もう随分前のことだが、あるコンクールに出場した団体(アマチュア)への講評に「『○○弁』の音楽はやめましょう」
というようなことを書いた審査員がいたそうだ。
『○○』はその団体がある地域のこと。
その演奏を私自身聴いたわけではないので、迂闊なことは言えないのだが、『○○』弁で何が悪いの?…って思わなくもない。
もちろん、音楽の一線にいらっしゃる(と思われる)審査員の方にはその方なりの音楽に対する考え方があるのは分かる。
国外ではそんな解釈は通用しないと言いたかったのか…その真意は正直分からない。
でも考えてみよう。
私たちは、所謂西洋音楽をすでに自分たちの言葉に置き換えて消化しているのだから(幼少期の音楽教育からそのようになってしまっている)。
いくら音楽が「国際共通語」とはいえ、私たちが普段使っている言語(あるいは風土や環境)との関係はどうしても切り離せないものだ。
国際的な音楽活動をされている方には異論はあるのかもしれないし、実際私も、「変だな、これ」と思う演奏に接することは確かにある。
自分たちの言葉で表現しようという姿勢は大切だと思う。ただ、誤解のないようにしていただきたいのが、音楽的な基本を踏まえて、ということが前提。
それは、技術的なことであったり、音楽の背景を知ることであったりと、自分の言葉で表現する以前に大切なことがたくさんあるのは言うまでもない。
欧米が数百年(いや千年以上)かけてやってきたことを日本では百数十年でやってきているのだ。音楽を表現することについて、何か大切なことを見落としてきたのではないかと考えたりするのだ(そこに言語や風土、環境も関わっているようにも思われるし)。
その辺については、いずれ考察してみよう。
(2006年)