嬉しいのは、前回見えた課題を自ら解決し、こちらの想定以上の準備をしてくれている、ということ。
その日最初に音を出した瞬間にそれが分かる。前の練習より悪くなっている、ということがない。
集中しているということ、力があるということだ。
集中力が一番発揮されるのは、やはり練習の始め。
集中力を維持するということは、その瞬間瞬間をいかに新しい気持ちで臨むか、ということだろう。
そういう環境を作ることが私の責任。私だってまだまだ勉強だ。
(2017年9月16日)
巷に溢れる音源を聴いて、その通りに再現することが目的となっていると感じる演奏があまりにも多く、残念ながらその様な演奏に高い評価が行きがちなのはどうも…と友人とよくそんな話になります。何事も真似することから始まるのですが、模倣できたから満足、では私は寂しい。
そこに「個性」はないということに等しいと思っています。音楽に大切なのはその人(団体)の独自性を出すことではないかと…。
模倣の先に大切なことがたくさんあるはずなんです。
個人的な思い入れはあるにせよ、今回のみんなの演奏は、模倣を超えたそれこそ「個性」溢れるものでした。
実は、音楽に、楽譜に誠実に向き合えば、個性豊かな演奏になるはずなのです。
そこを勘違いしている指導者って意外に多い…。お手本となるものが溢れているので、いいところを選んで耳に焼けつけて、いつしか他人の解釈が自分の解釈に…(それが全て悪いとは言いませんが)。
ただ、「個性」といって何でもやっていいという訳ではない。やはり基礎は大切だし、型(かた)というのもある。経験を積むことで身に付くものもある。これからも、出来るだけいろいろな素材を提示していきたいと思っています。そこに各々「これは!」というものがあれば活かして欲しいのです。
客席で審査をする立場から話をすると、私の場合、その団体の独自性はどこにあるがまずポイントととなる。同じ様な内容の演奏が連続するとやはりつらい。評価のポイントが、ミスがないか、や音程の正確さなどに絞り込まれてしまい、結果、そうした正確さのみを追った演奏が増えてしたまい、心のない、感情のない音楽がさらに蔓延ることになりはしないか、と危惧。
ミスはない、音程も正確であるに越したことはないのだけれど(もちろん大切!)、やはり「with heart & voice」な音楽でないと…って思いませんか?
(そう思うと、今回は本当にいい選曲!)
(2017年7月29日)
最初に顔合わせをした日、あの時のみんなの顔は笑顔だったけど、どこか思い詰めたような雰囲気だった。多分に不安もあっただろう。ただ、真剣に音楽に向き合おうとしている気持ちが本当に伝わってきた。みんなと一緒にやろうと思ったのは、決してお情けではない、ということは分かってほしい。
高校生であるとか、もっと大人であるとかは関係ない(練習の時にも言ったかな…)。みんなとならいい音楽が作れる、そう思わせる「何か」を感じたのは確か。
パート・リーダーさんたちに一度お話したように、3月いっぱいで前の仕事を辞めてからは、違う方向から音楽に関わろうとしていた私。しかし、思い返してみれば、一度も「やりきった感」を味わったことがなかったかもしれない…。そんな私をみんなの眼差しが奮い立たせくれたのも確かだ!
ウィーンで活躍する大学の同級生(ソプラノ歌手)はこう言っている。
「多くの困難、苦難を経験し乗り越えた人の音楽は深い。」
みんなが経験した苦難や葛藤は音楽に深みを与えてくれたと思う。それは正直私が与えられるものではない。みんなが自ら掴んだもの。そうした深さは時として技術を超える。
さて、肝心の演奏のこと…
「作曲家は無駄な音を書いたつもりはない」と何度も言ってきたけど、みんなは一音足りとも無駄にしなかったし、私も書かれている音を無駄にしないよう実践してきたつもり(自由曲のカットについては正直心が痛かった…申し訳ないです)。
大きな音量が求められている部分でも、できる限り全ての楽器の音がお客様の耳に届くよう考え実践してきたつもり。これは、自分が作曲をしているからというわけではなく、指揮者の使命と思っているから。結果として、他の団体より鳴っていないという印象を与えたきらいもあるようだが…。
音楽の構造や仕組み、仕掛けを覆い隠してしまうような音量は必要ない、というのが私の信念。単純に音量の差を「表現の幅」というのであれば、考えものだ(それも大切な要素であることは否定しないけど)。
もちろん、各楽器がいい響き(単に音量ではない)を作るという大前提はあるけど、やがてサウンド中心でなく、本当の意味での音楽表現(構造や仕組みを的確に捉えた)を主眼にした評価に変わっていくはずだと思っているし、そうでなければならないと思っている。大きな音量になるほど、表現の幅を作るのが却って難しくなる、と話したことを思い出してほしい。
それぞれの楽器がいい響きを求めてこれからさらに磨きをかけていくこと、これは当然今後の課題として大切なことだけど、冷静に振り返ってみれば、もう一つ課題があるように感じている(楽器の響きということにも関連しているけど)。
そのヒントは、前日の練習に…。
但し、これについては、個々の能力、私の能力だけでは何ともしようのない要素も含まれると思われるので、ここでは詳しく触れません。
私は、みんなと出会って音楽の喜びを改めて感じることができました。この歳になって、音楽の奥深さを思い知らされることになりました。ありがとう!
みんなと音楽をやれて幸せです!
(2017年7月29日)
大分への帰途、車の中では昨日の演奏のCDが繰り返し…
こんな演奏をこのメンバーとやれた、という充実感、満足感(もちろん、結果は悔しいけど)。
大袈裟でなく、こんな演奏ができたことに音楽をやってきて本当に良かったと心から思えた。こんな感覚、今まで味わったことがない。
主役はあくまでもみんな! みんなの充実感や満足感はそれぞれあるだろう。私一人がただそれに浸っているわけにはいかないのも重々承知している。しかし間違いなく、この2カ月お互いに音楽だけでなくいろいろと感じ合うことができたのではないかと思う。決してマイナスにはならないと信じている。
みんなと一緒に音楽することで、今まで知らなかった世界を見ること、知ることができた。みんなはどうだろう…? みんなの親御さんと変わらない(多分もっと上かな…)年齢の親父のかなり理屈っぽい話に、真剣に耳を傾けてくれた。
ただ、全部を理解しようなどと思わなくてもいい。その中から、自分なりに取捨選択して自分に役立つと思ったものを今後に活かしていけばいい、そう思う。(これは音楽に限ったことではない。)
音楽の世界は広いし奥深い。私もまだまだ知りたいことがある。私が伝えたことは、確かに経験に基づいたものだが、広い音楽の世界からすればほんの一部。
私の最終的な願いは、みんなが将来に渡ってどんな形でもいいので音楽に関わって欲しい、ということ。別に楽器を持たなくてもいい。音楽を大切にしてくれる人であって欲しい。
(2017年7月28日)
吹奏楽コンクールを終えて(1) (2017年7月28日)
吹奏楽コンクールを終えて(2) (2017年7月29日)
吹奏楽コンクールを終えて(3) (2017年7月29日)
集中力 (2017年9月16日)
定期演奏会、そして退任を前に (2018年4月)
「環境」は変化するものだ (2018年4月16日)
吹奏楽コンクールを前に (2018年7月)
プレッシャー (2018年7月24日)
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「第5回」で、「「アクセントの正確な周期的回帰」により旋律が韻律なり拍節を獲得する」というキルンベルガーの話を取り上げたが、「アクセント」云々はともかく、「拍節」が、「周期」的あるいは「回帰」の構造を持っていることは、疑いようもない。
では何が「周期性」、「回帰性」をもたらすのか…?
小節の頭にアクセント(ヒンデミットの言う「音量的」な)をつけることが周期性や回帰性を示すとは言い切れない思うのだ。
(最終的には「何らかの」アクセントが付くが、それを第一に考えるということではない、ということ。)
私は、最初に戻るための「準備」こそが周期性、回帰性をもたらすのでは、と考える。
その「準備」はどこで?
それは、「三拍子」であれば「三拍目」、ということになる。
(「歴史は繰り返す」とよく言われるが、歴史だって突然変わったわけではなく、そこに至る経過、つまり「準備」と言える時間(あるいは背景)があったはずだ!)
2年前、高校生たちと一緒に音楽を作る機会をいただいていたが、その際何度となく言ったのが、「小節の中で完結させないように!」
小節の最初、つまり1拍目を合わせること、ズレないことに意識が向きすぎて音楽が「流れない」「繋がらない」…。
これは、ここまで述べた「拍節アクセント」に直接結びつくものとは言えないかもしれないのだが、「次へ向かう」という意識が音からは感じられないのだ。
演奏者は、音楽が続いていくという意識は当然ある(目の前に楽譜もあるし…)。
ここには、音楽的な「まとまり」、フレージング、和声進行などをどう捉えるか、という問題も絡んではくるのだが、何れにしても「次へ向かう」ための「準備」が疎かになっていると言わざるを得ない。
コンサートで、アンコールを求める拍手がいつの間にか手拍子に変わっていく、という経験はよくあるが、あれがしばらく続くと、「二拍子」か「四拍子」に感じられる、という経験はないだろうか?
これこそ、既に述べた人間本来の持つ「グルーピング」の心理の顕著な例と言えるかもしれない。
そこでは、意識的に「特別な(音量的な)」アクセントを(小節の頭に)つける人はまずいないだろう。
もちろん、人によって「ズレ」はあると思うが、この手拍子を「三拍子」で打とうとする人が果たしているだろうか…
「三拍」で回帰させようとすると、むしろ三拍目の方に意識が向かないだろうか…
この意識は「二拍」の時や「四拍」で回帰させるよりも強いものだと思う。
いや、「二拍」や「四拍」の時より強く意識する必要がある、ということだ。
ここが「三拍子」の難しさなのではないかしら。
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