らっぱのマークの「正○丸」、あのCMで流れる曲が、旧陸軍の、食事を知らせる信号だったことを、職場にあった『大日本ラッパ史』という古い本で知る。
オリジナルではなかったんだな…。
それにしても、センスのあるいい選曲だよなぁ、「正○丸」!!
(2015年05月19日)
最近、「フォルテピアノ」の響きに惹かれている。
どうも、現代のピアノの響きが今の私の精神状態には刺激が強すぎるのだ…。
もちろん、現代のピアノによる演奏(最近は専らCDなのだが)を全く聴かないわけではなく、好きなものは繰り返し聴くし、近現代の作品などは当然そうだ。
ハイドン、モーツァルト(個人的には肌に合わない作曲家…)、ベートーヴェンなどの作品はフォルテピアノで聴く方が多くなった。最近はシューベルトに手を出し始め、スカルラッティに遡る。
スカルラッティなどは、チェンバロの方がいいのかも知れないが、このチェンバロの響きも、今の私には少々刺激が…。
だから、いうわけではないが、最近はバッハもチェンバロで聴くことはほとんどない。
しかし、いくらフォルテピアノの響きがいいからと言って、どんな演奏でもいい、というわけではもちろんない。
やはり、作曲家の想いに少しでも迫っているなぁ、と感じるものを選びたいものだ。
スカルラッティをフォルテピアノで、ということに異を唱える方もいるだろうが、
現代のピアノでも演奏するのだし、フォルテピアノしかない時代はそうするしかないでしょ?
そういう時代もあったのだ、と思えばまた楽しい、と思う。
(2015年5月12日)
昨日から広島滞在。一番の目的は、昨日の下野竜也指揮・広島ウィンドオーケストラ定期演奏会。演奏会のために遠出することは久々。来てよかった!!演奏者だけでなく聴衆にも程よい緊張感と集中力をもたらす下野氏の指揮に脱帽。吹奏楽で本当の「音楽」を感じることができた。
オケ自体の機能はまだまだ発展途上だと思うが、この路線を、たとえ聴衆が少なかろうと進めてもらいたと思った。それにしても、この手の演奏会、もっと吹奏楽に関わる学校の先生や生徒にも聴いて欲しい。
しかし、逆を言えば、聴衆の意識やレベルの高さを証明しているような気がする。一般的な吹奏楽の演奏会とは明らかに違った。
これも下野氏の力量か…。
吹奏楽を聴きに来た、と言うより、下野氏の音楽を聴きに来た人が多かったのではないか、と思った。
(2014年4月20日)
個人的にはなかなか面白いプログラム。アメリカの新旧オリジナル作品が並んだが、作曲年代が一番古いパーシケッティ作品が最も現代的でアグレッシブ。一番新しいバーンズ作品が最も保守的?と言うか、古典的で…。
(2014年4月21日)
ただ、休憩を挟んで2時間弱のコンサート、演奏者にとっても聴衆にとってもこれ以上はさすがに辛いかもしれない。集中力がもたない。正直耳が疲れなくもない。
管楽器+打楽器の合奏体をライブで聴くにはこれが限度かな、とも思う。質の高い音楽だけになおさら。
やはり、弦楽器ありのオーケストラとは違うな…。吹奏楽により相応しいコンサートの組み立ても考えていく必要性も感じる。逆に、一般的なコンサートの組み立てに耐えうる質の高い作品の必要性も…。
(2014年4月22日)
曲のタイトルをつけるはいつもの苦労する。
『アダージョとアレグロ』の初演後、委嘱して下さった先生などと飲んでいた時、同席されていたある作曲家の方からこう言われた。
「正門さん、タイトル付けるの苦手でしょ?」
何せ、特別のストーリーや風景を描くような曲を書くことがないものだから…。
その方も同じとのことだった。
『イマージュ 〜サクソフォーン四重奏のために』もそうだった。
ただ、5つの小品からなるこの曲の場合は、それぞれにイメージというかストーリーというようなものはあったのだが、曲全体のタイトルがなかなか決まらなかったことを思い出す。
初演の録音を聴いてくれた友人が、「タイトルから何かふわふわした感じの曲を想像したけど、いい意味で裏切られた」と言ってくれたのは嬉しかった。
特別のストーリーや風景を描かないからといって、何も考えずに作っているわけではない、言うまでもないことだが。
しかし、なんだかんだ言っても、曲のタイトルって大事。ただ、そのタイトルが演奏の邪魔になることも結構あるんだよなぁ…。
(2013年9月3日)
ヴィルヘルム・ケンプ (1895-1991) といえば、20世紀を代表する名演奏家のひとり。バッハからベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに至るドイツ音楽を得意とし高い評価を受けた。
現代では完璧な技巧による庇護のない演奏が求められる傾向にあるように思うが、ケンプは技巧よりも即興的なファンタジー、精神性を重んじる演奏スタイル。深い精神性にえ、あふれる高揚感、視野の広い楽曲把握、自在に揺れながらも決して気まぐれではない柔らかで自然なテンポ操作…。そんな彼のスタイルは、フルトヴェングラーと少なからず共通する所があるようで、実際フルトヴェングラーは、同時代に活躍したピアニストの中も、特にケンプに深い関心と理解とを示したと伝えられている。
ただ、その実演もムラが多く、好調時には文字通り「奇跡」と言える演奏だったが、不調時にはミスも多く、それをたまたま聴いた評論家からは不評をかうこともあったようだ。
彼は自身を「作曲家」として捉えていたようで、若い頃は技巧的な練習に熱心に励むことはなかったという。
第2次大戦後、一時演奏禁止になったことで、逆に技巧的な弱さをある程度克服することができたと言われている。
彼は、きっと己の技巧的な弱さを知っていたのだ。己の弱さに真摯に向かう姿勢を持ち続けた(と思われる)彼の演奏に時々耳を傾けたくなる。
そのケンプ、こんな言葉を残している。
「技術などいらないんですよ。肝心なのは、ちょうどその時に、ちょうどの鍵盤を押す、ということなんですから。」
それが技術なんだと…。
己の弱さを克服したからこそ口にできる言葉だろう。
(2011年)