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投稿者: kmasa1006

広島ウインドオーケストラ第41回定期演奏会

昨日から広島滞在。一番の目的は、昨日の下野竜也指揮・広島ウィンドオーケストラ定期演奏会。演奏会のために遠出することは久々。来てよかった!!演奏者だけでなく聴衆にも程よい緊張感と集中力をもたらす下野氏の指揮に脱帽。吹奏楽で本当の「音楽」を感じることができた。

オケ自体の機能はまだまだ発展途上だと思うが、この路線を、たとえ聴衆が少なかろうと進めてもらいたと思った。それにしても、この手の演奏会、もっと吹奏楽に関わる学校の先生や生徒にも聴いて欲しい。

しかし、逆を言えば、聴衆の意識やレベルの高さを証明しているような気がする。一般的な吹奏楽の演奏会とは明らかに違った。

これも下野氏の力量か…。

吹奏楽を聴きに来た、と言うより、下野氏の音楽を聴きに来た人が多かったのではないか、と思った。

(2014年4月20日)

個人的にはなかなか面白いプログラム。アメリカの新旧オリジナル作品が並んだが、作曲年代が一番古いパーシケッティ作品が最も現代的でアグレッシブ。一番新しいバーンズ作品が最も保守的?と言うか、古典的で…。

(2014年4月21日)

ただ、休憩を挟んで2時間弱のコンサート、演奏者にとっても聴衆にとってもこれ以上はさすがに辛いかもしれない。集中力がもたない。正直耳が疲れなくもない。

管楽器+打楽器の合奏体をライブで聴くにはこれが限度かな、とも思う。質の高い音楽だけになおさら。

やはり、弦楽器ありのオーケストラとは違うな…。吹奏楽により相応しいコンサートの組み立ても考えていく必要性も感じる。逆に、一般的なコンサートの組み立てに耐えうる質の高い作品の必要性も…。

(2014年4月22日)

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曲のタイトルをつけるはいつもの苦労する

曲のタイトルをつけるはいつもの苦労する。

アダージョとアレグロ』の初演後、委嘱して下さった先生などと飲んでいた時、同席されていたある作曲家の方からこう言われた。

「正門さん、タイトル付けるの苦手でしょ?」

何せ、特別のストーリーや風景を描くような曲を書くことがないものだから…。

その方も同じとのことだった。

イマージュ 〜サクソフォーン四重奏のために』もそうだった。

ただ、5つの小品からなるこの曲の場合は、それぞれにイメージというかストーリーというようなものはあったのだが、曲全体のタイトルがなかなか決まらなかったことを思い出す。

初演の録音を聴いてくれた友人が、「タイトルから何かふわふわした感じの曲を想像したけど、いい意味で裏切られた」と言ってくれたのは嬉しかった。

特別のストーリーや風景を描かないからといって、何も考えずに作っているわけではない、言うまでもないことだが。

しかし、なんだかんだ言っても、曲のタイトルって大事。ただ、そのタイトルが演奏の邪魔になることも結構あるんだよなぁ…。

(2013年9月3日)

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音楽の奥深さ、難しさ

まあ上手くいったと思う演奏が聴衆の心に全く響かないこともあれば、かなり拙い演奏でも聴衆の心に何か響くものを残すこともある…。

音楽の奥深さ、難しさはこんなところにもあるのだ…。

(2013年8月28日)

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ロッシーニ『スターバト・マーテル』

当時『ウィリアム・テル』序曲くらいしか縁のなかった私にとって、大学の合唱でやった『スターバト・マーテル』はロッシーニのイメージが変わるくらいインパクトは大きかった。

その演奏会では、仲のいい友達がソリストをつとめたこともあり楽しかった(宗教曲だから本当は楽しむものではないのだろうが…)。

そのロッシーニが、今の私と同じくらいの年齢の頃は、すでに一線から退いて悠々自適、美食の日々だったそうな…。

料理の名前に自分の名前が使われているくらいだから、相当なものだったのだろう。

そんな人生と『スターバト・マーテル』のような曲とのギャップがまた面白かったりする。

(2013年8月27日)

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ルトスワフスキ生誕100周年

ヴェルディやワーグナーの生誕200周年の影に隠れてしまっているが、今年は、ポーランドのルトスワフスキの生誕100周年。私の場合、どうしても同時代の作曲家の方に興味が向いてしまう。

特に、厳しい時代を生き抜いてきた人の音楽には、全てが共感出来るとは言えないものの、何か深いものを、そして厳しさというようなものを感じてしまう。これは作曲に限ったことではない。演奏だってそうだと思う。音楽の深さ、それは人生、人間の深さということだろう。

(2013年8月21日)

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戒め

周りを見ないと(聴かないと)暴走する。周りを見すぎると(聴きすぎると)停滞する。人生も音楽も一緒だな。

(2013年6月10日)

「やらされている」という感覚で演奏に臨むことなんてあり得ない。

聴衆、ましてや音楽に対して失礼過ぎる。

「仕方なく…」「取り敢えず…」なんて気持ちがあるなら、やらない方がマシ。

聴衆にとってはただの騒音にしかならないから。

誰に対して、というものではない。自分への戒めとして…。

(2013年6月11日)

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素材を活かす

遅めの食事をとった昨夜、最後に出していただいた焼物を味わいながら、「素材を活かす」とは何ぞや…と思う。

見た目には少々雑な感じにも思えるが、これも「演出」!

見た目と味のギャップが楽しい。そして、それぞれの素材が主張しつつも他の邪魔をしていない…。

見習いたいものだ、と思うとともに、「きれいに」整えるだけでは音楽にならない、とも…。

(2013年6月8日)

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「技術などいらないんですよ…」/ケンプ

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ選集

ソナタ 第8番 「悲愴」
ソナタ 第14番 「月光」
ソナタ 第21番 「ヴァルトシュタイン」 
ソナタ 第23番 「熱情」

ヴィルヘルム・ケンプ (ピアノ)

ヴィルヘルム・ケンプ (1895-1991) といえば、20世紀を代表する名演奏家のひとり。バッハからベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに至るドイツ音楽を得意とし高い評価を受けた。

現代では完璧な技巧による庇護のない演奏が求められる傾向にあるように思うが、ケンプは技巧よりも即興的なファンタジー、精神性を重んじる演奏スタイル。深い精神性にえ、あふれる高揚感、視野の広い楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作…。そんな彼のスタイルは、フルトヴェングラーと少なからず共通する所があるようで、実際フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中も、特にケンプに深い関心と理解とを示したと伝えられている。

ただ、その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だったが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあったようだ。

彼は自身を「作曲家」として捉えていたようで、若い頃は技巧的な練習に熱心に励むことはなかったという。

第2次大戦後、一時演奏禁止になったことで、逆に技巧的な弱さをある程度克服することができたと言われている。

彼は、きっと己の技巧的な弱さを知っていたのだ。己の弱さに真摯に向かう姿勢を持ち続けた(と思われる)彼の演奏に時々耳を傾けたくなる。

そのケンプ、こんな言葉を残している。

「技術などいらないんですよ。肝心なのは、ちょうどその時に、ちょうどの鍵盤を押す、ということなんですから。」

それが技術なんだと…。
己の弱さを克服したからこそ口にできる言葉だろう。

(2011年)

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『ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション』

ベニー・グッドマン・コレクターズ・エディション

プレリュード、フーガ&リフス(バーンスタイン
クラリネット協奏曲(コープランド)
エボニー協奏曲(ストラヴィンスキー)
デリヴェイションズ(モートン・グールド)
コントラスツ(バルトーク)

ベニー・グッドマン(1909-1986)、言わずと知れた「スウィングの王様」だが、彼はクラシック音楽のジャンルへも大変興味深い録音を残している。

このアルバムは、各曲の作曲者との共演という、とても面白ものになっている。

バルトーク作品以外はそれぞれ作曲者が指揮者として、バルトークはピアニストとして共演している。(別の角度から見れば、前に書いた「自作自演」

ジャズを中心に活動している方がクラシックも、という例はもちろん現代にもある。

チック・コリア(1941-)やキース・ジャレット(1945-)がバッハやモーツァルトを取り上げた例もあるし、ウィントン・マルサリス(1961-)の活動もある。

クラシック音楽とジャズの関係はおそらく、ガーシュウィン(1898-1937)から始まるのだが、その後、この関係はとても幸せなものとなったのではないかと思う。

互いに影響し合いながら、ある意味新しい音楽の形を生み出したといってもいい。

「特定の宗教を超えた・・・」(「信仰と音楽/ブルックナー」参照)ではないけれども、ジャンルを超えた邂逅は作曲面でも演奏面でも次代へのメッセージを残してくれていると言ってもいいだろう。

「即興性」という観点から、チック・コリアとバッハの関係も面白いと思うのだが、楽器は違えどベニー・グッドマンならバッハとどう向き合ったであろうか?

(まぁ、時代的にもバッハにクラリネットのための作品がない、ということはあるのだが…)

上記のアルバム以外にも、モーツァルトやウェーバーの協奏曲なども残している彼のバッハを聴いてみたかった。

(2011年)

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フーガ/風雅

バーラミ・プレイズ・バッハ(6枚組)
ラミン・バーラミ(ピアノ)
【CD 2】
フーガの技法 BWV 1080

大「バッハ」の残した傑作のひとつ、『フーガの技法』
文字通り、バッハが「フーガの技法」をとことん突き詰めた作品集だ。

その中の未完の一曲(『フーガの技法』とは関係なく作曲されていたのではないか、という研究もある)に、バッハは自らの名前を堂々音符で書き込んでいる(ただし、それを意図していたのかどうかは…)

この曲の第3主題として登場する。

(変ロ)-A()-C()-H()

と、いうわけだ(カッコ内は日本音名)。
この主題が登場した後、フーガは終止線が引かれぬまま…。

現在では、こうして人の名前などを音名に当てはめてテーマを創る技法は普通に行われているが当時からそのようなことが行われていたとは…、さすが大「バッハ」だ。

未完というのが何ともミステリアスだったりもするが、まさに音楽に、楽譜に命を吹き込んだ、というわけだ…。なんとも「風雅」だ。

大「バッハ」に魅せられ、
B(変ロ)-A(イ)-C(ハ)-H(ロ)という主題を独自の技法で展開させた作曲家が数多く出た(そうした作品を集めたCDのあるようだ)ことからも彼の偉大さがわかる気がする。

もっとも、この音型、音高は全音分低いAs(変イ)-G(ト)-B(変ロ)-A(イ)だがバッハの別の作品で見ることができる。『組曲へ短調 BVW823』の第2曲目、かなり耳に残る使われ方だ(音型の前に一音加わっているし、主題的な要素ではないのだが)。

件の箇所、おわかりいただけるだろうか?

そう、耳に残る、といえばショスタコーヴィチが『交響曲第10番』や『弦楽四重奏曲第8番』に織り込んだD(ニ)-S(=Es/変ホ)-C(ハ)-H(ロ)という音型、これも自らの名前から導き出したものだが、比較的狭い音域での半音階的な進行は、どこかバッハと共通するものを感じる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』に倣った、『24の前奏曲とフーガ』という作品があるようにショスタコーヴィチがバッハから受けた影響は小さくない。こうした音型を作品に用いることも必然だったのか…?

(2011年)

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