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投稿者: kmasa1006

「○○弁」の音楽はやめましょう

もう随分前のことだが、あるコンクールに出場した団体(アマチュア)への講評に「『○○弁』の音楽はやめましょう」

というようなことを書いた審査員がいたそうだ。

『○○』はその団体がある地域のこと。

その演奏を私自身聴いたわけではないので、迂闊なことは言えないのだが、『○○』弁で何が悪いの?…って思わなくもない。

もちろん、音楽の一線にいらっしゃる(と思われる)審査員の方にはその方なりの音楽に対する考え方があるのは分かる。

国外ではそんな解釈は通用しないと言いたかったのか…その真意は正直分からない。

でも考えてみよう。

私たちは、所謂西洋音楽をすでに自分たちの言葉に置き換えて消化しているのだから(幼少期の音楽教育からそのようになってしまっている)。

いくら音楽が「国際共通語」とはいえ、私たちが普段使っている言語(あるいは風土や環境)との関係はどうしても切り離せないものだ。

国際的な音楽活動をされている方には異論はあるのかもしれないし、実際私も、「変だな、これ」と思う演奏に接することは確かにある。

自分たちの言葉で表現しようという姿勢は大切だと思う。ただ、誤解のないようにしていただきたいのが、音楽的な基本を踏まえて、ということが前提。

それは、技術的なことであったり、音楽の背景を知ることであったりと、自分の言葉で表現する以前に大切なことがたくさんあるのは言うまでもない。

欧米が数百年(いや千年以上)かけてやってきたことを日本では百数十年でやってきているのだ。音楽を表現することについて、何か大切なことを見落としてきたのではないかと考えたりするのだ(そこに言語や風土、環境も関わっているようにも思われるし)。

その辺については、いずれ考察してみよう。

(2006年)

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生かすも殺すも曲名(タイトル)次第…?

実は作品に「曲名(タイトル)」をつけるのにはいつも苦労する。

私の場合、曲の全貌が見えてきた頃や、完成後にタイトルを付けることがほとんど。

文学や、何かの事象に触発されて作曲するということが、あまりないからかなぁ…。

しかし、「曲を生かすも殺すも曲名(タイトル)次第」と言う方もいらっしゃるようで、結構重要なことなのだ。

ただ、クラシック音楽の世界では、他人によって付けられた「呼び名」が一般化してしまったケースや、作者本人の意思に反し、出版社やレコード会社の戦略などで、別に付けられた「呼び名」が一人歩きしているケースもあるのだ。

ドヴォルザークの『交響曲第8番』は、徹底したボヘミア風のテイストの作品なのだが、イギリスの出版社から出版されたというだけの理由で、『イギリス』と呼ばれていた。

最も有名な「呼び名」は、そう、『運命』。

ベートーヴェン 交響曲全集 (5枚組)
グッドマン指揮/ハノーヴァー・バンド

【CD 3 】
①交響曲 第5番 ハ短調
②交響曲 第6番 ヘ長調

ベートーヴェン自身が付けた曲名(タイトル)ではない。

彼が、「運命はこのように扉を叩く…」とシントラーの語ったことからこのように呼ばれるようになった、という話は有名だが、最近では、この自称秘書が、我が名を残さんがため、ベートーヴェンとのやり取りを随分捏造していたことや、(耳が不自由になったベートーヴェンとの)会話帖を相当数破棄していたことが明らかになったようで、「運命は…」という話の信憑性までが…、ということらしい。

因みに、この有名なテーマ、鳥の鳴き声ではないか、とする研究もあるのだ。

シューベルトの『未完成』交響曲もよく知られている。

シューベルト 交響曲全集 (4枚組)
グッドマン 指揮/ハノーヴァー・バンド

【CD 2 】
①交響曲 第8(7)番 ロ短調
②交響曲 第5番 変ロ長調
③交響曲 第3番 ニ長調

もちろん、シューベルト本人の命名ではない。

ちなみに、シューベルトが貧しかったという話も事実とかけ離れているらしい…。

(ベートーヴェンとシントラーを巡る話や、シューベルトが実は貧しくなかったのではないか、という話は、西原稔氏の著書『音楽史ほんとうの話 』(音楽之友社)に詳しい。)

前に『レニングラード』について言及したショスタコーヴィチの『第5番』。

最近では見かけることも少なくなったが、我が国では『革命』という「呼び名」で知られている。これについては、全く無意味!!

交響曲 第5番 ニ短調
(ショスタコーヴィチ 作曲)
ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

(旧)ソヴィエトにおける「革命」を描いたものではないのだ。

無理やりこじつけるなら、反体制の立場からの「革命」宣言ということか…?

しかし、本人の死後出版された『ショスタコーヴィッチの証言』という本で、この曲(の終楽章)は「取り返しのつかない(果てしない)悲劇」との記述があるので、私自身、「革命」という「呼び名」は相応しいと思っていない。

ただし、証言本の信憑性に疑問を呈する方もいるので…

しかしながら、これらの「呼び名」がある方が、日本人には馴染みやすいのも事実。

ただ、「呼び名」の付け方によっては作品の持つ意味が歪められないとも限らない。

もし他人の作品に「呼び名」を付ける機会のある方、どうか作者本人の意図が伝わるようなものを…。

「曲を生かすも殺すも曲名(タイトル)次第」

(2006年)

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美味しい引退…?/ロッシーニ 

スターバト・マーテル(ロッシーニ 作曲)
カティア・リッチャレッリ(ソプラノⅠ)
ルチア・ヴァレンティー二・テッラー二(ソプラノⅡ)
ダルマツィオ・ゴンザレス(テノール)
ルッジェーロ・ライモンディ(バス)
カルロ・マリア・ジュリー二 指揮
フィルハーモニア管弦楽団&合唱団

ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)といえば、『ウィリアム(ギョーム)・テル』、『セビリアの理髪師』、『タンクレーディ』、『ランスへの旅』といったオペラで有名なイタリアの作曲家。

彼は、76年の生涯に39曲のオペラを作ったが、最後のオペラ『ウィリアム(ギョーム)・テル』の初演の後、突如一線から退く。時に37歳。

人気絶頂だったのになぜ?

これには諸説あるようだ。

ドニゼッティやベルリー二といた才能豊かな自国の後輩たちに道を譲ったのではないか、とも時の体制・政治に危機感を持ったからとも言われている。

では、残りの生涯はどう過ごしたのか?

自分自身のことを好んで「怠け者」とか「食い道楽」と吹聴していた彼、一線を退いてからは、パリで美食家用レストラン『グルメ天国』を開店したり、ボローニャでは、大好きなトリュフを採るために豚の飼育もしたといわれている。

彼は才能ある音楽家というだけでなく、人生の楽しみ方を知っていた人物だったのだろう。

大通りや公園、あるいは建築物などに偉大な芸術家の名前を冠した例は多くあるのだが、料理に自分の名前を残したのはロッシーニくらいのものだろう。

『ロッシーニ風トゥールネードー』(牛ヒレ肉料理)はよく知られている(もちろん、わたくしは食したことございませんが…)。

ただ、一線を退いたとはいっても、作曲を完全にやめたわけではない。

『老年のいたずら』なる小品集や宗教音楽(『スターバト・マーテル』等)などを作ったりしている。

ちなみに、『老年のいたずら』の中には、こんなタイトルの曲が…

『干し無花果(いちじく)』『干しアーモンド』『干しぶどう』『はしばみの実』『前菜』『ラディッシュ』『アンチョビ』『ピクルス』『バター』『やれやれ!小さなえんどう豆よ』『バター炒め』『ロマンティックな挽き肉料理』

…と、まぁ何て「食」に関わる曲の多いことか。誰か聴いたことありますか?

考えてみれば、「音楽」も「料理」も耳、あるいは口だけで味わうものではない。極端なこと言えば、どちらも体全体で味わうもの。

まあ、ロッシーニの場合あらゆる意味で「美味しい」引退をしたわけだ。

そんなロッシーニの後半生の名作が『スターバト・マーテル Stabat Mater』。

磔刑に死したイエスの傍らで悲しみにくれる聖母マリアに思いを馳せる賛歌であり、優しい慰めに満ちた音楽だ。

この曲を聴く度に思うのは、ロッシーニという人は決して「怠け者」で「食い道楽」だけの人ではなかったのではないか。

自分自身をパロディの題材にしたり、人を煙に巻くような言動を繰り返したり、一見ユーモア溢れる人物のようにも写るのだが…。

実はロッシーニという人、産業化社会や機械文明が人間の「観念や感情」の働きを変質させようとしていることに敏感に反応していたようで、ひょっとしたら、その辺りに彼を一線から退かせる要因があったのかもしれない。

本当は「美味しい」引退ではなかったのかもしれない…。

(2006年)

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ちちんぷいぷい/ショスタコーヴィチ

交響曲第7番「レニングラード」
(D.ショスタコーヴィチ 作曲)
M.ロストロポーヴィチ指揮
ナショナル交響楽団(ワシントン)

かつて、シュワルツェネッガーが、某製薬会社のCMに登場したときに流れてた音楽、覚えている人がどれくらいいるだろうか?

♪ち~ち~ん ぷいっ ぷいっ♪…ってやってた、アレだ。

かなり私には「笑激」的でだったのを覚えている。

きっと、あのCMの意図するところは、「ちちんぷいぷい!とおまじないのように疲れが和らぐ」といったものだと思うのだが、何せ、使われているいる音楽そのものが、「ちちんぷいぷい」とおまじないにかかって、全く別の姿に変わってしまったのだから。

あの曲がもともと純粋なクラシック音楽の作品であることをご存知の方も多いだろう。

ショスターコーヴィッチが1941年に作曲した『交響曲第7番 レニングラード』、その第1楽章でラヴェルの『ボレロ』よろしく、繰り返し流れるメロディだ。

この『レニングラード』という曲は、作曲年を見ても分かる通り、第二次世界大戦の最中、独ソ戦争の最大のドラマのひとつとなったレニングラード攻防戦が背景となって作られたもの。あのCMのようなコミカルさとは無縁だ。

音楽は、作られた当時の社会状況や環境などを(時には作曲者が意図せずとも)反映するものだと考えるのだが、逆に、音楽そのものは、置かれる状況によっては作者が全く意図しない方向に変化してしまうこともあるのだ。

そういう意味では、「ちちんぷいぷい」と音楽におまじないをかけてしまうマスメディアの力恐るべし、と言うべきか…。

ハンガリーの作曲家バルトークが、晩年の作品『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章で、当時話題となっていた『レニングラード』交響曲を嘲笑うかのように件のメロディを引用している。何か予見でもしていたのだろうか…?

(2006年)

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卒業おめでとう

◯◯ ◯◯◯ さま

 正門です。ご無沙汰しております。お元気ですか?

 いよいよ高校卒業ですね! おめでとうございます!

 どのような3年間だったでしょうか? 勉強に部活に、と充実していたのでは、と推察。

 少しの間でしたが、◯◯さんをはじめ△△△高校吹奏楽部の皆さんの高校生活に関わることができたことを、今でも本当に誇らしく思っています。

 昨年4月の演奏会後は、音楽活動を少々休んでおりました(雑誌の記事を書いたりなどはしましたけど)が、昨年秋より、過去に書いた作品を出版してもらうプロジェクトのようなものが始まり、ここのところ音楽に向き合う日々が続いています。

 そういう日々の中、時には過去を振り返ってみることもいいものだ、と思うことしばしば…。

 やはり、学ぶことはあるし、その時には感じることのなかったものを感じたり。自分の未熟さをいまだに痛感…ということもあります。

 みんなと過ごした時間を振り返ることも勿論あります!

 「過去を忘れて前を見ろ」と仰る方もいます。私もそうした考え方を否定はしませんが、過去を忘れる、あるいは捨てるということは自分自身を否定することにはならないか、とも思っています。現在の「自分」は、過去の積み重ね。過去の自分があったからこそ今があるのです。

そして、過去から現在、未来の「自分」には多くの方々の想いが向けられているはず。

 私がみんなに伝えた(「教えた」とは言いたくない)ことは、過去に経験したり学んだことがベースになっています。

 音楽に限らず、私たちが学ぶことや受け取る情報というものは、発信された時点ですでに「過去」のものとなっている、と思っています。であるなら、私たちは常に過去を振り返っている、過去と向き合いながら生活していると言っても過言ではありません。

 つまり、過去と向き合えない人に未来はないということです。

 人生の(大袈裟かな…?)次のステップに足を踏み出し、これまでとは全く違った世界を肌で感じることも多くなるでしょう。様々な出会いる待っていることでしょう。これまでの経験は必ず活きるはずです(それが「いつ」なのかは、それぞれだと思います)。

 散々理屈っぽいことを書いておいて、最後に月並みなことしか書けない自分が情けないのですが、◯◯さんやみんなの活躍と健康を心から祈っています!

 みんなとまた会える日を楽しみにしています!

 改めて、

 ご卒業おめでとうございます!!

(2019年2月27日)

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3年生の皆さんへ

3年生の皆さん

 久しぶりに正門の長話になるかもしれませんが…

 お節介ながらも、今私にできることは、みんなの前に立つことではなく、みんなの背中を少し押すことかな、と思っています(その方が、加齢臭やたばこ臭さで迷惑をかけることもないでしょうから…)。

 おおよそ、音楽や文化というものは、人々の苦しみの中から生まれ育まれてきたものです。悩みや苦しみの中でこそ人間は知恵をはたらかせ、向上させることができると思っています(人生を語れるほどの生き方をしてきたわけではないので、話半分に聞いてもらって構いません)。

 皆さんはここまでの時間、たくさん悩み、もがき苦しんできたかもしれません。毎日接していたわけではありませんが、だからこそ感じるものがたくさんありました。立場上、どうしても踏み込めない領域というものも確かにありました。しかし、皆さんと時間を重ねていくうちに、「みんなは、一から十すべてを与えなくても、自ら掴むことができる。」と思うようになりました。皆さんは、自らが置かれた状況を直視し、それこそ知恵をはたらかせ歩んできたのですから(それに、「不屈の」精神力も!!)。

 今だに、不安や悩み、葛藤があるかもしれませんが、それは、皆さんが「成長」している、「向上心」を失っていない証しだと思います。悩むことで人としての「引き出し」は増え、それは必ず次に活かせます。逆に、引き出しが増えることによってさらに悩み、葛藤することもあります。成長すればするだけ、問題の解決には時間がかかるものなのです。しかし、その分皆さんの心から生み出される音楽は深いものになるはず…。

 何も「苦しみながら音楽をやれ!」と言っているわけではありません。

 どのような作品にも、(極端な言い方かもしれませんが)「人の生きざま」が映し出されているものです。皆さんも私もまだまだ「生きざま」を語れるような歳ではないのですが、例えば、暗い和音、悲しいメロディーに接した時、何かそのような経験を重ねていた方がより共感できると思いませんか?難しく考えることはない…。

 私が初めて皆さんと接した時に苦しんだことは、前任の□□先生の影響力の大きさです。前任者の影響が色濃く残る場所に(仕事とはいえ)入っていくことは、正直キツイ…。

(恐らく、音楽に限らずどのような世界にもあることでしょうが…。今にして思えば、私の方が皆さんに導いてもらったようです。)

 ただ、互いが互いの状況や心情を慮ることができれば(決して「妥協しあう」ということではない)、目指す方向は一緒だと思いますので…。

 皆さんと私は、その点で分かり合えるものが少しはあったのだろう、と勝手に思っています。言いたいこと、伝えたいこと分かりますか?

 皆さんが、私と過ごした時間を大切に思っていただいている(お世辞だと思うようにしてますが…)ようで、ありがたく思っていますし、私も、自分の音楽人生の中で(決して大袈裟でなく)大事な時間だったと思っています。だからこそのお願いをしたい。

 「正門の音楽を再現」などと考えないでほしい。もちろん、一緒に音楽してきた中で、感じたこと、得たもの、吸収したと思うものを少しでも活かしていただけるのなら、こんなに嬉しいことはありません。

 ひとりひとり想いは様々だとは思いますが、何度か言ってきたように、「音楽はその都度新しく生まれる」ものです。今だからこそ生まれうる皆さんの音楽がきっとあります。空間や雰囲気、ましてやお客様が違う中で、以前と同じことを再現しようと思っても、それで演奏する側が満足したところで、以前と同じように感じてもらえるとは限りません。

 大切なのは、今の皆さん自身を音楽で伝えることです。皆さんはそれをずっとやってきたのですから(少なくとも私はそう感じながら皆さん前に立っていました)!!

 やれないはずはないよ!!

(2018年7月25日)

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プレッシャー

◯◯ ◯◯◯ さま

 こんばんは! 暑い日が続きますが、いかがですか? 本番を数日後に控え、落ち着かない日々が続いているのではないかと察しています。 と思い、このところ、お節介かなとは思いつつも呟いていました。

 自分のことだけでなく、全体を見なければならない立場で(これは☆☆さんもだろうけど)無意識のうちに自分に過度のプレッシャーをかけているのではないかと思っています。しかし、(呟いた通り)みんないい音楽を作ろういう気持ちだけはひとつと思いますので、それを信じるのみです!!

 以前、「時には無理をしなければならないこともある」と言ったことはありますが、言うまでもなく、「この暑さを乗り越えて」、などと思わないように。

 体の不調は心に不調をもたらします。それは必ず音に現れる… その点だけは、仲間たちに気を配ってほしいな、と思います。

 いつまでも、みんなの一番のファンでいるつもりです。

(2018年7月24日)

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吹奏楽コンクールを前に

君たちはすでに「台本」の隅々まで理解し、内容を掴んでいるはず。しかし、「初めてその曲に出会った」というお客様が多いのでは…? 自分たちが分かっていることをお客様も分かっているとは限らない。だから、君たちが初めてその曲に出会った時の気持ちを一度思い出してみないか?

「お客様も知っている」ものに取り組む時、考えすぎて余計な調味料を加えてしまいがちだ、この時期になると。調味料はあくまでも「素材」を活かすためのものじゃないかな。

では、その「素材」とは何か…今一度考えてみよう。

「他と違うことをやらないと…」という気持ちは確かに分かる。しかし、今のメンバーでしか作れない(だからこそ作れる)音楽があるそれ自体がすでに君たちの「個性」。「他と違うこと…」と無用なプレッシャーを自分にかけることはない。

本番は練習の「再現」ではないしかし、練習の度合いははっきりと出るよ。音楽はその都度新しく生まれてくるもの…君たちはそう理解してくれていると思う。「練習の時の方が良かった」などと一度も私に思わせたことのない君たち、その点は心配していないよ。

(2018年7月17日)

この時期、どうしても指揮者に向けて音楽してしまいがち(もちろん、それが全て悪いわけではないが)。一生懸命になればなるほど視野が狭まってくるものだ。君たちが音楽を届ける先はどこかな?

本番と同じステージでリハーサルもできないまま演奏に臨むなんて、プロでもなかなかあるものではない。みんなは大層スゴいことをやっているのだよ!

君たちの持つ「ノリ」や「リズム感」といったものに「これはみんなには敵わないな、俺要らないじゃん」と思ったことは一度や二度どころではない。ジャンルは関係ない、君たちにしか出せない「ノリ」って何にでも活かせると思うよ。

個人的には、これからの数日間は、練習始め、個々の奏者の十分な準備が出来次第、まず通してみる方がいいのではないかと思う。今時点の実力が分かるのはその時だと思うから。何度も言ってきたけど、集中力、緊張感が一番高いのはその時だと感じているから。

確かに、合奏練習はこれまでの確認や、必要に応じて修正をしていく場ではあるけど、この時期、最初からそれを前提にして臨むことは、厳しい言い方かもしれないが、いつまでも望む音楽は生まれないような気がする。

合奏練習は、奏者と指揮者それぞれの思いをさらけ出し、検討し合う場である方がいい。確かにその場で学ぶことも多いだろうが、教えてもらう、修正してもらうことを待っていては君たちの良さは出ないよ。

だからこそ、合奏の最初の音出しからみんなが培ってきたこと、学んできたことを表現しなくてはならないと思う。それがないと、検討も修正もできないよ。

もちろん、練習の進め方は指揮者によって違うだろう。考え方もそれぞれ。でも、いい音楽を作ろう、聴いていただこう、という想いは変わらないはず。君たちだって、誰ひとりとして「いい音楽作れなくても…」なんて思っていないでしょ?

(2018年7月23日)

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「環境」は変化するものだ

「環境」は変化するものだ。もちろん、目まぐるしい変化に不安や戸惑いはあるだろうが、環境の変化があってこそ人は何かを掴めると思う。みんなは既にこの一年の大きな変化から何かを掴んだはず。

変化を恐れることはない!!

環境の変化は、次のステップに進む、そしてそこから新らしい何かを掴むチャンスをいただいた、ということ!!

みんなならできる!!

(2018年4月16日)

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定期演奏会、そして退任を前に 

十分な、求められているようなお手伝いができているかどうかは正直分からないのだが、少なくとも音楽を通して会話ができるようになったとは思う。みんなのお陰で私自身が多くを得たのは確かだ。ありがとう!!きっといい演奏会になると思う!!この歳になって改めて音楽の尊さを知ることになる…。

正直言って、今回ほど誰かの仕事を引き継ぐということに大きな重圧を感じたことはない。そして引き継ぐことの大変さも実感…。

しかし、こうした感情抜きに聴いてくださる方々に音楽を感じていただくのが私たちの使命!会場に色豊かな虹を架けようではないか!!

(2018年4月8日)

以前にも呟いたかもしれないが、本当の実力は練習始めに現れるのではないかと思っている。

但し、指揮者が「こんなものではないはず…」と思った時は、みんなの力を引き出せていない己の責任なのだ。自戒を込めて…。

みんなの向上心、探究心には頭が下がる思いだ。お陰で新たな発見がいくつも。

立場上「先生」と呼ばれれてはいるものの、みんな、そしてこの春卒業したみんなと私には50人以上の先生がいると思っている。それは、いろいろな「きっかけ」を私に与えてくれたから。

(2018年4月9日)

教育の最大の目的は、「きっかけ」を与えることだと思っている。その「きっかけ」が向上心、探究心につながり何かを掴んでくれると嬉しい。卒業生を含めみんなは、私にそういう気持ちにさせてくれたのだ。50数人の先生…なんと贅沢なことか。

人間誰しも、望もうが望むまいが必ず誰かの「先生」にならねばならない時がくるものだ。その誰かにいろいろな「きっかけ」を与えられるよう経験を重ねてほしい。向上心、探究心を持ち続けてほしい。

(2018年4月10日)

みんなは何のために音楽をしている?

私はその答えを見つようといまだにもがいているのかもしれない。

各々に答えはあるだろうし、同じ答えはないと思う。しかし、それでいいのだ!ただ、いつも言うように、聴く人、受けとめてくれる人がいて初めて音楽になる、ということだけは覚えていてほしい。

(2018年4月14日)

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