ヒンデミットのおかげで私自身は(やや)スッキリしたのだが、もうひとつ、見逃せない考察がある。
2011年に翻訳が出版され話題になった『音楽の科学』の著者フィリップ・ボールは、科学者(彼は職業音楽家ではなく、物理学者だ)としての視点で、拍子について考察している。
「仮にどの拍も強調されていなくても、無意識のうちにどれかを強く感じてしまう傾向が人間にはある。」
と、ヒンデミットと同じような意味のことを述べているのに加えて、
「この傾向はすでに乳幼児の段階で見られるので、基本的には生まれつきのものだと考えられる。」
とも述べている。さらに、
「文化の影響も無視できない。同じように規則的に繰り返される音を聴いても、イギリス人と日本人では、そこに見出すパターンは微妙に違っているだろう。おそらく、使っている言語によく似たパターンを見出すはずである。」
「第7回」で「音楽の「規則」を分かりやすく市民層に伝える(教育する)にも、標準となるものが必要となるのでは…」と述べた件、必要となる理由はこんなところにもあるのだ。言い換えると、文化や言語の違いがあるからこそ「標準化」しなければならなかった、ということだ。
ただし、忘れてならないのは、「標準化された理論」がベースになった音楽作品もあるはずだから、演奏にあたっては、そうした点も踏まえておかねばならない、ということ。
そのような(標準化された理論に基づく)演奏が、リストをはじめロマン派の音楽家やその時代の理論家の言葉を見るまでもなく、時代の流れとともに人間の感覚に合わなくなってしまう、ということは当然ある。
結局、音楽理論というものは、最終的には「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない、いくら「科学の目」が入っていようとも…。
純正調の三和音だって、私たちがそれを「美しい」と感じるのは、そう思い込まされているからなのかもしれない。地域や風土といったバックボーンによっては、「美しい」とされる純正調の三和音を「不快」に思う人がいても不思議ではない。
私たちが陥りやすいのは、「そういう決まりになっているから」、と無批判に理論を受け入れようとするところだ。
そして、無批判に受け入れた理論をそのまま伝承していく…。
物事が成立するには、その時にそうならざるを得なかった背景(理由)が必ずある。その背景(理由)が、時代の変化とともに意味を持たなくなることもある。そのような状態で無批判に物事を受け入れては、私たちは窮屈になるだけだ。歪みも生まれるだろう。
『三拍子の話』などと言いつつ、「拍節」等について考えようと思ったのは、こんなところに理由があるのだ。きっかけは些細なことだが、「個人的な感覚」として窮屈な思いや歪みを感じていたからに他ならない。
余計なつぶやきが多くなってしまった…
次こそ『三拍子の話』に戻そう…
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