は誰のものでもない、みんなのものだ!!」と反論される方もいるようだが、よくよく考えてみよう。

もし、自分が作ったものが無断で複製されて商売に使われたら…(これは音楽に限ったことではなく…)

「著作権法」という法律がある。

これは、「もの」を作った人の権利を一定期間守るための法律。それ(作品)が出来上がった時点で「著作権」は発生するのだ。

作品を複製したり、録音したり、販売したりと、それらを決定する権利があるのは「著作権者」(「作った人」、あるいは「作った人」と契約した業者等)なのだ。

しかし、著作権を管理するということは大変なことだ。だから、音楽の場合はJASRACのような管理団体に著作物の管理を委託するわけ…。

もちろん、これは日本国内だけのことではない。著作権に関する国際条約もありJASRACは諸外国の管理団体とも提携しているので、「分からなけりゃ大丈夫」は通用しない。

そもそもお金を出してCDなり楽譜を買ったからといって、音楽そのものが自分のものになったというわけではないのだ(そこを曲解して、「音楽はみんなのものだから…」という人が多い…)。

CDや楽譜の「所有権」と、音楽を利用する権利を同じに考えてはならないのだ。(もちろん、個人的に楽しむ分には何の問題もない。)

どこかの自治体のように、所有する絵画を全部捨ててしまったという問題も、結局、作者に「著作権」があるという意識が全くないことから起こってしまったと思えてならない。

公表されている音楽を利用して商売をするなら、まずは、作った人に対する敬意と感謝を!!
(2006年)

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「伝統」というものは案外簡単に崩せるもの…?

「伝統」というものは案外簡単に崩せるものだ…」と書かれた文章に出会ったことがる。

なるほど、と思いつつも…「伝統 」って何なのだろう…?

「伝統というものなど無意味」というようなことを言った指揮者もいた。

クラシック音楽の世界では、このところ「ピリオド楽器」という、作品が作られた時代の楽器を使用して、また、当時の奏法を研究して…という動きが活発。

「伝統」を守るというのは、単に、当時の「形」を継承していくことなのだろうか?

確かに、当時の「形」を探り、伝えていくことは大切だが、

本当の「伝統」とは、「精神的な継承」ではないかと考える。

そして、「先達への敬意」…これが大切じゃないかと…。

人間が生み育ててきた文化・芸術は、時代の変化とともにこの先どのように変わっていくのだろうか…?

もしかしたら、変わらない(精神的)ために 変わる・変える(形)ということも、現代社会には必要なのかもしれない。

正直、自分で何書いているのか分からなくなった…。

(2006年)

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楽譜の「表情」

相田みつをの書いた文字のひとつひとつは、見事な「表情」を持っている。

勿論、書かれている言葉にも味があるけど。

しかし、もしこれが、活字で印刷されただけの言葉だったら…。

私も普段は、きちんと印刷された楽譜を使っているし、作品も最終的にはパソコンで浄書している。

楽譜というものは便利だが、実に厄介で、かつ不完全なもの。

作曲や編曲で五線紙(あるいはPC)に向かっている時、私は(私だけじゃないと思う)当然のことながら、「このような演奏をしてもらいたい」という理想像を浮かべている。

それは、響であったり、強弱であったり、抑揚であったり…(時には、演奏していただく演奏者の顔が浮かんで、「こんな難しいこと書いて…!!」と言われてるような気分も味わうが…笑)。

しかし、楽譜に用いる一般的な記号だけではそれらを表しきれないのが現実。

例えば「フォルテ」とか「ピアノ」という、所謂強弱を表す記号。

どの位強くするのか、どの位弱めるのかは最終的に演奏者に委ねるしかない。

記号に対する強弱の感覚って、やはり人によって様々だと思う。

それから「スタッカート」や「フェルマータ」。

どの位短く?どの位延ばしたら?

やはり、これも演奏者に委ねるしかない。

(余談ながら、「スタッカート」や「フェルマータ」は、「奏法」のための記号と思われているようだが、「表情」記号だと私は思っている。)

この不完全極まりない「楽譜」という代物、奏法や表現が多様化したこともあり、現在ではいろいろな記譜法も考えられているが、現実。一般化しきれていないように思う。

私自身は、楽譜の持つある種の曖昧さが演奏者のイマジネーションを広げるものだと考えている。

作曲家の中には、自分の理想通りに再現されることを求める方もいらっしゃるようだが、私は、自分が思ってもみなかった演奏に出会う方が好きである(「適当(いいかげん)」な演奏でなければ)。

じゃあ、演奏する立場から見ると…

「楽譜」の持つ曖昧さに苦労することは確かにある!!

ただ、私も楽譜を作る身、作る人の苦労もわかっている(つもり)だから、それ以上のコメントは控えておきます…。

先日、片付けものをしている際、以前書いた(箸にも棒にもかからない…)作品の手稿(手書きの楽譜)を久しぶりに眺めた。

当時を思い出したりして何だか懐かしいやら、面白いやら。

印刷されたものや、PCで制作したものとは違う表情があって、それはそれでいいものだなぁと。

有名作曲家の古い手稿というのも結構残っていて、私はそこに、既述の相田みつを「書」を見るような思いを以前したものだ。

楽譜にだって「表情」があってもいいんじゃないのかな…?

「たまには手書きに戻ってみるか」と思いつつも、PCでの楽譜制作にに慣れてしまった私。いっそのこと、(楽譜に表情をつける)新しい方法でも考えてみますか…。

そんなことより、音楽の中身ですよね、問題は…。

(2006年)

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「楽」の話

大学生の頃手にしたある本に、

音楽の「楽」という字には、仏教の言葉で「願う」という意味がある

と書いてああった。

当時は「あぁ、そうなんだ…」程度にしか思っていなかったのだが、実際、音楽を仕事としてやっていくうちに、また音楽を創っていく中で、そのことの意味を自分なりに感じていくようになっている。

 もともと「楽」には「かなでる」という意味がありるのは存知の通り。

 日本でも古くから「雅楽」や「神楽」など、音を伴った文化がある。

しかし、そこにある「楽」はただ「かなでる」だけのものではない。

 仏や神への祈りが込められているわけである。

 西洋の音楽も遡れば、やはり「かなでる」だけではなく、そこには祈りが込められている。

 「祈る」と「願う」は必ずしも一致するとは思わないが(辞書では同じような意味)、少なくとも、己の気持ちを込めるという点では一致するように思う。

 「願う」→「かなでる」→そして、それが受け手の心に伝わる。

 作曲者、演奏者、聴衆がそこで何かを共有できた時、音楽が本当に「楽」しいと思えるような気がしている。

(2006年)

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国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由

国が文化、芸術に携わる方々を支えなくてはならない理由…

正直言って、個々の分野の素晴らしさを(語弊はあるかもしれないが)半ば感情的に訴えたとしても、どうも今の権力者や国の中枢機関には通じないように思っている。

しかし私は、声をあげていかねばならないと思うし、できる限りのことはしたいと思っている。

国が文化、芸術分野に携わる方々を支えなくてはならない理由を、私は少し違う視点から見ている。

端的に言おう。

国は、音楽や美術(図工)などを学校教育に(「教科」として)取り入れているではないか。

●音や音楽は,「自己のイメージや感情」,「生活や文化」などとの関わりにおいて,意味あるものとして存在している。

●「音楽的な見方・考え方を働かせて学習をすることによって,児童の発達の段階に応じた,「知識及び技能」の習得,「思考力,判断力,表現力等」の育成、「学びに向かう力,人間性等」の涵養が実現していく。このことによって,生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力は育成される。

●音楽的な見方・考え方は,音楽的な見方・考え方を働かせた音楽科の学 習を積み重ることによって広がったり深まったりするなどし,その後の人生に おいても生きて働くものとなる。

●児童の生活や,児童が生活を営む社会の中には,様々な音や音楽が存在し,人々の生活に影響を与えている。したがって,生活や社会の中の音や音楽と豊か に関わる資質・能力を育成することによって,児童がそれらの音や音楽との関わりを自ら築き,生活を豊かにしていくことは,音楽科の大切な役割の一つである。

●生活や社会の中の音や音楽と 豊かに関わることのできる人を育てること,そのことによって心豊かな生活を営むことのできる人を育てること,ひいては,心豊かな生活を営むことのできる社会の実現に寄与することを目指している。

●思いや意図をもって表現したり,音楽を味わって聴いたりする過程において,理解したり考えたりしたこと,音楽を豊かに表現したこと,友達と音や音楽及び言葉によるコミュニケーションを図って交流し共有したり共感したりしたことなどが,自分の生活や自分たちを取り巻く社会とどのように関わり,また,どのような意味があるのかについて意識できるようにすることが大切である。

 いずれも、小学校の「学習指導要領(音楽)」にある記述だ。

人間形成に必要と認めているではないか。音楽教育の必要性を説いているではないか。

 実社会で、あるいは普段の生活の中で活かされてこそ、学校での教育は意味を持つ。これは何も音楽に限ったことではない。「国語」だって「算数」だって。

学校でいろいろと音楽について習ったけど、それを実際に体験できる場、実践できる場がない、というのはどこか矛盾していないだろうか? 

人間形成に必要だとしているのなら、実際に体験できる場、実践できる場、そうした環境を整えること、そうしたフィールドで仕事をする方々を支えることは、国の「義務」だと言ってもいいくらいだ。

 文化、芸術、あるいはエンターテインメントに携わる方々(いわゆる「裏方さん」も含め)を積極的に支援しないということは、自らが定めた学校教育のあり方、考え方を自ら否定することにもなるのだ。

 その理屈で言うなら、ほぼ全ての人が等しく(仕事の種別など関係なく)支援を受けて当然だろう。

※断っておくが、今の状況で文化、芸術の分野にだけ何か特別のことを、と訴えているのではない。あくまでも「等しく」ということだ。

(2020年5月14日)

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