ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)の、室内楽伴奏によるシューベルト歌曲の夕べを聴く。
大袈裟なようだが、まるでシューベルトが彼女のために作曲したかのような…。
最大でもピアノ五重奏という編曲も、シューベルトがそれを望んでいたのでは、と思わせる…。
指揮者としても活動しているシュトゥッツマンだが、今夜の彼女は弾き振りならぬ、「歌い振り」。
客席を向いているので(当然)、聴衆もその指揮に引き込まれてしまう。
何という幸せな時間…。
(2017年5月9日)
中田延亮指揮・九州管楽合奏団の演奏会、期待以上だった
中田氏は吹奏楽の指揮が初めてとのこと、それだけに期待も大きかった
最近は実力者が吹奏楽を指揮することが多くなり、本当の意味で「音楽」に浸ることができる機会が増えたことは嬉しい。
(もっとも、昭和の時代から、朝比奈隆、山田一雄、秋山和慶と吹奏楽と深く関わってきた指揮者は結構いたのだけれど。)
今回の中田氏の起用は大成功なのでは。


音楽に向き合う、という意味で中田氏は特別なことは何らしていないと思う(もちろん相当な準備はされたはずだが)。
まず感じたのは、「頭のいい指揮者だなぁ」「バランス感覚に優れ造形術?に長けた人だなぁ」
だからといって、生まれてくる音楽は決して分析的ではないし、理屈っぽくもない。
相当緻密に計算されてはいるし、情報量の多い演奏だったことは確かなのだが、それを「自然に」聴かせるところが中田氏の力量なのだろう。
今日の曲目、下手すると前半で「もう勘弁してください」となること必至。しかし、「膨満感」を感じることはなかった。
(2017年5月14日)
近頃は、IMSLPのような、パブリックドメインになった楽譜を掲載?するサイトで、なかなか手にすることのできない楽譜をダウンロードできる。
初版本もあれば、自筆譜のファクシミリまで、という作品もあり、なかなか面白い。
しかし、それはそれで嬉しいことではあるのだが、できる限りちゃんと印刷された物を持っていたい、と思っている。作曲家だけではなく、その楽譜の製作に携わった人たちの想いまでも感じることができるかな、と思うからだ。
そう言えば、N響に客演したジャナンドレア・ノセダが、曲を指揮し終わり、スコアにキスする姿を見ることがあった(いずれもポケットスコアだったのが微笑ましかった)。
そのスコアがコピー譜だったら様にならなかっただろうな、と思う。もっとも、あの場でコピー譜を使うことなどあり得ないのだが。
簡単に手に入れることができる、ということは、先に書いたCD(「静かに時を待ってるCDたち」参照)と同じだが、簡単に手放してしまうことになる。扱いも正直雑になることだろう。
それは、やはり作曲家や作品に対して失礼なことだ。
何度か書いているのだが、私はモーツァルトと(一方的ではあるが)仲が良くない。
が、最近、中古ではあるが10数曲まとめて楽譜を手にする機会があった。それを機に、仕事の合間を見て読んでいる。作曲の様式という側面からではなく、「演奏様式」という観点で。楽譜を読むだけではなく、幾つかの研究書も合わせて。
自分でもどうしたことだろう、と思ってしまうが、共感する点を見つけ出そうしているのではない。なぜ仲良くできないのか、その理由を探ろうとしているようだ(まるで他人ごとのような言い方だが…)。
彼と対峙したところで、全く相手にされないのは分かっているが、それでもいい。
仲良くならなくても、何か役に立つことは出てくるさ…。
そう自分に言い聞かせている。
(2015年7月7日)
「時間というのは、均等ではない」と思うことがよくある。
同じ1分間、同じ1時間でもその時々によって長く感じたり短く感じたり…。
同じことをやっているはずなのに、早く終わったり、そうでなかったり、ということもある。
きっと誰でも同じことを感じでいるのではないかな…。
時間といえば、音楽の「テンポ」。
もともとは時間を意味する言葉だ。
その時々の気分や体調、場所などに影響されやすい。
CD等で同じ演奏を聴いても、早いと感じたり遅いと感じたり…。
自作にテンポを設定することほど難しいことはない(私の場合、タイトルをつけることと同じくらい大変な作業だ)、
少し時間が経過すると、あるいはテンポマークを付けた時間帯とは全く異なる時間帯に確認してみると、大抵違うものに感じるからだ。
バルトークなどは、楽譜に演奏「時間」を記している。それも、曲全体のおおよその時間ではなく、「チャプター」単位で。
彼くらいの人なら、身体や頭脳に何か特殊なメトロノームでもあるのだろう。
ただ、音楽のテンポは、最終的には作曲家が作るものではなく、演奏者やその時々の環境、そして聴衆の心が感じ、作るものだ。
「作曲家のつけるテンポを信用してはいけない」と言う作曲家もいるくらいだ。
だから、というわけではないが、同じ曲でもいろいろとCDを買いたくなるのだ。
(2015年6月19日)
ベートーヴェンはやはり偉大過ぎる作曲家。
ただ、好きか嫌いかを尋ねられたら、「どちらでもない」と答えそうな私(マスコミがよくやる世論調査の回答に、「どちらでもない」というのを見ると腹を立てる私だが…)。
人物としての評価は正直分からない。
好きな作品もあれば肌に合わない作品もある。
そのベートーヴェン、本当に苦悩の人だったのだろうか、と疑ってしまうことがある。
その生き様が、伝えられているほどのものだったのか…。
これについては、以前、「自称秘書が云々」(「生かすも殺すも曲名(タイトル)次第…?」参照)と書いたことがあるので改めて書くことはしないが、作品リストを眺めていると、意外に「短調」を主調とする作品が少ないことに気付く。
交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、ヴァイオリンソナタ…。
どのジャンルを見ても「長調」を主調とする作品が圧倒的に多い(恐らく気付いている方が多いとは思うが…)
もちろん、短調だから苦悩、長調だから陽気などいうものではないことは分かっている。
やはり、「運命(あまりそうは呼びたくないが)」や「第九」、「悲愴」、「熱情」などの印象が強いからなぁ…。
何時ぞやのテレビでも、ベートーヴェンの音楽は苦悩に始まり云々、と決めつけたような紹介がされていたし…(全てがそうです、とは言い切れないと思うのだが)
それでも、やはりベートーヴェンは偉大過ぎると言いたい。
まあ、「音楽に自己の精神を注入したとんでもない奴」と言う人もいるが(確かに…)。
その時代、ベートーヴェンが最良、最高の作曲家というわけではなかったかようだし、バッハだってそうだった。
それが死後200年近く経ってこのように聴かれ、論じられ、そして、誰かの心と懐を潤して…。
当のご本人、今の状況をどのようように見るだろう?
苦悩してしまうかも…
(2015年6月9日)
音楽に関わる仕事をしていながら、普段、ゆっくりと音楽を「鑑賞」することがほとんどない。時間は作ろうと思えば作れるのだろうが…。
仕事上必要だ、とか、資料という名目でCDは増え続けるし、iTunesでダウンロードすることも少なくない。
私なり考えてみるのだが、音楽があまりにも「手軽」になってしまったのだろう。
若い頃は、レコード1枚買うのにも苦労(というほどでもないか…)したが、今はそのレコード1枚分の値段で何枚ものCDを手にすることができる。
苦労して手に入れレコード(あるいはCD)は大切に、しかも繰り返し聴いたものだ。
今はどうだろう…(大いに反省)。
音楽に限らず、人は、簡単に手に入るものは簡単に手放してしまうものだ。もちろん、値段が云々ではない。
となると、実は私自身が実は簡単に音楽を手放してしまうのではないか、と思えてくる。
だから、というわけではないが、最近はCDショップに行って、そそられるCDと出会っても、なかなかそれに手が伸びないのだ。
自宅のCDたちにまだまだ愛情が残っているらしい私、まずは、静かに時を待っているCDと向き合う機会を作ることから…。
(2015年5月28日)
クラシック音楽の分野では、いわゆるピリオド楽器による演奏や、その時代の演奏様式を取り入れた演奏が珍しいものではなくなっている。
私も時折楽しんでいる。
「フォルテピアノ」のことに触れた時(「「フォルテピアノ」の響き」参照)にも書いたが、刺激が強すぎる音楽、演奏が多過ぎて…(あくまでも、個人的なものだが)
古い音源を、最新ともいえる技術で復刻させることも多くなった。意外とこの分野は激戦模様のように感じる。しかも、驚くほど安い。ありがたい。しかし、懐は痛い。
音楽書も、「名著復刻」などを謳い文句にいろいろと出版されている。
これもありがたい。ただし、CDほど安くはない(笑)
こうして古いものに興味を持つ、惹かれるのはどうしてだろうか。
結局、「古いものだって新しい」ということだ。
そして、知れば知るほど、何か新しいことに出会うことができるのだ。
そう、「温故知新」。
今の私たちは大いに過去から学ばなくてはならない。
そこから、今の、そしてこれからの自分たちのあるべき姿を見出さないといけない。
何を学ぶのか…?
結局、人間は、紀元前から何も変わっていないということをだ。
(2015年6月19日)
最近、「フォルテピアノ」の響きに惹かれている。
どうも、現代のピアノの響きが今の私の精神状態には刺激が強すぎるのだ…。
もちろん、現代のピアノによる演奏(最近は専らCDなのだが)を全く聴かないわけではなく、好きなものは繰り返し聴くし、近現代の作品などは当然そうだ。
ハイドン、モーツァルト(個人的には肌に合わない作曲家…)、ベートーヴェンなどの作品はフォルテピアノで聴く方が多くなった。最近はシューベルトに手を出し始め、スカルラッティに遡る。
スカルラッティなどは、チェンバロの方がいいのかも知れないが、このチェンバロの響きも、今の私には少々刺激が…。
だから、いうわけではないが、最近はバッハもチェンバロで聴くことはほとんどない。
しかし、いくらフォルテピアノの響きがいいからと言って、どんな演奏でもいい、というわけではもちろんない。
やはり、作曲家の想いに少しでも迫っているなぁ、と感じるものを選びたいものだ。
スカルラッティをフォルテピアノで、ということに異を唱える方もいるだろうが、
現代のピアノでも演奏するのだし、フォルテピアノしかない時代はそうするしかないでしょ?
そういう時代もあったのだ、と思えばまた楽しい、と思う。
(2015年5月12日)
昨日から広島滞在。一番の目的は、昨日の下野竜也指揮・広島ウィンドオーケストラ定期演奏会。演奏会のために遠出することは久々。来てよかった!!演奏者だけでなく聴衆にも程よい緊張感と集中力をもたらす下野氏の指揮に脱帽。吹奏楽で本当の「音楽」を感じることができた。
オケ自体の機能はまだまだ発展途上だと思うが、この路線を、たとえ聴衆が少なかろうと進めてもらいたと思った。それにしても、この手の演奏会、もっと吹奏楽に関わる学校の先生や生徒にも聴いて欲しい。
しかし、逆を言えば、聴衆の意識やレベルの高さを証明しているような気がする。一般的な吹奏楽の演奏会とは明らかに違った。
これも下野氏の力量か…。
吹奏楽を聴きに来た、と言うより、下野氏の音楽を聴きに来た人が多かったのではないか、と思った。
(2014年4月20日)
個人的にはなかなか面白いプログラム。アメリカの新旧オリジナル作品が並んだが、作曲年代が一番古いパーシケッティ作品が最も現代的でアグレッシブ。一番新しいバーンズ作品が最も保守的?と言うか、古典的で…。
(2014年4月21日)

ただ、休憩を挟んで2時間弱のコンサート、演奏者にとっても聴衆にとってもこれ以上はさすがに辛いかもしれない。集中力がもたない。正直耳が疲れなくもない。
管楽器+打楽器の合奏体をライブで聴くにはこれが限度かな、とも思う。質の高い音楽だけになおさら。
やはり、弦楽器ありのオーケストラとは違うな…。吹奏楽により相応しいコンサートの組み立ても考えていく必要性も感じる。逆に、一般的なコンサートの組み立てに耐えうる質の高い作品の必要性も…。
(2014年4月22日)